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思い出をたどる旅




 寄せては返す、静かな波音。


 どこまでも広がる紺碧の海。


 そんな海の色と同じ紺碧の瞳を、ロウィーナは今でも忘れられずにいる――。




***




「――ロウィーナ。長年、母の側にいてくれてありがとう」


 かけられた言葉に、ロウィーナはハッとして顔を上げた。


「本当に感謝している」


 向かいに座る人物は感慨深そうにそう告げた。

 久しぶりに王都へと戻り、人の多い本邸の賑やかさにやや落ち着かずにいたあまり、少し現実逃避していた。

 ロウィーナは慌てて背筋を伸ばした。


「いいえ、旦那様。長年大奥様にお仕えすることができ、私の方が感謝してもしきれないほどでございます」


 高齢の主に付き添って空気の良い保養地に移ってから、もう十二年が過ぎていた。

 向かいのソファに座るハミルトン伯爵家当主であるオズボーンも、爵位を継いだ十二年前よりもしっかりとした貫禄が出ている。

 自分より十歳も年上で、雇用主である伯爵家当主にそんな不遜なことを思ってしまうのは、彼の母親である前伯爵夫人の侍女として、彼女の側で息子の心配を長年聞いていたせいだろうかと、ロウィーナは心の中で懐かしんだ。

 その前伯爵夫人が一年ほど前に老衰で亡くなり、ロウィーナは保養地の別荘から、ここ王都の本邸へと戻ってきたのは、つい先日のことだ。


「母は君のことをまるで娘のように気に入っていたからな。あの頑固な母の側では大変だっただろう」


 現当主であるオズボーンはもう四十になる年齢だが、まるで母と喧嘩をして言い負かされた子どものような表情を浮かべながら、苦笑交じりにそう零した。

 思わずロウィーナもつられて苦笑を零す。

 オズボーンの母であり、前伯爵夫人だったイザベラは、年を重ねても気高く美しく、そして誰にも負けないほど勝ち気で、誰よりも心優しかった。


「大奥様にはたくさんのことを教えていただきました。……厳しかったですが」

「分かるよ……」


 今度はオズボーンの方がつられるように頷いた。

 貴族の栄光がすでに昔のものとなり始め、爵位があれど働くようになった時代に、商才に長けていた前伯爵が異国との貿易で成功を収め、爵位と共に引き継いだオズボーンも非常に有能だが、そんな彼にとっても母は厳しい存在だったらしい。

 そんなイザベラの侍女として、ロウィーナは十六歳から側に仕え、マナーや教養といった全てのことを教えて貰った。

 あの厳しさも、亡き今となっては懐かしく思える。

 娘のように可愛がって貰えたことも、ロウィーナの誇りだ。


「それでだな、ロウィーナ。父が病に倒れて向こうに移って以来、母が亡きあとも長く別荘の管理を任せてしまっていたが、ルイーズも君が本邸に戻ってくるのを楽しみにしているから、どうだろうか?」


