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第十四話 母への愛の追憶 ― 哀の証明

 酸素マスクと幾つもの医療機器を取り付けられ、女性は病室のベッドに横たわっていた。

 その傍らには、夫と、まだ制服の新しい高校生の息子が立ち尽くしている。


 今朝までは、いつも通りだった。

 他愛もない会話を交わし、息子が学校へ向かったばかりだったのだ。


「美佐子……お前がいなくなったら、俺は……」


 声は震え、言葉は最後まで続かなかった。


「母さん、戻ってきて……母さん……」


 息子の必死の呼びかけにも応えることなく、心電図の波形はやがて揺らぎを失い、静かな直線へと変わっていく。


「心停止です」


 医師の短い声が響いた。


「心臓マッサージ、開始」


 医師と看護師たちが慌ただしく動き出す。

 夫と息子は、ただその光景を見守ることしかできなかった。


 懸命な処置が続く。

 だが、それでも命をこの身体に繋ぎ止めることはできなかった。


「……14時57分。ご臨終です」


 その言葉と同時に、すべてが終わった。


 息子は母親の胸に顔を埋め、声を上げて泣き叫ぶ。

 だが、その胸から、もう鼓動が聞こえることはない。


 高校に入学したばかりの彼は、その日、事故によって母親を失った。


   ◇


 廊下ですれ違った男子生徒から、ふわりと線香の残り香が漂った。


「あの子かな?」

 咲が、何気ない声で言う。


「え? 何が?」

 凛が聞き返す。


「ほら……お母さんが事故で亡くなっちゃったんだって」


「ああ……そういえば、誰かがそんなこと言ってたわね」


「可哀想だね。入学したばっかりなのに」


 一拍の間。


「……私たちのお母さんこそ、死ねばよかったのに」


 それは、少しも声色が変わらぬつぶやき。


「そんなこと言わないの」

 咲は肩をすくめる。

「いいじゃない。もう二度と会うことはないんだから」


「近づいたら即通報。面会も拒否」


「そうそう」


 凛は笑う。


「一生かけて復讐しよ」

「ねー」


 二人は何事もなかったように、廊下を歩いていった。


   ◇


 母親が運転していた乗用車は、赤信号の交差点に進入した。

 右側から直進してきた車と衝突し、側面を強く打たれたという。


 意識不明の重体で病院へ搬送されたが、ほどなく息を引き取った。


――そう、聞かされた。


 まさか、と思った。

 自分の母親に限って、そんな運転ミスをするはずがない。

 

