#15 鋭い不協和音、さながら鬼畜禿の哄笑のように
永禄十二年(1569)十二月十三日
思想として殺さない。またはメンタル的に殺せない。
いずれにせよ主体性を以って敵を亡き者にできないということは、よくない。少なくとも戦国室町における正義ではけっしてない。
敵には舐められるだろうし身内からは呆れられるという二重苦に苛まれること請け負いである。
よって一般的にこの生き馬の目を射抜く戦国にあってこれほど弱い立場もない。果たしてその者が決定権を握る家長なら、もはやその家は致命的といって過言ではない負債を抱え込んでいるのと同等ではないだろうか。
天彦の場合、そんな弱点に加えて身内にも甘いという戦国絶対アカンやつポイントを三つも抱え込んでいた。いわば三倍満の振り込みである。
あるいは一般的な持ち点ならちょうどすっからかん。あと役が一つでもあれば数え役満、箱割れ必至である。……あ。
対戦相手は親だった。つまり支払いは五割増し。親への三倍満支払いは36,000点。はい飛びです。お仕舞いです。
「なにしてますのんっ!」
「へぶしっ」
だが天彦にはプレイヤー補助のためのアシスト機能がついていた。違う。強力なサーバントがいた。これも違う。
いや、違わないのかも。
「痛い。……なにすんのお雪ちゃん、しばくことないさんやん」
「しばいてません、どついただけです」
「ニュアンス! それはお雪ちゃんの匙加減でどうとでもなる強弱やんね。だってff(ごく強く)とかmp(やや弱く)のように明確な決め事がない以上は、そう」
「わけわからんことどうでもよろしいん。ええ声で突っ込まはる覇気ありますんやろ。その覇気どないしましたん」
「う」
「“う”やありません。見てるこっちが情けないですわ。何ですのん、妹ちゃんの言う通りって」
「あ、はい」
「それにあちらは姉上さんです」
「それは違うかな」
「もう、違いません」
天彦にはこうして一の御家来にして親友がいた。
そしてふざけているようで雪之丞のファインプレーである。
天彦はぱっぱ晴季の要求を呑む寸前のところであった。むろん飲めるはずもない将軍家に有利な至極無茶な要求である。
なのに晴季の無茶な要望はそれが撫子の口を経由するだけで天彦には無茶だと思えないバイアスが掛かってしまうのである。
なぜならそうやってずっとやってきたから。単に自分のブランディングとしての妹ちゃん。あるいは妹ちゃんを甘やかすことによって自分の立ち位置や現在地を確認していた天彦としては無理もなかった。
大前提、兄たるもの妹を甘やかすのは当然として。
そんな絶対則とは別問題で、天彦は固有の問題を抱えていた。
意図してそこに身を置いていたテクニカルな感情とは別に、天彦は割と深刻な欠陥を抱えていたのだ。
そう。天彦は自己の欲求に希薄であった。あるフリはしても実際はほとんどゼロといってもよいのではないだろうか。少なくとも本人はまったく体感できていない。
だが絶望しているかと問われればそれも違う。むろん絶望はしてるがそれが主たる要因ではけっしてなく、言い換えるなら利他的動機付け条件の方が自己の利益が期待できてしまう病を患っているのである。要するに、
ドンマイなの。それが基で死にはしないから。
病名はそんな感じ。
そんな天彦にとって、撫子の要求を叶えるという行為自体が自己要求を叶えることとまったく100リンクしているため、拒否することは非常に難しかったのである。……これまでは。
だが近頃の天彦は少し病状が改善されている。何が原因かは特定できない。
だが確実にその理由の一つであろう人物から本気の干渉が飛んできたのだ。目を覚まさないわけにはいかなかった。
「お前、何を躊躇っておりゃる。妾の言、疾く認めればよろし」
「夕星、……かんにん」
「妾は撫子にあらしゃります」
「うん撫子、ごめん」
くっ……!?
