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Fine

 煌めく星空は、未だに見えないまま。どんな時でも、あの夜空から勇気を貰っていた。


 怖くて、足が震えてる。


 逃げたい。

 

 それでも――こんな所で止まれない。


 足が自然と前へと出た。

「ここから入りますよ……準備は、いいですね?」

 影の口らしき歪んだ場所を千弦が指す。

 一瞬、息を呑む。

 けれど、躊躇わずに強く頷いた。吹き荒れる圧に身体を揺らされ、思わず体勢を崩しかける。

「待っててね、ルル。私きっと――倒してみせるから」

 

「……ええ。待ってるわ」

 どこか悲しげな表情を見せるルルに背を向けて、影へと地面を勢いよく蹴り、走り出す。


 振り下ろされる刃をくぐり抜けて、そのまま影の中へ飛び込む。

 踏み入れた瞬間、世界がふわりと歪んだ。足元の感覚が曖昧になり、地に触れているのかさえ分からない。

 

 じんわりとした温もりが、身体を包む。それは温かいはずなのに、どこか現実味がない。

 視界に広がるのは、淡いピンクや紫、水色。思わず足を止めてしまうような、どこか惹かれる空間だった。

 

 奥から微かにオルゴールの音が流れてきた。

 優しく、どこか懐かしい旋律。なのに、音と音の間に、わずかなズレがあった。

 

 ――気づいた瞬間、それがやけに耳に残る。

 

 耳を塞ぎたくなるはずの、そのズレた音から意識が離れない。気づけば、足が勝手に動いていた。考えるより先に、一歩が踏み出される。

 

「歌恋さん……?」

 

 千弦の声が、耳に届く。しかしその言葉は、頭には届かなかった。

 呼ばれているはずなのに。

 

 その意味だけが、すり抜けていく。


 声が遠くへ引いていく。代わりに、あの旋律だけが鮮明になっていく。

 

「歌恋さん……!」

 

 その言葉と共に、ずっしりとした重さが身体にのしかかった。背後から苦しいくらい強く抱きしめられた。

 はっと、息を呑む。

 

 千弦の温もりが伝わってきた――とても、あたたかい。

 

「ダメです……行っては、いけません」

 

「もう……一人にしないで」

 

 か細いその声と涙がホロリと溢れて落ちていく。

 縋るように、腕に力がこもる。その声は、私に向けられているはずなのに――。

 どこか、別の誰かに向けているようにも聞こえた。

 

 頭の中に響いていた、オルゴールの音色が僅かに歪んだ。優しかったこの旋律が、ひび割れるみたいに崩れていく。

 

「……私は、何を……」

 

 静寂が、落ちる。

 

 あれほど強く引き寄せられていたはずの音は、もうどこにもなかった。

 

「千弦……?」

 

 ようやく、自分の声が現実に届く。

 私は一体何をしていたのだろうか。千弦の言葉に耳を傾けず、ただオルゴールの音へと足を向けていた。

 

 あの瞬間だけ、自分の身体が自分のものではなかったように感じた。もし本当にそうだったら――背筋が凍る。

「ごめんなさい。私がちゃんとしていれば……」

 

 ――違う。千弦は、悪くない。

 

「さあ、(コールクリスタル)はあっちですよ……!」

 

 私から離れて手を取り、数ある道の1つを指した。


 私が気を抜いたから――。


「歌恋さん?」

 呼ばれて、はっと顔を上げる。咄嗟に返事をしようとして、ほんの一瞬言葉に詰まった。耳鳴りのように頭の中で響き、思考が遅れる。

 

「ごめん……行こう」

 そう答えながら、ロッドを握り直す。指先の感覚がごく僅かに鈍かった。


 向かった先は薄暗く、どこか湿っぽい。可愛らしいあの空間とは裏腹に醜悪な空間が広がっていた。

 ここにいるだけで、嗚咽が込み上げる。それでも、一歩ずつ確実に進んでいく。

 

 足元がぬかるみ、踏み出すたびにまとわりつくような感触が靴裏に絡みついた。鉄のような匂いが鼻を突き、思わず鼻を塞いだ。視界の端で、何かが蠢いた気がした。

 

 薄暗い道が永遠に続いていた。目を凝らしてみても、全くもって何も見えない。それなのに、確かに“何か”がいる気配だけがまとわりついてくる。

 

 前へ踏み出した足が心なしか遅れた。嫌な感覚が、靴裏からじわりと這い上がってくる。振り払うほど、強く足を踏みしめる。

 オルゴールの音が大きくなるにつれ、段々と音色のズレが酷くなっていく。甲高い音が突き刺さる。その音は、とても聞いていられるものではなかった。

 

 核に近づく空間ほど、分かれ道が増えていく。けれど千弦は、元から分かりきっているかのように恐れず進んでいく。

「……(コールクリスタル)の部屋はもうすぐです。気を引き締めていきましょう」

 その言葉に小さく頷く。

 しかし、返事は喉の奥でかすれて消えた。

 

