第十三話 矜持、鞘に収めて。線引きの向こう側
空が、いつもより高く見えた。
主哉はハッカ棒を咥えながら、境内の真ん中でぼんやりと空を仰いでいた。桜の残花が、ひとひら、ふたひらと枝を離れ、風に乗って足元へ落ちていく。
「今日は彼女さんは一緒じゃないんですか?」
いつものように、神主がからかうような笑みを浮かべながら声を掛けてきた。
「彼女じゃねぇよ、ただの同僚だ。志乃とマサのやつだろ、そんな馬鹿言ってんのは」
「よくご存じで」
軽口を返しながら、神主は竹箒を動かし、花弁を集めていく。
「家族なんざ持てる立場じゃねぇっての。もし仕事でしくじって、手ぇ後ろに回されるような時が来たら……そんなの、巻き込むわけにゃいかねぇだろ」
「でも、そろそろいいんじゃないですか。あなたも三十年、神の意の下に働き続けてきた。辞めても、誰も文句は言いませんよ」
「冗談じゃねぇ、生涯現役よ。……まぁ、黒江かイーストが隠居するってんなら考えるけどな。若い連中には関わらせたくねぇ世界だ。老骨に鞭打って動くほうが性に合ってんだよ」
境内に、春の終わりを告げるような静かな風が通り抜けた。
「そういや今日から新学期だっけな。あの二人、言ってたか」
「ええ、高校三年ですね」
「卒業したら、どうするつもりなんだろうな」
「大学でドローン研究を続けるそうですよ。まあ、今でも高校生社長ですからね。環境は変わっても、やること自体は大して変わらないんじゃないですか?」
「そうかよ」
主哉は空を一度見上げ、吐いた息とともにハッカの香りを漂わせた。
「……そろそろ仕事に戻るぜ」
そう言って、鳥居へ向かいかけたところで、主哉はふと立ち止まる。
「世は事もなし──まごうことなく、それでも世界は回り続ける、か……」
「詩人ですね。哲学ですか?」
「いや、俺たち人間が悩もうがどうしようが、神様にはたいした関係ねぇ、ちっぽけな話なんだろってことさ」
「心理ですね、それとも年の功でしょうか」
「後者だよ」
主哉は後ろ手に手を振って境内をあとにした。
背中越しに、桜の花片がひとつ、静かに舞い落ちた。
ーーーーー
「今日はあの野郎、来やがらねぇな。昨日、からかいすぎたか……」
マサは鉄板の上でたこ焼きを器用に返しながら、そんなことをぼやいた。
ほぼ皆勤賞みたいな来店率の主哉である。来れば来るで鬱陶しい。だが、来なければ来ないで胸のどこかがざわつく。
「キッチンカーに冷蔵庫積んでからメニューも増やしたってのによ。新商品の味見くらいしに来いってんだ」
新たこ焼きメニューの黒板には、マサ渾身の二品が並ぶ。
・ごま油香る九条ねぎ塩だれたこ焼き
・チーズフォンデュ風、背徳のたこ焼き
「……でも駄目か。あいつ舌は猫舌だ。
どっちも熱々じゃねぇと美味くねぇのにな」
マサが苦笑しながら返していると、カウンターの脇の方から声がかかった。
「マサ、その“ごま油香る”ってやつ、一つもらえるかい」
「おっ……勇次の旦那。珍しいねぇ。ってか、初めてじゃねぇか?」
「そうかもしれねぇな」
鉄板の上でカリッと焼けたたこ焼きを返すと、ごま油がジュッと弾け、香ばしい匂いがふわりと立つ。
ソースの代わりに九条ねぎ塩だれをとろりとかけ――
「へいお待ち。“ごま油香る九条ねぎ塩だれ”だよ」
「それじゃあ、いただくとしよう」
勇次は出来立てを一つつまむと、熱さに顔をしかめながら口の中で転がした。
「……ほう。なかなかに美味ぇじゃねぇか」
「だろ? 自信作よ。……で、どうした?
なんか考え事の顔だな」
勇次はしばし黙って、たこ焼きを噛みしめたあと、ぽつりと漏らす。
「……本田の旦那のことだよ。あの人ももう三十年だ。裏の仕事を始めてからな。
まあ、俺は出戻りだからそんなに長くねぇが……いい女の話を聞いてよ」
「おう?」
「……もう、そろそろいいんじゃねぇか、って思ってな」
鉄板の油が弾ける音だけが、二人の間をしばし満たした。
やがて、マサが小さく笑いながら言う。
「旦那のことだからよ。“生涯現役”だ、なんて平然と言ってるんだろうぜ。
まあ足洗うって言ったって、文句言う奴もいねぇだろうが……」
マサは返したたこ焼きをじっと見つめた。
「……ああ見えてよ。若い連中がこの世界にいること、多分相当気にしてんだぜ。
⋯…優しいんだよ、あいつ」
「……ああ、らしいな。あの旦那らしい。
辞める時は――死ぬ時か、罪かぶって捕まる時か、なんて考えてるに違いねぇ」
二人は同時に吹き出し、屋台の前にささやかな笑い声が響いた。
春の風が、香ばしいごま油の匂いを遠くへ運んでいった。
ーーーーー
放課後のドローン部の部室は、いつも通り散らかっていた。
工具は机の上に散乱し、半分組みかけのフレームが箱の中から覗いている。
窓の外から差し込む柔らかな春の光が、部室の空気をゆっくりと温めていた。
「始まったね、新学期」
咲が書類を束ねながら、ぽつりとつぶやいた。
「新学期というより……新学年、じゃない?」
志乃はおいしい棒を齧りながら、冷めた目で返す。
凛はというと、ドライバーを回しながら志乃の顔をじっと見つめた。
「ってことはさ、志乃――またひとつ歳を取るってわけだ」
志乃は手を止め、眉をひそめた。
「何か言いたいことがあるなら聞くけど?」
「べっつに? ただ、志乃ってこの学校入れて……何回目の卒業になるのかなって思っただけ」
「大丈夫。卒業の前にはちゃんと“消える”手はずになってるから」
「え〜、それはちょっと寂しいよ」
咲は少しだけ唇を尖らせた。
「せっかく仲良くなれたのに」
「何か勘違いしてない?
