発見
3月7日(金)
翌日、俺は病院のベッドの上で、退屈な時間を過ごしていた。体は少しずつ回復しているが、まだ自由に動くことはできない。ギプスに固定された左腕が重く、ベッドから起き上がるのも一苦労だった。
窓から見える空は、病室の白い壁に囲まれているせいか、ひどく遠く感じられた。まるで別世界を覗いているような、現実感の薄い青色だった。
看護師さんが定期的に様子を見に来てくれるが、それ以外は本当にやることがない。持ち込んだ本を読んだり、テレビを見たりしているが、どれも集中できない。頭の中は夢図書館のことでいっぱいだった。
暇を持て余し、うつらうつらとまどろみながら、窓の外を眺めていた。午後の柔らかな陽光が、病室の床に長い影を落としている。
窓の外には広々とした病院の敷地が広がっており、入院しているほかの患者が散歩したり、ベンチでくつろいだりしている。車椅子に乗った高齢の男性、杖をついて歩くおばあさん、点滴台を押しながらゆっくりと歩く中年女性。それぞれが、病気や怪我と闘いながらも、穏やかな時間を過ごしているようだった。
その中に、車椅子に乗せられた若い女の子がいた。車椅子を押しているのはその子の母親だろうか。中年の女性が、娘を気遣うように優しく車椅子を押している。
その女の子が、なぜか強く目を引いた。どこかで見たことがあるような、不思議な既視感。うつむいていて顔が良く見えないが、その佇まい、髪型、体つきが、記憶の奥底で何かを呼び覚ます。
よく見ると、夢図書館の司書に似ている気がした。ボブカットの黒髪も、華奢な体つきも、あの時の司書と重なる。だが、少しやつれて見える。
「月原さん……?」
思わず口にしたその時、「何見てんだよ?」といつの間にか病室に来ていた陽平に話しかけられた。俺は慌てて振り返る。
「あそこにいる女の子、わかるか?」
俺が窓の外を指さすと、陽平は視線を追って頷いた。彼の表情が、少し複雑なものに変わった。
「んー。あ、あの子か。多分、月原さくらだな。小学校5年生の時、お前とよく遊んでただろ。覚えてないか?」
陽平の言葉に、俺は心臓を掴まれたような衝撃を受けた。やはり、あの月原さくらがここにいる。夢図書館の司書と同じ名前の、俺の過去と深く関わりのある少女が。だが、記憶は空白だ。どんなに頭を絞っても、彼女に関する具体的な記憶が浮かんでこない。
「それが、覚えてないんだよな。その時期ぐらいの記憶が曖昧なことに最近気が付いて、自分でも驚いているんだ。」
俺は正直に打ち明けた。陽平は少し驚いた顔をしたが、すぐに納得したように頷いた。
「へえ、そうなのか。なんか、話がかみ合わない時があるなとは思ってはいたが、そうだったのか。記憶喪失みたいなもんか?で、何だ?そいつのこと、聞きたいのか?」
話がかみ合わないのは、もしかしたら記憶のせいではないかもしれないのが怖いところだ。だが、記憶のせいにしておこう。今はそれが一番無難だ。
「うん、ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ、月原さんと俺って仲良かった?」
俺の問いに、陽平は顔をニヤつかせた。まるで昔の楽しい思い出を思い出したような表情だった。
「めっちゃ仲良かったぞ。月原が悠馬にめっちゃ懐いている感じでさ。呼び方もゆうまとさくらだったもんな。あの頃はそんなこと思わなかったけど、今になって思うと、付き合ってんのかなってぐらい仲良かったぞ。いつも一緒にいたからな。」
「まじか……」
あんなかわいらしい子に、そんなにも慕われていた過去があるとは驚きだ。陽平の話を聞いていると、俺とさくらは本当に特別な関係だったようだ。なぜそんな華やかな記憶が、俺から綺麗に抜け落ちているのだろう。陽平の言葉が、俺の記憶の欠落の深刻さを突きつける。
「そういえばさ、この前、鍵探しの時に夏美がしてた話覚えてるか?小学校の時もこんな感じで探し物したみたいな話。」
陽平は腕を組み、記憶を辿るように天井を見上げた。その表情は真剣で、何かを思い出そうとしているのがわかった。
「ああ、そんな話あったな。でも、俺、小学校の頃探し物をした現場にはいなかったんだよな。だから何を探してたのかもよく覚えてねえわ。」
陽平は申し訳なさそうに言った。だが、俺は諦められない。あの「探し物」が、きっと俺の記憶の謎を解く鍵になる気がする。
「陽平、ちょっと頼みがあるんだけどいいか?その時、何を探していたのか知りたくて。もしよければ、同級生に聞いてみてくれないか。」
陽平は俺の真剣な表情を見て、小さく息を吐いた。
「分かったよ。ちょっと探ってみるわ。でも、あんまり期待すんなよ。みんな忙しいし、小学校の頃のことなんて覚えてるかどうか……」
「それでも、お願い」
俺は頭を下げた。陽平は苦笑いを浮かべながら頷いた。
「元気出せよ、ひきこもり。早く良くなれよ。」
陽平はそう言って、冗談めかして俺の肩をポンと叩き、病室を出て行った。その後ろ姿を見送りながら、俺は友人の優しさに感謝した。
残された俺は、再び窓の外の月原さくらに目をやった。彼女はまだ、うつむいたまま車椅子に乗っている。その姿は、夢図書館の司書を連想させる。
夕日が病院の敷地を染め始め、彼女の姿がオレンジ色に包まれる。その光景は美しくも切なく、俺の心に深い郷愁を呼び起こした。
俺の失われた記憶。その断片が、今、現実の病院という場所で、少しずつ繋がり始めている。夢図書館と現実世界の境界が、曖昧になっていく。