兄様!しゃべらないでください!今、救急車を!
その翌日――つまり、体育祭まであと四日。
騎馬戦の練習も本番での戦いに即した、かなり実戦的なものになっているという話をプリントを届けに来たから聞かされた。紗那も、鬼門院の名に恥じない鬼コーチっぷりを見せているようだ。
霧ヶ峰の話を聞く限りでは、意外といい戦いぶりを見せるかもしれない。
皆が紗那にこれからもついていければ、であるが。
そして。
夜十一時頃になって、紗那が部屋に駆け込んで来た。
「兄様! 兄様聞いてください!」
病人の俺の枕元でジャンプするのはさすがに自重したようだったが、それをやりかねないテンションで紗那は俺に言う。
「やっと! やっとですよやっと!」
「お前が俺に報告したいことがあるのは分かったから、とりあえず何がやっとなのか、まずそこから説明してくれ」
「はい兄様!」
紗那はそう言って、俺の枕元に座って居住まいを正す。
「聞いてください兄様。鷹司様が、あの鷹司様が、やっと練習に参加してくださったのです!」
紗那はあまりの嬉しさに、ついさっき居住まいを正したばかりなのに、飛び上がらんばかりになって続ける。
「あの集団行動には明らかに不向きな鷹司様がですよ! わたくしと御影様、そして甲賀沼様と霧ヶ峰様が騎馬を組んでいたところに、突然鷹司様が現れて、『杉内鳳明は私になり切って騎馬戦に出場しようとしていたのだろう? 馬鹿なことを』と言われながらも『では、私が杉内鳳明になり切ってもお互い様と言うことだな』と、騎手となった私の下に……」
なるほど――紗那の作戦も功を奏したというわけか。
いや――鷹司は自分が出ると決めたら、なり切り作戦なんかやらなくても少しのきっかけがあれば顔を出しただろう。
なぜ出ると決めたのかは俺には分からないが、とにかく俺の状況を考えると参加してくれるようになってよかったというしかない。
「『ヒーローは遅れてやってくるものなのだよ』と言われて、私の下にスッと……」
紗那は頬を紅潮させて話すが、俺からしてみればそんなに格好いいセリフでもないと思う。
というか、どこまでナルシストなんだあいつは――。
「ところが、ここで困った問題が持ち上がったのです」
講釈師さながらに、抑揚をつけて言う紗那。
「兄様の代役として道明寺様も来られたので、今日の練習はダブル兄様となってしまったのでございます……!」
「いや……鷹司はもともと鷹司として出る予定だったからな」
あのなり切り作戦のせいで話がこじれている――と言えなくもない。
ともかく、今日の練習は五人がそろったわけだ。
風邪でこの通り寝ている俺と――姫ヶ崎を除いて。
「姫ヶ崎、どうしたんだろうな」
今日、他の全員がそろったなら、紗那に訊いても不自然ではないだろう。
「ええ……そうですね。最近、部屋から出てこられませんし」
紗那の話によると、寮の中でも見かけることは少なくなったらしい。
「やはり、私が強引に騎馬戦などにお誘いしたからでしょうか……」
だとすれば、俺のせいだ――。
きっと。
他に考えられない。
「確かに、姫ヶ崎様は男性とあまり接触されなかったとしても、不思議ではありませんしね。今まで男性に触れたことがなかったとしたら、少々無理が過ぎたのかもしれません」
紗那は、姫ヶ崎が来なくなった理由をあの事故にあると考えているようだった。
しかし、多分姫ヶ崎の考えていることは、そんなことではない。
姫ヶ崎は、心を閉ざしているように俺には見える。
でも――。
紗那がこの寮に、五人を集めて来た直後。
俺と紗那、そして紗那が連れて来た女子五人の関係が悪くなっていた。
その時、そんな冷え切った関係に終止符を打ったのは、ほかならぬ姫ヶ崎だった。
こんな関係が、その姫ヶ崎の望んだ関係だったのか。
俺にはとても、そうは思えない。
姫ヶ崎に確かめに行く――。
そうだ。
どうして俺は、今までそれをしなかったのだろうか。
俺と姫ヶ崎が他人なんて、考える必要はなかった。
そう――あの時からずっと、俺と姫ヶ崎は他人なんかではなかった。きっと、姫ヶ崎もそう思っていたはずだ。
それに、俺は姫ヶ崎のことをほとんど知らない。
だからと言って、ここで寝ていても姫ヶ崎のことが何か分かるわけでもない。
だったら――。
今俺の、やるべきことは。
「兄様?」
布団を剝いで立ち上がる俺を、心配するというよりは不思議そうな表情で見つめる紗那。
「俺――行ってくる」
姫ヶ崎の気持ちを確かめに。
姫ヶ崎のことを、もっと知るために。
そうだ――。
どうして、こんなに簡単なことが今までできなかったのだろう。
「どこへ行かれるのですか……?」
「姫ヶ崎の部屋だ」
俺が言うと、紗那はため息をついて、戸を目で示す。
こんな時には、止めないんだな――。
「こういうときの兄様は、わたくし以上に強情なことなど、わたくしは嫌と言うほど知っていますから」
これでもわたくし、自分が強情だという自覚はあるのですよ――と紗那は言う。
「なるべく、早く帰って来て下さいね」
紗那はそう言って、部屋の扉の前に立つ俺を見送る。
「ああ……そうだな。姫ヶ崎が寝るのを邪魔しても悪いし」
俺は扉を開けて、姫ヶ崎の部屋へと向かった。
姫ヶ崎の部屋は、俺の部屋とは反対側の端にある。
しかも、二階だ。
俺の部屋からは一番遠くに位置するのが、ほかならぬ姫ヶ崎の部屋だ。
でもそれを殊更に遠く感じるのも、俺が本調子でないからかもしれない。
俺は、朦朧とした意識のまま階段を上った。少し、熱が上がったような気がする。でもそんなことより、今は姫ヶ崎のことだ。
俺なりに決着をつけなければいけない。
やっとの思いで、右手で手すりに掴まる。
この寮の階段は、建築年数が経っているからかやけに急だ。今の俺には、かなりきつい。
でも――俺は最初の一段目に足を掛ける。
そして、二段――三段。
俺は、自分の身体が落下しないように、手すりを掴む力を強める。
四段――五段。この階段は、全部で二十段ある。
いや――? それすらも、靄の掛かったような意識の中では曖昧だ。
六段、七段――八段。
数えていないと、今自分が何段上ったのかも分からなくなる。
九段、十段――。
いつの間にか、俺の身体が右手を追い越している。
手の位置を、上にずらそうとしたその瞬間。
俺は――。
自分の身体が落下していくのを感じた。
頭に強い衝撃を感じる――。
「兄様あっ‼」
紗那の叫び声が聞こえて、廊下が揺れるのが分かる。紗那が、俺の部屋から勢いよく飛び出してきたからだろう――。
そして、階段の上からも声が――。
「す、杉内君……」
それは、ほかならぬ姫ヶ崎の声だった。
「姫ヶ崎――俺は、お前に――!」
「兄様! しゃべらないでください! 今、救急車を!」
紗那の声だけが、妙にキンキンと頭に響く。
それからしばらくして――自分の身体が、持ち上がるような感覚を抱いた。
俺は誰かに運ばれているのだということが、ほとんどあるかないかも分からないような意識の中でも理解できた。
その時点から、俺の記憶は無い。