 前方不注意だったのか。

 赤信号に、気づかなかったのか。


 詳しい原因は車のログを確認してからになる、と警察は言った。

 だが、現場の状況を見る限り、母親の過失で間違いないとも。


 そう、警察は言っていた。


 忌引き明け、初めて登校した日の放課後――

 少年は、校舎の屋上から校門を見下ろしていた。


 入学式の日、あの場所で、母と並んで写真を撮った。


 自分が知る限り、あれが一番いい笑顔だった。


 葬儀の遺影には、その写真が使われた。


   ◇


「あの子の顔、見てられなくって」

 部室の机に肘をつき、凛がぽつりと言った。


「今にも死にそうな顔してるんだもん」


「そりゃあね」

 志乃は淡々と返す。

「母親が急に亡くなったら、ああいう顔にもなるわよ。あとはもう、時間が解決するしかないの」


 咲が志乃を見る。

「志乃って、時々ドライだよね」


「ドライなんじゃない。人生経験よ」

 志乃は肩をすくめた。

「出会いと別れなんて、嫌っていうほど経験してきたから」


「……私たちには、わからないわ」

 凛が小さく言う。

「私たちの母親は――私たちを、殺そうとしたの」


 一瞬、部室の空気が止まった。


「前にも言ってたわね。虐待、とか」


「殴る、蹴るは日常。ご飯も、まともに食べさせてもらえなかった」


 凛はそう言って、制服の裾をめくり上げる。

 白い腹部に、はっきりと残る傷痕。


「これ。母親に刺された痕」


 志乃は、言葉を失ったまま見つめる。


「包丁を持ってきたとき、もうダメだって思った。でも、私が咲を守らなきゃって」

 凛の声は、静かだった。


「……でも最後には咲に助けられちゃった。咲が近所の家に助けを求めたから私の命も助かったの」


「あの時は必死だったから」

 咲が、軽く笑う。

「お姉ちゃんが、守ってくれようとしてくれたから」


「母親はそのあと駆けつけた近所の人に抑えられて、警察に捕まって、刑務所行き。

 今どうしてるのかは知らない。刑務所にいると思うけど」


 凛は続ける。


「それから何年かは、おばあちゃんのところで暮らしてたけど……」


「二人で生きていきます、って言って。田舎を飛び出したんだよね」


 だから――と、咲が言う。


「母親のぬくもりに、あんなふうに泣ける人の気持ち、私たちにはわからない」


 少し間を置いて。

「……でも、おばあちゃんがさ、『ごめんね』って、私たちを抱きしめて泣いてたのは覚えてる」


「たぶん……それに、近いのかな」


 志乃は、しばらく黙っていた。


「だからあんたたちの絆は強いのね……苦労してるのね」


 それだけ言った。


   ◇


 たこ焼き屋マサ


 いつもの公園のキッチンカーの前。

 いつの間につけたのか、赤ちょうちんの中に仕込まれたLEDが、まわりを淡い色に染めていた。


 鉄板の上でたこ焼きがじゅうっと音を立てる。


 志乃が言う。

「学校にね」


 主哉が顔を上げる。


「交通事故で母親を亡くした生徒がいるの」


 マサが黙ってたこ焼きをひっくり返す。


「凛と咲が……じゃないな。特に凛が気にしてるみたい」


 主哉が串でたこ焼きを突く。


「へえ」

 マサが言う。

「若い内に親を亡くす話なんて珍しいが、ない話じゃねぇ」


 油をひとさしする。


「俺の同級生にもいたな。高校受験の前に父親を病気で亡くしたやつ」


 志乃が少し驚く。

「そんな人、いたの?」


「ああ。かなり落ち込んでてな。声もかけられなかったけど」


 少し間。


「今は何をしてるんだか」

 マサは鉄板を見たまま言う。


「でもな」

 たこ焼きを皿に盛る。

「親が死のうが何しようが」

 楊枝を二本差す。

「残された自分は、生きていくしかねぇんだ」


 主哉が笑う。

「まるで体験談みてぇだな」


 マサは肩をすくめる。

「受け売りだよ」


 皿を志乃に渡す。

「へい、あがったぜ」

 ごま油の香ばしい香りと、熱々の湯気が立ち上る。


 主哉が言う。

「そういやマサ。お前の昔の話って、聞いたことねぇよな。まあ聞くつもりもねぇけどよ」


 マサは笑う。

「気が向いたら話してやるよ」


 鉄板の上で、たこ焼きがまた転がった。


   ◇


 夜。

 パトカーのヘッドライトが、交差点を白く照らした。


 主哉はゆっくりと車を止める。

 歩道の端に、花束が供えられていた。


 そのまわりには缶コーヒーと、菓子の袋。


 数日前の事故現場だ。


 その前に、一人の少年が立っていた。


 制服姿。


 主哉は車を降りる。


「こんな時間に何してる」


 少年が振り向く。

 疲れた顔だった。


「……母さんが死んだ場所なんです」


 主哉は供えられた花束を見た。

 その瞬間、夕方の屋台の光景が頭をよぎる。


――学校にね。交通事故で母親を亡くした生徒がいるの。

 

 志乃の声。


――特に凛が気にしてるみたい。


 主哉は少年を見た。

(……こいつか)