 オズボーンがそう尋ねた。

 ルイーズとはオズボーンの妻で、夫婦そろってロウィーナのことをよく気にかけてくれる。

 十二年前に前伯爵が病のため息子であるオズボーンに爵位を譲り、妻のイザベラと共に保養地の別荘へと移る際に、ロウィーナも二人に付き添った。

 別荘のある保養地は静かなところで、少ない使用人たちと穏やかに過ごしてきた。

 湖畔をゆっくりと散歩したり、広い庭に花を植えて育てたり。

 そんな静かな日々の中で、前伯爵が五年前に亡くなり、そしてイザベラも一年前に天に召された。

 ロウィーナはそのあとも、静かすぎる別荘の整理をしながら過ごしてきた。

 イザベラが天に召されてから一年がたつが、長いと感じなかったのはあの別荘にはたくさんの思い出が残っていて、それをひとつひとつ懐かしんでいたおかげだろうか。

 どれも記憶を思い起こして浸るには充分すぎるものばかりだった。

 主を失った別荘からはいずれ出る日が来ることは分かっていたので、再び本邸へ呼び戻してくれるオズボーンには感謝している。

 ただ、ロウィーナは遠慮がちにひとつの願いを口にした。


「あの、もしお許し頂けるのでしたら、少しだけ休暇を頂けませんでしょうか?」

「もちろん構わない。むしろ、君は十年以上ずっと母のために働いてくれていたんだから、少し休息すべきだ」


 ロウィーナに願いに、オズボーンは気前のいい声で快諾してくれた。

 その返事にロウィーナは安堵する。


「実は、大奥様の持ち物を片付けているときに、旅行先で購入した物がたくさん出てきて、大奥様と行った場所にもう一度行ってみたいと思ったんです」

「旅行か、良い考えだ。どこに行く予定なんだい?」

「ソリス島です」

「ソリス島……ああ! 十年位前に、父と夫婦喧嘩をしたときに行った島か!」


 顎に指を当てながら思い返すオズボーンに、ロウィーナは静かに頷いた。

 正確には十二年前の夏だった。

 それほど広くない異国の島だが、美しい海に囲まれ、温暖な気候が旅行先として昔から人気がある。

 十二年前、ロウィーナはイザベラの付き添いとして、船に乗ってその島へ行った。


「大奥様との思い出を、もう一度振り返りたいんです」

「それは良いと思うが……君ひとりで?」

「はい」


 ずっとイザベラの側にいたロウィーナは、三十歳になる今も独身だ。

 海を越えた旅行となるとそれなりの日数が必要となる。

 友人たちは結婚して子育て中だったり、家のことで忙しいと聞いているので、気軽に旅行に誘ったりはできない。

 異国とはいえ言語も習慣もほとんど変わらないので、ひとりでも旅をするには問題ない。

 しかしロウィーナの返事を聞いたオズボーンは、眉間を寄せて考え始めた。

 ロウィーナはしばらくその様子を見ていたが、眉間の皺がどんどん深くなっていくのを見て、やはり難しいだろうかと諦めがよぎった。


「あの……」

「なら旅の手配は私の方で行おう」


 不安になり声をかけようとしたロウィーナに、オズボーンは突然思いがけないことを言った。


「そんな……恐れ多いことでございます。一度行ったことのある場所ですし、自分で手配できますので」

「いや、君はしっかりしているようで、どこかうっかりしているから、船に乗り遅れたり野宿なんてことになったりしてはいかん。旅費も気にせずにいいから、私に任せなさい」


 胸を叩いて任せろと言うオズボーンに、ロウィーナは呆気に取られてしまった。

 ロウィーナとしては、十代後半の歳から三十歳になるまでずっと働いてきたので、ちょっとした贅沢な休暇のつもりだった。

 しかし、雇い主に手配をしてもらい、旅費も気にせずに良いとなると、それはちょっとした贅沢ではすまない。

 焦るロウィーナに、オズボーンが言葉を続けた。


「代わりにと言っては何だが、何か母の形見を持って一緒に旅をしてくれないだろうか? 母にとっては途中で帰国することになったあれが最後の旅行となってしまったから、どうかもう一度連れて行って欲しい」


