#20 降り注ぐ謀略はまるで致死性の雨のように
永禄十二年(1569)十二月二十三日
聖夜イブイブ。相変わらずしんしんと雪が降り積もる京都はといえば。
控えめに言ってオニである。風情が裸足で逃げ出すほど寒すぎた。
ともするとフェーン現象などというメタな言葉など要らないとばかりただひたすらに底冷えし、盆地としての威厳を示してくる。
京都がメタを拒絶しても天彦にとってメタ認知は生命線。
己が何者であるかなどという哲学思想などではなく、単に“己惚れるなクソガキ。お前はそうじゃないだろ?”という自身への戒めのためにどうしても俯瞰の目は必要だった。
ましてや天彦はどこにでもいる凡庸な人間である。常に心掛けているのだがどうしたって怠惰でクソ。すぐ忘れる。
だから天彦はときおりこうして体に直接刻むのだ。上記のような文脈で、己が何者かを忘れないために。
「厭や、厭すぎる。惟任とお手手つなぐとかいったいどんな罰ゲームやねん。それを帝に上奏したもんみーんな氏ねどす」
本日何度目かわからない暴言を吐きつつ、けれどそれを諫める家来がいないことに気をよくして、じゃぼん――。
「あ。これアカンやつやん、むちゃんこいちゃい。手がちぎれそうなん。氏ぬやろ、これは」
場は洗濯場。竈の裏に流れる小川の淵。用人たちは凍るような冷たさの流水で家人数百人分の汚れ物を洗濯している。
「泣き言こぼさはるんやったら、おやめにならはったらよろしいのに」
「ほんまやで。酔狂なお方」
「意地があるはるんやて。けったいなお殿さん」
「まだお酒も上手にいただけへんお年やのにね。ほんに頑固」
「ほんまやで。こんまい内からこない頑固者やったら先が思いやられるで」
わはははは、あはははは、きゃははははは。
場がどっと沸いた。当主のお越しにもかかわらず誰ひとりとして動じずに。何なら場を和ませて。
むろん天彦が終始そんな調子なので当主が自ら汚れ仕事を買って出たところで今や用人の誰も驚かない。
湧かせたのは年嵩の女性用人。おそらく植田家の縁者だろう。天彦に対する親密度が他とは違う。それは天彦の態度にも出ている。
そしてそれは用人全体にも波及して、この終始和やかな雰囲気の元となっていた。
当主の扱いとしてはかなりぞんざいだが、これでも天彦は喜ばれている。歓迎はされていないがそれは実利的に喜ばれていた。
というのも天彦には手柄があった。これまでは釜や囲炉裏からとった灰汁の上澄みを洗剤としていて、汚れの落ちが悪かったのだ。必然こする頻度が多くなり洗濯を重労働の一つに位置付けていた。
だが今は違う。まだ一般的な庶人レベルにまでは出回っていないが、菊亭家中では当たり前に使用される洗濯洗剤の存在によって漬け置くだけでまあなんと。
真っ白とまではいかないがそこそこ汚れが落ちていた。あるいはごしごしこするという重労働を飛躍的に楽にしていた。その功績を称えられ用人たちには受けがよかった。すべては菊亭の誇るギークのおかげなのだが。
天彦は例の如く確実に未来に起こる事実をちょっとだけ前借りして口を滑らせただけである。ほんとうに菊亭の誇る技能集団たちは優秀だった。
「お殿様が遊んだはるんやから平和なんやね。うち嬉しいわぁ」
「まあそういうことや」
「ここには長居できますのやろか」
「それはどうやろな。そないできるように気張るとするか」
「ふふふ、お願いいたします、オラたちが偉大なお殿様」
「うん」
ちょっとテレテレ。
天彦が頬を掻きつつ用人と軽口を叩いていると、不意に怒声が聞こえてきた。
声のする方に視線を向ける。
「家は二本差しであろうと三本刺しであろうとおんなじ。お役目を果たさないお人にはお食事は出しませんよって」
「む」
推定天彦と同年代か少し上くらいだろうか。何やら叱られていた。
それ自体は珍しくもない光景である。なにせ菊亭の労働要員の平均年齢は十を少しはみ出るくらいなのだから。
だが何か様子が違う。天彦は小川の脇に大小の二本を置いて洗濯作業に取り掛かろうとしている若侍に興味を引かれて注視することにした。
大方飯を食わせろと竈番に注文を付けにいったのだろう。そして竈番にそれなら洗濯をしていけと返されたのだ、きっと。何てことのない菊亭あるある。
これは身分の上下なく家人なら誰もが通る登竜門である。天彦の定めた家法でもあるのだが、定まった食事以外にもっと食いたいなら対価を支払えというものである。つまり労働。
あの二本差しの郎党もきっとその洗礼を受けたのだろう。何か面白そうな予感がするので天彦はそっちへ向かった。あいにく今日は思い切り好きなだけ遊べるのだ。遊べるは違うか。思い切り視察ができる。
この大雪は家屋さえ圧し潰す勢いで降り注いでいた。ほとんどが見回りと除雪作業に駆り出され今や総出。遂に護衛が一人も付かなくなった。むろんそう仕向けたのは天彦で、すべてを承知して容認したのは菊亭の文武の両輪である与六と茶々丸の両扶である。
いったろ。
行った。
「あんたなんで働かへんの。その気がないんやったら邪魔やし帰ってんか」
「手が濡れるのが厭で、洗い物は苦手です。他にないのですか」
「あんたさんは猫か!」
ナイス突っ込み!
