異国の島
翌朝。
船のタラップから島へと降りる。
その瞬間、ロウィーナの体はまるで十二年前に戻ったかのように足取りも軽やかになった。
「変わらないわね……」
夏の澄み渡った空に白い雲。
眩しいほどの陽射し。
色鮮やかな花々。
船で一日程度で行ける距離だが、まるで別世界のようだった。
ロウィーナの故郷であるニヴェウス国よりも南に位置するためか、風も彩りもすべてが異なる。
気候も穏やかで、のんびりとした気風と人々の素朴さが心地よく、旅行先としても人気の島だ。
船からは家族連れや、新婚旅行の若い夫婦など、誰もが笑顔で降りてくる。
ひとりなのはロウィーナだけだったけれど、胸元のブローチをそっと撫でた。
「大奥様。行きましょうか」
そう声をかけると、まるでイザベラの気品ある声が聞こえてきそうな気がしてくる。
ロウィーナは旅行鞄をひとつ握りしめ、人々の波に混ざって歩き出した。
十二年前は、イザベラの荷物がたくさんあった。
貴族の女性はドレスから小物までたくさん必要になってしまうため、どうしても所持品が多くなる。
イザベラは年を重ねても非常にお洒落な女性だったので、いくつもの旅行鞄を持っての旅だった。
あのときはロウィーナひとりで持てる数ではなくて、ポーターに手分けして運んでもらうほどの量だった。
船を降りると馬車が待っていて、みんなで全部詰め込んだ。
そんなことを思い出していると、あのときと同じように馬車が待っていて、ロウィーナは驚いた。
「オズボーン様から全て仰せつかっております」
御者はにこやかにそう言った。
オズボーンは本当に十二年前の旅行と同じように手配してくれたらしい。
非常に贅沢な旅行の始まりに、ロウィーナは緊張しながら用意された馬車に乗り込んだ。
扉が閉まると馬車は緩やかに進み出す。
窓から風が吹き込んできて、ロウィーナは思わず外に顔を出した。
ソリス島の陽射しは強いが、海から運ばれてくる風のおかげでそこまで暑くない。
肌を撫でるような柔らかな風だ。
「そうだわ、十二年前もこの坂道を通ったんだったわ」
馬車は港から島の中央へ続く坂道を登っていく。
窓から眺める景色は昔と変わらなくて、ロウィーナは懐かしく眺めた。
十二年前、島について最初に行った場所は、この坂道を登った先にある大きな街だった。
島の中で一番大きな街で、ほとんどの旅行客はまずこの街へ向かう。
振り返れば港はもう遠く、かわりに白壁とオレンジ色の屋根瓦の建物が増えてきた。
この島の建物の特徴で、街の中は白とオレンジ色に統一されている。
馬車が走る道沿いの木々は濃い緑で、その下では眩しい陽射しを避けた猫が丸まって眠っていた。
すべてが鮮やかな色合いに包まれている。
街の中に入れば、通り沿いにはたくさんのお店が連なり、今も多くの旅行客で賑わっていた。
変わらない光景に、ロウィーナは戻ってきたという気持ちになる。
わずかな期間しか滞在しなかった旅先の島だが、ロウィーナにとっては故郷に次いで思い入れのある場所だった。
「確か……着いてすぐにカフェへ行ったんだったわ」
街中を眺めていると、当時とても人気のあったカフェに行った記憶がよみがえってきた。
ロウィーナは御者にカフェの名前を告げ、向かって貰うことにした。
その間も、窓の向こうには眩い景色が流れていき、懐かしい気分が増していく。
ほどなくして、店先まで椅子とテーブルを並べて賑わっている建物の前にたどり着いた。
「ここだわ……!」
十二年前と変わらない。
見覚えのある建物がまだあるということに、まるであの日に舞い戻った気分になった。
仕立ての良い制服を着た案内係に中へ導かれる。
さすがにどこの席に座ったかまでは記憶に残っていない。
けれど、あのとき注文したのものは覚えている。
この島で多く取れる、レモンを使ったパイだ。
「レモンパイは、ありますか?」
「一番人気のメニューでございます」
尋ねると笑顔で頷いてくれて、黄色のクリームが目を引くレモンパイが運ばれきた。
ロウィーナはそれを口に運んだ。
爽やかな酸味が広がる。
ロウィーナもイザベラも、このほど良い酸味で船旅の疲れを癒した。
「爽やかなお味ですね、大奥様」
あの日のように感想を呟きながら、ロウィーナは向かいの席を見上げた。
まるで今もイザベラが座っていて、美味しいと言って食べるロウィーナに紅を引いた唇で笑って見つめていた、そんな姿が思い起こされた。
変わらない味に満足したあとは、イザベラと見た場所を巡った。
もう一度行きたい場所はたくさんある。
イザベラと一緒に買い物をした店。
イザベラと一緒に見た景色。
馬車に乗って、石畳の上を歩いて、ひとつずつたどっていく。
そのたびに、イザベラの笑顔を思い出した。
ロウィーナにとって、十六歳で侍女となってからの年月は、全てと言っていいほどイザベラと共に過ごした日々だった。
若くして両親を亡くしたロウィーナに、イザベラは母のような存在だった。
未熟だったロウィーナに、マナーや教養と言った様々なことを教え、行く場所にいつもロウィーナを伴って色々な経験をさせてくれた。
最初はあまりの厳しさに逃げ出したくなったりもした。
