後編 〜 遅すぎることはない、物事の価値を決める専門家はいない 〜
どうもシサマです!
前編では私が人知れず公募用の新連載、しかもこれまでのキャリアでほぼ無縁だった、「ハイファンタジー」ジャンルの作品を完結させた事を報告させていただきました。
その新作『野獣プリンセス「2:8姫 (にっぱちひめ) 」』は、2021年5月8日時点でまだまだブックマーク18、総合ポイント142の成績ですが、星の数ほどある「ハイファンタジー」ジャンルの作品の中で、わざわざ、ガチでわざわざ(笑)本作を読んでくれた皆様、本当にありがとうごさいます!
つまらなかったらごめんなさい!
まだまだ他にも私の作品はありますよ!(←悪質)
さて、後編は私の創作スタンスを支える、メンタル面のルーツを掘り下げて行きたいと思います。
私はエッセイや活動報告でも書いている様に、「小説家になろう」サイトに於けるテンプレ的な作品は殆ど読みませんし、自分でそういう内容の作品を書く事も殆どありません。
ごく稀に、そういう内容をパロディにしたコメディ短編を書いたりする事はありますが、かなり評判が悪いです(笑)。
「俺ならこうやる」みたいな、違う角度からの可能性を提示しているつもりなのですが、普段から唯我独尊スタンスをアピールしている私がそういう作品を書くと、凄く悪意がある様に見えるのかも知れませんね。
でも、自分が書きたいと思ったらまた書きます。すみません。
とは言うものの、それじゃあお前は自分を見下した人間を「ざまぁ」したり、異性にモテまくって「ハーレム」を作る作品は一切受け付けないのか? と訊かれたら、そんな事はないと答えます。
私は高校2年生の時、クラスの体育会リーダーみたいな男子に目を付けられて、9ヶ月間に及ぶ屈辱的ないじめを受ける事になりました。
いじめを受けていた頃は、プライドもあって親に黙って学校に通い続けましたが、家に帰ると明日への憂鬱で自分の部屋に閉じこもり、冴えない男の子が女の子にモテまくるエッチな漫画ばかり読んでいました。
つまり、私が高校2年生の時代に「なろう」があったら、「ざまぁ」や「ハーレムもの」を貪る様に読んでいたと思います。だから存在を否定する事は出来ませんね。
しかしながら、兄も高校時代にいじめを克服した経験があった為、一念発起していじめと正面から対立し、心身ともに傷付きましたがクラスと教師を巻き込んで相手側からの謝罪を引き出し、和解という道で遂にいじめを解決しました。
この時、私の人生観みたいなものは変わりました。
必要なものと、もう必要ではないものがハッキリしたんです。
今、「ハーレムもの」に関しては成人向け作品等で受け入れる事は出来ると思いますが、「ざまぁ」的な気分はもう経験していますし、相手に屈辱的な「ざまぁ」までは出来なかったからこそ、今でも付き合えている当時のクラスメートもいますので、「ざまぁ」は私の人生には必要ありません。
まあ、いじめを見て見ぬふりをしたクラスメートなんてもう仲間じゃないと、謝罪を断り一生他人を憎み続けるのは自由ですよ。
それで幸せならね。
でも、小説の世界とは違って、一度憎しみの歴史を心身に入れてしまうと、それを癒せる幸せはそう簡単には来ませんよ。
ひとりやふたりの友達や恋人が、背負える十字架じゃないんですよ。
大人になってからは、ブラック企業の理不尽さを訴えて辞職するまでの戦いにも勝ちました。
もう慣れたものですよ。
自分を正しいと信じて一度でも結果が出たら、人間は戦う為に長い孤立にも耐えられる様になりますし、頼れる仲間も見付かりやすくなるんです。
ただ、現在はネットやSNSの発達により、より陰湿で包囲的ないじめが蔓延していますから、私の様な行動が逆効果になる可能性もあります。
そんな時は、逃げる事を恥じないで下さい。
そして、あなたの味方になりたくてもなれなかった人を、いつまでも憎まないで下さい。
読者の中には、別に辛い過去とか関係なく、単純な娯楽で「ざまぁ」を楽しんでいるだけという方もおられるかと思います。
でも、例えアマチュア作家でも、自身の経験から選択したくないテーマには、周囲に妥協して選択する必要はありません。
それなら違うテーマで、自分なりの解答を示した方が後悔はしないと思うんですよね。
私が「ざまぁ」や「ハーレム」に興味を示さないのは、ただそういった理由です。
このエピソードは、私が20代の頃までは黒歴史にしたい経験でした。
小中学生時代のいじめならともかく、高校2年生はもう17歳。経験するには遅すぎる。
自分だけがいい歳していじめを受けた事を、自分が他人より劣っている証拠みたいに見られるのが嫌だったんです。
でも、今振り返ると最高にハッピーな経験でした。
プライドが高くなってから、そんじょそこらの人間には経験出来ない、強烈な自己肯定感と自信を得たんですからね。
世の中に遅すぎる経験なんて無いんですね!
