後夜祭
二人が恋人になってから、初めての日曜日。二人は初デート……ではなく、文雅の実家に来ていた。
「文ちゃん、頑張ってね!」
「ええ、彩南こそ大人しく絢華の部屋で待っててね?」
「もう何それ、人を子供扱いして!」
「ありがとう、彩南。行って来るわ」
からかわれた彩南は、お礼を言った文雅を少し心配そうな表情で見ていた。
「お兄ちゃんなら大丈夫ですって。それより、乙女ゲームのコミカライズ読みません?」
「コミカ……って何?」
「漫画版です。私はゲームはバレやすいんで、主に漫画版を集めてるんですよ」
今日文雅が話したいことがあると、絢華から話が伝わっている。文雅は二度と戻らない覚悟をしたはずの、父親の書斎の前で深呼吸をした。
「失礼します、文雅です」
扉を叩く。
「……入れ」
書斎に足を踏み入れると、そこには椅子に座って背中を向けた正親だけがいた。
「私は今日まで、あなたがたの教えを受けて感謝しなかった日はありません。そして、期待に応えられなかったことを悔やみました」
「今更何が言いたい」
「私は間違えました。でも確かにあなたも間違えたのだと思います……私はあなたの息子で居ても良いですか? 私は、本当はそれを望んでいます」
何度も話し合う中で、お互いに意固地になっていた親子である。
「私の息子はお前だけだ。これからもな」
文雅が退学になってさえも、自身の正しい道に戻そうとした正親も、実際に評価され輝いている息子を見て思うところがあったのだ。
啖呵を切って家を飛び出した文雅は、連れ戻されない事実に淡い希望を抱いていた。多大な不安と共に。
皆が望んだ最良の結果ではないかもしれない。しかし、彼らは確かに和解できていた。
「ありがとうございます。私は藤原の名に恥じない人間になります、きっと」
「……期待しないでおこう」
文雅は深く腰を曲げて、父親に最大の敬意を表した。
「私の話は以上です、お時間をいただきありがとうございました。失礼します」
「……文雅」
「お母様、いらしたんですね」
書斎を出てすぐに呼び止めたのは母親の菖蒲だった。
「文雅、本当はね、正親さんも化粧品部門を大きくする時に、私のお父様から大反対されたのを押し切って今の藤原堂があるのです」
「……はい。私はお父様に似ている気がしてるんです」
「いいえ、そう、それを伝えたかっただけです。何かあったら、いつでも帰って来なさい」
「はい、お母様。いつも感謝しています」
「何を言っているの。それと、彩南さんだったかしら? 今度で良いから、きちんと紹介してくださいね」
「ええ、彩南にも伝えておきます」
とても不器用な形ではあるが、捨てたつもりの絆は失われてなどいなかった。文雅は絢華の部屋に戻ると、まず彩南を抱きしめた。
「うわ、どうしたの文ちゃん」
「ありがとう彩南、大好きよ」
「お兄ちゃん、それ以上は二人でしてねっ」
「絢華も、大好きよ。ごめんね、私が馬鹿だったわ」
「……何言ってるのかわからないよ」
抱きしめられたままの彩南はそう言ったものの、幸せそうな文雅の様子に安心していた。
「彩南さん、お兄ちゃんは彩南さんに酷いことをしたんですよね? 退学までさせられるような……なのにどうして好きで居続けられたんですか?」
「え、それは……」
左肩の向こうにある文雅の顔を見て、はにかむ彩南。
「なあに? 私も聞きたいわ」
「大したことじゃないよ。私が冗談で『愛してる』とか『結婚して』って言った時、文ちゃんはいつも否定しなかったから……対象としてありなら、頑張れるかなって」
「おおー、これが正妻の余裕という奴ですね」
「彩南ったら、そんな風に思ってたの?」
「うん、だって文ちゃんなら性格的に『冗談はヤメて』とか『もっと良い人を捕まえなさい』とか言いそうだから……『はいはい』って言ってくれる度に、ちょっと期待してた」
「なるほどね、確かに私の性格をよくわかってるみたい。私も冗談だってわかってても嬉しかったし」
