#09 菊亭の品格
永禄十三年(1570)三月七日
大前提、社会は利害関係だけで成り立っている。
それはどのレイヤーでも同じこと。家族関係も友人関係も社会も、あるいは単位の大小に関係なく等しく同様に利害関係で成り立っている。
と、いったん仮に規定するならばあるいは国家でさえその大枠に収まるのではないだろうか。
国家とて概念とはいえ所詮は集合体。人の織り成す社会の最大公倍数に過ぎないのだし。……とか。
思ったり思わなかったり。
だが問題の本質はそこにはない。本質はそれと同じくらい扱いづらい意識体系あるいは思想傾向にある。
これらが真っ向から対立するとお仕舞いです。イデオロギーの対立に終わりはなく、一時的に部分的な優劣はつけども勝者はいないという負のスパイラルに嵌り込む。たとえ国が滅ぼうとも思想が滅びることはないだろうから。
「ぬぐぐぐ、風呂キャンセル界隈めぇ」
いったん謎の勢力に怒りをぶつけておいて、さて。
今日も今日とてなんやかんやと回りくどい言い訳の羅列から入るこのショタ彦だが、負のスパイラル的泥濘にどっぷり首まで嵌っていた。
またいつもの大袈裟なやつ。
思われるだろうが、ところがこれで案外まぢである。本気と書いてまぢとルビを振る方のまぢ。何がまぢなのかと言うとまぢに食らっているのであった。
では何に。果たして何度目だろうマネープレッシャーに。である。
それを証拠にいつもならドヤ顔で尤もらしい持論を展開しては、それがさも世間一般的な総論かのような顔で帰結してみせるのだが、何やら今日は様子が可怪しい。
目に力も光もなく、常なら小さいなりに活力と自身に満ちている存在感もどことなく薄れていて煤けて見えてしまっている。
まるで自らが練ったビジネスモデルが破綻した人の顔つきをしていて、あるいは自分の底が知れてしまったかのように終わった顔つきをしていた。
ともすると安く買い叩くことを前提で設計されているビジネスモデルなのに、アフリカあたりのよくわからない現地地権者に“NO値段が安いです。それでは売れませんネー”と、大陸あたりの競合他社の存在を匂わせられつつ、不意に掌を返されてしまった商談決裂間際の資源バイヤー商社マンの顔つきと同じ顔つきになっている。
そんなお疲れムードの思惑外れ彦は、対してメンタル消耗とは無縁の自称菊亭一の御家来さんと、つい最近お気に入りの仲間入りを果たしたほやほやのわらび餅に舌鼓を打っていた。
「うまっ――! 何べん食べても美味しいです。これなら某、あと6ついけますわっ。うまうまぱくぱく」
「お雪ちゃん。それは現実的にいけそうな数をゆーたらあかんのよ」
「ん……あれ? 若とのさん、いつもみたいに声を張りませんのん」
「張りませんのんやで」
「もしや不調ですか」
「堅調やで」
「ふーん。どれ」
雪之丞にゼロ距離でしげしげと観察されるも、どうやら逃げ切る。
尤もこの監察官の目は往々にして節穴だらけなのでそう大した作業ではない。
「な」
「まあ。で、どんな数をゆーたら美味しさが伝わりますの。某、この蕨の羊羹を流行らせたいんです」
「蕨あ餅さんや」
「あ、そやった。ワラビアモさん! それです、どないですやろ」
「放っておいても流行るけど」
「某発信で流行らせたいんですわ。まずは家内から」
「蕨侍とか何とか、また裏でけったいな二つ名付けられるよ」
「光栄ですやん」
まあ感覚は人それぞれか。果たしてそうかなという思いは強いが多様性を尊重して。
「ふむ、なるほど。ほな教えたろ。そういうのはあり得ない数を誇張してこその美味しさアピールに繋がるんやで。例えば100つ! とか」
「これお一つおいくらで」
「さあ、20文とかと違うか。知らんけど」
「それを100つ。アホですやん」
おま……っ。
まあいいだろう。ほんまはアカンが、たしかにバカっぽかったし。
「まあそういうこっちゃ」
「なんやようわかりませんけど、ほなあと10つ! ……いや、10つは美味しく食べられませんわ」