 信号が青から赤に変わる。

 車が一台、静かに止まった。


 少年は交差点を見つめたまま言う。


「警察は、母さんのミスだって」


 主哉は黙って聞く。


「ブレーキとアクセルの踏み間違いかもしれないって」


 少し間。


「でも……」

 少年は首を振る。

「母さん、運転すごく慎重だったんです」


 風が吹く。

 信号機がかすかに揺れた。


「赤信号、見落とすなんて……」


 言葉が途中で止まる。


 主哉は交差点を見る。

 タイヤ痕は、もうほとんど残っていない。


「……そう思うのも無理ねぇな」


 少年は俯く。


「すみません」


「何がだ」


「警察の人に、変なこと言っちゃって」


 主哉は少し眉を上げる。

「変なこと?」


 少年は迷ったあと、小さく言った。

「母さんの車……」


 信号がまた青に変わった。


「誰かに操作されたんじゃないかって」


 しばらく沈黙。


 主哉は交差点の信号を見上げた。

「映画の見すぎだな」

 軽く言う。


 少年は苦く笑う。

「……ですよね」


 主哉は少年の肩を軽く叩いた。


「遅い。帰れ」


 少年はうなずき、ゆっくり歩き出す。

 主哉はその背中を見送った。


 少年が見えなくなってから、もう一度交差点を見る。

 信号の青い光が事故現場を照らしていた。


 主哉は小さくつぶやいた。

「……もし本当だったら、面白くねぇな」


 交差点を照らす光は赤色へと変わった。

 まるで、そこに恨みが残っているかのように。


   ◇


 凛が部室のある旧校舎の窓から、ぼんやりと外を眺めていた。


 午前中、休み時間に一年生の教室の前を通った時、聞き捨てならない声を耳にした。


「寺の匂いがするぜ」

「葬式くせぇんだよ」


 教室の前を通り過ぎる時、ふわりと線香の匂いが鼻をかすめた。


 制服にはまだその匂いが残っている。

 朝、消臭スプレーをかけたくらいじゃ消えない。


 まわりからの心無い言葉。

 当の本人は気にしていないふりをしていたが、あの顔はそうとうきている。


「心優しい先輩の私は、先生に告げ口をするなんて下らない事はしない。だけど心無いガキの戯言を言う馬鹿どもに、少し教育をしてあげないとね」


 凛は小さく呟いた。


 ふと、屋上に人影を見つける。

「あっ……あの子だ」


 フェンスにもたれ、少年はグラウンドを見下ろしていた。

 遠くで、部活の掛け声が響いている。


 凛は旧校舎の渡り廊下を走る。

 階段を駆け上がり、屋上の扉を押した。


 風が髪をなびかせ、スカートを揺らす。


 少年の背後に近づき、声をかける。


「そこから飛び降りるの?」


 少年は振り向かない。


「……そんな顔してるよ」


 少年は小さく息を吐いた。


「飛び降りないよ」


 少し間。


「でも、死んで亡くなった人に会えるなら……少し考えるかも。キミはどう思う?」


 凛はフェンスに並んでもたれる。


「わかんない。そんなこと、考えたこともないかな」


 風が二人の間を通り抜ける。


 凛が言う。


「悪い人は地獄に行くかもだけど、天国なんてないよ。きっと成仏して、おしまい」


 少し横目で少年を見る。


「……お母さんのこと、好きだったんだね」


 少年は苦く笑った。


「母親のこと、嫌いな人っているの?」


「いるわよ」


 凛は即答した。


「私のことを殺そうとした人だもん」


 少年が初めて凛を見る。


「今、きっと刑務所にいる」


 声に揺れはない。


「だから、あなたの気持ちは分からない」


 風が、また二人の間を抜けた。


「でもね」

 凛はグラウンドを見たまま言う。

「もし咲がいなくなったら……同じこと思うかもしれないけど」


 少年は少し黙ってから言った。

「……じゃあさ。もし、その人が殺されたら?」


 凛の目がわずかに動く。


 少年は続ける。


「キミならどう思う?」


 凛は少年を見た。


「お母さん、殺されたの?」


 少年は首を振る。


「分からない」


 視線を遠くへ落とす。

 その先には、あの事故の交差点がある。


「そう思うことで、母さんの過失を認めたくないだけなのかもしれない」


 少しの沈黙。

 そして少年は、もう一度つぶやいた。


「……そう。わからないんだ」


 風が吹いた。

 凛の鼻を、かすかに線香の匂いがかすめた。


   ◇


 少年が家に帰ると、リビングに明かりがついていた。

 玄関で靴を脱ぎ、廊下を歩く。


 仏壇の前で足が止まる。


「行ってきます」