 歪んだ音に近づいていく。頭の内側で直接鳴り響く不協和音は、耳を塞いでも意味なんてなかった。足を止めかけて、歯を食いしばる。

 

 ――倒さないと。

 

 千弦の背中を見つめ、前へ踏み出す。道を抜けて足を踏み込む瞬間、千弦の腕が道を遮った。


 「着きました。ですが、まだ入らないで下さい」

 

 千弦の鋭い眼差しの先には、歪んだ“塊”が脈打つように蠢いている。空気が重くなる。息を吸うだけで肺の奥まで何かが入り込んでいく。

 

「絶対アレに、耳を貸さないでください。一瞬でも油断すると――飲み込まれますから」

 

 両手の中にあるロッドへ視線を降ろし、握り直す。

 

「私が抑えます。歌恋さんは、そのロッドで浄化(安息)をお願いします」

 

 張り詰めた緊張感の中、私は覚悟を決める。

 

「……分かった」

 

 千弦は小さく頷いた。

 みづるが先に塊へ向かい出す。ロザリオを握りしめ、瞼を閉じる。煌めく微細な星々が、円を描いて塊を囲う。

 

 次第にそれは縦へと引き延ばされ、細い光の筋へと変わっていく。ゆるやかに回りながら、幾筋もの光が絡み合い、静かに軌跡を重ねていく。


 初めてみづるの魔法を目にして見惚れてしまいそうになる。けれどーー視界にロッドを映す。一度瞳を閉ざし、強く頷く。

 

 私も彼女に続いて塊へと歩き出す。

 マイクを口元へ近づける。軽く息を吸い、喉の奥から静かな声を解き放つ。同時に光の粒子が音の粒に変わる。音の粒は私たちを囲い、緩やかに回転する。

 寄り添う音は何もなく、ただ一人の声が旋律を成し、確かな形を持って空間を描いていく。

 

 しかし、僅かに音が揺らぐ。綺麗に重なっていた響きが、何故か噛み合わない。

 引き伸ばされた旋律の奥に、別の音が混ざり込む。耳を塞ぎたくなるような、不協和が滲み広がる。

 

 囲っていた音は、徐々に形を歪め、黒く濁った音が視界に入る。焦燥感にかられ、心が乱れ始める。

 崩れかけた旋律を、必死に繋ぎ止め、それでも顔を歪めながら歌い続ける。


 何かを察したのか千弦がとん、と肩を叩く。彼女は何も言わず、ただ静かにこちらを見つめている。

 その瞳は揺れていなかった。

 

 僅かに口角を上げ、微笑む。


 瞬く間に散りばめられていた星々が、瞬いた。淡く、そして優しい光は間を置かず収束していく。

 やがて手元のロザリオは、そっとハープの形を取る。

 光を放つ弦を指先で丁寧に弾く。

 

 ひとつ鳴らしただけなのに、幾重にも重なるように余韻が揺らぎ空間全体へ広がっていった。

 気づけば音の歪みと滲み出た焦燥感は、緩やかなメロディに解かれていった。さざめいていた不協和が、1つ、また1つとほどけていく。

 黒く濁っていた音は徐々に輝きを取り戻し、再び煌めき始める。

 

 呼吸が、静かに整っていく。胸の奥にこびりついていた重さが、ゆっくりと剥がれ落ちていくようだった。

 

 千弦の奏でる音が、そっと背中を支える。それに応えるように、私は声を重ねた。

 歪み、揺らいだ旋律が今度は確実に重なり合う。絡み合った音は1つの音楽になる。

 

 ――塊へと、そっと触れていく。

 真っ暗な塊は、ちりのように少しずつ小さくなっていく。しかし、まだ足りなかった。

 濁りきった“核”は、ほんの少しの抵抗に脈打っていた。

 息が乱れる。残された時間があと僅かだということが頭によぎった。

 視界の端で、千弦が何も言わずただこちらを見ていた。

 けれど、その唇がつぶやくように動く。

 

 ――お願い。


 声にはならないはずのその言葉が、確かに届いた。胸の奥で何かが繋がり、迷いが消える。


 最後の息を吸い込む。


 私は――全てを浄化(安息)する。


「――|Requiem Harmony《もう怖くない》」


 薄暗いこの空間に一筋の眩しい光が伸びる。次第に光は広がる。

 黒く淀んでいた影が、細かな粒となってほどけていく。そのまま空気に溶け込むように消えていった。

 

 気づけば、あの不快な音も、重苦しい空気も、どこにもない。

 ただ一人、そこに立ち尽くしていた。

 視界の端で、赤い光が揺れる。顔を向けると、涙目のルルが微笑んで待っていた。


「……お帰りなさい」

 

 ルルは、一言だけ呟く。


 その言葉に、自然と口が開く。


 ――ただいま。

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