「あのお雪ちゃん、その口ぶりやと無理したらまだいけそうなんやけど」
「いけますやろ」
「話訊こ? 身共は今の今、大袈裟に誇張しなさいとゆーたよね」
「あ」
「あ」
だが天彦は知っている。雪之丞が大言を壮語しないことを。
何も雪之丞の生真面目な一面が出たわけではけっしてない。然りとて几帳面でもけっしてない。むろん神経質とも無縁である。
要するにへんに可怪しな拘りが出てしまっているだけで変調ではなくどちらかというと復調寄り。すなわち国境線は極めて正常であった。
変調はむしろ御狐ショタの方。声を張って突っ込まないこともそうだし、どうやら今回ばかりはちょっと本気で弱っているようである。
「なんや若とのさん、しおしおですやん。どないしはりましたん、そない凹まって」
「別にどないもしてへんさんよ」
「したはりますやん。……ほなお一つ差し上げましょか」
「気持ちだけ貰うとこ。自分でお食べ」
「ほんまに? あとで欲しいゆわはってもあげませんよ」
「ええからお食べ」
「はーい」
するとそこに取次役の是知が顔を覗かせた。
「申し上げまする。例の客人が罷り越してございます」
「ん。ほな応接間にお招きして」
「はい」
「そや是知、一番上等なお菓子で持て成したって。あれは甘党やったん」
「はっ。承りましてございまする」
「そうや是知。佐吉を近づけたらアカンで」
「……殿、僭越なれど、某、どうしても申し上げたき儀が――」
「僭越や」
「う」
「是知、常とは申さん。けれど今は指示通りにしたらええ。そういう場面や」
「くっ……、ご無礼仕りました。そのように手配いたしまする」
「ん、そうしたり」
「はっ」
別に意地悪や佐吉贔屓をしているわけではない。
これが逆の立場であり、訊いたのが佐吉であっても天彦は是知の面目を守るために同じ言葉を佐吉に伝えたことだろう。
「是知は大間抜けやな。お前は大そう賢の大阿呆なん」
「ぐぬぬぬぬ、おのれ朱雀め」
二人がいちゃいちゃし始めそうな怪しい雲行きになると、
「お雪ちゃん」
「はーい」
「ほんまにあかんよ?」
「はい」
天彦はちゃんと仲裁に入った。そして弱り目に追い打ちをかける雪之丞を目配せで咎めてから執務室詰めの文官諸太夫たちと側用人たちに退席を伝える。
「身共は参るで」
「はい。行ってらっしゃいませ」
そしてそっと立ち上がり応接間に向かった。
◇
雪之丞と字数にしてざっと1,500字はいちゃいちゃしたので必要成分は補給できた。
天彦は招いた客の待つ応接間に向かう長い廊下をぼそぼそと歩く。数名の専属護衛青侍を左右と背後に引き連れて。
向かう数歩前には安全確認のこれまた護衛が先行している。随分と厳重な警備体制だが改元が行われるまでは万全を期す。天彦が自分から申し出た警備体制であった。
アイスの売り上げと水難事故の発生件数に相関関係があるように、天彦のたっぷり儲けたろ発言と実際の結果である大損には歴とした相関関係が存在した。
あるいは果たしてこの場合、ベクトルの矢は一方通行を指し示すのでひょっとすると相互ではなく因果関係かもしれないが……。
身共、因果関係と相互やし! そんな自慢話は存在しない。存在しても絶対厭すぎる自慢である。
が、いずれにしても天彦はいい加減学ぶべきである。己が銭を語るとき必ずフラグが立つことを。そしてそれが高速で回収されてしまうことを。
「菊亭は高速フラグ回収機構なん。これはいよいよお祓い参らなアカンかな」
菊亭ではなくオマエである。そしてお祓いを受けてくれる寺社などない。この日ノ本のどこを探し回ったところで。じんおわ。
さてお約束を踏まえたところで、天彦が浮かない理由。それはすでに明かしている通りマネープレッシャーに圧し潰されそうだから。つまり銭がない。この一言に尽きるのである。
更に詳しく言及すると、それは佐吉が担当した醍醐寺との交渉案件である。
そう。徳川から依頼されていた信長無茶振り案件の、京雀の人気取りミッションに勝手に紐づけたバーター案件である。