名目上、学校を離れるだけで、この街からいなくなるわけじゃないわよ。
神社にも顔出すし。前に言ったでしょ――あなたたちとの“繋ぎ”が、私の任務だって」
「ふーん……それだけじゃないよね」
凛が、にへっと笑った。あの、厄介な時の笑い方だ。
「なにがよ」
「志乃さ、本田のおじさんのこと好きでしょ」
「……はあっ!? なんでいきなりそうなるのよ!」
「だってこないだ学校休んだ時、スーツ着てさ。公園で“おじさんとデート”してたじゃない。
あの時、好きな人を見る顔してたよ?」
「ああ……あれね。あれは――ただの昔話よ。
“恨みの神社”を主哉と勇次さんと黒江さんで始めた頃の話。もう三十年前なんですって……」
志乃は机に視線を落とした。
その瞳の奥に、少しだけ、遠い色が宿る。
「……で、見てたのなら声ぐらいかけなさいよね」
「見てたのは目じゃなくて、ドローンのカメラです〜。ドローンは話せませ〜ん」
凛はすっとぼけた顔で笑う。
「それよりさ。なんで、本田のおじさんだけ“さん”付けしないの?やっぱり特別に思ってるからじゃない?」
「そんなの言ったら、マサだって“さん”付けしてないじゃない。なんとなくよ、なんとなく」
「“なんとなく”で距離を詰められる相手ってさ――普通、好きになるよね?」
「いい加減にしなさいよ。
何がなんでも私と主哉をくっつけたいの?」
「いやぁ〜? 本田のおじさんにも“いい人”ができたって聞いたからさ。三角関係も面白いかな〜って」
「そんなこと、絶対にあり得ません」
志乃は即答した。
その声には迷いがなかった。
(……私が主哉に向けている感情は、きっと恋なんかじゃない)
恨討人に加わって知った。
人の狂気は――想像以上に深い。
恨みは簡単に消えるもんじゃない。
(主哉は、それを三十年も受け止め続けてきたんだ。
もし凛の言う通りだとして……そんな想い、どうやって受け止めればいいっていうのよ。
……私にはちょっと、荷が重すぎるわ)
「ねぇ、志乃。もしかして本当におじさんのこと考えてた?」
凛がニヤニヤしながら覗き込む。
「……あんたね。いい加減にしないと――殺るわよ」
「面白い。うちのドローンの性能と操縦テク、なめんなよ?」
二人が睨み合う。
だが、その空気はどこか温かく、喧嘩のようで喧嘩じゃない。
咲はそんな二人を眺めながら、ふっと笑った。
(……この二人、やっぱり似てるんだよね)
窓から差し込む夕日が、部室を茜色に染めていく。
彼女たちの、最後の高校生活の一年が――穏やかに、ゆっくりと動き出していた。
ーーーーー
その夜、下北の小さなライブハウスは、まるで秘密を抱えた夜の宝石のように光っていた。
照明は最低限。
アンプの熱と、わずかなアルコールの香り。
狭いステージに、アコースティックギターを肩から下げた水島セナが立つ。
華やかなステージ衣装ではない。
Tシャツにジーンズ――ただ歌うためだけの姿。
その姿を、観客席の後ろで隼人が静かに見守っていた。
水島セナ。
かつて本田主哉がしくじり、殺しの現場を見てしまった少女。
本来ならば、恨討人の掟では“処分”されるはずの存在。
だが主哉は彼女を救い、仲間に迎え入れ、その命を背負う道を選んだ。
――あれから何年が経ったのか。
セナはもう成人し、自分の意思で“裏”の世界に残ることを決めている。
「……それでもおじさん、いまだに気にしてるっぽいんだよな」
隼人がつぶやくと、その声を拾ったかのように、ふいに隣へ影が立った。
「そりゃ、気にするでしょうね。本田さんは」
黒いキャップとマスク。
ライブの暗がりでも浮かない、どこにでもいそうな青年――
だがその実態は、有名U-Tuber「覆面くん」。
そして、水島セナの専属マネージャー・六百田信行。
恨討人にして黒江の“働き蜂”のひとり。
「僕としても、本田さんには感謝してるんですよ。
あの時、セナさんの命を守ってくれた。それに……僕を監視役として彼女のそばに置いてくれた黒江さんにも」
「……恩義ってやつ?」
「まぁ、そんな大層な言葉でもないですが。
心配かけたくないから努力してきましたよ。
事務所との折衝も、メディアの調整も、全部全部。
セナさんを、表の世界で生かすために」
六百田は少しだけ肩をすくめる。
「でも、あの人たちから見れば、僕たちなんていつまでたっても子供ですからね。そりゃ気苦労も絶えないでしょう」
「それはわかる。あの二人、いかにも昭和って感じだしさ。
若いもんは自分の背中見て育てばいい、ってやつだ」
隼人は苦笑する。
「でもさ……」
「?」
「若い世代がこの世界にいること自体、すげぇ気にしてるっぽいんだよね。
万が一があれば“自分が被る”って本気で思ってる。
あの自己犠牲、今の時代流行んないっしょ」
「そうですね。でも――」
六百田は目を細め、ステージを見る。
「それが、本田さんたちの“生き方”なんですよね」
セナの歌声が、ふっと落ち着いた静寂の中に溶ける。
曲が終わり、セナが観客に向かって手を振った。
「みんな〜、ありがとう〜!」
弾むような声。
その裏にある“覚悟”を知っているのは、ごく一握りだ。
「取りあえずさ」
隼人が軽く手を挙げる。
「表の仕事が忙しすぎて、裏に手がまわらないくらいになってみなよ。
そうすれば……何かが変わるかもよ?」
「……あなたは?」
六百田が聞く。
「俺?」
隼人は、軽く笑って背を向ける。
「俺は生まれた時から裏の人間だからさ、師匠を継いで四代目になるつもり。
裏の生まれは、裏で終わるのが一番性に合ってるよ」
ライブハウスの扉を押し、夜風が隼人の頬を撫でた。
(――裏から生まれた人間は、裏にいればいい。
でも……表の人間は、いつか陽の当たる場所に戻るべきだ)
その思いを胸にしまい、隼人は夜の街へ歩き出した。
ーーーーー
占いの館『SERAPHIM』は、放課後の女子高生たちが噂を頼りに足を運ぶ小さな店だ。
“よく当たる”という口コミは街に広がり、恋愛運から進路相談まで客足は尽きない。
しかし店主の本性を知る者は、ごくわずかだった。
銀髪ロングに雪のように白い肌。
銀色の和装をまとったその姿は、まるで冬の山奥に棲む雪女――
彼女こそ、教会の聖列筆頭セラフィム。
神社の恨討人とはまた違う、
神の威によって人の恨みを晴らす組織“教会”の“聖列”。
占い師は表の顔にすぎない。
裏では“神の教義に基づき、咎人へ断罪を下す神の代理人”として、数え切れない罪を裁いてきた。
鋭利に研いだステンレス製タロットカードは、投擲武器であり、近接戦の刃でもある。その美しさとは裏腹に、彼女の手に渡った瞬間、それは確実な死を運ぶ道具へと変わる。
その相棒――最上ルナ。
表の顔は私立探偵であり、裏のもう一つの顔は聖列、次席ジャスティス。
ニューヨークのスラム街育ち。
賞金稼ぎの男に拾われ、銃とナイフの使い方を叩き込まれ、日本へ渡り、用心棒として荒事をこなしてきた女。
信奉する神は違えど、“悪を許せない心”は同じ。
聖列と恨討人は、幾度となく肩を並べた歴史を持つ。
――その日の夕刻。
17時を告げる鐘が、街に静かに響いた。
「セラ、今日はそろそろ終わり?」
ルナが扉から顔を覗かせる。
「終わりなら晩ご飯でも食べに行こうよ」
「そうね。今日はもうお客さんも来ないみたい。早いけど店じまいにしようかしら。
……ルナ、入り口の看板返してきてくれる?」
「OK」
ルナが店先に向かおうとした、その瞬間だった。
「失礼……仕事を頼みたいのだが」
店の前に、一人の男が立っていた。
スーツ姿に疲れの滲む目。
一般客の“相談”に来た者とは明らかに違う。
「お客さん、今日はもう店じまいで……」
「頼みたいのは――裏の仕事なのだが」
ルナの目つきが変わった。
私立探偵の柔らかい表情が、ジャスティスの鋭い眼光へと切り替わる。
「……どうぞ奥へ」
男はカーテンの向こう、薄暗い奥の間に通される。
向かいに座るのは、微動だにせず男を見据えるセラフィム。
「本来なら教会へ伺うのが筋なのでしょうが……急ぎの用件でして。
失礼は勘弁ください」
男はテーブルに、厚く膨らんだ封筒を置いた。
「この街に、“一人の殺し屋”が入っています。
そいつは、任務のためなら他の犠牲を一切問わない。
その封筒は……奴の仕事に巻き込まれて死んでいった、罪なき者たちの遺族が流した涙が染み込んでいます」
言葉を絞るように、男は続ける。
「……何事もなく仕事を済ませられたなら、この封筒は取りに戻るつもりです。
ですが私の腕では、おそらく返り討ちにあうでしょう。
万が一の時には……お願いします。これ以上、封筒の厚みを増やさないためにも」
セラフィムは静かにうなずき、封筒に指を添える。
「わかりました。一応、お預かりいたしましょう。
……ただし、この中から“神への寄進”を少々いただいてもよろしいかしら?」
「かまいません。……では、これで。長居して狙われても困るので」
男は深く頭を下げ、足早に去っていった。
セラフィムは封筒を開き、中の書類を一枚取り出す。
その内容にさっと目を通すとジャスティスに渡す。
書類を受け取ったジャスティス。
彼女はそこに記された名前を見て、眉をわずかに動かした。
「……ファントム・グール。よりにもよって……」
隣で覗き込んだセラフィムが低く息を吐く。
「知っているの?」
というセラフィムにジャスティスが、
「ニューヨークにいた頃、噂だけ聞いたよ。
最上階のVIPを殺すために、ビル一棟犠牲にするような奴だって」
「なるほどね。確かに、現場に乗り込むよりは確実でしょうけど......
