#04 迷走神経をいじくると気持ちいいみたいな錯覚
永禄十二年(1569)十一月二十二日
この時代の庶人を舐めないでほしい。大きな合戦が起こったと訊きつければ手弁当で観戦に赴くくらいにはクレイジーである。
一般論で分析するなら自分事への関心が高く死に慣れっこで直情的となるのだろうか。
民度が低いなどと一言では片付けてほしくない。どの時代も人々は偉い人の思惑や気分に振り回されながらも、懸命に這いずってでも生にしがみついているのだから。
いずれにせよそもそも国民総武装化時代である。飼い慣らされた未来の現代人とは気骨が違うので比較にもならない。
そんな戦国室町の庶人感情が、ここ山科関村に爆発していた。
そして庶人の怒りの矛先は、よもやのトップオブトップへと躊躇なく向けられる。
何度も言うがこの時代の庶人は銀閃に裏付けられた圧倒的な武威の前には怯えても、食えもしない張り子の権威になど余裕の鼻ホジ対応で向き合うのだ。
よって将軍に強請りごり押しで手に入れ、同じく帝に強請りごり押しで設置した関村が不穏の急報を受け急ぎ現地に駆け付けた関白太政大臣・近衛前久は思いもよらぬ不運に見舞われることとなってしまう。
関白の乗車する牛車が煌びやかにデコっていたことが災いした。
遠目にも、どの家のどなた様が乗車しているのか一目瞭然状態でのデコ車は家門が入ってカッコいい仕様。むろんすべては我が身の誇示のため。今回はそれが20,000%裏目ったが。
近衛前久、接収後初となる御料地への下向は、彼の波乱万丈な人生に新たな彩を添えることとなってしまった。
帰れ関白! 山科に入るな――ッ!
儂ら庶民を食い物にしおって――!
儂らの苦しみのちょっとでも味わえ――!
破廉恥な女好き! この物価高もお前の散財のせいやろ――!
悪感情は罵詈雑言にとどまらず、石礫の大雨が降り注がれた。
ところが、さすがは位人臣を極めし御仁。覚悟が違った。
あるいは全国を放浪するような破天荒関白である。少々のことでは動じないのか。へこたれないのか。あるいはましてや折れるなどあり得ないのか。
「おほほほ。民草のみーんなさん、ずいぶんと荒ぶらはって。お食事はたんと呼ばれていらしゃるようにあらしゃりますなぁ」
どうやらそのいずれものようである。
彼にとって逆境とは乗り越えるためのデイリークエストであり、あるいは乗り越えた先の未来の栄達に繋がる一般イベントでしかないのだろう。
この誰もが恐怖心を煽られるはずの悪感情の具現化も、何ら脅威を覚えるものではないと言わんばかりに余裕の態度を見せつける。
「ほうほう、お元気さんにあらしゃって。そやけどさすがに煩わしいか。して青侍らは何をしておじゃる」
「多勢に無勢にて如何とも! この場は突っ切りまする。霍光様、暫し御自衛くださいませ、ご免!」
「まあ、そない慌てんでもええさんや。命まで取らはる度胸など、民草のどなたさんにもあらしゃりませんよってな」
「ですが」
「晩秋に降る石礫の雨か。おほほほほ、風雅なもんにおじゃりますなぁ。ここはおひとつ、濡れて参るといたしましょかぁ」
「お覚悟、お見事」
おほほほほほほ――。
前久の特徴的な高笑いが鳴り響く。
