26.火山と村の総力戦
左目を潰されたオーガは、それでも逃げなかった。
地中へ伝わる重い足取りは、まだ村の前に留まっている。
むしろ、傷を負う前よりも激しい殺意が、残された魔物たちへ広がっていた。
「グオオオオオッ!」
オーガの咆哮に応じ、森の中で様子を窺っていた魔物たちが再び走り出す。
(片目を潰されても、指揮を続けるのか)
怒りに任せ、自分一人で突っ込んでくるかと思った。
だが、オーガは配下を先に動かしている。
正面から押し寄せる群れ。
壊れた右側の柵を狙う群れ。
さらに大型の魔物が、オーガの左側を守るように並び始めた。
(自分の死角まで、すぐに補ったか)
片目を失っても、あいつの知性は失われていない。
むしろ傷を負ったことで、こちらを完全な敵として認識したらしい。
俺は神器を通じ、ヒナノへ意識を送った。
(オーガの左目は見えていない。左側から攻めろ。ただし、一か所へ固まるな)
『……左』
『……見えない』
『……固まるな』
やはり、届くのは断片だけだった。
◇ ◇ ◇
「オーガは左側が見えていません!」
ヒナノが火山様の声を伝えた。
「左から攻めてください! でも、一か所へ集まらないで!」
「聞いたな!」
村長はすぐに槍を掲げる。
「三人ずつに分かれろ! 左から仕掛け、振り向いたら退け!」
村人たちが散開した。
正面に立つ者が槍を突き出し、オーガの注意を引きつける。
その間に、別の三人が死角となった左側へ回り込んだ。
「今だ!」
三本の槍が、オーガの脇腹へ突き出される。
穂先は皮膚へ食い込んだが、深くは刺さらない。
分厚い肉に阻まれ、浅い傷を残しただけだった。
「グオッ!」
オーガが棍棒を振り回す。
左側の村人たちは、攻撃が届く前に散った。
その隙に、今度は正面から矢が放たれる。
何本もの矢が、オーガの胸や肩へ突き刺さった。
「効いているぞ!」
「そのまま囲め!」
声を上げた村人へ、オーガが踏み込む。
「二度鳴らせ!」
村長の指示を受け、ガンゾウが鼓を叩いた。
ぽんっ、ぽんっ!
後退の合図。
村人たちは深追いせず、すぐに距離を取る。
直後、オーガの棍棒が振り下ろされ、先ほどまで村人がいた地面を砕いた。
「止まるな! 次は後ろの組が左へ回れ!」
村長の声に従い、別の者たちが動き始める。
レンも村の中を走り回っていた。
短い亜麻色の髪は汗と土に汚れ、呼吸も荒くなっている。
それでも足を止めない。
ヒナノから神託を聞き、村長へ伝える。
村長の指示を前線へ届け、再びヒナノのもとへ戻る。
折れた木槍は腰に差したままだ。
今のレンが担っているのは、魔物を倒す役目ではない。
ヒナノと、村人たちを繋ぐ役目だった。
「ヒナノ、次は?」
「待って。今、火山様のお声が……」
ヒナノは胸元の神器を握る。
黒銀色の結晶は、今にも消えそうな赤い光を放っていた。
オーガの一撃を障壁で防いだ影響か、火山様の声も先ほどより遠い。
『……右』
『……多い』
『……下がれ』
ヒナノは村の右側を振り返った。
壊れた柵の向こうで、十を超える小さな影が動いている。
「右側から、また来ます! 数が多いです!」
「分かった!」
レンはすぐに村長のもとへ走った。
オーガだけに気を取られるわけにはいかない。
巨大な親玉と戦っている間にも、その配下は村の弱い場所を狙い続けていた。
◇ ◇ ◇
村人たちは、よく戦っている。
片目を失ったオーガの死角を突き、決して一か所へ固まらない。
配下の魔物が近づけば、俺の作った岩壁や窪みを利用して足を止める。
そこへ槍を並べ、矢を集中させる。
だが、決定打がない。
槍も矢も、オーガの分厚い皮膚を深く貫けない。
俺も、村人たちが近くにいる状態では大きな攻撃を使えなかった。
(このままじゃ、先に村人が限界を迎える)
ヒナノの神器も弱っている。
レンの走る速度も、少しずつ落ちていた。
ほかの村人たちも同じだ。
一晩中戦い続け、すでに何人も負傷している。
このまま小さな傷を積み重ねるだけでは、こちらが先に力尽きる。