 そう言って家を出たのは、今朝のことだった。


 母親の写真の横に供えられていた花は、もう枯れかけていた。

 線香の匂いは、まだ家の中に残っている。


 そのとき、リビングから父親の声がした。


「葵」


 少年は顔を上げる。


「こっちに来て座りなさい」


 リビングへ入ると、父親の隣に見知らぬ女が座っていた。


 女は軽く頭を下げる。

「突然で驚いたわよね」


 柔らかい声だった。


「すぐに母親だなんて思えないだろうけど……」

 少し微笑む。

「少しずつ仲良くなっていきましょう」


 少年――葵は、何も答えなかった。


 まだ納骨も終わっていない。

 母親の遺影は、仏壇に置かれたままだ。


 それなのに父親は、まるで何事もなかったかのように女を紹介している。


 葵は黙って椅子に座り、父親はそれを見て満足そうに頷いた。


 それから数日。

 家の中に、少しずつ女の私物が増えていった。


 洗面所には見慣れない化粧品。


 浴室には新しいシャンプー。


 玄関には女物の靴。


 リビングのテーブルには、女のスマートフォンが置かれている。


 仏壇の前に供えられていた花は、とうとう完全に枯れていた。

 誰も替えなかった。


 夜、トイレに起きたとき、水を飲みにキッチンへ行くとき。


 寝室から声が聞こえる。


 女の笑い声・・・ベッドの軋む音・・・


 葵は廊下で足を止めた。


 ドアの向こうで、二人の声がする。


「あまり声を出すな。年頃の男の子がいるんだぞ」


 女が笑う。


「だってあなたが求めてくるのが悪いのよ」


 父親が低く笑った。


「仕方ないだろ。お前がいい女だからな。ハッハッハ」


 葵はその場に立ち尽くした。


 胸の奥で、何かが冷たく沈んでいく。


 そうか。

 きっと父は――

 母が生きていた頃から、あの女と。


   ◇


 父が仕事に出た後、家には葵と女の二人きりになった。


 リビングに立つ女を見ているうちに、葵の胸の奥に溜まっていたものがあふれ出した。


 葵は女に歩み寄る。

「これ以上、母さんとの思い出を汚すな」


 女は一瞬きょとんとした顔をしたあと、嘲るように笑った。


「なにこの子。まだ親離れできてないマザコンなの?」


「お前の場所は母さんの物だ。出て行け」


 女は肩をすくめる。


「嫌なら出ていくのはあなたのほうよ」


リビングを見回しながら言った。


「この家はあなたのお父さんの持ち物。そして私は、そのお父さんに選ばれたの」


 少し顔を近づけ、葵を見下ろす。


「それとも私に、母親も父親も奪われて寂しいのかしら?」


 葵の拳が震える。


「奪われたって、なんだ」


 女はにやりと笑った。

「さあ。なんのことかしらね」


「話せ!」

 葵が腕を掴んだ瞬間、女の手が振り上がった。


 パシン、と乾いた音がリビングに響く。


 葵の頬が大きく揺れた。


 女は冷たい目で言った。


「もう終わったことなのよ」


 その言葉を聞いた瞬間、葵の中で何かが切れた。


 葵は玄関へ走り、そのまま家を飛び出した。

 外は雨だった。


 濡れながら、あてもなく歩き続ける。


 やっぱり、二人が何かしたんだ。

 それじゃなきゃ母さんが、あんな事故を起こすはずがない。


 気がつけば、鳥居の前に立っていた。


「占見野神社」


 都市伝説で紹介されていた神社。

 五六円を賽銭箱に入れれば、恨みを晴らしてくれるという。


 葵は石段を駆け上がった。


 鈴の紐を掴み、力いっぱい鳴らす。


 ポケットから財布を取り出し、そのまま賽銭箱へ放り込んだ。


「母さんは、あの二人に何かされたんだ。じゃないと、あんな事故起こすわけないんだ」


 雨が激しさを増す。


「神様、お願いします……この恨み、晴らしてください」


 葵は賽銭箱に抱きつき、泣き始めた。

 境内に響く少年の泣き声を、雨が静かに消していく。


 その様子を――

 神社の影で、雨に濡れながら凛が見つめていた。


   ◇


 神社の社務所。


 元締めである神主が静かに口を開いた。


「訴えたのは、高校生の長谷川葵。

 神威の対象は父親、長谷川皓吉とその愛人、笹田由香里。

 長谷川葵の母親が死亡した交通事故について、計画殺人の可能性がある」


 神主は一度言葉を切る。


「初穂料は五千六百円、高校生にしてみれば、大金でしょう」


 隼人が続けた。


「父親は大手IT企業のSE。愛人はその部下みたいだよ」


 肩をすくめる。


「オフィス不倫だって。嫌になっちゃうよね」


 主哉は腕を組んで考えていた。