 オズボーンの声は、厳しくも愛情深かった亡き母を偲ぶ優しい声音だった。

 ロウィーナの脳裏に、共に旅をしたイザベラの姿がよみがえる。

 眩しい日差しに負けないような、明るく堂々とした笑顔の、ロウィーナにとって憧れの女性だった。

 そんな笑顔を思い出しながら、ロウィーナはオズボーンに向かって頷いた。


「はい。かしこまりました」


 こうして、ロウィーナは十二年前に旅をした異国の島、ソリス島へと再び行くこととなった。




***




「――良いかい、ロウィーナ。知らない人に着いて行ってはならないし、甘い話には注意するんだぞ? あと、他には……」


 これから乗りこむ客船の前で、ロウィーナはオズボーンからこんこんと旅の注意事項の説明を受けた。

 あまりにも長すぎて、旅行鞄を握る両手がそろそろ痺れてしまいそうになり、ロウィーナは意を決して口を挟んだ。


「あの、旦那様。私はもう子どもではなく、とっくに大人ですので、そんなに心配されなくても大丈夫です」

「そうだったな……何だか君はいつまでも妹のようで心配になってしまう」


 ロウィーナに言われて、ようやくオズボーンは目の前の人物がいい大人だということを思い出したらしく、慌てて咳払いをした。

 オズボーンの母であるイザベラに十年以上も付き添っていたためか、雇用関係を超えて家族のように接してくれる。

 そんなオズボーンは心配のあまり、雇っている使用人の旅の出発を見送るため、港まで同行してくれた。


「ルイーズと子どもたちも見送りに行きたがっていたが、ルイーズは出産したばかりだし、子どもたちも学校があるから一緒に来れなくてすまんな。あ、そうだ、ルイーズから君に小遣いを渡すよう言われていたんだ」

「旦那様、私はもう大人ですから……!」


 ポケットを探ろうとするオズボーンに、ロウィーナはもう何度目か分からない台詞を言う他なかった。

 オズボーンの妻であるルイーズは、最近三人目を出産した。

 夫と共に気にかけてくれることは嬉しいが、さすがにこの年で小遣いを渡されることは固辞した。

 当初の予定では、これまで働いて貯めてきたお金を旅費にするつもりだったが、オズボーンは宣言通り乗る船から宿まで全て手配し、その費用も出してくれた。

 十二年前にイザベラと共に旅行をした際も、当時の伯爵であったイザベラの夫が船も宿も馬車の手配も万全に用意しての旅だったことを思い出した。

 思っていた以上に、あの旅行を再現するような旅になりそうだと、ロウィーナは海鳥を眺めながら思った。

 船には続々と乗客が乗り込み、ロウィーナもそろそろ乗船の準備をしなければならない。

 不意に、オズボーンが懐かし気な視線を向けた。


「そのブローチ、父が母に贈ったものか?」

「はい。大奥様が天に召される前、譲ってくださいました。このブローチと一緒に旅をしたいと思います」

「ありがとう。きっと母も喜ぶはずだ」


 ロウィーナは胸元につけた、薔薇を象ったブローチをそっと撫でた。

 生前のイザベラがとても大切にしていたものだ。

 亡くなる直前に、ロウィーナの手を握って譲ってくれた日を思い出して、切なさと温かさがこみ上げてくる。

 ロウィーナはもう一度、そっとブローチを撫でた。


「では、行ってまいります」

「楽しんでおいで」


 オズボーンに見送られて、ロウィーナは船に乗り込んだ。

 十二年ぶりの旅で、十二年ぶりの船だ。

 海風を浴びながら甲板を歩いた瞬間、懐かしさがあふれた。

 十二年前は、イザベラと一緒に甲板を歩き、客船の大きさと豪華さに驚いた。

 イザベラはそれまでに何度か船に乗ったことがあったらしいが、ロウィーナは初めての船旅で、全てが珍しくて船の端から端まで歩いて回った。

 甲板を歩いていると、そんな懐かしい思い出がよみがえってくる。


「大奥様、出発でございますよ」


 ロウィーナは胸元のブローチにそう声をかけた。

 十二年前の旅行にも、イザベラはこのブローチをつけていた。

 あのときは、ロウィーナがブローチをつけてまた旅をする日が来るなんて思ってもいなかった。


 しばらくすると船が出発し、いよいよ旅が始まる。

 ロウィーナの故郷であるニヴェウス国の港をゆっくりと離れていく。

 ソリス島までは約一日の船旅だ。

 船で一泊して、翌朝には島の港に着く。

 広大な海原をゆっくりと進みながら、ロウィーナはソリス島の方角を見つめた。

 目的地はまだ遠く、水平線が遥か遠くまで続くだけ。

 十二年前に行ったあの島は、どんな風になっているだろう。

 花と緑にあふれ、まばゆい陽射しと柔らかな風を感じる、美しい海に囲まれた島。

 イザベラと一緒に旅をした楽しい思い出が詰まっている。


 そして。

 もうひとつ、ロウィーナには忘れられない特別な思い出があった。

 イザベラも知らない、誰にも言ったことのない、胸に秘めた思い出。

 あの美しい海の色と同じ、紺碧の瞳を思い出す。


「……あの方は、元気かしら……」


 まだ見えない、遠い島を思い浮かべながら呟いた。




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