#21 数字でも記号でもましてやアバターなどではけっしてなく
永禄十二年(1569)十二月二十八日
年の瀬も差し迫った京の都は今日も今日とて賑やかしく。
けれどそんな洛中の喧騒とは一線を画す土地、横大路城城下に拵えられた菊亭の仮暮らし用邸宅では普段通りの日常が進行している。
あるいはひょっとすると普段よりかは少し余所行きかもしれないが、いずれにしても平常運転。ところがその一室、天彦の執務室に織田家から急報が舞い込んでにわかに雲行きが怪しくなった。
その知らせを持ち込んだのは京都所司代、三介御大であった。
「親父からや。目を通せ」
天彦は書面を受け取る。だがけっして書面を開かず目を通さない。
その受け取った封書、いやかつては封書だった書状をじっと凝視したまま難しい顔をした。
「これを持ち込んだのは」
「木下じゃ。木下の手下の者じゃ」
「ほう」
「な、なんじゃ。もしや貴様、わ、儂を疑っておるのか!」
「下手くそか。そもそも身共にとって真偽などどうでもええさん」
「う」
天彦の声のトーンはおそらくきっとこれまで三介が一度たりとも耳にしたことのない冷たく響く領域であったことだろう。
天彦のほとんどすべての顔を知るはずの執務室に詰める家人・用人たちでさえ俯き加減に目を伏せて勘気に触れないよう最大限自分を守る態度に徹した。
そんな声音のまま天彦は語り始める。
「これは今後を占う重大な局面におじゃります。余人を介さず言を尽くしたく存ずる。信長公に措かれましてはご不審な点多々おじゃりましょうが、菊亭にとっても生死を別つ重大局面であると御理解いただき、身共御自ら岐阜に馳せ参じるまで御猶予ねがいたく存じあげさんにあらしゃります」
天彦は立ち上がると一礼し、一文たりとも目を通さなかった書状の中身を言い当てたかのように振舞った。
そしてその予測は正しかったのだろう。三介は魂消た感情のまま目を見張って驚嘆を張り付け、その間抜けツラのままで固まってしまう。
だがお役目を思い出したのか。それとも純然たる友情の芽生えか。三介は持ち前の負けん気で気を取り直すと、
「菊亭。親父殿は危惧しておいでじゃ。お前と毛利の接近を」
「ほう」
「はっきりと申してやる。お前の胡乱な行動を勘繰っておいでであった。そして予見なさったのか僭越じゃと御怒りでもあった。悪いことは申さん。菊亭、毛利の人質を当家に預けよ」
割と重大な情報だった。だが天彦は取り合わない。
それどころか、冷ややかよりも冷たい冷笑を浮かべて三介を鼻で笑った。
「おい織田。三流武家。いつから当家は家来となった」
「な……ッ」
「弾正忠家ごときの風下に立った覚えはないが。それでも従えたいならそれも一興。家を滅ぼす覚悟で参れ。身共は正々堂々受けて立って進ぜたろ。逃げも隠れもせんよって、どこからでも掛かってまいられい」
「おまっ……」
ウソをつけウソを。
この座に居合わせた全員の心の声であろう。
お前、逃げ回るし隠れまくるやん。正々堂々が訊いて呆れるほど卑怯やん。そんな感じの雰囲気に満たされる。
だが天彦はモードに入っているのでお構いなしに続ける。
そして他と同じ温度感のそんな呆れ100の三介を極めて冷ややかな視線で一瞥して。
「但し茶筅。お前さんは出禁や。二度と身共の前にツラを出すな」
「なっ……」
冗句の中に本気を交えた。
そしてこれだから油断ならない菊亭の御当主は、どこか浮ついていた座の雰囲気をまるごと一変させて雰囲気を得意の自分ペースに持ち込んだ。
しん。と静まり返る執務室に、扇子を弾く音だけが響く。
「この朝臣たる菊亭に検閲が必要か。清華家たるこの菊亭、それほど信用に値せぬ下衆におじゃるのか。信を問うなら今ここで問え! 如何なりや織田三介」
「くっ、違うのじゃ」
「何が違う。お前さんのしたことはそういうことや」
「儂はして……、いや他意はない。いや他意はあった。だが悪意はないんじゃ。許せ、菊亭」
「いいや許せん。お前さんは一事が万事迂闊すぎる。仮にこれが逆であったならお前さんはいったいどうしていた」
「そのような不埒者、刀の錆にしてくれるわ! ……、許せ。今気づいた」