撫子は驚愕を張り付けた。まさか反論が返ってくるとは思わなかったところにきた反論と、呼び方の否定を認めたことへの二重の驚きなのだろう。これまでそんなことは一度たりともなかったから。
「御前、失礼さんにあらしゃります」
すると彼女はどうやらこれは翻意できない。覆らないと感じたようで、すっと立ち上がると下目使いに天彦を一瞥するだけでとくに言葉を残さずその場を立ち去ってしまった。
その行為が最も天彦に効かせられると知った上で。
「な……」
「っ――まさか」
「よもや」
残された者たちの反応も酷いものだった。
撫子以外にも天彦の家族サイドは総じて驚愕一色を張り付け言葉を失っていた。
そしてそれは同時に今出川家VS菊亭家の交渉の、真の決着を意味していることを察したはずで、今出川勢の落胆の色をかなり色濃く浮かび上がらせていた。
それもそのはず。天彦の配慮という名の優柔不断さがなければ菊亭の圧勝など交渉テーブルに着く前から決まったこと。なのだから。
これはまさしくパラダイムシフト。天彦を始めとした今出川・菊亭両家に絡む者たちにとっても今後を占う劇的な変革となることだろう。
特に天彦にとっては痛烈な変化である。文字通り痛みを伴う。あるいはイルミの支配から抜け出せたキルアのように、本当の意味での天彦にとって独り立ちの瞬間でもあった。
そんなひと皮剥けた天彦だがダメージは思いの外深刻で、すぐには起動できないほど食らっていた。
と、
「会談交渉はこれまでと致す!」
「な……」
「菊亭家ご当主の御存念は示された! 各々方よろしいか。よって今後当家菊亭は貴家今出川を西園寺一門配下と見做す。待遇も相応。裁可はすべて当家菊亭によって行われる。故に如何なる場面においても裁可を仰がれたし。けっして専横は許されぬことと努々お忘れなきように。万一異論あらば申し入れられたし。但しその際は問答無用にて一門からの破門、並びにお家断絶の沙汰が下されることをお覚悟めされよ。以上である」
…………。
苛烈。その一言に尽きる宣告がなされた。
皆の驚嘆はその告げられた言葉はもちろんだが、告げた人物にも向けられていた。
「若とのさん、参りましょう」
「あ。うん」
まさかのあの雪之丞の宣告だったからである。
彼のポンコツ具合は菊亭・今出川両家の誰もが知る事実であったのだ。なのにこの変貌っぷりは。カッコいいを通り越していっそ薄気味悪さすら感じさせる一幕であった。
だが起こったことはすべて事実。男子三日合わざればを地で行った雪之丞は、歩行も覚束ないほど食らっている天彦の肩を支えて粛々と今出川を後にするのであった。
果たしてそうかな。という特に菊亭側の胡乱を残して。
◇
「いや誰!?」
「お雪ですやん」
天彦は雪之丞を全方位から観察する。その上で最大限の胡乱を浮かべた。
「ちゃいますやん。あんなキリっとしたお人さん、絶対に身共のお雪と違いますやん」
「ですよねー。某、自分でもびっくりしてますねん。あーコワかった」
「ほっ。それでこそ身共の知ってるお雪ちゃんやわ。危うく別人を疑って皮、剥がしかけたよ?」
「こわっ!? やめて下さいよ。そない恐ろしことすんの」
「うん。せーへんよ。で、黒幕は……お茶々か」
「凄いです! なんで当たらはるんやろ」
「それはいろいろあるんやで」
「へー。でもはい。昨日仕込まれましてん。そらもう鬼ですわ。某が一言一句覚えきるまでぴしぴしぶたはるんですんやで。後で叱りつけてくださいね」
「あ、……うん」
とは応じてみたものの。それはきっと出来ない相談。何しろむちゃんこ物凄いファインプレーだったから。
本心では“お茶々すごっ、すごっお茶々”と絶賛して絶叫したいくらいである。
「どっちにしてもおおきにさん。お雪ちゃんには頭が上がらん」
「誰ですか」
「おい」
「ふふふ」
「あ。もう仕返しするー」
「あはは、やっぱし若とのさんでしたん」
「それもおいて」
あははは、うふふふ。
天彦は笑ってようやく本調子を取り戻す。ありがてー。