それだけの“涙”が、この封筒に染みているわけね」
セラフィムは納得したように封筒を戻し、静かに立ち上がった。
「悪いけれど、ルナ。夕食は中止ね。
……さっそく裏取りをお願い」
「了解。……ハードな夜になりそうだな。
できれば、この国で不必要な血を流させたくないからね」
ジャスティスは黒いライダースジャケットを羽織り、外へ出ていく。
直後、店の前でバイクのエンジンが吠え、その音は遠ざかっていった。
静けさが戻った占いの館。
セラフィムはそっと瞳を閉じ、銀色のタロットカードに指先を滑らせた。
ーーーーー
同じ頃。
夕暮れの色が境内を静かに染め始めた占見野神社に、一人の男が姿を現した。
黒いコート。
サングラス。
無駄な動作ひとつなく歩くその姿は、“一般の参拝客”という言葉から、最も遠い。
男は鳥居をくぐると、境内を一瞥し、誰とも目を合わせぬまま賽銭箱の前に立った。
――そして。
何も言わず、分厚い封筒をそっと置く。
ただそれだけの動作を終えると、踵を返し、足音もなく神社を離れた。
境内の静寂に、風が一筋走った。
その様子を、神社の奥にある監視モニターの前で隼人が見ていた。
「……出たよ、ああいうの。黒コートにサングラスとか、逆に目立つでしょ」
隼人は軽口を叩きながらも、指先はすでに画面操作へ移っている。
画面上のひとつのアイコンをクリック。
『世界の殺し屋データベース』
イーストが構築し、常時アップデートされ続けている“裏の世界の総合索引”。
隼人は、男の映像を解析モードに放り込んだ。
「さてさて……一般人じゃない気しかしないんだよなぁ……」
数秒後、画面の右上に一致率98%の検索結果が跳ね上がった。
「ほら、ビンゴ。ディビジョン・ランス……ね。
――って、おいおい。“殺し屋が殺し屋に依頼”って、世も末だよ」
隼人の眉がわずかに動いた。
一方、境内では神主が封筒を拾い上げ、中身を確かめていた。
厚みがある⋯⋯重さがある⋯⋯
そして⋯⋯恨みの匂いがする。
「これは……」
神主は書類を一枚取り出し、目を通した。
「……ファントム・グール」
その名前を口にした瞬間、境内の空気がわずかに震えたように思えた。
「嫌な予感がします……隼人くん、すぐに皆につなぎを。“神の社”へ報せを」
「了解っと」
数分後。『神の社』アプリの通知。
恨討人全員のスマホが、同時に震えた。
ーーーーー
同日、成田国際空港。
夕刻の国際線ロビーは、ガラス越しに差し込む橙色の光が、長旅を終えた乗客たちの影を長く伸ばしていた。
香港からの直行便がゲートに横付けされ、
次々と乗客がタラップを降りていく。
その列の中に――ひときわ目を引く姿があった。
黒のパンツスーツ。
風に揺れる、腰まで届く漆黒のロングヘア。
長い脚で階段を下りるたびに、ヒールが金属板を叩く乾いた音が響く。
彼女は歩きながら、かすかに微笑む。
「……みんな、元気にしてるかしら」
菊花。
香港の華僑の影の大ボス“老龍”からの密命を受け、再びこの国へ降り立った。
目的は――ファントム・グール。
世界各地で「死を撒く影」と恐れられた殺し屋の動向を追うため、そして――
(……恨討人たちにも、借りを返さなくちゃね)
空港の喧騒の中で、彼女はひとり静かに目を閉じた。
過去に自分がこの国で犯した過ち。
その時、命を拾われたことで生まれた、消えない“負債”。彼らはそれを気にしないと言ったが、菊花にとっては違う。
あの優しさに甘えたまま立ち去るほど、彼女の生き方は甘くなかった。
(返すべきものは、返す。それが、私の“流儀”)
スーツケースも持たず、彼女は迷いなく歩き出す。
老龍の代理人――菊花が動いたことで、
街の“裏の気配”が、かすかに軋みをあげた。
ーーーーー
翌日、午後
「ちょっとパトロールに行ってくる」
そう告げて、主哉は署をあとにした。
直接神社へ向かうつもりだったが、途中でマサの屋台に寄って、たこ焼きでも腹に入れていくのも悪くない。
そう考えながら、繁華街へ足を向ける。
夕刻の人混み。
仕事帰りの会社員、買い物袋を提げた主婦、笑い声をあげる若者たち。
平和そのものの光景だ。
――だが。
その流れの中で、主哉はふと、違和感を覚えた。
(……なんだ、あいつ)
向こうから歩いてくる、一人の男。
外国人――だろう。
だが観光客でも、ビジネスマンでもない。
ましてや、やのつく自由業やマフィアの類とも違う。
(カタギじゃねぇな。だが……同業でもねぇ)
主哉の視線が、ほんの一瞬、男を捉えた。
その刹那。
男の目が、正確に主哉を捉え返した。
(――殺気?)
背筋を、冷たいものが走る。
(……気づきやがった。やりやがる。
こいつ、殺し屋だ。それも……相当な手練だ)
男は、わずかに進路を変えた。
主哉へ向かって歩いてくる。
主哉の内側で、無意識のうちに臨戦態勢が整う。
(とはいえ……こんな人混みで、無茶はしねぇだろ)
互いの距離が縮まる。
その時だった。
「どうかしましたか」
男は、流暢な日本語でそう言った。
主哉は足を止め、胸ポケットから警察手帳を取り出す。
「悪いな。外人が珍しいってわけでもねぇんだが……
ちょっと気になっただけだ。他意はねぇ。
仕事か何かかい?」
「ああ。仕事というほどでもない」
男は穏やかに答える。
「ちょっとした野暮用を頼まれていてね。
この国では……“よろず屋”というのだろう?
何でもやらされる、小間使いのようなものだよ」
「なるほどな。悪かった」
主哉は警察手帳を胸ポケットに戻した。
「一つだけ言っとくぜ。
この辺りは、俺の管轄だ」
男の目を見る。
「面倒な仕事は御免被りたいんでな。
仕事するなら、別の地区でやってくれると助かる」
「……覚えておこう」
男はそれだけ言うと、主哉の横をすり抜け、再び人混みの中へ消えていった。
その背中を、主哉は一瞬だけ目で追う。
(……相当な腕だ。
割に合わねぇ仕事は、確かにご免だな)
主哉は息を吐き、マサのたこ焼き屋へ向かって再び歩き出した。
少し離れた場所から、男は振り返った。
雑踏の向こうを歩く、あの刑事の背中を見つめる。
(……あの男も、カタギではないな)
警察の匂い。
だがそれだけではない。
(それも……相当な腕だ。
この平和な国にも、あのような男がいるとは)
男は静かに人波へと溶けていった。
それが天意か。
それとも運命か。
――神は何を思い、この二人を引き合わせたのか。
答えを知る者は、まだ誰もいない。
占見野神社に主哉が戻った時、すでに顔ぶれは揃っていた。
凛と咲、志乃。
勇次と水島セナ。
境内の奥、簡素な集会所。
それぞれが腰を下ろし、静かな緊張が場を満たしている。
マサの姿はない。
だが、たこ焼き屋の屋台で片耳にイヤホンを突っ込み、この場の会話を聞いているのだろう。
黒江もまた、どこか別の場所から音声だけを拾っているに違いない。
隼人はコンピュータールーム。
タケシは――連絡がつかない。
どこをほっつき歩いているのか、相変わらずだ。
「待たせたな」
主哉の一言で、全員の視線が集まる。
主哉が腰を下ろすのを待ってから、神主が静かに口を開いた。
「昨日、この神社に“五六銭”の依頼がありました」
そう言って、賽銭箱の上に置かれていた分厚い封筒を、皆の前に差し出す。
「内容は――この街に潜入している殺し屋を抹殺するために派遣された、海外の殺し屋からの依頼です」
ざわり、と空気が揺れる。
「自分が返り討ちに遭った場合の、保険のようなものですね」
神主は淡々と続ける。
「初穂料は五百六十万円。
“五六銭”としては十分すぎる額です。
ターゲットは――この男」
次の瞬間、全員のスマホが同時に震えた。
『神の社』アプリ。
画面いっぱいに、一人の男の顔写真が表示される。
「通称――ファントム・グール」
神主の声が低くなる。
「仕事の達成のためであれば、一般人の巻き添えも厭わない。極めて冷酷な殺し屋です」
「……この男、さっき会ったぜ」
主哉の言葉に、全員の視線が一斉に集まった。
「どこでですか?」
「署を出て、ここへ来る途中の繁華街だ。
なんとなく気になってな、職質かけた」