「そういうことや。すべてが一拍遅れている。なぜ御自分がされて立腹することを御自分はなされるのか。お前さんはそれほど偉いのか。偉いのは父御前ではないのか。そこらあたり、じっくりと考えて行動に移すが最善やと身共は思うが」
三介はしばらく考え込み、
「お前が隠し事ばかりして、一向に心の内を明かしてくれぬからじゃ」
唸るようにつぶやいた。
誰の目にも強がりは明らかな口調とトーンで。
それでも本心は100打ち明けているのだろう熱量で。
はぁ……、しんど。
天彦は鈍く痛む頭を押さえるように目を眇めて、小さくため息を吐いた。
けれど追求の手を緩めたなどと誤解されるアクションは一切取らずに、持ち前の険しい視線に輪をかけた厳しい眼光で三介を直視した。
そして視線を一切外さずに扇子をぱちん。弾いて告げる。
「今の茶筅に局面を決定づける重要な策は明かせん。不肖身共は菊亭一門の頭領におじゃります」
「存じておる。だから儂は、それとも儂では盟友に不足と申すか!」
「そう申した」
「くっ」
天彦はおそらくこれも初めてであろう本心を打ち明けた。
これが今自分にできる精一杯とばかり、有りっ丈の感情と願いを込めて。
三介は理解したのかしていないのか。まあしていないだろうと思っていた方が無難な表情で二度ほど頷くと、
「儂は京都を預かる立場としてお役目を果たしただけである」
どこか拗ねた風に言い放つと立ち上がり上座の天彦に背を向けた。
そもそも貴様、儂に上座を譲らぬとはどういう了見じゃとか何とか恨み節をつぶやいて歩み始める。
天彦が肩を上下させてデスヨネのジャスチャーでそのあからさまに淋しそうな背中を見送る中、三介は三歩、四歩、あるいは五歩で歩みを止めた。そして振り返らずに、
「じゃが指摘のとおり友としては最低であった。以降は浅慮を慎む。この通りじゃ許してくれ」
「茶筅……」
背を向けたままぺこりとお辞儀、これがきっと彼なりの最大限の譲歩の謝意なのだろう意思を示して。
それがはっきりと伝わるどかどかどかと荒い歩様で天彦をキュン死させて、推定死亡判定の出ている天彦の執務室を立ち去っていくのであった。じんわり。
するよね。
なにせあの全室町後期DQN侍代表選手のような超弩級慮外者が慮ってくれたのだから。
その嬉し味は普段から配慮のできる人物の見せる配慮の何倍もの破壊力を発揮して天彦の感情を激しく横に揺さぶった。
脳裏では騙されないでっ! あれこそDQNが田舎でモテる理由やで。と、警鐘をならしているが、やはり効果は覿面だった。感情には抗えない動物なので。
いずれにしても茶筅の天性は天彦の心を鷲掴みにしたようで、天彦を何だかわからない正体不明の感情の渦の中に落とし込むのであった。
やはり波長があうのだろう。そういえば波長は位相があうとしないと正しくないという論説を耳にしたが果たして。
一瞬考えこんでいるとそこに、
「いや、あれに食らうんは若とのさんだけやと思いますん」
「なんでよ」
「何でも何も、あんなもん表出たらもう忘れたはりますやん」
一瞬想像してみる。……たしかに。
だが癪に障る。いつも欲しいのは正しさではなく温もりだから。
「ほなお雪ちゃんと一緒やん」
「はい。ほな若とのさんとも同じですね」
「お雪ちゃんはいったん黙って」
「黙りません」
「ほう、珍しい。その心は……、あ、はい」
「目、覚めましたやろか」
「うん。おおきにさん」
雪之丞は全菊亭家人の声を代表して進言しに来ていたようである。
天彦の視線の先にはイツメンを始めとした側近の面々誰もが、織田に入れ込み過ぎるなという思いを視線に預けて熱い眼差しで訴えていた。
生意気にも。僭越なれど。だがまあ覚めたので良しとしよう。
「ごめんやで」
「貸にしておきます」
「ほなずっと貸してる分からさっぴいとてんか」
「……」
お雪も黙らせたったん。
本調子を取り戻せた天彦は魔法が解けたスッキリ頭で思考する。やや離れた位置で待機する、現在も逗留中の二人の姉弟を視界の端に入れながら。
「毛利元就公。存命でも御厄介、他界してもほとほと御厄介さんとは、いやはや難物におじゃりますな」
どの口で。
側近たちの耳に届くボリューム感でつぶやかれた天彦の言葉に対するレスはこうだった、とか。
◇
「みんなで鰻を呼ばれよ」
おお――っ!