どすどすどすと、まるで京都弁の語尾を一番不穏なサウンドにエフェクト効かせて変換してみました。的な飛び切り肝の冷える不吉音が間断なく鳴り響く物騒極まりない車内に。
「そやけど、この御手前のお見事さ。右衛門尉さんを叱ってやろうとこうして参ったが、中々どうして……あの鼻垂れの子狐さんがなぁ」
血は侮れんということさんか。それとも友を討って肝が据わったんか。
前久はかつてこの山科の地で仲介をしてやった二人の顔を思い出しつつ、それと同時に並行して。
同時代を駆け抜けている同世代の誰かさん、例えば手練手管の達人さんの顔でも思い浮かべているのだろう。一瞬だがほろ苦い顔をしてぼそっとつぶやく。
なにかが前久の琴線に触れたのか。あるいはそんな自分に酔って浸っているのかは定かではないが、けっして短くない時間感傷に浸っていた。
が、ややあって、
「そやけど信玄さんはこない言うたはったな。一所懸命だと知恵が出る。中途半端だと愚痴が出る。いい加減だと言い訳が出る。――と。ほな子狐さんは、……一所懸命で中途半端でええ加減さんなんやろかぁ。未だに尻尾さえ捕ませんのはどうかと思うでぇ。晴季さんもどえらいもん拵えてしもて」
前久は“どすサウンドエフェクト”のピークを過ぎた車内に、訊きようによっては切実とも取れる小さなつぶやきを吐き出して、そして一転、
「のらりくらりとかわしてきて、今になって態度を表明したんや。受けて立ったろうやないか。お互い引く道はないさんやで、子狐さん」
ド迫力の重低音を今度は自らの口で響かせた。
すべてが逐一ずばピタの大的中。まるで一流はすべてに通じると言わんばかりに見せつけて。愛用だろう扇子をばさり、
「麻呂は関白太政大臣なるぞ」
近衛前久ここにあり。やはりここでも凄かった。
そう。犯人は……、弾正尹さんあいつです!
◇◆◇
永禄十二年(1569)十一月二十二日
近衛前久が御料地に下向した当日。そしてそれは算砂を作戦リーダーに選任して一日で猛烈に死にた味に煽られてしまって解任してから九日後でもある。
そんな麗かではけっしてない午後、昼九つ鐘が鳴る少し前、
「茶々丸ぅ」
「甘えるな!」
「だってぇ」
「だってやあるかい。儂はもはやピークに近しいほど高止まっている反菊亭感情を、更に酷してどないするつもりやったかが逆に気になってるくらいやぞ」
「あ、うん」
算砂氏ねどす。そういうこと。あのど畜生サイコパスは罷免して解任して追放した。どうせすぐに舞い戻ってくるだろうけど。
何をしでかしたのかは敢えて触れない。菊亭の悪い噂に一時的にとはいえ拍車が掛かってしまったとだけ。
だが収穫もあって唐突な関料徴収の詳細な理由が判明した。さす射干である。
近衛前久は丹波八上城主・波多野元秀の縁者である惣七の娘を側室としていて、この側室が嫡男である信伊を生んだために正室とのパワーバランスが崩れてしまった。正室のご実家は源氏の長者家、あの久我晴道の娘である。家内、相当に息苦しいことが容易に想像できてしまう。
それもあってか前久はこの側室を猫可愛がりしてしまっていた。それが今回の無茶な関料に繋がっている。
そう。この山科関はあろうことか側室、宝樹院の化粧料のために拵えられた関であったとか。……はは、おもろ。
嘘みたいなホントの話はありました!
