父の遺言と魂の昇華 ㈡
青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!
鼻を突く消毒液の匂いと、規則正しく鳴る心電図の電子音。
ゆっくりと重い瞼を開けると、真っ白な天井と、蛍光灯の眩しい光が視界に飛び込んできた。
越智涼子は、何度か瞬きをして焦点を合わせながら、自分がベッドの上に横たわっていることを理解した。指先を動かしてみる。微かな痺れはあるものの、確かに自分の意志で、自分の体を動かしているという実感があった。
約三週間ぶりに取り戻した、自分自身の肉体の重みだった。
「……ママ?」
ベッドの脇から、恐る恐る覗き込んでくる小さな顔があった。
泣き腫らした目で、不安そうにこちらを見つめる良亮だった。その隣には、パイプ椅子に座ったままうたた寝をしている香代子の姿がある。
「良亮……」
涼子が、掠れた声でその名を呼んだ。
三十四歳の女性の、本来の高く柔らかい声。それを聞いた瞬間、良亮の瞳から大粒の涙がポロポロと溢れ出した。
「ママだ……! 本当のママが、帰ってきた……っ!」
「えっ、お姉ちゃん!?」
良亮の声に弾かれたように香代子が目を覚まし、ベッドに身を乗り出してきた。
「お姉ちゃん! わかる!? 私よ、香代子よ! 気分はどう? 痛いところはない!?」
「香代子……。ええ、大丈夫よ。少し体が重いけれど……」
涼子が微笑みながらゆっくりと身を起こすと、良亮が堪えきれずに涼子の胸に飛び込んできた。
涼子は、自分の両腕で、愛する我が子をしっかりと抱きしめた。
温かい。そして、少し見ない間に、また背が伸びて、骨組みがしっかりとしたように感じられる。魂となって天井から見下ろしていた時には決して感じられなかった、確かな生命の重みと温もりが、そこにはあった。
「良亮、大きくなったわね……。寂しい思いをさせて、本当にごめんなさい」
涼子は良亮の頭を撫でながら、愛おしそうに何度も頬ずりをした。
香代子は、その母子の再会の光景を見て、安堵の涙を拭った。友之が意識を失い、涼子が倒れた後、香代子は慌てて救急車を呼び、小田原市内の総合病院へと涼子を搬送したのだ。それから丸三日間、涼子は昏々(こんこん)と眠り続けていた。
「お姉ちゃん。あのね……岩瀬くんは、もう……」
「ええ、わかっているわ」
言い淀む香代子を遮るように、涼子は静かに頷いた。
「……知っているの?」
「全部、見ていたもの。私が眠っていた間、私の魂はずっとあなたたちのそばで、天井の近くからすべてを見守っていたのよ」
「えっ……! じゃあ、私たちが工藤梓のアパートに忍び込んだのも、岩瀬家で戦ったのも……」
「ええ。ハラハラしながら見ていたわ。香代子のホウキのフルスイング、とても頼もしかったわよ」
涼子がフフッと笑うと、香代子は信じられないという顔をした後、恥ずかしそうに顔を真っ赤にして俯いた。
「そ、そんなところまで見てたなんて……恥ずかしい。じゃあ……岩瀬くんが最後に言っていた、伸司さんのことも……」
香代子の声が、悲しみを帯びてトーンダウンした。
涼子は、抱きしめていた良亮の背中をポンポンと優しく叩きながら、遠くを見つめるような穏やかな目を向けた。
「ええ。伸司さんの最期の言葉、ちゃんと私の耳にも届いたわ」
七年前の雨の夜。
冷たいアスファルトの上で、自分の死を悟った伸司が、最後に遺した言葉。
――涼子、良亮を頼む。良亮と遊びたかったな。
「伸司さんは、最後まで私たち母子のことを愛してくれていた。その事実を知ることができただけで、私の七年間の時間は、ようやく報われた気がするの」
涼子の目から、静かに一筋の涙がこぼれ落ちた。
「岩瀬くんは、自分の犯した罪に苦しんでいたわ。でも、彼が私の体を借りて、真実と伸司さんの言葉を運んできてくれなかったら、私たちは一生、暗闇の中で待ち続けることになっていた。……岩瀬くんには、感謝してもしきれないわ」
「……そうね。岩瀬くんは、馬鹿で不器用だったけど……最期はちゃんと、私たちを守ってくれた。立派なヒーローだったわ」
香代子も涙を拭い、窓の外の青空を見上げた。岩瀬友之の魂は、すでに天へと還り、この世には存在しない。しかし、彼が遺した真実と愛情は、確かに遺族の心を救済していた。
数日後、体調が完全に回復した涼子は退院の許可を得た。
河崎へ帰る前に、一行は箱根の岩瀬家を訪れた。