ウナギは正義。知らんけど。すでにこの京都では高級化の兆候が出始めている鰻膳を五十人前ウーバーして皆で呼ばれる。
そしてそのウナギ料理のレシピを利用して鰻屋を立ち上げた菊亭の元用人料理人はすでに蔵付きの邸宅を洛中に構えているらしいのだ。
本家の当主が仮暮らしの真っただ中にあるというのに。延々と借金生活の仮住まいだというのに。
「なんでも気前ようあげはるからですやん」
「身共なーんもゆうてへん」
「お顔さんが、ぐぬぬぬってなったはります」
「あ、そう。でもそのお陰さんでこうしてただ飯にありつけているわけなん」
「小さい喜びですね」
「それでええんよ」
「はい重々知ってます。人のお財布なんかどうでもよろしいやん、はよ呼ばれましょ」
「うん、そやな。そないしよ」
いただきまーす。
家人が声を揃えて礼賛して一斉に鰻を頬張った。
閑話休題、
その皆の中には依然として菊亭仮住まい屋敷に逗留している毛利家の一姫と八男坊の姿もあった。
美味しいさん。でも60点。
生意気にも酷評してさて、ある程度腹が満たされたところで箸を置く。天彦の胃袋にはこの時代の平均的分量はかなり多い。
よってすべては食べきれないので下げ渡す意味で料理を下げさせて、
「金鶴」
「はっ」
「食べ終えたらこっち参るん」
「……では、お言葉に甘えまして」
金鶴は膳をがっつくようなことはせず、静かに箸を置くと一礼して立ち上がった。
天彦はしん姫にも目配せして傍に呼び寄せる。
天彦の傍に二人が参った。
やはり先に礼をしたのはしん姫であった。
「お傍をご無礼いたします。ご家中の皆様方、高い位置からたいへん失礼いたします」
「ええさんよ。さあデザートや。一緒に呼ばれよ」
「はい。頂戴いたします」
デザートが何であるのかなど問わず、二人はすべてを受け入れた。
破格の待遇に菊亭家中の態度は二分している。けれど天彦に近い者ほど天彦の意図を正確に掴んでいる風である。
むろんただの興味本位などではない。すべての行動に意味はある。すべては盛った。だが少なくともこの行為には意味があった。
一つに毛利家を西国田舎の底辺大名と侮られないためにと、そして本命、この金鶴丸の地位保全のためである。
彼は今後相当なキーマンとなる。天彦の見立てが正しければ数百万、あるいは数千万の命に係わる重要な人材であった。
だから、
「金鶴」
「はっ」
「家の子におなり」
「……はっ、ありがたく頂戴いたしまする!」
金鶴は躊躇することなく受け入れた。これには周囲もビックリである。
但し一番驚いているのが持ち掛けた天彦自身だというのだから実に締まらないエピソードである。
おそらく事前に示し合わされているのだろう。すると毛利の女性、与えられた地位ではなく自らの知性で勝ち取ったのか。そう勘繰らざるを得ないほどしん姫の智謀と見識は天彦の眼鏡に適った。控えめに言って好きである。
何が。
そのなりふり構わず生き足掻こうとする無様さが。
死にたがりの武士と違い、何とかして生きようとする公家っぽさが天彦の琴線にちゃんと刺さった。
そして同時にこのしん姫の判断が天彦の予感を確信に変えさせていた。
では何を。
毛利家の分裂を。
史実では毛利家の両輪であったはずの両川家(吉川・小早川)は、どうやら野心満満のようである。あるいは野心を捨てきれない若さが邪魔をしているのかも。
そして当主輝元は史実で家督を継いだ年齢よりずっと愚かでずっと青い年齢なのだろう。頼りなさを嘆かれて不思議はなかった。
しかしそれを語るには毛利家の概略を少し。
毛利家は弘治三年(1557、天彦に生まれる三年前)大内家を攻め滅ぼし大内氏の所領のほぼすべてを手中に収め大名となる。
その勢いを駆って北九州に攻め込み筑前国や豊前国の秋月氏や高橋氏らと共に大友家とも矛を交える。
同年(弘治三年/1557)吉川・小早川両家が安芸毛利家運営参画・補佐を条件に元就嫡男隆元が毛利家家督を継ぐ。
こうして毛利家を吉川・小早川両家で支える体制が確立され領国支配を盤石なものとしていった。
これを受け永禄三年(1560)、隆元は室町幕府から安芸守護の任に命じられ、名実ともに確かな地位を確立する。
だがその三年後の永禄六年(1563)当主隆元が早世してしまい、その跡目を嫡男である輝元が継承することとなった。