神主がこめかみを押さえる。
「あなたという人は……」
だが主哉は気にした様子もなく、続けた。
「奴はこの国に来た理由を“仕事じゃない”って言ってた。ちょっとした野暮用だとよ。
この辺で仕事して、俺の仕事増やすなって忠告はしといたが……そうか、やっぱり殺し屋だったか」
「彼はこれまでの仕事で、数えきれない“恨みの涙”を生み出しています」
神主が言う。
「遺族からの敵討ちの依頼も相当数でしょう。
もちろん、彼自身にも多額の懸賞金が掛けられています」
主哉はポケットからハッカ棒を一本取り出し、咥えた。
「確かに、凄腕だとは感じた。
だがな……そんな冷酷な印象は受けなかったがね」
ゆっくりと視線を巡らせる。
「どっちにしろ――お前らは関わらないほうがいい。
奴の腕は本物だ。直接見たから分かる。
あれを始末できるとしたら……本社の連中くらいだろう」
「それと……」
神主が静かに言葉を重ねる。
「主哉さん。
あなたしか、ということですか?」
主哉は小さく鼻で笑った。
「買い被るなよ。
俺はただのロートルだぜ」
――その時だった。
「私には、とても“ただの老兵”には見えないのだがな」
場の空気が、ぴたりと凍りつく。
その声のする方へ、全員が振り向いた。
そこに立っていたのは――
数か月前まで、この神社に身を置いていた女。
上下黒のパンツスーツ。
腰まで伸びた、艶やかな黒髪。
「……久しぶりだな、主哉」
菊花。
老龍の使い。
そして、恨討人たちに“借り”を残した女。
彼女は静かに微笑んだ。
「……菊花、どうしてここに」
主哉の問いに、菊花は一歩だけ前へ出た。
「老龍からの密命だ。ファントム・グールの動向を探れ、とな」
静かな声だったが、その言葉の奥には重みがあった。
「奴には、罪のない我が同胞たちが幾人も殺されている。
動向がつかめ次第、老龍直属の“斬部隊”が来日する予定だった」
一瞬、場の空気が張りつめる。
「……だが」
菊花は視線を落とす。
「それは、あなたたちにとって面白くない話だろう」
「そうね」
志乃が腕を組んだ。
「それでなくても、世界中からファントム・グールの首を狙って殺し屋が集まってきてるってのに。
これ以上、組織が介入するのは勘弁してほしいわ」
「あなた方には、返しきれぬ恩がある」
菊花ははっきりと言った。
「そう思って、斬部隊の出国は抑えてある。
……だが、他の組織が差し向けた刺客までは止められなかった。すまない」
「謝ることじゃないよ」
セナが首を振る。
「でもさ……仕事じゃないのに、なんで日本に来たんだろ。その人」
「仕事じゃない?」
菊花の眉がわずかに動く。
「どこから、そんな情報を」
「おじさんが、直接会って話したんだって」
凛があっけらかんと言う。
「繁華街でばったり」
菊花は一瞬、目を閉じた。
「……では、あの噂は本当なのか」
「噂?」
主哉が問い返す。
「ファントム・グールは、日本人だという話だ」
「それはねぇな」
主哉は即答した。
「あの目鼻立ち、瞳の色、髪の色……どう見ても外人だ」
「日系人だよ」
低い声が割って入る。
コンピュータールームから現れた隼人だった。
「日系三世。祖母が日本人」
淡々と続ける。
「僕じゃ無理だったけど、師匠が調べてくれた。
経歴は綺麗に抹消されてたから、相当苦労したってさ」
「……それが、日本で何をしようとしてる」
「そこまでは、まだ分からない」
隼人は肩をすくめる。
「引き続き当たってみるよ」
そう言って、再びコンピュータールームへ引きこもっていった。
主哉は立ち上がり、全員を見回した。
「いいか。
万が一、街でこいつを見つけても――」
一拍、間を置く。
「視線を向けるな。
視線を合わせるな。
殺気を持つな」
低く、はっきりと言う。
「死にたくなけりゃな」
それだけ言い残し、主哉は踵を返した。
「俺は署に戻る」
背中が、夕刻の闇へ溶けていく。
「……となると」
神主がぽつりと言った。
「動向を探れるのは……」
「私たちの出番だね!」
凛と咲が同時に立ち上がる。
「私たちのドローンの“目”からは、誰だって逃げられないよ」
二人は顔を見合わせ、勢いよく神社を飛び出した。
部室という名のラボへ――。
「ちょっと、待ちなさい!今から行ったってもう校門閉まってるわよ」
志乃が慌てて追いかける。
残された境内で、神主が小さく息を吐いた。
「……この中から、人死にだけは出したくありませんね」
「ああ」
勇次が静かにうなずく。
「本当に、そうだな」
誰もが同じ願いを胸に抱きながら――
それでも、避けられない運命が近づいていることを、薄々感じていた。
日は、山際にわずかな残陽を残すのみだった。
ーーーーー
凛と咲の家の一室。
だが、そこは“家”という言葉から想像される空間とは、まるで別物だった。
壁一面に設置された大型モニターが二枚。
その下に並ぶ中型モニターが三枚。
低く唸る水冷タワー型PCが三台並び、そのうち二台にはゲーム用のコントローラーが接続されている。
機械の排熱と、わずかに漂うオゾンの匂い。
「……なに、ここ」
志乃は思わず足を止めた。
「ようこそ、コックピットへ」
凛が、少し誇らしげに言う。
案内されて入ったその部屋は、女子高生の姉妹が暮らす家の一角としては、あまりにも異質だった。
「どっかの国の軍のドローン部隊の作戦室とか……そんな感じね」
「多分、同じくらいのスペックはあると思うよ」
咲がさらりと答える。
「私たちのドローンには、武器も爆弾もついてないけどね」
二人は手慣れた様子でPCの電源を入れ、次々とウィンドウを立ち上げていく。
起動音が重なり、モニターに光が灯った。
「志乃は、そこ座ってて」
促されるまま、志乃は部屋の隅に置かれたソファに腰を下ろした。
「そこの冷蔵庫の中、自由に飲んでいいから」
「お菓子は、その上のラックね」
あまりにも自然な口調に、志乃は苦笑する。
(……やっぱり、普通じゃないわよね。この子たち)
凛と咲は、部屋の角に置かれたスチールラックへ向かい、それぞれケースをひとつずつ取り出した。
中に収められていたのは――ドローン。
以前にも見せてもらったことがある。
光を吸い込むような、漆黒の塗装。
夜間専用のステルス仕様。
「その新型だよ。なんと、三号機」
「そして、私のは四号機」
二人は当たり前のように言いながら、ベランダの戸を開ける。外の夜気が、部屋の中へ流れ込んだ。
ドローンはそれぞれ、専用のドローンポートへとセットされる。
「さて……始めますか」
凛と咲が同時に、画面上のアイコンをクリックした。
大型モニターに映し出されるロゴ。
――R&S Unmanned Aircraft System
二人が、隼人と協力して作り上げた、独自開発のドローン制御システム。画面には、起動ログとともに、リアルタイム映像の待機画面が並び始める。
志乃は、その様子を静かに見つめていた。
(……この子たちは、もう“守られる側”じゃない)
主哉が言っていた言葉が、ふと脳裏をよぎる。
――若い連中には、関わらせたくねぇ世界だ。
だが、その背中を追うように、彼女たちはすでにこの世界の“目”になろうとしている。
静かな電子音が、部屋に満ちる。
「さて……狩りの始まりだよ」
凛が笑みを浮かべ、コントローラーを握り直す。
「私のドローンの“目”から、誰も逃れられないんだから」
一拍早く、凛の三号機が夜空へと飛び立った。
その後を追うように、咲の四号機が滑るように浮上する。
左の中型モニターには三号機のリアルタイム映像。
右には四号機の映像。
上部の大型モニターには、GPSによる位置マーカー、高度、速度、バッテリー残量――
すべてが精密に表示されていた。
中央の中型モニターは二分割。
ドローンのカメラが捉えた人物像を次々と画像処理し、該当人物か否かを高速で照合していく。
「……警視庁も防衛省も顔負けね」
志乃はソファに座り、開けたばかりのスナック菓子を頬張りながら言った。
「ドローンのカメラも性能アップしてるんだよ」
凛が少し誇らしげに言う。
「最大ズーム、二十一・三倍」
「それでこの画質……」
咲が画面を見つめる。