驚くことなかれ。戦国室町にはよくあります。とくに珍しくもなく起こることです(棒)。
天彦は半ば白目を剥きながら一連の報告が上がってきた顛末に冷笑のいいねをそっと送り付けるのであった。
閑話休題、
よって算砂を追放してからの一週間余りは近衛下げのネガキャンにソースを極振りして心血を注いだ。具体的には射干が持ち込んだ痛ネタをバラ撒いたのである。近衛にすればとんだとばっちり。なにせ関料の七割方は徴収代行者である大神藤林右衛門尉綱元の専横なのだから。
天彦は同時にその大神藤林右衛門尉綱元の悪事も突き止めていた。暴くかどうかは成り行き次第だが、どうやらその成り行きさんは彼方から向かってきているようである。
だが一方で、当然そうなると菊亭にまとわりつく悪風対応には手が回らなくなる。
何しろ目下の菊亭には人材が圧倒的に不足していた。
どのくらい不足しているのかというと、天彦の身の安全を担保できないほどにまで落ち込んでいる。
結果、天彦はこの山科関の間借りしている屋敷から一歩も表に出ることができなくなってしまうという恐怖のじんおわ状態に陥っていた。
むろん監禁されているわけではないので出るには出られる。だが出るとちっちゃいメテオストライクが降ってくるのだ。
大人子供に関わらず、さすがに女性比率は少ないが、それでもある。
皆が皆、満身を怒りに震るわせて“えいっ!”と、呪詛の呪文を唱えてぶちかましてくるのである。
「おい菊亭、もう遊んでもいられへんぞ。近衛が下向してきおった」
「知ってるん。遊んでないし」
「遊んどるやろ」
「遊んでないもん!」
「ほなちゃんとせえ」
「ちゃ……、それはちゃうんちゃうのん?」
「何がちゃうんや、ゆーてみろ」
「あ、いや、ほら、ね」
「遊んどるやないか」
「ちゃうわ!」
信用はなかった。しかも図星だったようだし。
尤も天彦の場合、真面目な遊びの延長線上に自分の人生観があるので一概に非難はできない。……としても。
茶々丸からすれば気は急いて当然である。彼は複数の立場から心苦しい壁に挟まれ絶賛苛まれ中だから。
そんな自分の立場や感情を知っているはずなのに、天彦が真面目に遊んでいるなどと嘯くものだから苛立ってしまうのである。要するにあの茶々丸をして、余裕は相当ないことが窺える。
他方、信じてほしいなんて発言自体が烏滸がましい彦はというと、まったくぜんぜん焦る素振りさえ見せていない。泣き言はスタイル。ただ茶々丸に構ってほしくて甘えたいだけなのは見え見えである。
だがそれも限界か。天彦は重い腰を持ち上げると、
「参ろうさん」
「ようやっとその気になったか!」
「主役は遅れて登場するもんなん」
「ほざけ」
「ほざくん」
「頼りにしてるぞ」
「勝つべくして勝つん。だってそれが天から課せられた身共の宿命さんやから」
うっざ。
かなりの同意が得られるだろう茶々丸の心の声が吐き出された。だが悦に入っている天彦の耳にだけは届かずに。
その悦彦は、主人公補正など限りなくゼロのくせに、決めた心算で主人公症候群に魘される厨二患者のセリフを吐く数え10歳児、実際は九歳児かっちょええさんの図に酔っていた。控えめに言って100キモくて120ウザいだけなのに。
◇
戦国室町と雖も相応罰という概念は存在するし裁判所だってちゃんとある。ウソ。ちゃんとは盛った。だが奉行所はちゃんとある。なのに……。
行為と罰の比例原則に反するほどの苛烈な裁きなのだろう。傍観する人々の絶句している態度から察するに。よくわかっていない天彦だが、少なくとも行為自体に眉を顰めた。
ガバナンスどうした。の感情で。どうやら関を仕切る近衛家人の専横が想像以上にエグいようである。懲らしめるべきは大神藤林家ではないのかと勘繰ってしまう程度にはエゲツナ酷い支配状況である。
しかもそのえぐ味は回り回ってすべて天彦の菊亭に降りかかるという悪辣な仕様が仕込まれている。
「菊亭やぞ」
「あれが例の。なんと惨いことをなさるのか」
「まだお若いというのに。将来が思いやられるな」
「儂らはあんな者のために搾取されているのか」
「やってしまおう」
「やめておけ。目も向けられぬ残虐な制裁を科されるらしいぞ」
「おのれ菊亭め!」