「しかし交通事故に見せかけた殺し、か」


 マサが言う。


「やり方はいくらでもあるな。車に細工するとか、薬を使うとか」


 主哉は頭を掻いた。


「とりあえず明日、交通課に行ってそれとなく聞いてみるぜ」


 志乃が頷く。


「それが一番早いわね」


 その日はそこで話が終わった。

 皆がそれぞれ帰り支度を始める。


 そのとき、凛がぽつりと言った。


「ねえ」


 主哉が振り向く。


「なんだ?」


 凛は少し迷ってから言った。


「お願い……あの子の恨み、晴らしてあげて」


 主哉は黙って凛を見ている。


「だって、かわいそうだよ」


 少しの沈黙。

 そして志乃が口元を押さえて笑い、凛に聞こえないくらいの声でつぶやく。


「アオハルね〜」


 凛は首をかしげた。

「何?」


 志乃は肩をすくめる。

「別に」


 主哉はふっと笑った。

「……まあ、裏は取るさ」


   ◇


 翌日。


 主哉は警察署の交通課に顔を出していた。


 デスクの並ぶ事務室の奥から、声が飛んでくる。

「おっ、窓際族が仕事のフリしてるぜ」


 主哉が顔を上げる。

 声の主は、交通課の刑事――大島朔斗。古くからの馴染みだ。


 主哉は苦笑する。

「相変わらず口が悪いな」


「生活安全課なんて暇だろ。どうした」


 主哉は椅子を引き寄せ、机に肘をついた。


「この前あっただろ。車が赤信号で交差点に突っ込んだ死亡事故」


 大島は少し眉を上げる。


「ああ。例の踏み間違いのやつか」


 主哉は頷く。

「その遺族の息子をな、夜に保護したんだ。事故現場の交差点に、ずっと立ってやがる」


 大島はため息をついた。

「そりゃつらいな」


 主哉は続ける。

「ただ事情が事情だからな。補導ってのも気が引ける。俺も少し話を聞いてやりたいんだ」


 少し間を置いて言う。

「事故の資料、見せてくれねぇか」


 大島は腕を組んだ。

「お前なあ。また面倒なことに首突っ込んでるだろ」


 主哉は肩をすくめる。

「仕事だよ」


 大島はしばらく主哉を見ていたが、やがて立ち上がった。


「……しょうがねぇな。ちょっと待ってろ」


 少しすると、大島は一冊のファイルを持って戻ってきた。

 それを受け取り、資料をめくりながら主哉が言う。


「やっぱり、ただの踏み間違い事故なのか」


 大島が肩をすくめる。

「ああ。上はそう結論づけた」


 主哉が顔を上げる。

「違うのか?」


 大島は少し眉を寄せた。

「ちょっと気になることがあってな。

 ドラレコも確認したんだが……“ブレーキが効かない”って声が入ってた」


 主哉の指が資料の上で止まる。

「それで?」


「念のためログも確認した」

 資料のページを指で叩く。


「アクセルが一旦緩められて、そのあとまた踏まれてる。

 赤信号だから止まろうとした。けど信号が青に変わったから、そのまま進んだ……そんな感じのログだ」


 主哉が聞く。

「車両に異常は?」


「何もない」


 大島は即答した。


「新車買って一年目だそうだ。ブレーキも操作系も異常なし。

 だから状況から踏み間違い事故って結論になった」


 主哉は資料を閉じる。

「そうか……じゃあしょうがねぇな」


 少し間。

 主哉がふと聞いた。


「なあ。車を遠隔操作なんて出来るのか?」


 大島は少し笑った。


「今の車は全部ネットに繋がってる」


 資料をめくる。


「海外じゃ研究者が実験してる。走ってる車のハンドルやブレーキを遠隔操作できたってな」


 主哉が鼻で笑う。

「冗談みてぇな話だな」


「だからメーカーも神経質になってる」

 大島は続けた。


「自動運転の時代になったら、一番怖いのはハッキングだ」


 少し間。


「でもよ……」


 主哉が聞き返す。

「でも?」


「不可能じゃない」


 大島は指を立てた。

「エンジン、ブレーキ、トランスミッション……全部ECUで制御してる」


「つまり?」


「外部から制御を奪うこと自体は、理論上あり得る」


 大島は首を振る。

「ただし、やるなら相当な技術者だ。普通の人間には無理だよ」


 主哉は黙って聞いている。

 大島は続けた。


「確かめるなら、そのECUを解析するしかない」


 少し言葉を切る。


「ただし——」


「仮に本当にそんなレベルの人間がやったなら、ログなんて残さない。何も分からない可能性の方が高い」


 一瞬の沈黙。

 主哉が低く言った。


「なあ。そのECU、内緒で貸してくれないか」


 大島が顔を上げる。


「は?」


