10.鉄は折れず、冷やされる
~ドワーフ共和国 鍛冶王宮、正門~
フェアルード特認の荷車が、鍛冶王宮の巨大な門前にゆっくりと止まった。
重厚な鉄輪が石畳を軋ませ、埃を軽く舞い上げる。
荷車の側面には、交易大臣の特認を示す紋章が描かれている。
周囲の衛兵たちが一瞬で凍りつく。
槍を構えた手がわずかに震え、ざわめきが広がる。
「何だ……?」
「待て、交易大臣の特認車じゃねえか……どういうことだ?」
荷車の扉が、ゆっくりと開く。
中から現れたのは、黒いマントを纏った長身の男——魔王ヴォルド。
あとに、リリアとドレイクが続く。
赤い瞳が静かに周囲を一瞥し、悠然と地面に降り立つ。衛兵の一人が慌てて槍を突き出すが、ヴォルドは動じず、ただ静かに手を上げる。
「慌てるな。我らは戦いに来たのではない。交渉に参った。
鍛冶王シュレッゲン殿に、正式使節として謁見を願う」
その声は低く、しかし王宮全体に響くほどに重い。
ざわめきが一瞬で静まり、代わりに緊張が張り詰める。
やがて、王宮の奥から重い足音が近づいてきた。
鍛冶王シュレッゲンが、側近を引き連れて姿を現す。
髭を蓄えた巨躯のドワーフ王は、ヴォルドを見て目を細めた。
「……ほう。魔王ヴォルドか。
どうやってここまで来た?」
ヴォルドは静かに微笑む。
ゆっくりと荷車の方を振り返る。
「潜入でも奇襲でもない。
ただの……正規の交易ルートを利用しただけだ」
シュレッゲンの眉が上がる。
ヴォルドは荷車の側面を軽く叩き、紋章を指で示す。
「この荷車は、交易大臣フェアルード殿の特認車。
交易所で借りてきた。管理は下っ端任せで、記録も適当。
少々のチップと……適切な交渉で、難なく貸し出してもらえたよ」
シュレッゲンの視線が、荷車からフェアルードの方へ移る。
王宮の隅に控えていた赤鼻のドワーフ交易大臣は、顔面蒼白で膝を震わせていた。
「……フェアルード。お前か」
フェアルードの唇が震える。
「し、陛下……これは……」
ヴォルドは静かに続ける。
声に、冷徹な楽しさが混じる。
「この荷車は、通常の検問を最優先レーンで通過できる特権を持っている。
なぜなら、フェアルード殿が常用しているからだ。
隠し底の構造も……実に巧妙。
街道の監視が厳しくなった今、なおさら便利だろう?」
周囲の側近たちが息を飲む。
シュレッゲンの拳が、ゆっくりと握り締められる。
ヴォルドは肩をすくめる。
「皮肉なものだ。
魔石を横流しするための荷車が……結果として、我々を王都まで運んでくれた」
フェアルードが膝から崩れ落ちる。
「陛下……違います、これは……」
シュレッゲンは一歩踏み出し、ヴォルドを睨む。
だがその瞳には、怒りだけでなく——わずかな感嘆が混じっていた。
「……魔王ヴォルド。
戦わずしてここまで来るとはな。
面白ぇ……いや、恐ろしい男だ」
髭をたくわえた顔が、わずかに緩む。
ドワーフ王らしい、荒々しい笑みが浮かぶ。
「まぁ入れ。酒は飲めるか?俺の酒は甘くねぇぞ」
ヴォルドは静かに頭を下げる。
赤い瞳が、シュレッゲンをまっすぐに見据える。
「望むところだ。……交易大臣殿の『協力』に、心より感謝している」
最後の言葉が、中庭に静かに響く。
フェアルードの肩が、びくりと震えた。
〜ドワーフ王宮 深炉の間〜
炉の熱が、肌に直接当たってくる部屋だった。
石造りの大広間は橙色の光に満ちていて、天井まで届くような炉が壁際に三つ並んでいた。
長卓についた面々を、俺はゆっくりと見回した。
鍛冶長。鉱山主。財務官。若手職人代表。そしてフェアルード。
赤鼻が、杯を持ったまま微動だにしない。
「今日は魔王殿もいるからな、うちのもんは皆あつめたぞ」
シュレッゲンが豪快に麦酒を注いだ。
俺は杯を受け取りながら、全員の表情を一度ずつ確認した。鍛冶長は警戒。財務官は計算している顔。若手職人は俺への敵意を隠していない。
そしてフェアルードは——怯えている。
わかっているんだろう。今夜、何が起きるか。
シュレッゲンが杯を乱暴に置いた。
「フェアルード」
声が低くなった。
「魔石の横流しの件だ。魔王の前だ。禊だと思って吐け。国家の恥を抱えたまま飲めねえ」
フェアルードの指が、杯の縁でぴたりと止まった。
長い沈黙だった。
炉が唸る。火の粉が散る。誰も口を開かない。
俺も黙っていた。
