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ハルモニア  作者: 岸部碧
第三章
13/28

金色の少年

  *


「――君が、ナユタ?」


 耳障りな蝉時雨。溶かそうとしているのかと思うほど太陽がギラつく、暑い夏の日だった。

 スラリとした大人の男に手を引かれてやってきた少年が、麦藁帽子の下でまっすぐに那由多を見つめる。那由多は清子の後ろに隠れながら、不思議な色をした瞳を窺っていた。

 那由多には両親がいない。誰が見てもすぐにわかる彼女の家庭事情を詳しく知る大人は、恐らくいなかった筈だ。

 大人は上辺だけでも優しい言葉をかけてやることができるが、子供にはそれができない。那由多は幼稚園において、もっぱら子供達の好奇の視線の的になっていた。

 元々内向的な性質のある那由多が、同年代といわず他人に怯えるようになるのに時間はかからなかった。あからさまに拒絶はしないものの、清子以外の人間にはあまり近寄らなくなってしまった。

 そんな彼女を、困ったような眼差しで清子が見つめる。

「那由多、彼は貴女の従兄なの。お祖母ちゃんと同じように、家族なのですよ」

 そう清子が優しく諭しても、那由多は彼女の着物を掴んで離さない。

 清子と男が顔を見合わせてどうしたものかと考えている間も、那由多はただじっと、紫の瞳を見つめていた。

 ビー玉のような、綺麗な色。しかし那由多にとってそんなものは関係なく、何を言われるのか、何をされるのか、そればかりを考えて彼の様子を窺っているにすぎなかった。

 そうして見つめていた瞳が、ぱちくりと瞬きをする。

「君はナユタなの? ナユタじゃないの?」

「いやだから春君、僕達がさっきから那由多ちゃんだよって言ってるよね」

「僕はこの子に聞いてるの。お父さんは黙って。お父さんはヘンタイだから信じちゃだめだって、お母さんが言ってたもん」

 ちらりと頭上の男を見上げた紫の瞳は、またすぐに那由多に向けられる。

 玄関先に突っ立ったままの少年の頬を、じわりと汗が伝う。しくしくと泣く男の声も蝉時雨に呑まれ、那由多は乾いた喉で無理矢理唾液を飲み込んだ。

「君はナユタ? 僕はナユタと仲良くなりに来たんだ」

「……仲良く、してくれるの……?」

「うん。僕はナユタと仲良くなって、いっぱい遊ぶために来たんだよ」

 すっと差し出された右手。

 小さな手のひらを見つめきょとんと目を丸くした那由多に、少年は握手だと言う。

「もう一度聞くよ。君はナユタ?」

「……うん。ナユタ」

「そっか。僕はアズマ。漢字は“はる”って書くんだけど、漢字って難しいよね」

 へらっと浮かべられた笑み。さっきまでの子供らしい無表情は消え失せ、少年は紫の瞳を細めて笑った。

 それからぽおっとしている那由多の手を掴み、ぎゅっと感触を確かめるように握る。

「だからナユタは、僕の名前の読み方だけ覚えればいいよ。ナユタが呼んでくれたら、すぐに僕が来てあげる」

「ほんと……っ?」

「うん。一回僕は帰るけど、また絶対に来るから。だから、ナユタはひとりぼっちにならないよ」

 焼けるような日差し。汗ばんだ手のひら。そのどれも不快に感じなかったのは、ただ少年の笑みが優しかったから。

 少年は被っていた麦藁帽子を那由多に被せ、無邪気に笑う。

「ナユタ、一緒に遊ぼう」

 青空に透けてキラキラと輝く金の髪が、とても綺麗だった。


  *


 ぼうっと空を眺めていた那由多はハッと我に返り、慌てて教科書を机の中に突っ込んだ。

 既に四限目終了のチャイムは鳴り、クラスメイトは各々の昼休みを過ごす為に散り始めている。那由多も自分の時間を過ごす為、鞄からお弁当の入った包みを取り出した。

「ちょっ、聞いた!? サキが言ってたんだけど、かなりイケメンなんだって!」

「何それ詳しく! 王子様系!? 荒んだ不良系!?」

 きゃっきゃと色めく女子の声を聞きながら、那由多はそっと溜息を吐く。

 クラスにはいくつかのグループが存在するのが当然だが、那由多はそのどれにも属していない。親しい友人はおろか、皆クラスメイト止まりで友人と呼ぶのも躊躇う程の距離がある。

 仲が悪い訳でも疎外されている訳でもなく、ただいつも一人でいるだけ。

 幼い頃はビクビクしていた那由多も結局対人恐怖症になる事はなかったが、人見知りはするし、周囲に比べてやはり消極的だ。ああやって騒いでみたいとも思うのだが、同時に自分には無理だなとも思う。そもそものテンションが違うのだ。