「化け狐!」
「悪霊の化身!」
泣いていいかな。
天彦は策の仕込み中もずっと耳朶を叩いてくる罵詈雑言の数々に一々レスしたくなる心境にかられる。むろんじっと堪えるが、ひとつわかったことがあった。
人はつくづく感情の生き物であることを。そして何を選んでも不安は尽きないことも実感しつつ、
「でけたん」
小さな祠の前に一面水を張って準備万端。
ばさ、ばさ、ばさ、ばさ――、菊亭家人たちは予てからあった天彦の指示の通りに羽織っていた着物を脱ぎ棄てる。
そして各々下に隠し着込んでいた紅白の経帷子と喪服で、視覚的な特別感を演出的に作り上げる。これぞ白と黒に囲まれた境界線であり閾値であるといわんばかりに。
そして息もぴったりに、一斉に厳かな気配を纏う。こここそが現世と地獄との境界線であると言わんばかりの実におどろおどろしい気配を纏って。
菊亭劇団の開演である。初日一回目公演にして最終日の千秋楽公演でもある。
だが拍手もなければ歓声も沸かない。静まり返った空き地広場にはすでに野次馬の声さえない。
天彦は数段視線の高い祠の上から、自慢のここ一番ではよく通る黄色い声で思い切り叫んだ。
「ジェネリック堕天使召喚!」
そっと何かの塊を放りこむ。
するとどういうわけか。薄く張っていた水場からもくもくと煙が立ち込め始め、あっという間に周囲に白の煙幕をはってしまった。
ときおりドシュ、ドシュっと聞こえる異音の副次的効果も手伝って、周囲は瞬く間に地獄の様相を呈し始める。
な、な、な……。
それはまさしく雲海であり、人々の視線にはもはや天彦しか映っていない。
その天彦はまるで虚空に浮かんでいるように映っていて、黒の衣装も手伝って実によく映えていた。とっておきの付けテイルも忘れずに。
そうすること暫く。天彦がじっと足元だけを見つめ続ける静かな時だけが流れゆく中、野次馬たちは誰からともなく膝を屈し首を垂れ始める。
「御狐様や」
「御狐様」
「ありがたや、ありがたや」
そして誰も彼もが口々に、自分自身の信じる神仏に祈りを捧げて、最終的には助命嘆願を乞うのであった。
ただのキッズの仕掛けた悪戯的なアルカリ金属の化学反応に恐れをなして。
◇◆◇
永禄十二年(1569)十一月二十三日
菊亭劇団が初日にして千秋楽公演を無事に終えた翌日昼過ぎ。
「ふははは、見たか茶々丸。身共の圧勝や!」
「やりすぎや。お前、巷で神さんになっとんぞ」
「いいえ、地獄の使者だりん」
「九尾は一尾だと噂されておりましてございます」
「神使と専らの評判にございました」
「まあそんな感じや。いずれにしても菊亭、お前は表には出られんぞ」
あ、はい。
菊亭の誇るギークに持ち込ませた金属ナトリウムを水に投げ込み人工の雲海を作って幻想を抱かせる作戦はまんまと炸裂したのだが、実際にやりすぎだった。
一連の悪戯演出は天彦の目論見を大きく外れ、山科関村にプチでは済まないブーム&パニックを引き起こしていた。
出現させた手作りヌイには見向きもされず、天彦自身が五山の御狐様の化身であるという噂が今まで以上に広まるだけの結果となって。
ヌイは一番頭を悩ませたこの作戦のキモだったのに。果たしてどこの神様を召喚するのかずっとワキワキと悩んでいたのに。とか。あるいは煙に紛れて霊験灼然なお札を出現させる第二候補まであったのに。
そんな腹案、まったく必要なくなってしまうほど天彦自身が神格化されてしまっていた(棒)。
なぜこんな演出が必要だったのか。それは物事というのは何を言ったかではなく誰が言ったかが重要視されるから。時代に限らずだがこの迷信が信じられる信心深い時代では特に。
即ちただの菊亭天彦よりも五山の狐が言った方が格も信憑性も高いのである。何せお相手は位人臣をお極めになられた関白太政大臣様なので。
「お見事だりん! さすがはお殿様、凄いです! お姉さま方の申されることが初めて実感できました!」
「語尾が五月蠅いがまあええ、そうでもあるしな。でもお前さんらが汗掻いてくれたおかげさんやで」
「どこでも誰にでもゆーたはるんでっしゃろ」
「急にメンヘラやめろ。あと変な河内弁も。ん、それ小春もゆーてたな。ひょっとして流行ってんのか」
「てへ」
流行ってんのかーい!