玄関先に出迎えた美智子は、数日の間にひどく老け込んだように見えた。息子の殺害犯が逮捕された安堵よりも、息子が死体遺棄の共犯者であったという事実が、母親の心に重くのしかかっているのだ。
「おば様、短い間でしたが、本当にお世話になりました」
涼子は、美智子の前で深く頭を下げた。
「友之さんは、命懸けで私たちを守ってくれました。彼が伝えてくれた夫の最期の言葉のおかげで、私たちは前を向いて生きていくことができます。友之さんは、私たちにとっての大恩人です」
「涼子さん……」
美智子は、涼子の手を取ってボロボロと泣き崩れた。
罪を犯した息子を、被害者の妻である涼子が許し、感謝してくれている。その事実が、美智子にとってどれほどの救いになったか計り知れない。
良亮も、「おばあちゃん、ありがとう。おじさんのこと、忘れないよ」と元気に笑って見せた。
竜子は、静かに赤い扇子を胸に当てて一礼し、彼らは箱根の山に別れを告げた。
河崎に戻ると、夏の終わりの気配が街を包んでいた。
工場地帯から漂う錆と油の匂い、そして東京湾から吹き込む潮風。下町の喧騒が、彼らをいつもの「日常」へと引き戻してくれた。
良亮の夏休みも、残りわずかとなっていた。残った宿題に追われながらも、良亮の顔からは以前のような大人びた影が消え、年相応の明るさを取り戻していた。
そして、九月に入ろうかという、ある日の夕方のことだった。
台所で夕飯の支度をしていた涼子と、居間でテレビを見ていた香代子と良亮の耳に、ニュース番組の速報を告げるチャイム音が飛び込んできた。
『続いてのニュースです。昨日から降り続いた記録的な大雨の影響で、神奈川県の箱根町仙石原付近の山林で、大規模な土砂崩れが発生しました。……そして本日午後、復旧作業に当たっていた作業員が、土砂の中から白骨化した人間の遺体を発見しました』
「えっ……」
香代子がテレビの画面に釘付けになった。台所から涼子も駆け寄ってくる。
画面には、規制線が張られた箱根の山奥――あの「蛇骨渓谷」と呼ばれる禁断の谷の周辺の映像が映し出されていた。
『その後の身元確認の結果、遺体は七年前から行方不明となっていた河崎市のフリーライター、越智伸司さんであることが判明しました。警察は、遺体の状況から死体遺棄事件として捜査を進めていましたが……』
ニュースキャスターの声が、一段と神妙なトーンに変わった。
『先般、小田原市内で発生した会社員・岩瀬友之さんの毒殺事件で逮捕されていた工藤梓容疑者が、越智さんの死体遺棄に関与したことをほのめかす供述を始めました。
供述によりますと、七年前の八月、岩瀬さんの運転する車が越智さんをはねる事故を起こし、同乗していた工藤容疑者と岩瀬さんが共謀して、遺体を現場から離れた山林に遺棄したとのことです』
画面には、工藤梓の送検される様子と、岩瀬友之の生前の写真が映し出された。
「……パパが、見つかったんだ」
良亮が、テレビを見つめながらポツリと呟いた。
友之が全てを自白して魂が昇華した後、彼らは警察に「友之がひき逃げをした」と通報するべきか迷っていた。しかし、運命は自然の力……大雨による土砂崩れという形で、隠されていた真実を白日の下に晒したのだ。
工藤梓という狂気は裁かれ、友之の殺人と伸司の死体遺棄という、二つの事件の全貌が世間に明らかになった。
「伸司さん……やっと、暗くて冷たい山の中から、帰ってこられたのね……」
涼子は、両手で顔を覆い、静かに泣き崩れた。
それは、悲しみの涙ではなかった。七年間、どこにいるのかも分からなかった最愛の夫が、ようやく自分たちの元へ帰ってくることができるという、心からの安堵の涙だった。
香代子も涼子の肩を抱き、良亮も涼子の背中にしがみついて、静かに涙を流した。
あの不思議で、恐ろしく、そしてかけがえのない出会いに満ちた長い夏休みが終わろうとしている。
岩瀬友之という男の魂が引き起こした奇跡は、彼らに残酷な真実と、それ以上の深い愛と再生をもたらした。
しかし、彼らはまだ知る由もなかった。
伸司が命を懸けて暴こうとした箱根の闇……「人間を兵器に変える都市設計図」という途方もない秘密が、実はこの河崎の街の地下深くに眠り続けているということを。
そして、良亮の右腕に、その封印を解くための青い龍の力が、静かに脈打ち始めていることを。
終わったのは、ただの一つの事件に過ぎない。彼らの本当の闘いは、これから幕を開けようとしていたのである。
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