「うわぁ、こういうのを砂糖を吐くようなカップルって言うのか」
茶化す絢華の言葉に呆れながらも、彩南の気持ちを聞き出してくれて感謝もある文雅だった。
「この後はどうする? 三人でお買い物でも行く?」
「いいね、プリクラ撮ろうよ!」
「大賛成です彩南さん。お兄ちゃんに、こんな可愛い子を放置したお詫びをたっぷりしてもらいましょう!」
「そんな役得な罪滅ぼしなら大歓迎ね」
まだ午後を少し過ぎた辺りなのも幸いして、その日は三人で繁華街に繰り出したくさん遊ぶことができた。
「文ちゃん、絢華ちゃんじゃないけど、私にも別でしっかり罪滅ぼししてもらうからね?」
「わかったわ、海外旅行でもブランド物でも覚悟する」
「言ったね? 後で嫌って言ってもだめだよ?」
「大丈夫よ」
文雅は彩南の罪滅ぼしを甘く見ていた。季節は巡り、もう一連の事件が笑い話になった頃、文雅は懐かしい講堂に足を踏み入れていた。
「学園祭の後夜祭に飛び入りって、流石にまずいと思うんだけど」
「何でもしてくれるんだよね? 私と今度こそ踊って欲しいの」
「何もそこまで……」
退学になった手前、顔を合わせづらい人々がいる文雅は、彩南を説得しようと食い下がった。しかし、彩南は決して引き下がらなかった。
「文ちゃんにエスコートされる後夜祭を、すっごく楽しみにしてたんだよ。藍司に殴られてでも来てくれなきゃだめ」
「……わかりました。何も言えないわよね、これ」
「大丈夫。みんなに協力してもらって、最後の一曲だけにするから」
タキシードに身を包んだ文雅は額の汗を拭って、逸る鼓動を抑えた。らしくなく緊張している文雅に、メイクアップ役の絢華がいつもの調子で声をかける。
「そんなんじゃ男前が下がるよ? 喧嘩になっても彩南さんを笑顔にしなきゃ」
「あのねぇ、喧嘩になれば良い方よ? 問答無用でつまみ出される可能性も高いんだから」
「そこは彩南さんが上手くやってくれてるって。ほら、合図が出たよ」
水色のシフォンドレスをまとった彩南が、二人に向かって手を振る。最後の曲に移るのだろう。
文雅は意を決して講堂の中に進み出た。周囲の人間がざわつくのにも負けず、彩南の前で腰を折る。
「踊っていただけますか?」
「喜んで」
ワルツのメロディーに合わせて踊り始める二人を、皆が見ている。
「……もしかしてこの曲、エレーナのキャラソンじゃない?」
「そうなの! よく気づいたね。クラシックピアノ版なんだ、絢華ちゃんにCD貸してもらったの」
「やっぱり彩南は素敵なヒロインになったわね」
「文ちゃん……私ね、本当は去年のこの場で、文ちゃんに告白しようって決めてたんだ」
「そう、だったの」
「それが……あんなことになって。もしね、告白するって決めてなかったら……どんなに文ちゃんのこと好きでも、こんなには追いかけられなかったと思う」
遠くを見るような彩南の表情には、ちょっとの悲しみと懐かしさが浮かんでいた。
「ごめんなさい、彩南、本当に反省してる……」
「違うでしょ。私が欲しいのは謝罪じゃなくて」
「愛してる、彩南。大好きよ、あなただけ」
「ん、合格! 女の子はね、好きな人がいれば誰でもヒロインになれるんだよ!」
笑顔が弾けんばかりの彩南を見て、後悔と愛しさがこみ上げる文雅だった。
やがて曲は終わり、二人は拍手に包まれた。
「おーおー、部外者がなんの用だかねー」
「すまない逆波、何度も言って聞かせたのだが」
「八木君に剣菱君……」
予想通り現れた人物に、文雅は内心で汗をかく。
「よりにもよって、唯一踊る相手がなんでこいつなんだよ?」
「まだ断ったの根に持ってるの? 藍司とは去年いっぱい踊ったじゃない」
「八木君、彩南のパートナーは私だから。もうパーティーも終わりでしょ? さ、行きましょう彩南」
腰を抱いていかにも自分の物だと牽制した文雅に、千太が驚いた顔をする。
「まあ待て、藤原と話したい人間は他にもいるんだ」
「え?」