「一日二日でいい。知り合いの技術者に調べさせたい」


 大島はすぐ首を振った。


「無理だぜ。そもそもECUってのは現物をほいと貸せるもんじゃねえし、ログのデータのコピーは保管してるが、そんなの発覚したら始末書どころじゃ済まない」


 主哉は視線を外さない。

「分かってる。だがな……生活安全課ってのは、少年に寄り添うのも仕事だ」


 声が少しだけ低くなる。

「あいつは母親を失った上に、父親を疑ってる……何もしてやれないのは、寝覚めが悪い」


 大島は深く息を吐いた。


「……一日だけだ。それで何も出なければ諦めろ」


 主哉の口元がわずかに緩む。


「感謝するぜ」


   ◇


 ECUのログデータは、その日のうちに隼人のもとへ運び込まれた。

 モニターには膨大なログが流れている。


 主哉が椅子に腰掛けた。


「どうだ?」


 隼人は画面から目を離さない。

「交通課と同じ。異常なし」


 主哉は鼻で笑う。

「だろうな。プロがやったなら痕跡なんて残さねぇだろ」


 しかし隼人は答えない。

 ログをスクロールし続けている。


 やがてぽつりと言った。

「でもこのログ、綺麗すぎるんだよね」


「どういうことだ」


「ECUって単独じゃないんだ。エンジンとかブレーキとかステアリングとか、それぞれ役割分担してる車載コンピューターなんだけど」


 隼人は画面を指差す。


「センサーの情報を元に制御してるから、普通は多少ノイズみたいなログが混じる」


 少し間。


「でもこれ、誰かに作られたみたいに綺麗なんだ」


 数時間が過ぎた。

 隼人の手が止まる。


「……あれ?」


 主哉が顔を上げた。

「どうした」


 隼人は画面を拡大する。

「ここ」


 ログを指差す。


「時間が飛んでる」


 主哉が身を乗り出す。


「何秒だ?」


「0.02秒」


 主哉が眉をひそめる。


「たったそれだけか?」


 隼人は首を振った。


「ECUのログで時間が飛ぶなんてありえない」


 キーボードを叩く。


「これ、時間が消えたんじゃない。書き換えられてる」


 主哉の目が細くなる。


「誰かが侵入したってことか」


「うん」

 隼人は別の画面を開く。


「問題はどうやって侵入したか」

 主哉が腕を組む。

「車に直接細工したわけじゃないんだな」


 隼人が首を振る。

「違う」


 少し考えてから言った。


「ナビだ」


 主哉が顔をしかめる。

「カーナビ?」


 隼人が頷く。

「ナビって走行中操作できないだろ?」


「そうだな」


「それはECUから車速信号をもらってるから」


 隼人は回路図を表示した。


「つまりナビはCANバスに接続されてる」


 主哉が低く言う。

「車の内部ネットワークか」


「そう」

 隼人は続ける。


「しかもナビはインターネットに繋がってる。

 渋滞情報、地図更新、スマホ連携」


 画面に通信経路が表示される。


 外部ネットワーク

  ↓

 スマホ

  ↓

 ナビ

  ↓

 車両CAN

  ↓

 ECU


 主哉が腕を組む。

「つまり?」


「多分、母親のスマホを踏み台にした。Bluetooth接続からナビに侵入してる」


 隼人は携帯会社のサーバーに侵入し、母親のスマホの通信ログを表示した。


「事故の直前」


 画面を拡大する。

「ここ。何か大きめのデータが流れてる」


 主哉が言う。

「不審な通信か」


「うん。このデータの足跡を追ってみる」


 隼人は通信経路を辿る。


 IPアドレス。

 VPN。

 プロキシ。

 サーバー。


 やがて画面が止まった。


 隼人が呟く。

「到着」


「どこだ」


 隼人が会社名を読み上げる。


 主哉の顔が変わる。

「……親父の会社だ」


 隼人はそのままネットワークへ侵入した。

 社内ログを解析する。

 ユーザーIDの履歴を洗う。


「……いた」


 主哉が覗き込む。

「見つかったのか」


「このID。社内VPNから外部通信してる」


 キーボードを叩く。

 対象端末へアクセス。

 ディレクトリが開く。


 空のフォルダ。

 履歴も削除されている。


 主哉が言う。

「綺麗に掃除してるな」


 隼人は鼻で笑った。

「素人だね」


 ゴミ箱フォルダを開く。

 削除されたファイルの断片。


 隼人の指が止まる。

「……これだ」


 画面にコードの一部が表示される。


 CAN通信パケット。

 ブレーキ制御。

 アクセル信号の書き換え。


 主哉が低く言った。

「事故じゃねぇな」