(オーガを倒すには、人がいない場所へ誘い出すしかない)
俺は周辺の地下へ意識を広げた。
村の正面に作った二本の岩壁。
その間には、家も畑もない細長い空間がある。
地下には、古井戸へ繋いだ水脈の枝が細く伸びていた。
(ここなら使える)
地下水へ一気に熱を加えれば、高温の蒸気を噴き上げられる。
さらに左右と背後の岩盤を隆起させれば、オーガの逃げ道も塞げる。
ただし、近くに人間がいれば、蒸気へ巻き込まれる。
(あいつを岩壁の間へ誘い込む)
(入ったら、全員そこから離れさせる)
言葉にすれば簡単だ。
問題は、この作戦を断片的な神託だけで伝えなければならないことだった。
俺は伝えたい内容を、何度も強く思い描く。
(ヒナノ。オーガを正面の岩壁の間へ誘え)
(入ったら全員を離れさせろ。地下の水を熱する)
『……オーガ』
『……正面』
『……誘え』
『……皆……離れろ』
『……水』
『……熱』
(頼む。分かってくれ)
◇ ◇ ◇
途切れた声を聞き終えたヒナノは、正面の岩壁へ目を向けた。
オーガが最初に破壊した壁。
その後ろへ、新たに火山様が隆起させた壁。
二つの岩壁に挟まれた場所には、細長く開けた地面がある。
「ヒナノ!」
レンが息を切らしながら戻ってきた。
「火山様は、何て?」
「オーガを、正面の岩壁の間へ誘えって」
「それから、水と熱……」
ヒナノは地面を見つめた。
村の古井戸へ水を届けたのも、火山様だった。
ならば、地下に水があることも、その流れを操れることも知っている。
「たぶん、地下の水を熱するつもりなんだと思う」
「水を熱する?」
「何が起こるかまでは分からない。でも、火山様が大きな力を使おうとしてる」
二人は村長のもとへ向かった。
「オーガを、正面の岩壁へ誘い込めと火山様が仰っています」
ヒナノは聞こえた言葉を、一つずつ説明する。
「全員を離れさせてから、地下の水を熱するつもりだと思います」
村長は正面の岩壁を見た。
続いて、村人を棍棒で追い払うオーガへ目を向ける。
「確かなのか?」
ヒナノは神器を強く握った。
「全部聞こえたわけではありません」
その答えに、周囲の村人たちの表情が強張る。
ヒナノ自身にも、迷いはあった。
一つ解釈を間違えれば、村人を危険な場所へ誘導してしまうかもしれない。
それでも、聞こえた言葉だけを繰り返すのが巫女ではない。
火山様の意志を受け取り、人へ繋ぐ。
そのために、彼女はここに立っている。
「でも、私はそう感じました」
村長はしばらく黙っていた。
神託は完全ではない。
ヒナノの解釈が間違っている可能性もある。
それでも今まで、彼女の言葉に従った場所では必ず火山の力が働いた。
何より、ほかにオーガを倒す手段はない。
「その神託に賭ける」
村長は周囲の者たちを集め、素早く指示を伝えた。
「オーガの左側から攻撃し、正面の岩壁へ誘い込む」
続いて、ガンゾウへ顔を向ける。
「鼓を一度鳴らしたら攻撃。二度で後退」
「うむ!」
「三度鳴ったら、何があってもその場から離れろ」
「承知した!」
ガンゾウは鼓を強く抱え直した。
「レン。お前は全員へ作戦を伝えろ」
「分かった!」
「ヒナノは村の中央へ下がれ」
ヒナノは首を横へ振った。
「オーガは、私を狙っています」
「だから下がれと言っている」
「私が見える場所にいれば、岩壁の方へ来るかもしれません」
「ヒナノ!」
レンが声を上げる。
「また自分を囮にする気か!」
「一人では行かないよ」
ヒナノは村長と、周囲に集まった村人たちを見回した。
「みんなと一緒に、火山様のところまで連れていく」
村長は険しい顔のまま、ヒナノを見つめた。
今までなら、危険だからと押し切っていただろう。
だが今のヒナノは、守られるだけの少女ではない。
火山の言葉を受け取り、村の命運を左右する巫女だった。
村長は短く息を吐く。
「岩壁の手前までだ。それより先へは出るな」
「はい」
「レン。ヒナノから離れるな」
「言われなくても、そのつもりだ」
◇ ◇ ◇
(ヒナノが前へ出てる?)