千太が視線を向けた先を見ると、クラスメイトと何人かの教師が近づいて来ていた。文雅は申し訳ないような嬉しいような、曖昧な顔で迎え入れた。
「藤原さん、逆波さんや仁科さんから話を聞きました。……力になれなくって、ごめんなさい」
「そんな! 先生には、私の我が儘でご迷惑をおかけして……」
「文雅くん、好きな子イジメにしては過激すぎだよ。本気にしちゃったじゃん?」
「そうそう、もっとみんなで考えれば、何も退学にはならなかったかもしれないのに」
口々に心配や励ましが飛んできて、文雅の心に響いた。自分が捨てたつもりの、壊したつもりのものは何一つ失われていなかったと知って。
「ごめんなさい、私が……馬鹿だったの。ありがとうございます、みんな。まさかこんなっ」
「あ~、文ちゃんが泣いた!」
「彩南、あなたのおかげよ」
「違うよ、こうしてみんなが受け入れてくれたのは、ひとえに文ちゃんの魅力なんだから。自信持って!」
「そうね、ふふ……まさか彩南に言い返されるとはね」
「と、いう訳だから。藤原君は彩南ちゃんとのなれそめやら現在の活躍ぶりまで、ちゃんとみんなに説明してね。終わるまで帰さないから」
皆に腕を引っ張られ、輪の中心になってしまった文雅は、遅くまで友好を温め直したのだった。
「今日の彩南には、また惚れ直しちゃった」
「私こそ。文ちゃんのタキシード姿がかっこいいんだもん」
「もちろんドレス姿にもだけど、私のために色々してくれてたでしょう?」
「あ、そういうこと。いっくらでも惚れ直してね」
静まり返る住宅街と駅前の境目で、彩南の住むマンションはすぐそこだ。
「なんだか、彩南の方がヒーローみたいね」
「うーん、言われてみれば……それでも私、けっこう頭の中は乙女なつもりなんだけど。キスしたいなーとか、帰るの寂しいな、とか……?」
文雅が繋がる手を引き寄せる。肩から抱きしめて、息がかかるほどの距離。
「大好き」
かぶさる影や、背中に回る腕の逞しさに鼓動が高まる。文雅の優しく甘い口づけに、彩南の胸は幸せでとろけた。
「私も……好きだよ、文雅、のこと」
「ああもう可愛いッ。本当に帰したくないくらい」
「じゃあ今度は、文雅が私を捕まえてね。ずっとそばに居られるように」
「ええ、今度こそハッピーエンドを目指しましょう。二人で……」
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そうして二人は、互いを思いやり、かけがえのないパートナーとして人生を歩む。
彩南は念願が叶い、母親の口利きでホステス業界に身を投じる。修業が功をそうしたのか、元々才能があったのか、クラブ内外を問わずナンバーワンホステスと呼ばれる夢を叶えた。太い客の中には、高校時代の同級生の姿もあったりなかったり……。
文雅は『daily up』のデザイナーを兼任しながら、世界へ飛び出す。その大きなきっかけになったのは、藤原堂とのコラボレーションがヒットしたことだった。愛妻家としても知られ、後に自身のブランド『AYA』を立ち上げ、度々彩南をモデルとして起用した。一男一女にも恵まれる。
千太は父の後を継ぎ、剣道を極めんと日々道場で稽古を積んだ。良き伴侶に出会い、三人の息子が生まれる。
礼はモデルからタレントに転身、プロポーズの際には死ぬほどかっこつけて結婚。双子の女の子は祖母に似ているとの評判。
伸吾は父親の背中を追うことを止め、なんと農家になる。持ち前の頭脳を生かし、企業とも提携を果たして新たなビジネスモデルになり、日本の農業の未来を切り開いた。働き者の農家のお嬢さんを嫁に迎え、二男一女を授かる。
竜成は大学卒業後、一族に望まれるまま跡を継ぎ更なる財産を築く。趣味のカメラは個展を開くほどの腕前となった。家柄の良い女性とお見合い結婚をして、男児をもうける。
藍司は教師を目指して進学。異色の理科教師になり、中学生相手に四苦八苦していた。生涯独身だったが、内縁の妻と添い遂げる。
〈おわり〉