「カメラ自体は市販品だもんね。私たちの技術じゃ、ここまでは作れない」
飛行音は、ほとんど聞こえない。
夜空に溶け込むような静音性。
(……これは、軍事転用しても即戦力ね)
志乃は思う。
今は“目”だが、やりようによっては“矛”にもなり得る。
(この子たちが、道を踏み外さないように……少し、見ておくべきかしら)
――老婆心、か。
いや、私はまだ老婆じゃない。
そんな自嘲が胸をよぎる。
数時間が経過した。画面に表示されるバッテリー残量が、じわじわと赤に近づく。
「そろそろ限界だね」
凛が言う。
「帰還を考えた方がいい」
「うん……戻そうか」
二人が同時にドローンを反転させようとした、その瞬間だった。
中央モニターが、甲高い電子音を鳴らす。
――HIT
「……見つけた!!」
凛が息を呑み、カメラを最大ズームに切り替える。
映し出されたのは――ビルの屋上。
そこに、確かに男がいた。
距離、およそ百メートル。
「目標固定。このまま監視するよ」
「お姉ちゃん」
咲が即座に判断する。
「私のドローン、一旦戻す。バッテリー交換してすぐ向かう。それまで――」
言い終わる前に。
凛のドローン映像が、唐突にブラックアウトした。
「……え?」
凛の指が止まる。
「何が起きたの? 故障じゃない……高度も、モーター回転数も維持してる」
凛は即座に操作を切り替え、
リアルタイムで記録されていた映像をリプレイした。
ブラックアウトした瞬間から、一コマずつ巻き戻す。
「……これ……」
「……狙撃?」
咲の声が、わずかに震える。
「嘘でしょ……百メートル以上離れてる、ステルスドローンよ?」
「それに……破壊してない。カメラだけ……」
志乃の背筋に、冷たいものが走る。
「信じられない……」
「とりあえずドローンは、緊急プログラムで自動帰還するけど……」
「待って」
志乃が、低い声で割って入った。
「凛。ドローンを、すぐ別の場所へ向かわせて……この場所、特定される」
「……ヤバいね」
凛は即座に操作を切り替えた。
「緊急着陸拠点、変更。
神社の近くの……林の中に再設定」
「私のドローンは別なエリア飛んでたから、まだ見つかってないと思う」
咲が言う。
「このまま帰還させるね」
室内に、重い沈黙が落ちる。
ドローン監視ですら――通じない。
「……本物だね」
凛が、ぽつりと呟いた。
「本物の“死線”をくぐり抜けてきた目って……
こんなにも、恐ろしいんだ」
それ以上、誰も何も言わなかった。
モニターの光だけが、静かに部屋を照らしていた。
可視光の九十九・四パーセントを吸収する特殊塗料は、ドローンの機体を夜の闇へと完全に溶け込ませる。
人の目に映る可能性があるとすれば――
わずか十ミリにも満たない、レンズの反射光だけ。
それに気づいたのか。
それとも――
無機質なレンズ越しに注がれる“視線”を、肌で感じ取ったとでもいうのだろうか。
凛のドローンが捉えた最後の映像には、屋上に立つ男が、ほんの一瞬だけこちらを見上げる姿が映っていた。
銃を構える気配もない。
狙いを定めるような、余分な動作もない。
ただ――
“そこにいる”ことを、完全に理解した眼だった。
次の瞬間、映像は途切れた。
◇
本日未明――。
都内数か所で、変死体が発見されました。
いずれも鋭利な刃物による刺創が確認され、被害者はいずれも外国籍の人物と見られることから、警察は外国人組織間のトラブルの可能性も視野に入れ、捜査を進めています。
淡々と読み上げられるニュース原稿。
そこに、犯人の名前はない。
◇
黄色い規制線で仕切られた路地。
湿ったアスファルトに、朝の冷気が残っている。
その中に、本田主哉の姿があった。
「山根さん、ご苦労さんです」
顔見知りの刑事課の刑事に声をかけ、ブルーシートの端を持ち上げ、仏の顔を拝む。
「……違ったか」
「どうした本田。知り合いか?」
「かもしれない、と思いましてね。この辺、不良も多いですが……外人も結構いますから」
主哉はシートを戻し、視線を逸らす。
「でも違いました。しかし……見事な一突きですな。
プロの仕業でしょうか」
「かもしれん。だが、ここから先は刑事課の仕事だ。生活安全課は持ち場に戻れ」
「分かってます。何か思い出しましたら、連絡しますんで」
主哉は軽く手を上げ、現場を離れた。
その視線の先。
路地の外れに、黒塗りの大型バイクが停まっていた。
跨っているのは、一人の女。
最上ルナ。
ヘルメットを脇に抱え、現場をじっと見ている。
「私立探偵さんが、こんなところで何してんだ」
主哉が声をかける。
「野次馬かよ」
「……あの死体」
ルナは視線を切らさず言った。
「数日前に、うちに来た依頼人だよ」
主哉の足が止まる。
「名前はダーフィット・グラッベ。ドイツ人」
主哉は、ゆっくり息を吐いた。
「……お前のとこ。もしかして、ファントム・グール絡みじゃねぇだろうな。
返り討ちに遭ったら頼む、ってやつ」
「……よく分かったね」
「神社にも、同じような依頼が来てる」
主哉は言う。
「もしかしてと思ってな……ってことは、ここじゃない、別の場所の“死体”か」
舌打ちする。
「面倒だが……確認に行ってみるか」
「うちは、これで依頼が正式に受理された」
ルナが言う。
「動き出すよ」
「やめとけ」
主哉は、即座に言った。
「半端な腕じゃ、返り討ちに遭う。奴の腕は……お前さん以上だろうよ」
「……それ、本当?」
「ああ。あの白い嬢ちゃん――セラフィムなら、話は別だがな」
主哉はルナを見る。
「お前さんが、白い嬢ちゃんに勝てねぇなら……
ファントム・グールには、絶対に勝てねぇ」
それだけ言い残し、主哉は後ろ手に手を振って歩き出した。
ルナは、しばらくその背中を見つめていた。
(……見抜かれてたな)
自分が、セラフィムに勝てないこと。そして、実力差を正確に測れる主哉の眼。
(実力を見抜く目は、確かってことか)
ふと、視線をブルーシートへ戻す。
(……依頼料を突き返す相手が、もうこの下にいるってのは……どうしたもんかな)
ルナはヘルメットを被り、バイクのエンジンを唸らせた。
排気音が、朝の街に溶けていく。
◇
次の殺人事件現場は、1キロほど離れたビルの路地裏。そこに張られた規制線が、街の喧騒さと静けさを切り分けていた。
主哉は無言でしゃがみ込み、
ブルーシートの端を掴む。
捲った先にあった仏の顔を見た瞬間、主哉は、ほんの一瞬だけ視線を細めた。
(……やっぱりな)
そこに横たわっていたのは、賽銭箱の上に、あの封筒を置いていった男。
(こいつも……返り討ちに遭ったか)
主哉は何も言わず、シートを元に戻した。
「どうした、本田。知り合いか?」
背後から、刑事課の刑事が声をかける。
「知り合いってほどのもんじゃありません」
主哉は淡々と答えた。
「神社に参拝に来てた時に、少し世間話をしただけです」
「神社?」
刑事は眉をひそめる。
「またサボってたのか?」
「いえ、知らなかったんですか?」
主哉は肩をすくめる。
「俺、結構熱心な神道の信者なんですよ」
「冗談は顔だけにしてくれんか」
「いえ、本当に神社で話したんですよ」
主哉は一拍置いて続けた。
「確か……ロシア人だったはずです。
名前は、パタノフとかって言ってました」
「分かった」
刑事は頷く。
「身元照合に回してみる。ご苦労だったな。あとは持ち場に戻れ」
「了解です」
主哉は軽く頭を下げ、現場を離れた。
人目の届かない場所で立ち止まり、主哉はスマートフォンを取り出す。
『神の社』アプリを起動。
短いメッセージを打ち込む。
ー依頼者死亡を確認。対象に返り討ちに合うー
送信。
しばらくしてスマホ画面に通知。
『神意を発動する』
「……ったく」
主哉は、膨らんだブルーシートに向かって手を合わせた。
「自分の力も、相手の技量も見抜けねぇで首突っ込むから、返り討ちに遭うんだよ。
……面倒な仕事にしやがって」
短く息を吐き、ハッカ棒を咥えたまま見上げた空は、何事もなかったかのように澄んでいた。
「仕事になっちまった以上、やらなきゃなんねぇ」
独り言のように呟く。
「……遺書でも書いとくか?