だが輝元は幼く(1553生まれの数え四つ)元就(祖父)と吉川元春(叔父)、小早川隆景(叔父)が当主を後見するテイの毛利三頭政治が復活した。
そして永禄九年(1566)輝元は仇敵尼子氏を滅ぼして西国(安芸・周防・長門・備中・備後・因幡・伯耆・出雲・隠岐・石見)を領有し名実ともに戦国室町最大の大大名へと下克上を果たしたのである。
この後史実では信長と衝突し京を追放される足利義昭を庇護して信長と敵対、最大の抵抗勢力として立ちはだかるわけだが。
どうやら史実より数年早く支柱であり軸であった元就公の逝去のせいで、家中の混乱が著しいようである。
この頃、当主輝元齢18。まだ経験豊富というには覚束ず、元来の慎重な性質も相俟って家中の信頼を今一つ勝ち得てはいないようであった。
つまり毛利は割れている。将軍家と織田家との間で。
だからこそ八男の人質差し出しは菊亭家が最善だった。はずであるというのが天彦の見立て。
菊亭ならば織田勢だが朝家の忠臣(笑)でもあるのだから。事実だけを捉えるなら東宮の別当とは忠臣以外に意味はないのである。
つまり最悪の場合は言い逃れができる菊亭は格好のインシュアランスなのである。
その保険事業は早々に破綻しているが。莫大な負債を置き去りにして。
ほろ苦い記憶には蓋をする系男子である天彦は、慣例通り苦い記憶を封印してさて。
問題の人物、即ちこれだから愛され前提の恵まれっ子、キライやねん男子の人物像を思い浮かべて、
「それでしん姫さん。右衛門督さんはどっち付かずか」
「……やはりお噂は、いやお噂以上の千里眼にございますのね。……恥ずかしながら御慧眼の通りにございまする」
やはり両川叔父さんが割れた。そして当主は決断を下せず。
これは天彦にとって痛恨であり延いては織田家にとっても痛恨である。戦乱の土地を収めるのとすでに収まっている土地を分盗るのとでは労力も時間もまるで比較にならない。
「するとしん姫さんは、毛利が割れたことによって滅ぶとお考えにならはっているわけやな」
「もはやこうなっては是非もなし。隠し事はいたしませぬ。いいえしたくともできませぬわね。はい、然様にございます。当家は今や一枚岩ではございませぬ」
「うん。そやろうね。そやけど右衛門督さん、そない悪い人材やないさんよ」
「平時ならば同意もできましょう。ですが……」
織田家に煽られている、か。あるいは将軍家に煽てられている、か。
いずれにせよ輝元、どっちつかずに悶々としているようである。お得意の持ち前の優柔不断を発揮して。
が、天彦にとっても痛すぎた。さすがに西軍を預かる佐吉以上に痛すぎるということはないとしても痛い。というのもせっかく室町幕府との柔和路線を敷いたばかりなのに。まんじ相性激ワルなのがここにきて露呈されていく。
だが道は一本。近道も遠回りもない。隘路はあるかもしれないとしても。
天彦は珍しくしんどそうな顔で落胆を浮かべると、ぺしぺしと乱調ぎみに周囲を手当たり次第に扇子で叩いた。
ややあって、
「しん姫さん」
「はい」
「貴殿を毛利両川殿を抑え込める傑物と見込んで明かすものなり」
「はっ。僭越なれど然様心得ておりまする」
「よかろう。ならば身共には毛利を救う秘策がおじゃる。乗るなら明かすが如何いたす所存なるか。存念この場で明かされるがよろしいさん」
ボールをすっと放り投げた。あるいは毒饅頭かもしれない丸いなにかを。
受け止めるか打ち返すか、それとも見送るかは毛利の自由、しん姫の勝手。
天彦は持ち前の涼しげなのにそこか人をその気にさせる独特の雰囲気を纏って、じっとしん姫の答えを待った。
あるいは人によっては“手を取らんかったら知らんでぇ”と幻聴が聞こえそうなほどの得体のしれない自信を覗かせ、けれど当人はそんな心算はさらさらなく。
なのに半ば手を取られて当然とばかり確信犯的に待つのであった。
最後までお読みくださいましてありがとうございます。
え、びっくりなのですが!? むちゃんこブクマ増えてますやん。いったい何が!?
いずれにしても嬉しいです! これを力にガンバリマス。御新規様どうかよろしくしてください。
それではツンツン冷たいイツメンの皆さまに引きつづきのご愛顧を訴えたところで、次回お会いできる日までばいばいきーん