やがて、フェアルードはゆっくりと息を吐いた。目を伏せたまま、口を開く。
「……二年前から、聖王国の規格照会が増えていました」
「視察団は炉よりも図面を欲しがった。新合金の試験値を、異様に」
鍛冶長の眉が動いた。
「準備だと、気づきました。——五か年計画です」
卓がざわりと揺れた。
「五年で聖王国製新合金へ全面移行。ドワーフ式は段階的廃止。技術輸出制限の草案も、私は見ました」
五か年計画。
それは帝国の情報にもなかった。
「帝国には先がないと見ていました。聖王国にはいずれ呑まれる。だから……魔石を少し流した」
フェアルードが顔を上げた。赤い鼻に、炉の炎が反射している。
「依存を一パーセントでも削りたかった。聖王国であろうと、帝国であろうと、我々にはまだ利用価値があると思わせたかった。ドワーフ共和国の利益を優先しただけです」
「鍛冶王様は誇りを守る。私は帳簿を見る。それが私の役目だと思っておりました」
炉が爆ぜた。火の粉が天井まで舞い上がる。
シュレッゲンは長いこと黙っていた。
やがて、鼻を鳴らした。
「腕は認めてる」
ぶっきらぼうに、しかし重く。
「だがな、俺は鍛冶屋だ。誇りを守るのが役目だ。聖王国の下請けになる未来は認めねえ」
その言葉が落ちた瞬間——若手職人が立ち上がった。
「俺の剣が……名前も残らねえ量産品になるのかよ!」
椅子が倒れる音がした。
「銘も打てねえ鉄なんざ、鉄じゃねえ!」
怒鳴り声が炉の唸りに混じる。
俺は強めに杯を置いた。全員の視線が、こちらに集まる。
「ならば、交渉を始めよう」
左隣でリリアがわずかに身を乗り出した。
彼女の緊張が伝わってきた。
今日ここに来るまでずっとそうだった。
馬車の中でも、王宮の廊下でも、この席についてからも。
わかってる。心配してるんだろう。
「まず、聖王国の未払い分は帝国がすべて肩代わりする。貴国に損は出させない」
シュレッゲンの目が、わずかに開いた。
「次に、魔石を市場価格の六割で優先供給する」
若手職人が息を飲む音がした。財務官が何かを計算し始めている。
「これで炉が止まらずに済む……」
財務官が呟いた。独り言だったかもしれない。
右隣でドレイクが小さく息を吐いた。満足げな音だ。
待て。まだ終わっていない。
「甘い話だな」
シュレッゲンが目を細めた。
「で? その代償は何だ」
「聖王国への武器供給を停止する。その間、帝国と貴国で最新武具を共同開発する」
一瞬、静寂があった。
次の瞬間——若手職人がテーブルを叩いた。
「ふざけんな! 俺たちの仕事を、魔族と共同だと!?」
「それじゃ結局、俺たちの技術を抜かれて終わりじゃねえか!」
鍛冶長が低く唸る。
「姑息だ……」
フェアルードが、静かに立ち上がった。
「恐ろしい奴だ……魔王、お前はどこまで考えている」
「鍛冶王様…お聞きください。これ以上聖王国に頼れば、炉の火が聖王国の色に染まるだけです」
シュレッゲンが睨んだ。
「黙れ、フェアルード。おめぇがそれを言うか」
フェアルードは目を伏せなかった。
「未払いが積もり、魔石がなければ炉は止まる。
止まれば職人は飢える。誇りを守るのは立派です。
ですが、誇りを守るために皆が死ぬのは……違う」
シュレッゲンの拳が震えていた。
「俺は……鍛冶王だ。誇りを売れってのか」
「売るのではない」
俺は静かに言った。
「冷やすのだ」
全員が、息を止めた。
「熱い鉄は叩けば曲がる。だが冷やせば——折れず、より硬く、鋭くなる」
炉の音だけが続いている。
「共同開発をする場所は治外法権とする。貴国の技術は貴国が守る。帝国は干渉しない。二重の鍵で、売買に関わる管理は双方の同意なくしては動かせないようにする」
シュレッゲンを正面から見た。
「その先、貴国は武器王国として君臨し続ける。下請けなど、決してならない」
押しすぎていないか。
一瞬だけ、自分の言葉を点検した。
ドワーフの誇りに触れた。だが折ろうとはしていない。
俺がやったのは「誇りを保ったまま進める道を示すこと」だけだ。
あとは——シュレッゲンが決める。
シュレッゲンは目を閉じた。
炉の唸りが続く。
誰も口を開かない。俺も、リリアも、ドレイクも。
長い沈黙だった。頼むぞ。
やがて——シュレッゲンがゆっくりと息を吐いた。
「……無期限停止はせん」
「だが……最新武具の供給は停止する。共同開発は……俺たちの炉でやる」
