束の間の休息
ふ、と意識が浮かび上がった。
目を開けると、見覚えのある天井があった。
砦の、あの元々物置だったクラリスの部屋だ。ランプがひとつ、小さく灯っている。窓の鎧戸の隙間は真っ暗で、夜半をとうに回っているらしかった。
会議の記憶が、途中で切れている。炉の火。遠くなる声。肩に掛けられた上着——
寝返りを打とうとして、止まった。
隣に、ジルヴェスターが寝ていた。
狭い寝台に、身体を斜めにして収まっている。規則正しい寝息。金の髪がひと筋、頬にかかっていた。
クラリスは、そっと手を伸ばして、その髪をどけた。
指に触れた髪が、ランプの小さな灯だけで、淡く光る。どうしてこの人の髪は、暗闇でも輝くのだろう。二日間、甲冑の下で汗にまみれていたはずなのに。
だけど、死を恐れない戦での姿を思い出し、胃が重たくなる。
まさに、孤高の美しさだった。
隣にいても遥か遠い様な、焦ったさが湧いてきて、確かめるようにそっと頬にキスをした。
閉じていた目が、開いた。
灰色の瞳が、暗がりの中で、まっすぐにこちらを見た。眠たげな色はどこにもない。熱を帯びた視線に、心臓が飛び跳ねる。
「……お、起こしてしまいましたか」
「いや。目を閉じていただけだ」
低い、掠れた声だった。
「体調はどうだ」
言われて、初めて気づいた。
痛みが、ない。
腫れ上がっていた右手を、握ってみる。閉じる。開く。何ともない。木にぶつけた背中も、軋まない。二日ぶん重ねた疲れの、芯のところだけが残っていて、あとは全部消えていた。
「……治って、います」
「魔法師に治させた」
「そんな。魔法は、兵の方たちに使うべき——」
「クラリス」
遮る声は、静かだった。静かなのに、逆らえない響きがあった。
「兵の治療は、全員済んでいる。……その上での話だ」
彼は、身体を起こした。
そして、こちらを見下ろした。灰色の瞳は燃えているかのようだった。ランプの灯が、彼の輪郭だけを金色に縁取っている。
「久しぶりに妻の顔をまともに見ている」
「……はい」
「僕は戦場であなたを見つけて、抱き上げて、それきりだ。会議で隣に座らせて、髪に触れて——足りるわけがないだろう」
有無を言わせないという様子で言うと、顔が、近づいてきた。
クラリスももう待てなかった。
突然身体を起き上がらすとジルヴェスターの唇にキスをした。
ジルヴェスターは一瞬目を見開いたが、すぐに深い口付けを返す。
一度離れて、角度を変えて、もう一度。深くなる。腰に腕が回されて、引き寄せられた。寝間着越しに、彼の体温が伝わってくる。
唇が、離れた。
離れて、顎へ落ちた。首筋へ。
「……ジ、ル」
「静かに。夜中だ」
そう言った本人が、いちばん静かにさせてくれなかった。
首筋に唇が触れるたび、身体の芯を細い雷が走った。指先まで痺れるような、覚えのある、それでいて毎回初めてのような感覚。唇は鎖骨をなぞり、寝間着の紐が解かれて、胸元へ下りていく。
クラリスは、彼の金の髪に指を差し入れて、身体をくねらせた。
彼のことを心から愛おしいと思った。
ランプの灯が、いつのまにか、ずいぶん小さくなっていた。
クラリスは、彼の腕の中で、天井を見ていた。
汗の引いていく肌に、夜の空気が心地よかった。ジルヴェスターの指が、意味もなく、ずっと髪を梳いている。
「……どれだけ心配したか、わかるか」
ぽつりと、彼が言った。
「ラウレンツから、全部聞いた」
指が、止まった。
「一晩で板を刻んで、手をあんなにして。夜の包囲の外へ出て、斥候に襲われて、木に叩きつけられて。……最後の一枚を残して、担がれて戻ったと」
「……はい」
「きみが埋めた四枚が、この砦を救った。それも聞いた。ラウレンツは、全員があなたに命を救われたと言っていた」
彼は、そこで一度、言葉を切った。
「……もう二度と、きみを傷つけさせない。僕の目の届かないところで、あなたが血を流すことは、もうさせない」
クラリスは、彼の胸に頬をつけたまま、少し考えた。
それから、正直に言った。
「……わたし、嬉しかったんです」
「クラリス」
「怖かったです。すごく怖かった。でも——役に立てたことが、嬉しかった。何かを期待されることが、わたしも、この国の何かを守れたことが」
腕の力が、強くなった。
見上げると、ジルヴェスターは厳しい目でこちらを見ていた。怒っている、というのとは違う。もっと切実な、綿にくるんで抽斗の奥にしまってしまいたい、とでも言いたげな目だった。
彼は、深いため息をついた。
「僕はきみをもう傷付けたくない。」
ジルヴェスターの苦悩に満ちた顔をみると何もいえず、誤魔化すように少し笑ってから、ふと、ずっと胸に引っかかっていたことを口にした。
「……それより、ジルは大丈夫なんですか」
「僕?」
「二日間、ずっと最前線にいたでしょう。いちばん危ないところにばかり、光が走っていました。……壁の上から、ずっと見ていたんです。生きた心地がしませんでした」
ジルヴェスターは、きょとんとした。
それから、当たり前のことを訊かれた、という顔で答えた。
「僕は大丈夫に決まっているだろう」
「決まって……」
「マナの量が違う。剣に注げる力が、並の騎士とは桁が違う。……そう簡単に負けはしない」
事もなげな言い方だった。
クラリスの胸の奥が、もやりとした。
マナが多くても、人間だ。矢は刺さるし、血は流れる。現にあの敵将は、疲れ果てて、剣を杖にして立っていた。強い人間が最後にどうなるかを、この二日で嫌というほど見た。
わからないじゃないですか、と言いたかった。
言いかけて、彼の目を見て、やめた。
その目には、揺らぎがなかった。心配をかけまいとする強がりではなく、もっと固い、決意のようなものが据わっていた。この人は、この先も最前線に立つ。何を言っても、それは変わらない。
もやもやだけが、行き場をなくして胸に残った。
何を心配してるんだとでも言うよううに彼は少し笑って、額に唇を落とした。
それから、思い出したように身体を起こした。
「湯を運ばせよう」
「え、こんな夜中に」
「起きている者はいる。夜番の湯を分けてもらうだけだ」
申し訳ない、と思った。
思ったが——そういえば自分は、砦に敵が来てから一度も湯を使っていない。二晩の徹夜と、土掘りと、戦場を歩いて。いまさらのように、自分の状態に思い当たった。
こんな状態で抱かれたことが今更恥ずかしくなる。
「……お願いします」
素直に頷くと、ジルヴェスターは満足そうに笑って、寝台を降りた。
上着を羽織りながら、扉のところで振り返る。
「先に言っておくが」
「はい」
「髪は、僕が洗う」
「……えっ?」
扉はもう閉まっていた。