「いや人ですが」
「ほな洗いなさい。男子でしょ」
「むろん某は侍にござる」
「侍? 家に侍なんて居はらへんの」
「侍が、いない、……だと」
「当り前やんか。家はあの菊亭やで。あんたどこの郎党さんや」
「あ、それは」
「恥で言いたないんやな。ほんま生意気ばっかし言わはるお人さんやで。文句ばっかしゆーてたら握り飯一つ当たりませんよ」
「む。それは困る。しかし弱ったな」
若侍がどこの郎党かはわからないが、なるほど天彦の見立てた“食べさせて、ほな働き”の構図は正しかった。
だがちょっと気懸りな点は散見される。いやちょっとでは済まないかも。かなりか、これは……。
天彦が注意深く観察していると、若侍から少し離れた位置に控えて立っている最大違和感さんが自らぺこりとお辞儀をしてきた。妙齢の女性であった。なんとまあお上品な。ゆーてる場合か。
まんじ。
天彦は厭な予感を確信に変える。どこの郎党かわからない若侍はどこの郎党でもないことが判明した。
父兄付き添いで雑務を熟す郎党はいない。少なくとも菊亭の禄を食んでいる者に限っては皆無と言えた。
その女性が何やら耳打ちすると若侍がハッとして、天彦にぺこりとお辞儀をした。天彦も故実で返す。厭な予感よ、何卒当たってくれませんようにの感情で。
二人が歩み寄ってきたので待つ。
ややあって二人は天彦の前に立った。
だが女性は若侍を立てる心算なのだろう。数歩背後に控えたまま言葉を発さずに沈黙を守った。
「お初にお目にかかりまする。お目通り叶い光栄至極。某、毛利家八男、金鶴丸と申しまする。今回の上洛は姉上の供として参った。参りました。名のあるお公家とお見受けするが、貴殿は何様でござろうか」
出た――ッ!
いっちゃん引いたらあかんガチャ。引くよねー、いっつも。
どこぞの郎党はまさかの毛利の郎党だった。しかも郎党どころかがっちり一門衆。それも直系ど真ん中の。
金鶴丸は毛利家八男、元康の中の人だった。別名末次元康。あるいはこちらが本名か。
元就公の国人吸収策で他家に養子に入った一人である。むろん彼も史実に名を刻む有能な武士の一人。
天彦は軽く眉間を揉みこみつつ、礼儀には相応の礼儀で応接する。
「ご丁寧におおきにさん。身共は東宮別当・太政官参議菊亭天彦におじゃる」
「え」
「あ」
若侍がフリーズして、付き添いらしい姉上様も絶句して固まる。
それはそう。天彦の記憶が正しければ菊亭と毛利は半目である。一度仕掛けられている。何やら算砂が暗躍して勝手に始末をつけていたようだが。
「そういうこっちゃ。殺しに来はったんか」
「あ、いや、まさか」
「よもやそのようなことはけっしてございません」
「ほなええさんや。おい金鶴丸」
「は、はい!」
「お前さん、お腹空かはったんやろ。身共と一緒に呼ばれよか」
「え」
「あ。ご、ご無礼を平にご容赦くださいませ。これ金鶴、そなたも――」
天彦にとって無礼でもなんでもない。何しろこんな吃驚して固まり対応は慣れっこである。何なら物心ついた頃から延々ずっと。
慣れた態度でやり過ごして、いつまでも続きそうな詫びの言葉を無理やり遮る。そして無理やり硬直を解して手を掴み、更に硬直する金鶴丸の肩にチョップ。
「痛いです」
「よかったん。ほな正気やね」
「みたいです」
「では参ろうさん」
「はい」
姉弟の二人を自室へと招き入れるのであった。
まあ、おもしろそうではあったので。知らんけど。
天彦は姉弟とその家来数名を手招き、おいでと自室に招くのであった。
自称、日の本一会える公卿のムーブに適って。
◇
「何でも拾てきたらアカンと某、口をすっぱく――」
「待ち。それをゆーてきたんは身共やろ」
「あれ、そうでしたっけ。ほなこちらは」
「西国最大の大大名、毛利家の御曹司さんやで」
「え」
「ご挨拶差し上げて引っ込んでなさい。てかお雪ちゃん、雪掻きはどないしたんや」
「あ、某急用思い出しました。皆さん、それではごきげんようさん」
