ひどいです兄様……わたくしというものがありながら!
「ったく、いつもいつも何なんだか……」
俺は文句をぶつくさと言いながら、職員室から教室へと続く長い廊下を、次の化学の授業で使う配布物の山を抱えながら歩く。
こんな時ばかりは、校舎をここまで馬鹿でかく設計した奴が恨めしい。
尤も、鬼門院家の人間が通うような御曹司や御嬢様が集うような学校のこと、必要以上に大きな建物になるのも必然なのだろうが。
鬼門院家――。
俺の出自はちょっと複雑で、血の繋がった妹の紗那は紛れもない鬼門院家の人間。
鬼門院の家に生まれ、鬼門院の家に育った。
ただ、俺は違う。
俺は――杉内鳳明は、最初から鬼門院の家に育ったわけではない。
引き取られたのは、実の父親の偉明の死後、俺が鬼門院偉明の血の繋がった息子であるということが明らかになってからだ。
それまでは、俺は単なる使用人の息子――そう思われていたわけで。
この時点で、かなり複雑な出自であることは分かってもらえると思う。
しかしそれに加えて、偉明が社長を務めていた鬼門院製薬の後継ぎが誰になるかが問題になったことで、俺を取り巻く環境はさらに複雑になり――。
結局。
ただ一つ言えることは。
俺が早く誰か結婚相手を見つけて、鬼門院家の正式な跡取りとして認められないことには、鬼門院偉明の家系は潰えるということ。
俺にとっては、どうでもいい事なのだが――。
いや。
決してどうでもいいことだとは言えない。
ただ、実感が持てないだけなのだろう。
それでも、自分で言うのは何だが、無理からぬ話だと思う。
俺は名家の、一介の使用人の家庭に生まれた、ごく平凡な高校二年生男子――そうなるはずだったのだから。
そもそも、そんな早い段階で結婚を決めるとしても、どうやって――?
お見合い――とか、するんだろうか。
お見合いねえ……。
俺が、そんなことを考えていると。
それまで配布物の山に封じられていた俺の視界が、突然開けた。
廊下にプリントが散乱する。
この光景、どこかで見たような気がするぞ。それも、かなり最近。
「兄様……」
そして、この声も。
「こうやって、人と人とが出合い頭でぶつかるのって、『お見合い』って言うんですよね!」
いや、そうだけど――。
「兄様、また罰を受けられているのですか?」
慇懃無礼にも、単刀直入にそう尋ねてくる紗那。
「お前を起こしてたからだよ……!」
そう。
俺が今、こうしてプリントを拾い集めているのは、大体こいつ――紗那のせいだ。
「明日こそは、兄様を起こして差し上げましょう!」と息巻いて毎日床についてくれるのはいいのだが、それを実行したためしはいまだかつてなく、逆に俺が部屋まで行って起こさないと起きない始末。
そして、こいつはかなり寝起きが悪く、俺が起こしに行くとかなりぐずるということも最近発見した。
いやお前高校生だろ――。
ともかく、そういうわけで俺が寮を出る時間は遅れ、今日も今日とて霧ヶ峰に捕まって足止めを食った上、職員室に呼び出されてあの蕭条の旧女王の蜥蜴からプリントを押し付けられたというわけだ。
よくもまあ、毎日こんなに配布物があるものだと思うが――。
「お前のせいだよ」
俺は、紗那にそう言い返す。
「ん? 何がですか?」
こいつ、全く覚えてないな――。
尤も、起きたばかりの時は、まだ頭が働かないのも俺には良く分かるが。
それにしても、ひどすぎはしないか。
俺の遅刻は報われない。
いやでも、紗那には報われなくていいや――。
こいつのことだから、「感謝のしるしです」と言って、どんな度を越したことを仕掛けてくるか分からないし。
有難迷惑なんだよな――。
「兄様、どうされました? そんなにボーっとされて」
さてはまだ寝ぼけておられるのですね、と言う紗那。
さすがにカチンときたので無視した。
「兄様! ひどいです! わたくしを無視するなんて! さては兄様、わたくしを捨てようと……姫ヶ崎様とあんなに仲良くして! しかも、それを見せつけて! いくら結婚相手を早く見つけてほしいとこちらから頼んだとは言え、あんまりではありませんか!?」
「言っておくが俺は見せつけてもいないし、元はと言えばお前の……というか、鬼門院の家のせいであんなことになったんだからな」
向こうの気持ちも考えろよ、と俺は言う。
「だって……姫ヶ崎様も、まんざらではなさそうではなかったですか……」
まあ確かにそうだったかも知れないが――。
あの体育祭での、姫ヶ崎の将来の結婚相手宣言から一週間。
あれが冗談なのか本気なのかで、俺の周りの奴らの解釈は二分されているという状況で。
そんな中、あれはかくかくしかじか、こうこうこういう事情だったのだと説明する勇気なんて、俺にも紗那にもなく。
だって――。
将来の婚約者を決めるために、女子五人を同じ寮に住まわせているなんて、言えるわけないだろ――。
「ひどいです兄様……わたくしというものがありながら!」
「いや……お前が集めて来たんだろうが」
「……それはそうですけど……」
「しかも、俺に断りもなくな」
「……あれは、仕方なかったのです……って! 話をすり替えないでください! わたくしはもっと、兄様は兄として、実の妹に興味と関心を持つべきだということを言いたいのです!」
「分かった分かった、無視するなってことだろ」
「分かってくださればいいのです、分かってくだされば」
紗那はそう言って、興奮気味だった声のトーンを落とす。
と言うか。
「俺はお前と無駄話してる暇なんてないんだよ!」
「無駄ァ!? 兄様、先ほどの舌の根も乾かぬうちに、わたくしとの話が無駄だと……」
「いや、今のは訂正する……」
後で面倒なことになりそうだし。
「とにかく俺はお前と話なんてしてる場合じゃないんだ。早くこのプリントを、教室まで持って行かないと」
お前のせいでな――。
一時限目の授業が始まる前に教室にもっていかないと、また新たな罰が加えられることは目に見えている。
あの陰湿な蜥蜴女のことだ。
全く、黒瀬はあんな四十路爬虫類のどこがいいんだか――。
いやいや。
とにかく今は目の前のプリントのことだけを考えろ――。
「兄様」
「後にしてくれないか、今忙しいんだ……」
「これ、明らかに四十枚以上ありますよね」
「え? ああ、一回の授業で複数枚使うこともあるから、四十枚以上あっても……」
「いえ、これが一ページ目でしょう? これだけでも、かなりの数があるような気がするのですが……」
あいつ――。
どさくさに紛れて次の教室での授業プリントも配らせるつもりか――。