誰も笑わなかった。
ただ、炎が一段、低く、静かに燃え上がった。
決まった。
鉄は折られたのではない。
冷やされたのだ。
――宴の残り火が小さくなった頃。
リリアは炉の方を向いていた。
麦酒の杯を両手で包むように持ったまま、炎を見ていた。見ているようで、見ていなかった。
頭の中にまだ、交渉の場面が残っていた。
シュレッゲンの目が細まった瞬間。若手職人が卓を叩いた瞬間。フェアルードが立ち上がった瞬間。
その度に、リリアは息を止めていた。
押しすぎれば、ドワーフの心が折れれば交渉は終わる。
そう思うたびに——ヴォルドは押さなかった。
引くでもなく、押すでもなく、ただ場の温度を変えていった。
あの男はいったい、どこまで見えているのだろう。
「……リリアさん、飲みすぎていませんか?」
ドレイクが横から声をかけてきた。
「飲みすぎていません」
即答した。
ドレイクは何も言わなかった。
リリアは杯を傾けた。
麦酒は少し苦かった。ドワーフの酒は強すぎるとリリアは知っていた。
知っていて、今夜は少し余計に飲んでいた。
理由はわかっていた。
わかっていて、認めたくなかった。
宴が始まってから、ヴォルドはずっと場の中心にいた。
シュレッゲンと話し、ドレイクと話し、若手職人にも声をかけた。
自然に、計算を感じさせない動き方で。
リリアが十年かけて身につけた立ち回りを、この男は転生から十日足らずでやっている。
それは——誇らしかった。
同時に、どこか遠かった。
私は何をしているのだろう。
リルムが玉座に近づいた時、私は陛下に近づきすぎないように止めた。
今日の宴でもリルムが来れば同じことをしただろう。
それは帝国の宰相として正しい行動だ。
ただそれだけだ。
そう言い聞かせながら、杯を空にした。
「ヴォルド様」
声が出ていた。
自分でも気づかなかった。
いつもと違う呼び方だと、口に出してから気づいた。陛下ではなく、名前で呼んでいた。
ヴォルドが振り向いた。
リリアは続けた。止められなかった。
「ヴォルド様はリルムを贔屓しすぎではありませんか」
声が掠れていた。
周りの喧騒が続いている。誰もこちらを見ていない。
それが、歯止めを外した。
「私だって、帝国のためにずっと頑張ってるのに。今日だって、ずっと心配で、心臓おかしくなるかと思って……なのに陛下は全然気にしてないし、終わったら終わったで涼しい顔で——」
止まった。
——何を言っている。
「……あ」
頬が熱かった。耳まで熱かった。
「いま、私、何言って……」
「ち、違くて。その、さっきの交渉が怖くて飲みすぎただけで、別に、リルムに嫉妬してるとか、そういうんじゃ、全然……」
言葉を重ねるほど、深みにはまっていくのがわかった。
「……忘れてください」
炉の方に顔を向けた。
見てもらいたくなかった。この顔を。
杯を持つ手が、かすかに震えていた。
沈黙があった。
長い沈黙だった。ヴォルドは何も言わなかった。
やはり、聞こえていなかったか。
そう思いかけた時。
「よくやった、リリア」
低く、静かな声だった。
リリアは動けなかった。
——よくやった。
それだけだった。それだけの言葉だった。
なのに。
胸の奥で、何かがゆっくりと解けていく感覚があった。
今日ずっと張り詰めていた何かが。
全部、見えてたんだ。
私が心配していたことも。緊張していたことも。ずっと隣で見ていて、全部わかっていて。
それでも何も言わなかったのは——信頼していたからだ。
リリアはそう理解した。
頬が、さっきより熱くなった。
手が、頭に乗った。
重かった。確かな重みだった。
リリアは動かなかった。
というより——このままでいたかった。
もうしばらくだけ。
「ドレイク」
ヴォルドの声がした。
手が離れ、ヴォルドの手がドレイクの頭を目がけた。
「よくやっーー」
次の瞬間、ドレイクがヴォルドの腕をつかんだ。
ドレイクの低い声がした。
「……お断りします、陛下。お気持ちだけ頂戴しますよ」
リリアは顔を上げた。
ヴォルドは何事もなかったかのように手を引いていた。
ドレイクは杯を見たまま、何事もなかったように座っている。
「……ふふ」
笑いが漏れた。こらえる前に出てしまった。
炉の最後の火が、ゆらりと揺れた。
麦酒の残りを、リリアはゆっくりと飲んだ。
さっきより、苦くなかった。