いや、それじゃ“生きる覚悟”が消えちまうな」
主哉は腰の警棒に手をやった。
馴染んだ重さ。
だが――。
「今回は、突くだけじゃ分が悪いかもしれねぇな」
苦笑する。
「……日本刀が欲しいぜ」
主哉は踵を返した。
向かう先は、署とは反対方向。
(そういや、昔見た映画にこんなセリフがあったな。
選択は二つ、必死に生きるか、必死に死ぬか。
惰性で生きてはいるが、惰性で死ぬつもりはねぇ。
最後まであがいてみるかよ⋯)
朝の街を背に、
老兵は静かに歩き出す。
――まだ、死ぬつもりはない。
生きて帰る覚悟だけを携えて。
◇
「……そう。あの人が、そんなことを」
ステンドグラス越しの光が、礼拝堂の奥を淡く照らしていた。
色彩は静かに揺れ、床に長い影を落とす。
その光の中で、二人の女は言葉を交わしていた。
最上ルナ。
聖列――序列次席。
「おじさんの“見る目”は本物だと思う」
ルナは静かに言った。
「だからこそ、ワタシに“手を引け”と言ったんだ」
その言葉を聞き、彼女はゆっくりと視線を上げる。
聖列筆頭――セラフィム。
白を基調とした和装。
銀色の長い髪を、一本のリボンでまとめた後ろ姿。
その佇まいは、祈りを捧げる巫女のようでもあり――
同時に、断罪を下す処刑人のようでもあった。
彼女は壁に掲げられた十字架を見上げる。
その実力は、見た目からは想像できない。
鋭利に磨き上げられたステンレス製のタロットカードを手にした彼女は、この教会で、誰よりも強く、誰よりも残忍だ。
聖列筆頭という肩書は、
その頭脳だけで築き上げられたものではない。
沈黙ののち、セラは静かに言った。
「……いいわ。私が出ます」
ルナが目を細める。
「他の者たちには――手出し無用と伝えて」
「……分かった。伝えとくよ」
短いやり取り。
だが、そこには聖列の総意にも等しい重みがあった。
「それと――」
セラは振り返らずに続ける。
「つなぎを取ってくれないかしら、共闘の提案を」
「……正気?」
ルナは思わず問い返す。
「生き残るために」
セラの声は、揺るがなかった。
「より確実な選択をしただけよ」
「……了解」
ルナは息を吐く。
「話してみる」
そう言って、礼拝堂を後にした。
残されたセラの背に、
ステンドグラスの光が降り注ぐ。
白い着物と銀髪が、七色に染まり、
一瞬、聖像のように見えた。
セラは静かに膝を折り、祈りを捧げる。
「神の権威と、神の意志」
低く、確かな声。
「信じる神も、教えも違えど――同じ志のもとに、罪を滅っします」
その瞬間。
十字架が、わずかに光を返した。
それが偶然か、
それとも――神の応えだったのか。
誰にも、分からない。
ただ一つ確かなのは。
教会は、動いた。
◇
「……うわーん。
予想はしてたけど、やっぱりだー……」
神社の裏手。
薄暗い林の中で、凛が天を仰いで嘆いた。
視線の先。
高い木の上、枝に引っかかるようにして、三号機は沈黙している。
可視光のほとんどを吸収する黒い塗料。
夜に溶けるはずの機体は、日中では逆に異様な存在感を放っていた。
まるで――
木の枝の先に、異空への穴が穿たれているかのような光景。
「どれ……私が取ってこよう」
そう言って、菊花が躊躇なく木に手をかけた。
無駄のない動きで、枝から枝へと身体を運んでいく。
「……さすがだね」
遠目に見ながら、咲がぽつりと呟く。
「見た目より、結構重いからねー! 気をつけて!」
凛が下から叫んだ、その時だった。
――パキッ。
乾いた音。
踏み折られた枝の音が、林に不自然に響いた。
全員が、反射的に振り向く。
そこにいたのは――
「……ファントム・グール」
凛の喉から、名前が零れた。
咲は息を呑み、腰が抜けたようにその場に立ち尽くす。
菊花は、すでに頭上でナイフを構えていた。
同時に、いつの間にか背後に回り込んでいた志乃が、カッターと三角定規を手に、男を睨み据える。
だが。
ファントム・グールは、微動だにしなかった。
「安心しろ」
低く、落ち着いた声。
「私はこの国では、事を起こさないと決めている。
……降りかかる火の粉は払うがね」
彼はゆっくりとポケットに手を入れ、一枚の紙を取り出す。
それを、凛へと差し出した。
「この紙を、あの刑事に渡してくれ。“今夜、そこで待つ”と」
一瞬の沈黙。
「それと――この国で、私のすべきことはもう終わった。そうも、付け加えておいてくれ」
そう言い残し、彼は向きを変えた。
志乃の方へと、静かに歩み寄る。
「……そうだ、お嬢さん方」
足を止め、振り返る。
「一つ、忠告だ」
志乃の肩に、そっと手を置いた。
その重みだけで、志乃の身体が強張る。
「死線を潜り抜けてきた私のような人種はね、それがレンズ越しの“意識”であっても、読み取れるものなんだよ」
淡々とした声。
「それが、殺意かどうかもね」
志乃は、息をすることさえ忘れていた。
「ドローンを方向転換させた判断は、悪くなかった。だが……あんな直線的な帰還軌道ではダメだ」
視線だけで、林の奥を示す。
「大きく弧を描くか、ブーメランのような不規則な軌道を取らなければ――
こうして、場所を特定されてしまう」
肩から手を離す。
それ以上、何も言わず、ファントム・グールは志乃の横をすり抜けていった。
気配が、林に溶ける。
完全に――消えた。
◇
その場に残された沈黙。
志乃は、まるで糸が切れたように、その場に座り込んだ。
「……分かったわ」
震える声で、呟く。
「主哉が……“手出しするな”って言ってた意味」
ファントムグールが消えた先を見つめる。
「彼は……ファントム・グールは、私たちとは違う次元に住んでいるんだ」
誰も、否定できなかった。
吹き抜ける風が、枝を揺らす。
その音だけが、彼が確かにそこに“いた”ことを、かろうじて証明していた。
◇
主哉のスマホが震えた。
画面に浮かび上がる、『神の社』の通知。
《神社にファントム・グール出現》
「……はあっ!?」
思わず声が漏れる。
「冗談じゃねぇぞ……!」
踵を返し、神社へ向かって走り出そうとした、その瞬間。
――エンジン音。
耳を裂くような低音とともに、黒塗りの大型バイクが主哉の横に滑り込んできた。
跨っているのは、最上ルナ。
「どうしたの、そんなに慌てて」
「ちょうどいい!」
主哉は即答した。
「神社まで乗せてけ。急ぎだ。ファントム・グールが……来やがった」
一瞬の沈黙。
ルナは、ためらいもなく頷く。
「……OK」
主哉が飛び乗る。
次の瞬間、バイクは路面を蹴って弾け出した。
信号も、交通も、すべて置き去りにして。
神社へ。
――間に合え。
主哉は、背中越しの風を受けながら、
ただそれだけを祈っていた。
「無事かッ!!」
社務所の戸が勢いよく開き、主哉が飛び込んできた。
だが――。
そこにあったのは、血の匂いでも、破壊の痕でもない。
こたつの前で、みかんの皮を丁寧に剥いている志乃。
饅頭を頬張りながら、仲良く並んで座る凛と咲。
奥からは、湯気の立つ急須と湯呑みを持った菊花が現れた。
完全に――平常運転だった。
「……あん?」
主哉は周囲を見回す。
「ファントム・グールはどうした」
「え?」
凛が口の端についた餡を拭きながら首を傾げる。
「帰ったけど」
「……は?」
「だから、帰ったよ?」
主哉は一瞬、言葉を失った。
「……こっちはな」
額を押さえる。
「もしかしたら全滅してんじゃねぇかって、命懸けで飛ばして来たってのによ……」
志乃が、みかんを置いて凛を睨む。
「……あんた。なんて連絡したのよ」
「えっ?」
凛はスマホを取り出し、画面を見せる。
「“神社にファントム・グール出現”って」
「……もっと、他に書きようがあるでしょうが」
「え〜? 事実だよ?」
主哉は、その場にどさりと座り込んだ。
「……心臓に悪ぃ……」
湯呑みを差し出す菊花が、少しだけ口元を緩める。
「お茶、どうぞ……無事で何よりでした」