 隼人が椅子に寄りかかる。

「どんなに綺麗に消したつもりでも」


 モニターを指で叩く。


「素人のやることには、絶対に足跡が残るんだよ」


 隼人は別の画面を開いた。

「次は父親のスマホ」


 主哉が眉を上げる。

「できるのか?」


「簡単」


 通信キャリア網に侵入する。


 端末IDを特定。

 接続。


 GPSが表示される。


「家にいるね。動いてない」

 隼人が笑う。

「使用状態でもない」


 主哉

「つまり?」


「盗み聞きし放題」


 隼人は遠隔コマンドを送る。


 強制通話。

 スピーカー接続。


 数秒後。

 パソコンのスピーカーから声が流れた。


 女の嬌声。

 男の笑い声。


 主哉は煙草をくわえる。


 隼人は無言で録音ボタンを押した。


 やがて男の声。

「これで完全だろ」


 女が笑う。

「あんな事故、誰も疑わないわよ」


 男。

「ログも全部消した。車のコンピューターなんて警察には分かるわけない」


 主哉の目が細くなる。


 女の声。

「奥さん、かわいそうね」


 男が笑う。

「仕方ないだろ。お前と結婚するには邪魔だったんだから」


 沈黙。


 録音停止。


 隼人が椅子を回す。

「証拠、取れた」


 主哉が頷く。

「愛人も共犯だな」


「うん」


 主哉が煙を吐く。


「それじゃあ」

 静かに言う。

「神威を執行しねぇとな」


 少し間。


 隼人が言った。

「今回の仕事」


 主哉を見る。

「僕にやらせてくれない?」


「理由は」


 隼人がモニターを指す。

「このプロぶってる素人にさ」


 静かに笑う。


「本当のプロの仕事っていうのを教えてやらないと」


   ◇


 闇夜に紛れて、凛のドローンが飛行していた。

 目標は例の大手IT会社。


 その上空であるものを待っていた。


「あれかな?」


 地下駐車場から出てくる1台の車。

 それに向かってカメラをズームする。


「確認したよ。助手席に愛人も一緒」


 スマホから聞こえる声に隼人は一言。


「さあ、始めようか」


 黒い乗用車がゆっくりと道路を走っていた。

 ハンドルを握る父親の顔は、青ざめている。


「ハンドルが……動かない」


 アクセルもブレーキも反応しない。


 ドアを開けようとする。

 開かない。


「ロックされてる……!」


 助手席の女が叫ぶ。


「スマホも……!電波がない!」


 車内のナビ画面には、見慣れない映像が映っていた。


 上空からの映像。


 道路。

 車。


――ドローン映像だ。


 凛のドローンが、夜空から静かに車を追跡し、ナビが、その映像を頼りに自動で進路を取る。


 車はまっすぐ走り続ける。


 やがて街灯が途切れた。

 目の前に広がる黒い海。


 埠頭。


 そのとき、父親のスマホが鳴った。


 強制通話。


 スピーカーから少年のような声。

「どう?」


 軽い声だった。


「本物のプロの仕事。実感できた?」


「……あんたは誰だ」

 震える声。


「神様の使い、かな」

 隼人はキーボードを叩きながら言う。


「悪いやつを閻魔様のところに案内してくれってさ」


「俺をどうするつもりだ!」


「予定としては」


 隼人は淡々と言う。


「偽装殺人の罪の意識に耐えかねて」


 一拍。


「二人仲良く入水自殺」


 女が叫ぶ。


「ちょっと待って!」


 男も叫ぶ。


「何が目的だ!金か!?金ならいくらでも――」


 隼人は笑う。

「大丈夫、金には困ってない」


 キーボードを叩く。

「銀行のサーバーに侵入すれば、お金なんて取り放題だからね」


 少し間。


「あ、そうそう。会社のパソコンに遺書も残しておいてあげたよ。

 僕って親切でしょ?」


「やめろ!待て!」


 アクセルが踏み込まれる。

 エンジンが唸る。

 タイヤが白煙を上げる。


 車は埠頭へ一直線に突っ込んだ。


「やめろォォォ――!」


 次の瞬間、黒い車体が海へと飛び込む。


 水柱。

 静寂。


 隼人はモニターを閉じた。


「……よし」


 椅子にもたれる。


「神威完了」


   ◇


 父親の勤務先。

 無断欠勤を不審に思った同僚が、父親のパソコンを確認した。


 デスクトップに残されていたのは、遺書。


 会社は警察へ通報した。


 その数時間後。

 警察は埠頭付近の海中から、沈んだ乗用車を発見。


 車内から男女二人の遺体が見つかった。


 死因は溺死。

 警察は、心中の可能性が高いと発表した。