遅すぎる経験という言葉に絡めて、もうひとつのエピソードを紹介します。
創作活動を含めた私達のあらゆる趣味は、まず入門段階に於いてメジャーな存在の対象から影響を受けますよね。
なろう作品であれば、コミカライズやアニメ化した作品の原作を読もうとログインしたのがきっかけだとして、それらはかつて一時代を築いたトップランナーです。
また、音楽であればラジオやテレビ、動画サイトでよく見聞きするアーティストは、大抵国内のオリコン・チャートのTOP40勢ですよね。
彼等は実力に時代の勢いも兼ね備え、目標とすべきカリスマ的な魅力がありますが、裏を返せば自分の現在地との距離感に、努力を前に絶望してしまうユーザーが現れても不思議ではありません。
自作品の評価ポイントが3桁で精一杯の私は、4桁のポイントがある作者は既にサイトでの成功者だと感じていますが、4桁ポイントの当事者は5桁ポイントに憧れ、5桁ポイントの当事者は書籍化作家に憧れ、書籍化作家はコミカライズやアニメ化を成し遂げた作家に憧れて、ラノベ作家として全てを手にした様に見える作家も、自分の書きたい作品を書いて成功している一部の有名作家に憧れているのです。
世界レベルで考えれば、アーティストは兼業が一般的であり、専業で食べていけるのはごく一握りなのですが、「若き天才」や「名門」という枕詞に弱い日本では、アーティストが若い内に成功する事ばかりに意識が向けられている様に思えてなりません。
まして作家は、「最後の職業」と言われる程の晩成稼業であり、いくら若い読者が相手のラノベ業界でも、成功を急ぎ過ぎるユーザーが多いと感じていますね。
私は以前から、今の仕事を続けながら自分の書きたい作品を書くと宣言していますが、死ぬまでの間に1冊、自分の作品が紙の本になる事をひとつの夢として持っています。
実際には、のんびり構えてアーティスティックな職業に就ける程、世の中は甘くありません。
しかしながら、日本から目を離せば、人生の晩年にようやく夢を叶えた兼業アーティストが、如何にも専業の様に日本に紹介されており、そんな彼等の生き様を沢山見てきた私は成功や夢の定義を長いスパンで考えていました。
例えば、私の好きなアメリカの黒人ブルースの世界では、ブルースだけで食べていけるアーティストは100人もいません。
日本にも輸入されるブルースのCDを出しているブルースマンも、大半が本業持ちです。
それどころか、アルバム1枚残せれば歴史に残る幸せ者で、配信シングル1曲すら残せずに毎日堅気の仕事をし、死ぬまでレコーディング作品が残せないにも関わらず、地元のクラブでは世界的なロックアーティストからサイン攻めに遭う様な顔役プレイヤーもいるんです。
私が自分のアルバムを作る為にブルースハープ(10穴の小型ハーモニカ)を練習していた頃、ふとCDジャケットの渋さで選んだブルースマン、リトル・アーサー・ダンカンは、初レコーディングのアルバムデビューが55歳。
2枚目のアルバムが出たのは65歳。
初のライブDVDが出たのは73歳。
2008年、74歳で脳腫瘍により死去しました。
勿論、死ぬまでブルースだけで食べて行く事は出来ませんでしたが、これだけでも十分に恵まれたキャリアで、シカゴのクラブを根城にしていた為、他人のライブDVDにも客としてカメラの前にポジショニングしてニカッと笑ったり、お茶目で幸せなおじいちゃんでした。
彼がプロのブルースマンになれたのは、ようやく55歳になってからでしたが、彼にとって、その経験が遅過ぎたという事はないでしょう。
彼の存在は、あくまでブルースマニアの間でしか知られていませんし、彼がブルースで残したお金は酒代レベル。
マニアックに音楽を探求した私は、彼レベルのアーティストのCDを沢山持っています。
彼レベルのアーティストだからこそ、本気で好きになったならCDを買わなければ援助になりません。
きっと晩年、脳腫瘍の手術をする費用も足りなかった事でしょう。
私にとってプロのアーティストとは、生活に困らない、いくら稼いだのか妬みすら呼ぶメジャーな人だけではないのです。
成功を焦らず、素晴らしい作品を残しながらアーティスト活動では生活出来ない人達と一緒に階段を登る事が当たり前になっている私だからこそ、目先のブクマやポイントで一喜一憂する事がないのだと思いますね。
物事の価値を決める専門家は、この世にはいません。
どんな経験も、遅すぎるという事はないはずです。