大変にしくじった。そういうこと。
ミッション自体は容易かった。この時代、武家の風習や習慣を公開しておけば庶民は喜びやんやの喝采を送るので。
よって今回も徳川家馬術訓練の公開大会を開催する運びとしたのだ。ちょっとした演出スパイスとして御前観覧、即ち行幸(帝に足を運んで頂くこと)を仕込み中である。
特別感はそのくらい。訓練自体は弓術を主体とした何の変哲もない馬術訓練である。
しかし天彦はそこに捻りを加えた。その観覧券に富くじを抱き合わせる例の件である。
うまうまで進行していくはずのうはうは楽勝案件だった。ところが予定を大幅に遅らせるどころか頓挫して、僅か三日で暗礁に乗り上げてしまっていた。
ハァ……!? ふざけろカス。なのである。
渉外担当佐吉にはあの次郎法師を補佐に付けたのだ。現有戦力では万全の布陣だったはず。ところが……。
万全で望んでおきながらの大失策、大失態に、菊亭の家風ともいうべき緩い空気感をまだ知らない彼女などは自責の念から自ら責任を取って切腹を申し出るほど深刻な事態へと発展してしまっていた。
全寺社議連が動いたのだ。違う。そんな議連は存在しないが、主要な名立たる寺社勢力が一斉に抗議の声を挙げたのである。しかも抗議行動には各々の宗派の代表格(主に公家)たる熱烈な信徒を伴って抗議行動に出たのである。酷い。
なので貴族議連が立ち上がった。打倒菊亭、ギブミーマネーを合言葉に。酷い。
むろん酷かったのは天彦である。霊験灼然な富くじ付きお札付き観覧券を、半ば死に体の醍醐寺などに担わせるというウルトラCならぬセコとらZを決めようとしたのだから。
黙っている寺社界ではなかった。手を拱いているだけの公家界ではなかった。
如何な天彦、如何な菊亭と雖も風呂キャンセル界隈の存在はキャンセルできても、寺社界隈と公家界のタッグを組んだ抗議の声はキャンセルできなかったのである(棒)。
だがその声は笑いごとでは済まなかった。秒速17.2メートルの猛威を振るってたちまち内裏まで届けられ、瞬く間に宮廷女房殿が派遣された。どなた様かのお気持ち表明が認められた蔵人親書を持参して。
お仕舞いです。菊亭天彦号はそのままの勢いの秒速17.2メートルの逆風の煽りを食らって撃沈した。いやもはや轟沈であろうか。水面には三つ紅葉が模されたマストが見えるだけ。圧倒的敗北であった。
ならばすることは一つ。秒速17.2メートルを上回る速度で内裏に急行、平身低頭謝意を示して今に至る。
むろんお友だちになったばかりの言経さんを伴って。
その自称政策仲間からは……参議さん、菊亭との交友関係はゼロベースで一から練り直したくお思いさんや。の言葉を頂戴したとかしないとか。
閑話休題、
そして帝の御内意は絶対である。神は言った。|可及的速やか(ASAP)に和解せよと。
するしかねー。だって改元が控えているもの。
天彦的には1570年の肝。一番の見せ場ザマァ場面である。マストで必要。
ならば帝も当然ながらそのことをご承知。だからこその絶対的マウントを取ってこられたのだから。
あの超優秀かつ超有能な宮廷ネゴシエーターがこのような強権を振りかざしたごり押しをするはずがないのである。
よって天彦は珍しく寺社界隈の和解案をすべて飲んで敗北を受け入れた。言経がそうした方が得策だと言ったから。
というのもこれまではずっと自分だけの判断でこうなってきた。だから他力に縋ってみたのだ。敢えて左右されてみたのだ。
するとどうだ。それ以上の揉め事はなくなったではないか。やはり他力本願寺か。天彦は感心した。
「いや、そうはならんやろ」
ならない。ならなかった。なぜならその他力本願寺が一番鬱陶しかったから。
絶対にコロス。そう胸に誓ってしまうほど、茶々丸ぱっぱは実にウザ忌々しい存在だった。
だがさすがである。しゃしゃり出てきただけあって、ちゃっかりがっつりと利権に食い込んで利益の過半を総浚いしていった。……嘆き!