主哉はそれを受け取り、深く息を吐いた。
「ったく……生きた心地がしねぇ夜だぜ」
こたつの上で、みかんの皮がくるりと丸まる。
境内を抜ける静かな風は、
――まるで嵐の前の、束の間の静けさのようだった。
「で……いったい、何があった」
湯呑みを両手で包み、主哉が言った。
猫舌のせいで、何度も「ふーっ」と息を吹きかけている。
「実はね……」
志乃が、昨日から今に至るまでの出来事を、淡々と語った。
ドローンのこと。
林での遭遇。
そして、あの男の言葉。
話を聞き終え、主哉は低く唸る。
「……レンズ越しの視線を感じ取る、か」
湯呑みを置く。
「そりゃヤベぇな。人の気配を掴む感覚がそこまで研ぎ澄まされてる奴には、奇襲は効かねぇ」
凛が、懐から折り畳まれた紙を取り出した。
「これ。おじさんに渡してくれって、預かった」
主哉はそれを受け取り、開く。
そこには、都内のある場所を示す簡単な地図と、時刻。
「……今夜、そこで待つ、か」
鼻で笑う。
「よりにもよって、こんな人目につく場所で」
紙を畳み、ポケットにしまう。
「まあいい。
ちょっと行ってみるか」
主哉は立ち上がり、社務所を出て参道へ向かった。
そこには、神主と勇次、そしてマサが待っていた。
「まだウチの新メニュー喰ってねぇんだからよ」
マサが言う。
「生きて戻ってこいよ」
「どうせ熱くて食えねぇだろ」
主哉が軽く返す。
勇次が火打金と火打石を取り出し、カチン、と切り火を打った。
「旦那。死ぬんじゃねぇぞ」
「……どうか、ご武運を」
神主が静かに頭を下げる。
主哉は鳥居をくぐり、振り返らずに、後ろ手で手を振った。
無言のまま、石段を下りていく。
◇
石段の下で、黒塗りの大型バイクが待っていた。
最上ルナ。
主哉は、さきほどのメモを差し出す。
「呑気に茶すすってたぜ」
ハッカ棒を咥える。
「このメモ、渡しに来ただけだとよ。白い嬢ちゃんに渡してくれ」
一拍置き、続ける。
「共闘の件――承知した、ってな」
「了解」
ルナは短く頷く。
「伝えるよ」
エンジンが唸り、バイクが夜へ走り出す。
その背中を見送りながら、主哉は空を仰いだ。
(……今夜は眠れそうもねぇな)
ハッカの香りが、春風に溶けていった。
◇
もう四月だというのに、夜風は思いのほか冷たかった。
主哉は開け放っていたコートのボタンをかけ直す。
布越しに伝わる冷気が、背中をなぞった。
「……しかしよ」
誰に聞かせるでもなく、独りごちる。
「草木も眠る丑三つ時だってのに、人の営みってのは止まらねぇもんだな」
歩道ですれ違う人影に、自然と目が向く。
残業を終え、疲れ切った顔で家路を急ぐ者。
一軒では足りず、次の飲み屋へ向かう者。
そして――
この時間だからこそ、仕事をしている人間もいる。
(俺も、その一人か)
主哉は自嘲気味に息を吐いた。
「……こんな時間を指定してきやがって。眠くてかなわねぇや」
眠気覚ましにハッカ棒を咥え、軽く噛む。
鼻腔を抜ける刺激が、頭をわずかに冴えさせた。
指定された場所へと、足を向ける。
そこは――
東京タワーと皇居、その中間にひっそりと佇む、とある神社だった。
深夜にもかかわらず、境内は妙に整っている。
街の喧騒が嘘のように遠く、高層ビル群の灯りが、木々の隙間から覗いていた。
(……よりにもよって、神社、かよ)
皮肉に口の端が上がる。
石段を上り、鳥居をくぐる。
足音がやけに大きく響いた。
社殿の前。
人影はない。
だが――
“いない”とは、思えなかった。
主哉は歩みを止め、境内を見渡す。
(……来てんだろ。出てこいよ)
夜風が、社殿の軒先を揺らす。
そして次の瞬間、主哉は“気配”を感じ取った。
木々の影。
闇の奥。
そこに――
確かに、ファントム・グールはいた。
「知っているか」
闇の奥から、男の声がした。
「春になると、この場所から桜とライトアップされた東京タワーが、同時に見えるんだ」
姿を現したファントム・グールは、どこか懐かしむように境内を見渡していた。
「……この国では仕事をしねぇんだってな」
主哉が言う。
男は、静かに頷いた。
「この国は、祖母の愛した国だからな。
その国を、無駄な血で汚したくはなかった。
ただ、それだけだ」
「そのわりには、随分と返り討ちにしたじゃねぇか」
「降りかかる火の粉を払っただけだよ」
「そうかよ」
主哉はポケットからハッカ棒を取り出し、
一度、香りを吸い込んでから口に咥えた。
「……私はね」
ファントム・グールが、唐突に言った。
「癌なんだ」
主哉は黙って聞く。
「知り合いの医者に言わせれば、
まだ生きているのが不思議な状態らしい」
男は夜空を見上げた。
「祖母が亡くなる直前、日本に帰りたいと言っていてね。だが寝たきりで、旅ができる状態ではなかった」
一拍、置く。
「せめて魂だけでもと思い、遺髪を預かっていた。
だが……なかなか、この国に来る機会がなくてね」
「……自分が死ぬ前に、約束を果たしに来たってわけか」
「ああ」
男は頷いた。
「桜のよく見える場所へ、埋葬してきた。
⋯⋯これでもう、この国に用はない」
「だからって、このまま帰すわけにはいかねぇ」
主哉の声が低くなる。
「……あんたを地獄へ送ってくれって、神様に頼まれてるんでね」
ファントム・グールは、わずかに笑った。
「少し調べさせてもらったよ。
“うらうちびと”――そう呼ばれているらしいな」
視線が、主哉を捉える。
「Divine Executor。
動けぬ神に代わって罰を下す、恨みの代理人」
「ああ」
主哉は頷く。
「……あんたの仕事に巻き込まれた、罪なき人たちの嘆きを、神様が聞いたってことさ」
「神罰、か」
男は首を傾げる。
「それを“人”が担うことに、傲慢さは感じないのかね」
「……なんとでも言え」
主哉は警棒に手をかけた。
「それが自己満足だってことも、
自分がただの人殺しだってことも、
とっくに分かってんだよ」
ハッカ棒を噛みしめる。
「だがな――
殺しを、生きる糧にはしねぇ」
静かな断言。
「それが、俺たちの線引きだ」
「……なるほど」
ファントム・グールは、小さく息を吐いた。
「確かに、私には分からない世界のようだ」
――じゃりっ。
草履が砂を噛む音。
ファントム・グールの背後、
月明かりの中に、白い影が立っていた。
「……遅かったな、嬢ちゃん」
主哉が言う。
セラフィム。
白を基調とした和装。
銀髪が、月光を受けて淡く輝く。
「お話は、終わりましたか?」
彼女の手には、
月光を弾くように金属光沢を放つタロットカード。
「……ああ」
主哉が答える。
「さあ」
セラフィムが、静かに言った。
「始めましょうか」
三人は、同時に動き出した。
夜が――
その瞬間、息を止めた。
一手目は、主哉だった。
どこで拾って、いつ仕込んでいたのか。
主哉は指先で小石を弾いた。
――指弾。
狙いは正確に、眼球。
だが、ファントム・グールは難なくそれを躱す。
しかし――
主哉の狙いは、目潰しではなかった。
縮地。
気配が、消える。
ノーモーション。
影が伸びた、その背後。
セラフィムがいた。
銀色の刃が、月光を裂き、
首筋へ一直線に走る。
――が。
それすら、読まれていた。
ファントム・グールは振り向きざま、
袖口から仕込みナイフを滑り出させ、
心臓めがけて突き出す。
だが――
通らない。
セラフィムの着物は、
アラミド繊維を織り込んだ特別製。
刃を拒む。
次の瞬間。
セラフィムは、突き出された右腕を掴んだ。
「――やっ」
掛け声と同時に、
体軸を崩し、投げる。
宙を舞うファントム・グール。
そこへ――
主哉。
刃を展開した警棒の柄を、
突き刺すように差し出す。
だが。
ファントム・グールは、空中で身体を捻った。
紙一重。
警棒の刃を躱し、
着地と同時に――
手刀。
喉を狙った一撃。
主哉は、すんでのところでこれを外す。