俺の攻撃範囲へ、ヒナノの足音が近づいてくる。
その隣にはレンもいた。
(いや、待て。オーガを誘えとは言ったけど、自分が囮になれとは言ってないぞ!)
俺は慌てて意識を送る。
(危険だ。そこから離れろ!)
『……ヒナノ』
『……危険』
『……離れろ』
「大丈夫です」
返ってきたヒナノの声には、隠し切れない恐怖が混ざっていた。
それでも足を止めない。
「一人ではありませんから」
(そういう問題じゃないんだが!)
言い返そうとしても、まともな文章は届かない。
『……無茶……するな』
今度は、それだけが届いた。
ヒナノの感情が、少しだけ柔らかくなる。
「火山様も、無茶をしないでくださいね」
(俺は火山だから多少はいいんだよ!)
しかし、もうオーガがヒナノの動きに気づいていた。
残された右目が、神器の赤い光を捉える。
喉の奥から、低い唸り声が漏れた。
オーガは周囲の村人を振り払い、ヒナノへ向かって歩き始める。
(来た)
ここからは失敗できない。
俺は正面の地下へ意識を集中させた。
細い水脈から水を引き込み、オーガを誘い込む場所の下へ溜めていく。
周囲を岩で固め、蒸気の逃げ道を地表だけに限定する。
まだ熱は加えない。
早く温めれば、地面から立ち上る湯気で罠に気づかれる。
(もう少しだ)
村人たちがオーガの左側へ回り込んだ。
ぽんっ!
ガンゾウの鼓が鳴る。
一度。
攻撃の合図だ。
「今だ!」
矢と石が、オーガの潰れた左目側へ集中する。
肩や頬へ攻撃を受けたオーガが、怒りに任せて棍棒を振り回した。
ぽんっ、ぽんっ!
二度の合図。
村人たちは棍棒が届く前に後退する。
左側から攻撃されては逃げられる。
正面へ向けば、また左側から矢が飛んでくる。
オーガは少しずつ、二本の岩壁の間へ誘い込まれていった。
だが、途中で足を止める。
残った右目が、左右の岩壁を見比べた。
(気づいたか?)
オーガは罠を疑っている。
それ以上進まず、配下を先に向かわせようと喉を鳴らした。
その時。
岩壁の向こうへ、ヒナノが姿を現した。
昇ったばかりの朝日を受け、黒銀色の神器が赤く輝く。
「私はここです!」
「ヒナノ、煽るな!」
レンが慌てて腕を引いた。
オーガの右目が大きく見開かれる。
自分の左目を奪うきっかけを作った巫女。
絶望していた人間たちを、再び立ち上がらせた少女。
その姿を前に、怒りが警戒を上回った。
「グオオオッ!」
オーガが岩壁の間へ踏み込み、ヒナノへ向かって走り出す。
「来るぞ!」
村人たちも一斉に後退した。
俺は地中へ響く足音を数える。
(まだだ)
オーガの近くに、村人が四人。
三人。
二人。
最後まで残っていたヒナノとレンが、岩壁の外へ飛び出した。
(今だ!)
『……今』
「ガンゾウさん!」
どんっ、どんっ、どんっ!