この笑顔の引き出した方もそうだが、あの場面、雪之丞でしか発言できなかったことは紛れもない事実である。他は誰でも遮られるし発言そのものに効力が発揮されない。公家は格下の意に沿う必要性がないから。
だが裏を返せば同格もしくは格上の発言はけっして軽んじることができないのである。それが権威だけを是とする社会に生きる者の絶対則的宿命である以上は確実に。
「動く銭がでかいほど闇は濃く深くなるもんや。そない申されてはりましたわ」
「ふーん。お茶々らしい意味深さやけど。それでその本人さんはどこ行ったん。ちょっと自由すぎひんか」
「儂の面目潰しおって! と、メラメラ燃えたはりましたけど、止めはりますのん」
「あ。……ご自由にどうぞ」
「ですやろ。でもなんやえらい剣幕で怒鳴り散らしたはりましてん。一乗院?焚きつけて大和に薪を焚べるとか何とか。ものっそい悪いお顔さんしてゆーたはりました」
「一乗院。たしかにそないゆーたんか」
「はぁまあ。たぶんそないゆーたはりましたけど」
きゃあ、松永さん逃げてー!
一乗院即ち興福寺の僧兵といえば筒井藤政。順慶でお馴染みの戦国僧大名である。
筒井家が大和筒井城を奪還している現在、大和は火薬庫。
目下京都が安定しているのと織田家がおとなしいのとで鎮静化こそしているものの、松永弾正とは大和の覇権争いの真っ最中。覇権争いが消え失せることはけっしてない。
松永弾正が仕掛けて以来、まさに仇敵。殺し殺されの間柄のまさにばちばちのVS関係にある両家。再燃させることは容易いのだろう。あの茶々丸の手練手管を以ってすれば。
そこに薪を焚べるらしい。
「地獄かな」
控えめに言って、天彦の感想は至極尤も。
だがその地獄。きっと狐火で焚かれている。だって天彦には都合のよい実に心地いい出火だから。
「……ほな身共も気張らなあかんやつやね」
「わっる! 若とのさんわっる」
雪之丞に堪らず指摘されてしまうほど天彦は超絶本調子のときのいい(悪い)顔をしているのであった。
それはそう。本来なら天彦が率先しなければならない公家ムーブを茶々丸に先んじられたとあっては立つ瀬がない。
だがあの茶々丸のことである。ただのカリスマ頼りのDQNと侮ることなかれ。
彼は魔王率いる常勝魔王軍と十年の長きに渡る大決戦を演じた英雄である。彼の後にも先にも織田信長と五分で渡り合った勢力はいない。それを十年も。
お茶々の本気はきっとエグい。
「けど身共かて負けてへんよ。もうこうなったら本気出すん。来年は気張るで」
「出た来年!」
「なによ」
「若とのさん、意気込んだはるとこ水を差すようで――」
「ほな差さんといて?」
「途中で遮らんといてくださいよ!」
「あ、どうぞ」
「はい。どうも。来年を皮算用したら鬼さんが笑いはりますんやで」
「何やそんなことかいな。そやで。身共は鬼も笑かす御狐さんやで」
「あ。若とのさんったら、またそない悪ぶらはって」
「はは、ほんまやな」
自己肯定感高い系男子になると決めたのに。
お雪ちゃんを見舞って励ますつもりが逆に励まされた夜、こっそりと約束し合ったことだった。
だがこの子狐はただの子狐ではない。
何しろ口先だけで戦国公家社会をまんまと生き抜き、僅かたった二人から今や三千にも及ぶ郎党衆を抱え込む一大勢力を築き上げているのだから。
しかも本日に至っては最も戦国らしい主客転倒の戦国下克上ムーブをぶちかましたばかり。頼もしさまで備わってきた。
決めたのは家来(雪之丞)だとしても家来の手柄は主君の手柄。戦国の習いに従えばきっとそうなる。はずである。
「初めまして。雑魚彦改め魅力の塊彦です」
「無駄口叩いてんと歩けるんやったら御自分の足で歩いてください」
「無駄口!」
「ちゃいますのん」
「ちゃわへんかったん」
「もう」
何よりも本日の会談で清華家今出川を名実ともに手中に収めた天彦の菊亭は、これによって家格を清華家並みとした。それは今後を占う意味でも凄まじい収穫であった。ハピネス!