 小学生からこの調子なのだから、もう慣れきってしまっている。むしろ平和でいいとすら思っている。

 那由多は弁当を机の上に並べて、手を合わせた。すると、不意にポケットの中で携帯が振動を始めた。思わずビクッと大袈裟に反応してしまい、うっかり落としそうになった箸を慌ててキャッチした。

 ほう、と安堵の息を吐きつつ、携帯を取り出す。まだすっからかんの受信ボックスの中を占領している『アズマ君』を選択し、メールを開いた。

【そういや、お前って何組?】

 件名が【忘れてた】と書かれていたから、てっきり何か重要な事でもあったのかと思った那由多は首を傾げる。何組、と聞かれれば学校のクラスの他に答えようがない。

 ゆっくりとでも、きちんとクラスを答える。ついでに好きな食べ物を聞けばよかったと気付いた時には、新しいメールを受信していた。

「了解……?」

 本文に書かれたたった二文字に、那由多はますます不思議に思ってしまう。教えたクラスについての答えとしては構わないのだが、何故そんなことを聞かれるのか気になる。

 しかし、とりあえず忘れない内に食べ物を聞こうと切り替え、返信を打つ。すると、僅かに廊下の賑やかさが増したような気がした。元々昼休みは賑やかなのだが、特に女子の声が多く聞こえる。

 だが那由多には関係がない。他のクラスに知り合いがいる訳でもないし、今晩の夕飯の方が大切だ。

 携帯の画面と睨めっこしながら、八百屋の親父に貰った苺を口に運ぼうとして――その手を、誰かに掴まれた。

 弾かれたように顔を上げた那由多が見たものは、自分の手から苺が食べられるという考えもしない光景だった。

 呆然と見上げるしかない那由多を見下ろし、苺に食らいついた彼は満足そうに紫の瞳を細める。


「なに俺のこと無視して、美味そうなモン食ってんだよ」


「……え?」

 青空に透ける、金の髪。口元に不敵な笑みを浮かべてみせるのは、今朝から姿をくらませていた従兄だった。

 ぽとり、那由多の手から苺のへたが落ちる。先程まで騒がしかった周囲はしんと静まり返り、皆一様に那由多とその前に立つ彼を見つめていた。

「……あずま、く……?」

「俺がアズマ以外に見えんの、那由多」

 くつくつと笑う春は、明らかに那由多の反応を楽しんでいる。しかしそれにすら気付かない程、那由多の頭は混乱しきって思考を停止していた。

 そんな彼女を見つめて、春はますます満足そうに笑う。

「そこで名前呼んだんだぜ? なのに気付かねえし、苺食ってるし」

「……アズマくん……一人旅は……? 朝ご飯、食べた……?」

 まだどこかぼんやりとした表情の那由多が問いかける。

 それに僅かに目を丸くした春は、呆れたように眉を下げた。

「そこは普通、『なんでここにいるの?』じゃねえの?」

「え? じゃ、じゃあ、『なんでここにいるの?』」

「じゃあって!」

 愉快そうに笑う春に那由多は目を丸くするばかり。しかし、いつまでも那由多に状況把握の為の時間が許されている訳もない。

 誰が引き金を引いたのか、那由多と同じく呆然としていた生徒達がどっと押し寄せた。

「ねえっ、水無月さん! 転校生と知り合いなの!?」

「ちょっと水無月君! 二人の関係は何ッ!」

「水無月さんッ! 詳しく説明して!」

 四方八方から飛び交う主に女子の声は好奇と興奮とが入り混じったようなもので、瞬く間に『水無月』の大合唱を作り上げる。

 那由多はその中心でぐるぐると目が回るような感覚に陥っていると、僅かに舌を打つ音が聞こえた。

 しかしそれを気にとめる暇もなく、掴まれたままの腕をぐっと引かれる。強制的に立ち上がらされた体はふわりと浮遊感に支配され――気付いた時には、春に担がれていた。

「あっ、アズマくん!?」

「面倒臭え、逃げるからしっかり捕まってろ」

 まるで俵のように肩に那由多を担いだ春が向かったのは扉ではなく、窓。那由多の席のちょうど隣の窓を開けると、窓枠に足をかけた。

 それを見た那由多だけでなく、生徒全員がサアッと血の気を引く。

 それも当然だ。この教室は、三階にあるのだから。

「あああアズマくん!? なななな何その笑顔……ッ!?」

「よし、いくぞー」

「どど、どこへ! あの世!?」

「スリー・ツー・ワーン、じゃんぴーん!」

 春の笑みに本能が何かを感じ、ジタバタと暴れる那由多。

 しかしそんな彼女を物ともせずに、完全に面白がっている声音でカウントダウンをした春は、意気揚々と窓の外へ飛び出した。


 一瞬の、無重力。

 那由多はつい目にしてしまった地面までの距離に強い目眩を感じながら――重力に従って、落下した。

12月28日 誤字訂正

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