三度の鼓が、村中へ響き渡った。
全員退避の合図。
俺は地下へ溜めていた水へ、一気に熱を流し込んだ。
◇ ◇ ◇
最初に響いたのは、地面の奥から聞こえる低い音だった。
ごごごごごっ。
オーガの足元で土が盛り上がる。
左右と背後から岩盤が隆起し、巨体の逃げ道を塞いだ。
オーガは棍棒を構え、背後の岩壁へ向き直る。
その瞬間。
足元に走った亀裂から、白い蒸気が噴き上がった。
「グオオオオオッ!」
高温の蒸気が、オーガの巨体を包み込む。
赤褐色の皮膚がさらに赤く染まり、突き刺さっていた矢の羽根が焦げていく。
オーガは棍棒を振り回す。
だが蒸気に視界を奪われ、岩壁へ何度も打ちつけるだけだった。
「火山様の攻撃だ!」
「今だ! 矢を放て!」
蒸気の外から、猟師たちが一斉に矢を放つ。
村人たちも石を投げ、長い槍を岩壁の隙間から突き出した。
矢が肩へ刺さる。
槍が脚へ傷をつける。
石が残った右目の近くをかすめ、オーガは片手で顔を守った。
さらに蒸気が噴き上がる。
オーガの片膝が、ついに地面へ落ちた。
巨大な棍棒も、その手から滑り落ちる。
「効いている!」
「このまま押し切れ!」
村人たちの声が重なった。
ヒナノが火山の声を繋ぎ。
レンが指示を運び。
ガンゾウが合図を鳴らし。
村長が人々を動かす。
村人たちは槍と矢を放ち、俺はそのすべてが届く場所を作る。
誰か一人の力ではない。
火山と村の、総力戦だった。
◇ ◇ ◇
(いける)
オーガの動きが鈍っている。
岩壁にも亀裂は入っていたが、まだ壊されていない。
もう一度、地下水へ熱を送り込めばいい。
今までより強い蒸気を噴き上げ、その巨体を完全に焼く。
それで仕留められる。
(これで終わりだ)
俺は地脈から熱を集め始めた。
その時。
オーガが残った右目を、村の中央へ向けた。
片膝をついたまま、大きく息を吸う。
そして、短く区切るような咆哮を三度放った。
「グオッ! グオッ! グオオオッ!」
森の中に残っていた魔物たちが、一斉に動き出す。
だが、オーガを助けるためではない。
正面の岩壁を大きく迂回し、村の中央へ向かっている。
(狙いは……避難場所か!)
負傷者。
老人。
子ども。
戦えない者たちが集まっている場所。
以前送り込んだ斥候に、位置まで調べさせていたのだ。
自分へ攻撃が集中すれば、守りが薄くなることも分かっていた。
オーガは自分が逃げるため、残った配下をすべて切り捨てようとしている。
(ふざけるな)
熱は、すでにオーガの地下へ集まっている。
このまま解放すれば、あいつを仕留められる。
だが、村の中央へ向かう魔物を止める力が足りなくなる。
神器は消耗している。
村人たちも、オーガを囲むため前へ出ていた。
避難場所の守りは、あまりにも薄い。
(あと少しなのに)
オーガは片膝をつき、罠の中でもがいている。
今なら倒せる。
今を逃せば、二度とこの機会は来ないかもしれない。
それでも、答えは決まっていた。
(……しょうがない)
(先に村だ)
悔しくないわけではない。
ここまで追い詰めた相手を逃がすかもしれない。
けれど、オーガを倒すことが目的ではない。
ヒナノたちを守るために戦っているのだ。
俺はオーガの足元へ集めた熱を引き戻した。
そして、村の中央へ向かう魔物たちの進路へ、地中を通して一気に流す。
(ヒナノ! 残った魔物が避難場所を狙ってる!)
『……皆』
『……奥』
『……危険』
『……守れ』
◇ ◇ ◇
「避難場所が狙われています!」
ヒナノが叫んだ。
「残った魔物が、全部そちらへ向かっています!」
村人たちが一斉に振り返る。
「オーガはどうする!?」
「後だ!」
村長は迷わなかった。
「戦えない者たちを守れ! 村の中央へ戻れ!」
村人たちはオーガへの攻撃を中断し、避難場所へ向かって走り出す。
レンも駆け出そうとしたが、ヒナノがふらついたことに気づいた。
「ヒナノ、掴まれ!」
「でも、レンも急がないと……」
「一緒に行くんだよ!」
レンはヒナノの腕を自分の肩へ回し、走り始めた。
避難場所へ続く道には、すでに小型の魔物が迫っている。
ヒナノは胸元の神器を握った。
「お願い……もう一度だけ」
赤い光が弱々しく広がる。
だが、人一人を覆う大きさになる前に揺らぎ、火の粉となって消えてしまった。
「もう、障壁は……」
「だったら、火山様と俺たちが止める!」
レンはヒナノを近くの女性へ預け、腰へ差していた折れた木槍を抜いた。
その直後。
魔物の群れの前で、地面が激しく隆起した。
ごごごっ!
