11.交渉締結はグミの味
〜ドワーフ王宮 執務の間〜
朝の光が、石造りの窓から差し込んでいた。
昨夜の炉の熱は消え、空気は澄んでいた。
羊皮紙が卓に広げられ、双方の署名欄が並んでいる。
シュレッゲンが太い指でゆっくりと羽根ペンを取った。
インクが、紙に落ちる。
流れるような——しかし確かな文字が走る。
「魔王」
シュレッゲンが顔を上げずに言った。
「俺は一度決めたら覚悟はする。だが、破ったらただじゃ済まないことも覚えておけ」
「わかっている」
俺も羽根ペンを取り名前を書く。
ヴォルド・ザ・デストロイヤー。
さっきリリアにフルネームを教えてもらったがさすがにダサくないか?まぁいい。
インクが乾くまで、誰も口を開かなかった。
リリアが、静かに息を吐いた。
聞こえるか聞こえないか——それくらいの音だった。
だが隣に座っていた俺には聞こえた。
「よかった。」
昨夜から今朝まで、ずっと背筋を伸ばしていたんだろう。
少しくらい楽にしていいんだけどな。
フェアルードが書類を丁寧に巻いて、革の筒に収めた。赤い鼻が、心持ち穏やかに見えた。
契約は成った。
————
「で」
シュレッゲンが立ち上がりながら言った。
「もう帰るか?」
「一つ、頼みがある」
シュレッゲンが眉を動かす。
「市場を見たい」
少しの沈黙があった。
シュレッゲンは俺の顔を見て、何かを察したような顔をした。
「……魔王ってのは、よく食うのか」
「食うな」
即答した。
シュレッゲンが鼻を鳴らした。笑っているのかもしれなかった。
「リリア様」
ドレイクが小声で話しかけてきた。隣でリリアが書類を確認している。
「陛下、嬉しそうですね」
「……そうですか」
リリアは書類から目を上げなかった。
廊下に出たところで、リリアが足を止めた。
「陛下、少しよろしいですか」
「何だ」
「市場は……ドワーフの民も多く出ます。陛下の魔力は、かなり遠くまで届きます」
わかっている。俺の魔力は漏れる。
制御もできないから出してこそいないが、それでもリリアいわくかなりの魔力らしい。
ドワーフの市場で魔王の魔力を感じれば——騒ぎになる。
「つまり、行けないと」
「……少し、難しいかと」
リリアが言いにくそうに続けた。
俺は少しの間、廊下の石壁を眺めた。
「残念だなぁ…」
(ドワーフの市場か……どんな素材があるか見たかったんだが)
「何がそんなに残念なんだ」
シュレッゲンの声がした。
振り返ると、廊下の奥から歩いてくる。腕に何かを抱えていた。
「聞いていたのか」
「廊下に筒抜けで話すお前らが悪い」
シュレッゲンは気にした様子もなく、抱えていたものを差し出した。
「これを使え」
外套だった。
くすんだ青灰色。古い布だが、縫い目が異様に精緻だ。
触れると——何も感じなかった。
布としての感触はある。だが、その先に何もない。
「魔力消しの外套だ」
シュレッゲンが腕を組んだ。
「百年ほど前に職人組合が試作した。工芸品として仕上げたが、量産はしていない」
「なぜだ」
「魔力を隠す必要があるやつが、そうそういねぇからな。訓練で消せるし、特殊すぎる。棚の奥に眠っていた」
フェアルードが補足するように口を開いた。
「縫い目一本ずつに魔法が通してあります。
これほどの密度で仕上げるには、一人の職人が半年かかる。」
俺は外套を広げた。
裏地まで同じ縫い目だ。ドワーフの仕事は本物だと思っていたが、これは次元が違う。
「着てみろ」
シュレッゲンが顎をしゃくった。
肩にかけた瞬間、リリアが小さく息を呑んだ。
ドレイクが静かに目を細めた。
「……陛下の魔力が、まったく感じられません」
リリアが言った。声が少し固かった。
「当たり前だ。そのためのものだ」
シュレッゲンが不機嫌そうに——しかし少しだけ誇らしそうに言った。
俺は外套の前を閉じた。
厚みはある。だが重くない。よく動く。
「受け取ろう」
「好きにしろ」
「魔石の件の詫びとして、な」
シュレッゲンが一瞬だけ黙った。
フェアルードが目を伏せた。
「……好きにしろ」
もう一度だけ、同じ言葉が返ってきた。今度は少し、声が低かった。
〜ドワーフ共和国 大市場〜
石畳の道に、露店が並んでいた。
鉄の匂い。革の匂い。干し肉の匂い。そして——知らない匂い。
「陛下、押さないでください」
リリアが前から注意してきた。
俺は押していない。足が速くなっているだけだ。
「ドレイク、お前は来なくていいぞ」
「陛下のお傍を離れるわけにはいきません」
即答だった。
ドレイクは今日も無表情だ。しかし目が微妙に周囲を観察している。護衛の目だ。
最初の露店の前で、俺は足を止めた。
木箱に、砂のようなものが山になっている。橙色と白が混じった、粗い粒。
「これは何だ」
店主のドワーフ——ずんぐりした体つきの老人——が顔を上げた。
「お客さん、見た目からして帝国の方か?珍しいな。それはザラメ鉱石だよ。食えるぞ」
「食える?鉱石が?」
「この辺の地層でしか取れないやつでな。なめると甘いんだ。料理に使う家もある」
一粒つまんで、舌に乗せた。
甘かった。
砂糖とはまた違う。もっと複雑な甘さ。後味に少しだけ鉱物の清涼感がある。
(これは面白い)