衝撃が、頬を掠めた。
一瞬の静止。
呼吸が、三つ重なる。
「……埒が明かねぇな」
主哉が、低く吐き捨てる。
「二人がかりで……これかよ」
息を整える、主哉とセラフィム。
対するファントム・グールは、まるで散歩の途中のように、呼吸一つ乱れていなかった。
月が、境内を照らす。
「……誰か、いるんですか?」
間の抜けた声が、境内に落ちた。
宮司だろうか。
闇を切り裂くように、懐中電灯の白い光が揺れる。
次の瞬間――
三人の気配が、同時に変わった。
言葉は、ない。
主哉が半歩引き、
セラフィムが影へ溶け、
ファントム・グールは、すでに背を向けていた。
――散開。
砂利を踏む音すら残さず、三人は一斉にその場を離れる。
境内の外れ。
フェンスを越え、隣接する建設中のビルへ。
鉄骨とコンクリートの匂い。
足場の影が、複雑に夜を切り取っている。
主哉は息を殺し、背中で壁を感じながら、わずかに口角を上げた。
(……ツキがあるのか、ないのか)
数秒遅れて、懐中電灯の光が、境内を照らす。
だが――
そこに、もう誰もいなかった。
◇
建設中のビルの闇の中。
ファントム・グールを挟み向かい合う主哉とセラフィム。
その場を静寂だけが支配する。
どう仕掛けても躱される、多分動きの気配を読まれてるんだろう。それは向こうも同じこと。
(さあ、どうしたもんか)
主哉は警棒の柄を握り直した。
コートの布擦れ、1ミリを動く足音。それさえがいつもよりも大きな音に感じる。
ファントム・グールの声が、低く落ちた。
「……今夜は、ここまでだな」
それを合図のように、主哉の指弾が、わずかに視線を上へ跳ねさせた。
その一瞬、セラフィムが足元を刈り、逃げ場を奪う。
ファントム・グールの踏み替えが、足場の真下へ寄った。
だが、次の瞬間
――あり得ない事故が起きた。
ドシュッ
何かが肉を貫く音
「……なんだ、これは……」
呟きは、驚きというより困惑に近かった。
頭上の足場から、一本のブレースが外れ、
重力に引かれるまま、真っ直ぐに落下し、
鋼鉄の筋交いは、逃げ場のない角度でファントム・グールの身体を貫いたのだ。
狙ったかのように。
いや――
狙われたかのように。
二人――主哉とセラフィムに意識を集中しきっていた彼は、上から“落ちてくる死”に、最後まで気づかなかった。
いや、気づけなかったのかもしれない。
人為的に外さない限り、足場の筋交いが外れることはない。
シートに覆われ、固定された構造物が、
音もなく、狙い澄ましたように落下するなど――
理屈では、あり得ない。
ブレースは、串刺しになった身体と共に静止した。
夜風が、工事現場のシートを揺らす。
主哉は、しばらく動けなかった。
そして、ぽつりと零す。
「……本物の神罰かよ」
ファントム・グールは、もう動かない。
戦いの決着は、
誰の刃でも、誰の拳でもなく――
天から、落ちてきた。
神が裁いたのか。
それとも、ただの偶然か。
だが少なくとも、
人が手を下す必要は、なかった。
主哉はハッカ棒を咥え直し、
冷えた夜空を、無言で見上げた。
長い夜は、
こうして終わりを告げた。
◇
本日未明、都内の建設現場で、鉄パイプが胸部に刺さった男性の遺体が発見されました。
警視庁によりますと、男性は深夜、立ち入り禁止となっている建設現場に侵入し、上方の足場から外れ落下した鉄パイプが直撃したものと見られています。
現場には争った形跡はなく、第三者が関与した痕跡も確認されていません。
警察は、男性がなぜ深夜に建設現場へ侵入したのか、また足場の安全管理に不備がなかったかを含め、事故と事件の両面から調査を進めています。
なお、亡くなった男性の身元については、現在確認中としています。
◇
社務所のちゃぶ台で、セラフィムは湯呑みを両手で包み、静かに茶をすする。
「……で、なんでお前さんがここにいる」
胡坐をかいた主哉が、半眼でそう言った。
「一時とはいえ、命を預け合った仲じゃありませんか」
セラは淡々と返し、菓子盆に視線を落とす。
「あっ、そのお煎餅、いただいても?」
「いいよー」
凛が何の躊躇もなく菓子盆を差し出した。
「お前ら、学校はどうした」
「え? 今日は発熱で休んだことになってるよ」
凛がさらっと言う。
「私はお姉ちゃんの看病中」
咲が続ける。
「今からサボり癖つけてんじゃねぇぞ。
サボるのはな、窓際族の特権だ」
「そう言うな」
菊花が湯呑みを主哉の前に置く。
「二人とも昨夜はほとんど眠れてないんだ。誰かさんが、ずいぶん心配かけたからな」
「……それは悪かったな」
主哉は受け取った湯呑みを吹き、猫舌らしく何度もふーふーしながら口をつける。
「でも、よかったの?」
志乃がぽつりと聞いた。
「ファントム・グールの死体、そのままにしてきて」
「ああ」
主哉はあっさり答える。
「終わったってアピールにもなる。この国に潜り込んでた殺し屋どもも、じきに引き上げるだろ。
一応、ヤバいもんは回収したしな」
――それに。
主哉は心の中で付け加える。
(あいつは、自分の足跡なんて完全に消してるだろ。
国に帰されることもなく、名もないまま無縁仏だ)
「……婆さんの魂が眠るこの国で、一緒に眠りな」
「何か言った?」
「いや、独り言だ」
茶をすする音だけが、しばし社務所を満たす。
「それにしても」
セラが口を開いた。
「昨夜のことは……何だったのかしら。突然、あんな……」
「ニュースで見たよ」
凛が言う。
「鉄パイプが刺さったんだって?」
「正確には足場の筋交――ブレースだ」
主哉が訂正する。
「それが、上から降ってきた。……音もなくな」
「信じられない」
凛が眉をひそめる。
「足場だよ? 何かあれば、普通は金属音が反響する。
筋交が外れて、音ひとつしないなんて……」
「まるで、神の御業……ですか」
セラが静かに言う。
「それってさ」
咲が不安そうに続けた。
「神様が、自分で神罰を下したってこと?」
「それか」
主哉は湯呑みを置く。
「最初から、あいつの寿命がそこまでだったってことだろ」
「……じゃあ」
志乃の声が少し震える。
「そんな神罰が本当にあるなら、
これまで私たちが仕事の対象にしてきた人たちも……
もしかしたら、勝手に死んでたかもしれないってこと?」
「そうかもな」
「だったら……」
凛が言葉を絞り出す。
「私たちの存在意義って、何?」
沈黙。
最初に口を開いたのは、セラだった。
「意義など、ありません」
彼女は迷いなく言った。
「私はただ、神を信じ、その御名の下に生きているだけです」
「俺たちのやってることはな」
続いて主哉が言う。
「ただの、自己満足だ」
ひとつ、深いため息。
「ただよ……俺たちのやってることが、
誰か一人でも救ってる。
そう信じるしかねぇんだ」
そして、ぽつりと付け足す。
「余計なこと考えすぎると、罪の意識に押し潰されるぞ。神罰なんてのは、神様の気まぐれでいい」
割り切る。
それが、この仕事で一番大事なことだと、主哉は思っている。
だから――
クソ真面目な人間には、向かない。
「この仕事はな」
主哉は、少しだけ笑った。
「俺みたいな、不真面目な奴に向いてんのさ」
◇
依頼者は、母親を殺された息子だった。
犯人は父親。
表向きは事故。
だが、愛人との再婚を目的とした計画的犯行だという。
「裏取りは完了。間違いないね」
隼人が淡々と言う。
「父親の愛人も共犯だ」
「了解だ」
マサが短く答える。
「愛人の方は任せてくれ」
「父親は俺がやる」
主哉がハッカ棒を咥えた。
「児相にもフォローを入れておく。……子どもだけは、放っとけねぇしな」
「では」
神主が静かに頭を下げる。
「皆さん、よろしくお願いします」
満天の星のように、人の数だけ明かりの灯るこの街で、闇に紛れ、神の代わりに神罰を下す者たちがいる。
恨みの涙が消えぬ限り、
彼らは動き続ける。
――その名は、恨討人。