けれどイザベラから教えられたことは、あらゆるところで良い評価を受け、確実に今のロウィーナを作り上げた。
ときには振り回されることもあったけれど、過ぎてしまえば全て良い思い出に感じた。
イザベラは天に召される前、枕元にロウィーナを呼び寄せて、楽しく生きなさいと告げた。
明るく、強い女性だった。
ロウィーナにとっては、今でも憧れの存在だ。
保養地の別荘でイザベラの持ち物を整理していたとき、旅行の間に買ったものがたくさん出てきた。
それを眺めながら、ロウィーナはイザベラとの旅行を懐かしく思い出し、もう一度この島へ行きたいと思った。
悲しんで過ごすのではなく、楽しかったあの頃のように。
賑やかなことが大好きだったイザベラなら、そう望んでいるように思えた。
「あ、このお店……」
通りを歩いていたロウィーナは、鮮やかな柄の服が並ぶ服飾店を見つけて思わず足を止めた。
ガラス窓から中を覗くと、十二年前の記憶が鮮明によみがえってくる。
「確か大奥様が、服と……そう、日傘も買われていたお店だわ!」
十二年前、イザベラが見つけて中へ入り、たくさんの買い物をしたお店だ。
この島の鮮やかな景色のように、はっきりとした彩りの服をイザベラはとても気に入っていた。
何着も試着をしていた。
鮮やかな柄の服も。
光沢のあるショールも。
花柄の日傘も。
自信にあふれた笑顔を浮かべて、何だって着こなしていたイザベラの姿が、まるで今でも店内にいそうな気持ちになるほど懐かしい。
「私にもお洒落をした方が良いと仰って、確かグリーンのワンピースを勧められたんだっけ……」
ひとしきり買い物を楽しんで満足したイザベラが、ロウィーナにも服を勧めてきた。
イザベラの好む明るい色合いは、ロウィーナにとっては派手な気がして、無理だと言って断ったあの日のことを思い出す。
ロウィーナは、ガラスに映った今の自分の格好を見た。
モスグリーンのワンピース姿。
これはこれで好きな色だが、この島では明るい日差しのおかげか、明るい色が似合う。
ガラスの向こうを覗き込めば、グリーンのワンピースが見え、ロウィーナはもう一度自分の格好を見てから、意を決してお店の扉を開いた。
あの日のグリーンのワンピースではないけれど、いつもは選ばないグリーンと白のストライプ模様の服を思い切って試着してみた。
「お似合いですよ」
服飾店の女性店員がそう言ってくれて、着たことのない雰囲気のワンピースに緊張しながらも、ロウィーナは嬉しい気持ちになった。
裾が軽やかに揺れ、気持ちまで軽やかになった気がする。
そのまま購入してブローチを付け替え、新しい装いで店を後にした。
「大奥様、いかがですか?」
空に向かってそう呟けば、眩しい日差しが零れてくる。
まるでイザベラが似合うと言ってくれた気分になった。
ロウィーナは軽やかな足取りで、店の前の通りをまっすぐに進んだ。
緩やかな坂道をゆっくりと下っていく。
「この道をまっすぐ……」
十二年ぶりの旅行で、ロウィーナにはどうしても行きたいところがあった。
それは、忘れられない思い出の場所だった。
最期にイザベラから楽しく生きなさいと言われて、ずっと胸の奥に秘めていた思い出がよみがえった。
誰にも言わず、自分の胸の奥だけに仕舞ってきた思い出。
心残りにしたままではいけないと思い、この島をもう一度訪ねることを決めた。
「あのとき、大奥様は買ったばかりの新しい日傘をさしていたわ」
十二年前、イザベラの買い物を楽しんだあと、昼食を食べに行った。
あの日は特に予定を決めていなくて、服飾店の店員に教えて貰った。
お店の前の道を下りて行き、噴水のある広場を曲がったら、大きな木の側にレストランがあると。
イザベラが買ったばかりの日傘を満足そうにさしながら、散歩するように歩いて行った。
晴れ渡った空と、白い雲に、新しい華やかな日傘が良く映えていた。
あの日と同じ道を一歩ずつたどっていくと、まるで十二年前に戻っていくよう。
「噴水のある広場を左に曲がって……」
記憶の通りに歩いていく。
広場に出ると、噴水が見えた。
吹きあがる水がきらめている。
側では子どもたちがはしゃいで駆け回っていた。
その光景を見ながら、ロウィーナは曲がり角へ近づく。
「そしたら大きな木があって……」
一歩、二歩と近づいていく。
思い出の場所を目指して。
けれど、角を曲がったロウィーナの足がぴたりと止まった。
「……宝飾品、店……?」
記憶の中では、曲がった先にはレストランがあった。
芳ばしい香りが道まで漂ってきて食欲をそそるような、そんなレストランが。
けれど、その場所は宝飾品のお店になっていた。
見覚えのある大きな木があるので場所は間違っていない。
しかしホワイトタイに黒の制服を着たレストランの従業員は、華やかな女性たちに変わっていた。
「……」
風も、花も、海も変わらないのに、そこだけはロウィーナの記憶と変わっていた。
十二年前、ロウィーナはこの場所にあったレストランでひとりの人物と出会った。
島を囲む海と同じ、紺碧の瞳をした青年。
十八歳だったロウィーナは、この島で忘れられない恋をした――。