群れを左右へ分けるように、一本の岩壁が生まれる。
進路を塞がれた魔物たちが、驚いて足を止めた。
そこへ村人たちが駆けつける。
「槍を並べろ!」
「一匹も通すな!」
岩壁の左右へ、槍を持った者たちが並んだ。
先頭の魔物が飛びかかる。
レンの父親が槍で受け止め、隣の男が横から突く。
レンも折れた木槍を構え、村人の隙間を抜けようとした小型の魔物を押し返した。
その後ろでは、ガンゾウが鼓を打ち鳴らしている。
「踏みとどまれ! あと少しじゃ!」
ぽんっ、ぽんっ!
「火山様と巫女様がついておる! ここを通すでないぞ!」
俺は地表へ熱を送り、魔物の足を止める。
村人たちは動きの鈍った魔物を、一体ずつ確実に仕留めていった。
火山。
巫女。
村人たち。
すべての力が、避難場所の前へ集まっていた。
その間に。
オーガの足元から、蒸気の勢いが急速に弱まっていく。
◇ ◇ ◇
オーガは、その瞬間を逃さなかった。
落としていた棍棒を拾い上げ、亀裂の入った岩壁へ叩きつける。
一度。
二度。
三度目の一撃で、岩壁の一部が崩れ落ちた。
オーガは狭い隙間へ肩を押し込み、力任せに岩を押し退ける。
焼けた皮膚から煙を上げながら、罠の外へ転がり出た。
「オーガが逃げる!」
猟師の一人が弓を構える。
「追うな!」
村長が制止した。
「今は村の中だ! 残った魔物を倒せ!」
オーガは配下を振り返らなかった。
自分の命を繋ぐために突撃させた魔物たちを残し、森へ向かって走り出す。
左目は潰れている。
全身には火傷と矢傷。
片脚も深く傷つき、走るたびに巨体が大きく傾いていた。
それでも、足を止めなかった。
◇ ◇ ◇
(逃がすか!)
村の守りへ意識を残したまま、俺は地脈を通じてオーガを追った。
森へ向かう重い足音。
その進路へ、残った熱を送り込む。
オーガの足元で土が赤く焼けた。
「グオッ!」
傷ついた脚が熱へ沈み、巨体の均衡が崩れる。
(もう一度!)
次に足を着く場所を陥没させる。
オーガは転びかけながらも、棍棒を地面へ突き立てて耐えた。
そして、また走る。
火山領域の境界へ近づくほど、俺の力は弱くなっていく。
地面を温めることはできても、深く陥没させられない。
岩を持ち上げようとしても、途中で崩れてしまう。
(あと少し、届けば……)
無理に力を伸ばせば、村側へ繋いだばかりの地脈が不安定になる。
しかも、村の中ではまだ魔物との戦いが続いていた。
ここでオーガだけへ意識を集中させるわけにはいかない。
最後に一度だけ、届く限りの熱を送り込んだ。
オーガの傷ついた脚が焼け、足取りがさらに乱れる。
それでも倒れない。
火山領域の境界を越えた瞬間、重い気配が急速に遠ざかっていった。
(……逃がした)
確実に追い詰めた。
あと一歩だった。
悔しさは残る。
だが追撃を優先していれば、避難場所へ魔物が到達していたかもしれない。
(村を守れなかったら、何のために戦ったのか分からないからな)
俺は遠ざかる足音から意識を外し、村へ戻した。
◇ ◇ ◇
指揮するオーガが消えると、残された魔物たちの動きが変わった。
それまで一つの意思で動いていた群れが、急にまとまりを失う。
避難場所へ向かい続ける魔物。
森へ逃げ出す魔物。
進む方向を見失い、その場で足を止める魔物。
「深追いするな!」
村長が村人たちへ命じた。
「柵の内側にいる魔物だけを倒せ! 森へ逃げるものは放っておけ!」
村人たちは数人ずつ固まり、残った魔物を追い詰める。
最後まで抵抗していた一体が倒れた。
森へ逃げる足音も、次第に遠ざかっていく。
やがて。
鳴子の音が止まった。
魔物の唸り声も消えた。
残ったのは、負傷者の呻きと、崩れた家から上がる細い煙だけ。
誰も、すぐには動かなかった。
一晩中握り続けていた槍を、手放せない者。
魔物がいた場所を呆然と見つめる者。
戦いが終わったことを信じられず、森を警戒し続ける者。
「……終わったのか?」
誰かが呟いた。
村長は森を見つめたまま、しばらく答えなかった。
逃げた魔物が戻ってこないことを確かめるように、静かな森へ目を凝らす。
やがて、ゆっくりと槍を下ろした。