あ。言ってしまった。急用と休養を堂々と掛けて。
出番に焦るな。キミはいつでも輝いているから。
天彦の感情を知ってか知らずか。一家総出の除雪作業をサボったらしい雪之丞はいつものムーブで去っていった。むろん笑っているのは菊亭家人たちだけである。そしてむろん一歩間違えれば菊亭の大恥である。
だが天彦も毛利家も一切頬を緩めてはいない。もはや雪之丞のことなど一ミリも眼中になかった。心中にはずっとあるが。
それはそう。これから行われるのは推定かなりタフな交渉なのだろうから。
でなければ元就公ご夫妻が溺愛すると公言して憚らない姫を送り出すはずなどないのだから。つまり姉上様とは五竜局。と、天彦は踏んでいる。
実名をしん姫といい、嫡男隆元の妹御前であり吉川元春と小早川隆景の姉御前である。
そして天彦は別の可能性にも思い至っていた。
巨星、乙か。と。
滑ってはない。少なくともそう信じたい。
いずれにしても“墜つ”にかけた不謹慎ギャグで脳内の緊張を和らげでもしなければ、どうだろう緊張で胸が張り裂けそうなほど苦しくなったので(棒)。
さすがに張り裂けるは盛ったが、事実としてもし仮定が事実ならこの会談の意味合いのウェートが俄然重みを増していくことだけはたしかであった。
さて金鶴丸一行。何が目的で接近してきたのか。
毛利の狙いは那辺にあるのか。
天彦は真剣モードでポンコツCPUをフル稼働させていく。
足軽に毛の生えた程度の槍持ち身分ですら庶人からお殿様と持て囃される世界線である。
この御曹司もさぞや鼻高さんなのだろうと高を括っていると、案外これがそうでもなく。何やら姉御前の方ばかり気を回し、天彦には半分も意識を向けてこなかった。
……と、なれば。
天彦の検索エンジンに情報がヒット。天彦はその至極一般的な毛利氏情報を紐解いていく。
金鶴丸を主眼に置くから閃かなかった。だが五竜局を軸に置けば……。
なんや、そうかいな。
と、なった。
毛利氏領国では女性の資産保有が認められている。これはこの時代、ある種異様なほどの特異性である。しかもそればかりかその女性の嫡男にも相続されるなど、女性の地位の特殊性が思い起こされていたのである。
どれほど女性を大切に扱っていたかの例えに、成人した庶子の男子より実子の女子の方に優先的な相続権があったというのだから驚きである。文字に起こすと簡単に思えるがこの時代感でのこの感覚、これはかなり奇天烈である。そして鬼のように異常でもある。
さす元就公、まんじやりおる。
閑話休題、
つまり金鶴丸はこの姉を代表者として認識し、けれどそれが他国では通用しないローカルルールであることも同時に理解していてのこの反応、ということなのだろうと察せられた。ならば、
「五龍局さん。遠慮なくお話にならはったらよろしいさんにおじゃります。ほら身共、この通り見た目通りの小童にあらしゃりますよって」
「なぜ妾の名を、……いえやはりご存じでありましたか。千里眼をお持ちの大参議菊亭様に対し何故とお尋ねするは無粋でございましたわね。失礼申し上げました」
「失礼なことはないさんにおじゃるが、それはどなたの助言やろか。気にはなる」
「弟たちにございます。ご不快ならどうぞ妾を御罰しください」
「いや某を!」
黙れキッズ。天彦は割と厳しい視線で制止を促す。
その行動は実に即効性が高かった。秒で金鶴丸は口を噤んだ。
それはまさにヤヴァいときの天彦の目であった。この目で見られて口を噤まないキッズはいない。
「赦す。五龍さんでええんやね」
「ご寛恕痛み入りまする。ですが参議様、此度は毛利の“しん”として参上仕りましてございます。そして参議様、そのような冗談は笑えませんのでお控えくださいますと幸いにございます」
おいて。
だが、らしい。ならばそちらがお望みなら応じるまで。
天彦は扇子をぱちり、いつものいい(悪い)顔でニヤリと嗤い、
「ほなしん姫さん。身共からお一つよろしいさん」
「おいくつでもどうぞ」