よって富くじは予定通り販売されるが利権はすべて消し飛んだ。
おまけに土地の取得にも要調整の注釈がつけられた。信徒の取り込みも同じく保留とされた上で。
身共はあれに勝てるのか。
率直に疑問に思った。天彦にとって本願寺顕如という人物の存在感はそれほどに圧倒的で凄まじかった。
するとどうなるのか。堆く積もっていく日々の炊き出しやセイフティネットサービス分だけ足が出る。しかも何か事業が軌道にのるまで延々ずっと。
寺領の民など手に職があるでもなく、畑でも耕していなければただのお荷物なのである。それが毎日。
そんなお銭は菊亭にはありません。お仕舞いです。そういうこと。
天彦は今回ほど、己が貴種であることを悔やんだ。いやいっそ呪った。
なぜなら天彦はどうしても公家であることに拘ってしまう帰属意識高い系男子だから。貴族だけに。
着いた。
人生はほとほとままならない。ほーっと息を吐いては吸い。
「入るで」
「どうぞ」
応接間に入室した。
◇
天彦は上座から下座に向かって辞を低く、実に公家らしからぬ低姿勢で、
「恵んでください。銭がないん」
開口一番、懇願した。オニ強請りした。
対する交渉相手は、
「ほんまにけったいなお人ひとさんや」
笑うでも呆れるでもなく、淡々と事実だけを言葉にした。
普通なら口を開くなり銭寄越せは失笑ものだが、見た目弱弱しい児童の懸命な懇願。ともなると、それだけでも心ある大人にとってはかなり効くはずである。少なくとも天彦はそう積算していた。
それだけでも効き目は十分。加えておまけにその人物は殿上人。それどころか英雄家の直系御曹司の大公卿である。
貴種中の貴種が行う懇願ともなれば、された側の自尊心をくすぐるには不足はない。
そしてその滑稽さが何とも様になっているだけあって、むしろ逆に切なさを際立たせるのだが、このキッズはそんじょそこらのキッズではない。
もちろんそこまでが策意なので心底お困りのご様子と受け取られたらまんまとである。
大前提、相手方が普通なら。
だが天彦に対峙する目の前のこの男。普通の感覚の人物ではなかった。普通の商人ではなかったのである。
「徳蔵屋さん。お願いするん」
「参議様から“徳蔵屋さん”などと呼ばれた日には、地獄へ行くのが楽しみでなりませんわ」
「……いけず」
「褒め言葉として頂戴しときましょ。いひひ」
いつかの悪徳土倉(高利貸し)徳蔵屋酒造の御曹司、徳倉半造。
そんじょそこらの悪徳商人ではない。少なくとも権威に寄り切られるような玉ではなかった。
猶、天彦が徳蔵屋と特別親密になったといった経緯や事実は一ミリもない。
ならばなぜこうも親し気なのか。それは単に徳蔵屋が横柄なだけ。良い風に解釈すれば人好きのするパーソナリティがあったればこそ。
けれど実際にはどうだろう。彼の強気の態度のその裏に甲斐源氏復活の背景がどうしたって過ってしまう。
何せ徳蔵屋は武田のお墨付き商店だから。普通に考えればそういうこと。
そしてそれは天彦も織り込み済み。徳蔵屋はたしかに大店だが、それだけではパンチが弱い。背後か裏に甲州金がなければ呼び寄せた意味も半減する。
そういうこと。これは狐と悪徳土倉狸との化かし合い、騙し合い。
だがさすが徳蔵屋。思いの外手ごわかった。狸だけにカチカチである。
む。……なしで。
ならば再戦。天彦は自分の中で勝手にリセットして再戦を挑んだ。
「半造さん、銭がいるん」
「皆さん要りますわな」
「身共は特に要るん」
「それはお困りのご様子ですなぁ。そやけどこないたんと召し抱えたらそれも当然かと思いますわな」
「当家の事情に口を挟むのか。商人風情が」
「一般論ですわな。癇に障ったならお詫びしましょ」
「信濃では散々っぱら儲けさせたったん。商人には義理はないのんか」
「儲けることこそが本懐ですよって、義理ごとを欠くのもまあ商家の常ですわ」
「居直るんか」
「そっくりそのままお返ししましょ」
「返すな! 僭越やぞっ」
「そない道理の通らん癇癪起こさはるなら御前、即刻辞しますが」
あ、はい。
や、あるかい。
んきゃああああああああああああああああああああああああ――ッ!
天彦は頭を掻き毟りたい衝動に駆られる。も、どうにか制御して、
「すーはー、すー」
いつもより余計に息を吐いて感情を整える。
作業ゲーちゃうんかい。こんな手強いとは訊いてへんぞの感情で。
いずれにしても戦いの鐘は鳴らされた。
アドヴァンスな両者は否応なしにタイトでタフなネゴシエーションと向き合う他ないのであった(棒)。
視聴者はリスナー。では読者は。 リーダー?
普通にダサいよね。キャプテンシー発揮しないとだねみたいな響きだし。
やっぱし読者はドクシャーだ、とか笑笑。ウケれば幸いなのですが。
では雅楽伝奏~のドクシャーご機嫌よう。次回までサヨナラバイバイ
PS 6月ですね、……なんもなかった。