「見張りは残せ。負傷者を運べ」
疲れ切った声だった。
それでも、誰にでも聞こえるようにはっきりと告げる。
「村は、守られた」
その言葉が届いた瞬間。
村人たちの間から、一斉に力が抜けた。
地面へ座り込む者。
隣にいる家族を抱き締める者。
緊張が切れ、声を上げて泣き始める者。
避難場所から出てきた母親が、泥だらけの子どもを抱き締める。
負傷した男のもとへ家族が駆け寄り、何度も名前を呼ぶ。
ガンゾウは震える手で、鼓を持ち上げた。
ぽんっ。
いつもより弱い、かすかな音が響く。
「勝ち鬨には、少し静かすぎたかのう……」
そう言ったガンゾウ自身の目にも、涙が浮かんでいた。
ヒナノはレンの肩を借り、遠くの火山へ顔を向けた。
顎の辺りで揺れる短い黒髪は、汗と土で頬へ張りついている。
胸元の神器は、ほとんど光を失っていた。
それでも最後に一度だけ、温かく脈打つ。
(みんなで、守った)
『……守った』
断片的な声。
ヒナノは神器を両手で包み込んだ。
「はい」
壊れた柵。
焼けた藁。
傷ついた村人たち。
失われたものはある。
痛みも、恐怖も残っている。
それでも母も、レンも、村のみんなも、ここにいる。
「火山様と、みんなで守りました」
◇ ◇ ◇
(逃がしたか)
オーガを倒せなかった悔しさは、まだ残っている。
次に現れた時、今日よりも強くなっているかもしれない。
もっと多くの魔物を連れてくる可能性もある。
俺の地形操作や、ヒナノの神器への対策まで考えてくるだろう。
(面倒な相手に覚えられたな)
正直、嬉しくはない。
もう少し頭の悪い敵でいてほしかった。
けれど今、村にはヒナノがいる。
レンがいる。
傷つきながらも、家族のもとへ歩いていく村人たちがいる。
俺が守りたかったものは、まだここにあった。
(なら、今はこれでいい)
完全な勝利ではない。
だが、ただ恐れられていた火山と、小さな村の人々が力を合わせ、初めて掴んだ勝利だった。
◇ ◇ ◇
片目を失ったオーガは、北へ向かって森を進んでいた。
左目の奥が、心臓の鼓動に合わせて激しく痛む。
焼けた皮膚。
傷ついた脚。
全身に残る矢傷。
失われた配下。
それでも、足を止めることはなかった。
オーガが来た北の地には、灰と黒い岩しかない。
灰滅火山の麓では草木が育たず、獲物も少ない。
わずかな水場を巡り、魔物同士が奪い合う。
弱い者は食われ、傷ついた者は捨てられる。
だから、南へ進んだ。
森に住む魔物を力で従え、人間の村を潰す。
そして、その先に広がる土地を奪うために。
(ユタカナ、ダイチヲ……)
南には水がある。
獲物がいる。
草木が育ち、熱と命に満ちた土地がある。
本来なら、すべて自分のものになるはずだった。
力さえあれば、奪えるはずだった。
オーガは足を止め、残った右目で南を振り返る。
木々に遮られ、すでに村は見えない。
それでも、顎の辺りまで黒髪を切った少女と、赤く輝く神器の姿が目に焼きついていた。
(アノ、ミコ……)
あの少女がいなければ、人間たちは恐怖に屈していた。
声を繋ぐ者がいなければ、村と大地が一つになって戦うこともなかった。
(アノ、ダイチノ、チカラ……)
岩が動いた。
水が噴き上がった。
地面そのものが、自分を殺そうとした。
オーガには、それが何なのか分からない。
山なのか。
人間の神なのか。
あるいは、大地の奥に潜む巨大な魔物なのか。
だが、次は知らずに挑まない。
(ツギハ……ソナエル)
あの巫女さえいなければ。
あの大地の力さえ封じられれば。
今度こそ、あの豊かな土地を奪える。
(モット、ツヨイ、ムレヲ)
まず、あの巫女を潰す。
次に、大地の力が届かない場所から攻める。
そして今度こそ、豊かな土地を自分のものにする。
オーガは再び歩き始めた。
灰滅火山へ続く、北の森へ。
残された右目に宿っていたのは、敗れた獣の恐怖ではない。
敗北から学び、次の戦いを考える冷たい執念だった。
読んでいただきありがとうございます。
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