   ◇


 隼人がプリントアウトした紙を数枚、主哉に差し出す。

「これ、警察に渡しといて」


 主哉が紙をめくる。

「なんだこれ」


 ログの断片。

 コード。

 通信経路。


 いくつかの箇所に赤丸が付けられている。


 隼人は椅子を回しながら言った。


「多分さ、見る人が見れば分かるよ。その赤丸の場所。

 母親は事故じゃない」


 少し間。


「殺人事件の被害者だったって」


 主哉が黙って聞く。


「名誉、守れるでしょ」


 隼人は肩をすくめる。

「父親の方は……自業自得だけど」


 主哉は紙を折りたたむ。

「分かった」


 ポケットに入れる。


「恩に着るぜ」


   ◇


 数日後。

 葵が転校するという話を聞いた。

 母方の祖父母に引き取られるらしい。


 放課後の校門。


 葵が帰ろうとしたとき、背後から声がした。


「葵くん」


 振り向くと、凛が立っていた。


 凛はポケットから財布を取り出す。

「これ」


 葵の前に差し出したのは、見覚えのある財布だった。

 神社の賽銭箱に投げ入れたはずのもの。


 葵は目を見開く。


 凛は軽く肩をすくめた。


「神様からの伝言。中身はもらったから、そっちは返すって」


 少しだけ間。


「あと、頼まれたことはやっといたよって」


 葵はしばらく黙っていた。

 そして、ゆっくり息を吐く。


 そうか。

 あの都市伝説って——


 凛は財布を差し出したまま、少しだけ目を逸らした


 葵は何も言わず、財布を受け取った。

 そして凛を見る。


「……ありがとう」


 凛は小さく笑った。

「どういたしまして」


 少し沈黙が流れる。

 凛が聞いた。


「転校するんだって?」


「うん」

 葵はうなずく。

「しばらく、おばあちゃんのところにいるつもり」


「そっか」


 葵は少し考えてから言った。

「ねえ、また会えるかな」


 凛は少し困ったように笑う。

「うーん……それは分からないな。でもね」


 そう言って葵の肩を軽く叩く。


「生きていれば、いつか会えるよ」


 風が吹いた。

 凛は続ける。


「元気で生きなよ。それが死んだ人に対する、一番の供養なんだからさ」


 少しだけ笑って言う。

「お母さんに、くしゃくしゃな顔見せんな」


 葵はうなずいた。


「うん、ありがとう」


 葵は歩き出す。

 その背中を、凛はしばらく見送っていた。


 春の風が、校門を通り抜ける。

 そこに、線香の香りはもうなかった。


   ◇


 部室。旧校舎の窓から、校門が見える。

 葵が去っていく背中を、凛が見送っていた。


 そんな姿を志乃が腕を組みながら見つめていた。

 しばらくして、志乃がくすりと笑った。


「アオハルね〜」


 咲は振り向く。

「なにそれ」


「青春ってこと」

 志乃は肩をすくめる。


「若いっていいわね」


「なんか、久しぶりに、おばあちゃんに会いたくなっちゃったな」


 志乃が少し驚く。

「急にどうしたの?」


「わかんない」

 咲は笑った。

「でも元気かなって」


 スマホを取り出す。

「電話してみよ」


 呼び出し音。

 数回のコールのあと、繋がった。


「もしもし?」

 咲の声が明るくなる。

「おばあちゃん?久しぶり。咲だよ」


 他愛のない会話が続く。


 体のこと。

 田舎のこと。

 畑のこと。


 そして咲が言った。


「ねえ、しばらくぶりに会いたくなっちゃった。今度、そっち行ってもいい?」


 少し沈黙。


 電話の向こうで、おばあちゃんの声が低くなった。

「……来るな」


 咲がきょとんとする。

「え?」


「お前たちを」


 おばあちゃんが言う。

「人殺しにしたくない」


 その言葉と同時に、電話が切れた。


 部室が静まり返る。

 咲はスマホを見つめたまま動かない。

 表情がゆっくり曇っていく。


 そのとき。


 ガラッと扉が開いた。


 凛が戻ってきた。


「咲?」

 様子を見て首を傾げる。

「どうしたの?」


 咲はゆっくり顔を上げた。

 少しだけ震える声。


「……お姉ちゃん」


 凛が近づく。

「なに」


 咲は静かに言った。

「たぶん」


 少し間。


「お母さん、出所したんだと思う」


 凛の表情が止まる。


 咲は続ける。

「おばあちゃん。引き取ったんだよ」


 部室の窓から、春の光が差し込んでいた。

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