隣でリリアが目を丸くしていた。
「……陛下、いきなり食べますか」
「食えると言った」
「言いましたけど……」
リリアも一粒つまんで、おそるおそる口に入れた。
数秒後。
「……甘い」
少しだけ驚いた顔をしていた。
「買おう」
「どのくらい買うつもりですか」
ドレイクが袋を持ちながら聞いた。
「後で考える」
次の露店へ向かった。
今度は小瓶が並んでいる。中身は白い粉末だ。
「スライム粉末ですね」
リリアが言った。
「これもわかるのか」
「帝国でも取り扱いはあります。ただ魔族領では需要が少なくて……量は出回りません」
「どう使う?」
「スライムを乾燥させて挽いたものです。水に溶かすと強い粘りが出ます。食品の加工に使うこともあると聞いていますが」
俺は瓶を手に取った。
——これと、ザラメ鉱石。
頭の中で何かが動き始めた。
(いける)
(多分いける)
「ドレイク、袋はまだ余裕があるか」
「……まだあります。何本お買いになりますか」
「全部」
ドレイクが静止した。リリアも静止した。
「全部、とは」
「全部だ」
「陛下……」
リリアが声のトーンを落として言った。
「何を作るつもりですか」
俺は少し考えた。
言ったとして、わかるだろうか。
この世界に、グミはたぶんない。
「美味いものだ」
それだけ言った。
〜ドワーフ共和国 職人工房〜
シュレッゲンに頼んで、小さな工房を一区画借りた。
「買ってきたもので何か面白いものを作る」と言ったら、シュレッゲンは三秒考えて「見てやる」と言った。
今は工房の入り口に腕を組んで立っている。野次馬が三人ほど後ろにいる。
「陛下」
リリアが鍋を傍に置きながら声をかけてきた。
「本当に作れるのですか」
「転生前の知識だ。確証はないが——やってみる価値はある」
ザラメ鉱石を砕いて粉にする。水と合わせて火にかける。
スライム粉末を溶かして、粘りを足す。
型に流して冷やす。
工程はシンプルだ。
問題は比率だ。スライム粉末の濃度が薄すぎると固まらない。濃すぎると……想像したくない食感になる。
「リリア、少し手伝ってくれ」
「……何をすればいいですか」
リリアが袖をまくった。
俺は鍋の中を見ながら言った。
「かき混ぜてくれ。焦げないように、底から」
「わかりました」
木べらを手に取る。
しばらく無言で、二人で鍋に向かった。
炉の熱が顔に当たる。昨夜と同じ空気だ。
「よく混ざってきた」
「では次は?」
「型に流す。」
石の型を傾けて構えた。液体がゆっくりと流れ込む。
冷やすこと半刻。
型から取り出したものは——透明に近い橙色をしていた。
小さな、四角い塊だ。
工房の入り口で腕を組んでいたシュレッゲンが、無言で一歩近づいてきた。
俺は一つ取って、口に入れた。
弾力がある。甘い。ザラメ鉱石の複雑な甘さが、噛むごとに出てくる。
(できた)
「リリア、食べてみろ」
差し出した。
リリアはしばらく眺めてから、一口。
咀嚼した。
首を傾けた。
また咀嚼した。
「……なんですか、これ」
「グミだ」
「グミ」
「グミだ」
リリアがもう一度食べた。今度は答えを探すように、ゆっくりと噛んでいた。
「……甘い。でも——噛むのが楽しい?」
「そうだ」
「不思議な食べ物ですね」
声が少しだけ軽くなっていた。
ドレイクが無言で一つ取った。
口に入れた。
何も言わなかった。
ただ、もう一つ取った。
それで十分だった。
「シュレッゲン」
工房の入り口に向かって言った。
シュレッゲンが顎をしゃくった。来ていいという意味だと判断した。
皿に山盛りにして、差し出した。
シュレッゲンは一つ取った。
鼻に近づける。匂いを確かめる。
口に入れた。
……長い沈黙があった。
「なんだこれ」
ぼそりと言った。
「ドワーフの鉱石を使った菓子だ。貴国の素材で、帝国の知識で作った」
「気持ち悪い食感だな」
「もう一つ食べるか?」
シュレッゲンはすでに手を伸ばしていた。
後ろの野次馬三人も、いつの間にか入り口に押し寄せていた。
リリアが小さく吹き出した。
気づけば工房の前に人だかりができていた。
グミを一つ食べたドワーフが、別のドワーフを呼んでくる。そのドワーフがまた別の者を連れてくる。
型が空になるたびに、次の鍋を仕込んだ。
「陛下」
ドレイクがこっそり言ってきた。
「もしかして、最初からこれが目的でしたか」
「市場の素材を見たかったのは本当だ」
「……そうですか」
「そうだ。ただ——」
山盛りのグミを一つ取りながら続けた。
「良い素材があれば使いたい、というのも本当だ」
ドレイクは何も言わなかった。
ただ、また一つグミを取った。
工房の外では、ドワーフ達の声が飛び交っている。
鍛冶の話をしていた連中が、いつの間にかグミの感触について口々に意見を言い合っている。
シュレッゲンが俺の隣に立った。
腕を組んだまま、外を見ている。
「魔王ってのは……変なことばかりやるんだな」
「そうかもしれない」
「……悪くはない」
それだけ言って、また黙った。
外の賑やかさが続いている。
リリアが新しい鍋を火にかけながら、こちらに目を向けた。
何か言いたそうな顔をして——やめた。
ただ、口元が緩んでいた。