「ハピネス!」
「はぴにぇす!」
「かわいなってしもてるやん。ハピネス!」
「はぴにぇす!」
お雪ちゃんさあ。かわいすぎん!?
だがこの雪兎さんもただの可愛いだけの兎ではない。
重要な局面に直面してこそ本領を発揮し局面を決定づける決定打を放てる、名(迷)バイプレイヤーなのである。
「近いうちに東宮さんとこ参ろうか」
「ほんまですかっ! 嬉しいです」
改元の相談が主に。そして……、いずれ近いうちに菊亭は清華家と見做され正式な勅がくだされることだろう。誰かさんや誰かさんに頼まれた誰かさんが朝廷に泣きつくことが明らかだから。その下拵えをしておかねば。
「おおごっさん、えらい落ち込んだはりましたね」
「うん」
「某、また顔出しておきますね」
「え。ええのん」
「何ですのん水臭い」
「そやな。うん、お願いできるかな」
「任せてください!」
あの何とも言えないもの哀し気なじっじの表情だけが唯一の気懸りな天彦は、それでも老害然とした挙動のじっじには申し訳ないが同情する気にはなれなかったのであった。
「お雪ちゃん、身共は来年こそ躍動します」
「はい。でも格調高くお願いしますね」
「そや。格調高く躍動します」
「おーぱちぱちぱち。かっちょええです」
「そやろ、そやろ。……ん? どこで覚えたんそんな言葉」
「織田さんとこで療養している間、ずっと傍でお話訊かせてくれはったお人さんです」
「ちなどなたさん?」
「藤吉郎さんです」
あ。
なんだか釈然としない。それどころか猛然と厭な予感がしてくるではないか。
藤吉郎は生粋の女好き。衆道の趣味があるとは訊いていないが。
気のせいではないだろう。興味や関心には幾通りもの種類があるとしたものだし。
この場合は雪之丞の影響力に関心を示したか。
例の一件以来、雪之丞の織田侍大将人気は凄まじいものがあるので。
あと可愛いし。あと可愛いし。あとかわいいし。
心配が無限に尽きない天彦だが、その天彦の周囲には、
「ぐぎぎぎ」
「殿」
悶々とぎりぎりとする家来たちが大勢いる。だが誰ひとり声を掛けられずにいる。雪之丞と天彦との間を割って入れないから。
雪之丞は特別枠。その認識はすっかり浸透しつつあり、このように雪之丞が話しかけると天彦の意識が100雪之丞に向けられる様を見せつけられれば言葉はいらない。
故に如何なイツメンであろうとも割って入ることは適わないのである。
雪之丞は善きにつけ悪しきにつけ人にたいへん好かれて、たいへん嫌わ……焼き餅を焼かれていた。
ソロで一生呑気な雪之丞と雪之丞が絡むと急に呑気になる天彦は、
「若とのさん、某お餅が食べたいです」
「おお。ほな温かい焼き餅たべよ。いつもの茶屋でええさんやね」
「はい! 焼き餅やった。嬉しいです」
「ん」
「どないしはりましたん」
「いや、東の空がなんや……気のせいやろ。参ろうさん」
「はい!」
長閑な会話を楽しむのだった。
自陣営、横大路城が大炎上。猛炎の海に沈んでるとも知らずに。
【文中補足】
1禿
かむろ。ハゲとは読まないでね。
2、鋭い不協和音
といえば、もちろんモーツアルトに決まってますよね。ジュピター第4楽章の壮大な……あ、はい。
最後までお読みくださいましてありがとうございます。