「ん、少輔次郎さん、誠にご愁傷様におじゃります。一度遠目から拝見しただけで直に言葉を交わしたことはないさんなん。ですが本心から一度会ってお話してみたかった。非常に惜しいお人さんを亡くしました。心からご冥福をお祈りいたしますぅ」
天彦の心のこもった弔辞に、場が凍った。
それは毛利家だけではない。菊亭諸太夫も凍ったように表情筋を張り付けて固唾を飲んで成り行きを見守った。
ややあって持ち直した五龍局(しん姫)は辛うじて、
「故人も草葉の陰から喜んでいることでありましょう。御厚情謹んで頂戴申し上げ、末代まで御家宝としたく存じ上げまする」
と、返礼するのが精一杯の様子であった。
取り合えず先手は天彦の圧勝。図星以外の何物でもない反応では反論さんにも笑われてしまうだろう。
だがさすがは女傑。なぜ知っているのか訊きたいのは山々なれど、それをするのは無粋と判断できるだけの器量と政治手腕は備えているようであった。
さすがは毛利家の女性、元就公の寵姫。天彦の目にはそんじょそこらの武士などお呼びではないほどの男(女)っぷりに映っていた。
「魂消た。なぜわかるのですかっ!」
ヒヨッコ一人を省いては。
「お前さん、かわいいさんやなぁ。家の子におなり」
「あ」
「え」
「この会談はそういう用件やとお思いさんやが、はて。違たんか」
「……」
「……」
勝ったったん。
二人はきっと狐につままれたような、それとも日本語は何語か、みたいな奇妙な感覚に見舞われて目を回していることだろう。……しってるん、得意なヤツやし。
一流は相手の言動からその意図を看取するという。ならば一流をも上回る特級は……。
言葉など要らんのん。
天彦は尤もらしくほくそ笑む。
毛利は将軍家と織田家を両天秤にかけて織田を選んだ。あるいは両方ともを選んだのかもしれないが、少なくとも人質を置く相手は織田陣営に決めたようである。
織田は人質を取らない。それは広く知られる事実である。すると誰に預ければよいのか。嫡男、次男、三男、宿老、家老、すべて織田家の方針に従って人質は受け取らないはず。では……、あ、いた。
丁度お手頃なやつが。きっとそんな感じだと思われる。
たしかに天彦の菊亭なら受け取るだろう。そもそも人材が不足しているし、人質行為に善悪含めて特別な感情を抱いていないので。
だが果たしてそうかな。織田は受け取らないだろうか。道はある。というより信長は喜ぶだろう。天彦は知ってる。
天彦的には三介が激推しであり、かなり薄いが三男信孝でもわんちゃん……ありっちゃあり寄りの可であろうか。安心感を買うだけなら徳川に預けてもいい。但しその場合、金鶴丸の命の保証は一ミリもされないが。
いずれにしても信長公、子供らを頼ってやると喜ぶ仕様のオジになっているのでここは案外チョロいのである。
そして何より織田家の自由度はあれでかなり高いのである。心理的にそう感じることができないだけで。そしてしくじるとヤバいだけで。そのヤバさは……。
よって例に挙げた以外はすべて悪手である。だって全部……。
天彦は勝利を確信し、おほほほほほほ――、じっじ譲りの高笑いを決め込むのであった。
様になりすぎていて控えろとあれほど釘を刺されているにもかかわらず。
「ひっ」
「ひっ」
な、ほら。見ろ。
家中の心の中の総意がまるでリアルに響き渡っているようだった。
【文中補足】
1、五龍局
しん姫。1529~、史実ではこの後すぐ脳梗塞で他界する
2、金鶴丸
毛利家八男。1560~、後に毛利領国国人政策に従い末次家を継ぎ末次となる。
最後までお読みくださりましてありがとうございます。
ここ数日ポイントが入っていて嬉しいやら恐縮するやらで、やっぱし嬉しかったです! 泣く!
とくにお得な情報はございませんがよろしくご愛顧くださっておりますフォロワーの皆様には感謝しかございません。ずっラブです。それでは次回お会いできる日までごきげんよう。ばいばーい。