しかし天彦の軽口もそこまで軽妙なリズムに乗らない。
実は圧勝できていなかったのだ。本来なら圧勝するはずの必勝策が半ば肩透かしを食ってしまっていては圧勝どころか勝敗の優劣すらかなり怪しい。
というのも近衛から和睦の書簡が届けられていた。歴とした謝罪の体裁を整えた。
近衛は菊亭が味方に付けた二万有余の民の感情に恐れをなしたのか。否。
では今噂を撒けば100以上の確度で浸透するだろうその流言の脅威に恐れをなしたのか。それもきっと否である。
全国を放浪するような破天荒関白である。少々のことでは動じない。へこたれない。ましてや折れるなどあり得ない。
ならばあるいはこの謝罪とてブラフであり、初めから家来のミスは織り込んで設計済みということだって十分考えられるはず。あるいは本命視してもいいだろうレベルの確度で以って。
これこそが天彦の知る天彦の思う公家一流のやり口だから。
つまり小さな謝罪で大きな悪事を隠蔽する。あるいは小さな損で決定的な大損を回避するのこそ天彦の思うお利巧さんの絶対条件だから。
感情など一切織り込まずに度外視して。極力血を流さずに超政治的に折り合いをつける。
確かに立派。確かに凄い。だが今回ばかりは勝手が違う。天彦の菊亭は多くの家来を失った。失えば二度と取り戻すことのできない、そして掛け替えのない家来たちを失ったのだ。はいそうですかと手は取れない。……なのに。
だが天彦はその謝罪というテイで差し出された手を握り返さざるを得ない状況に追い込まれていた。なぜならば……。
天彦の思考を阻むようにそこに是知の声が凛と響く。
「勾当内侍好子様、並びに新内待基子様、お越しにございます」
「うん」
そういうこと。
以々あっね勾当内侍(薄以緒の娘・好子)ばかりではなく、天彦の大恩人にして公家界のぱっぱである大蔵卿持明院基孝の娘、新内待基子まで連れてきたとあっては勝負あった。
まさに天才の所業。当意即妙の天才であろう。あるいは天運に愛された時代の寵児か。
が、しかし!
今回ばかりは勝手が違う。天彦の菊亭は多くの家来を失った。
大事なことなので何度だって言う。天彦の菊亭は多くの家来を失った。失えば二度と取り戻すことのできない大切なお命を失ったのだ。
いくらお二人が雁首揃えたとて。今回ばかりは天彦とて強硬に固持して突っぱねる。突っぱねるはずである。ただの来臨ならばだが……。
だが天彦は食らっている。完璧に食らっていた。
「是知」
「……御使者は、奉書を奉戴していると」
「そやろなぁ。抜け目ない関白さんのことやし。でも口惜しいなぁ、辛いなぁ。しんどいなぁ。……今回ばっかしは身共の負けかぁ」
「殿」
そういうこと。
近衛はあろうことか自身の持てる最大にして絶対の札を切ってきたのだ。それも最強にして最上の切り札である帝という名のワイルドドロー4を。
つまり彼女たち宮廷女房は帝の正式な代理人として女房奉書を携えての下向、来臨なのであった。
天彦痛恨。その沈痛には無念さが色濃く浮かぶ。
そんながっくしと肩を落として項垂れる天彦の肩に、そっと優しく手が添えられる。
「菊亭、お前は負けてへん。いいや儂らは負けてへん。菊亭は常勝無敗や」
「お茶々……」
「なんやそのしみったれた顔は」
「生まれつきじゃい」
「覇気がない。アカン」
「アカンゆうても」
「菊亭、拠点は奪う。お前、そう言うたんと違うんか」
「……! ちゃわへん!」
天彦は茶々丸の言葉にハッとさせられる。
そうだ。最低でも拠点の簒奪は認めさせる。ならばドロー。引き分けには持ち込めるはず。
天彦の瞳に俄然闘志が灯ってゆく。
「佐吉」
「はっここにございまする!」
「筆と飛び切り上等さんな紙をおくれ」
「はい!」
そうと決まれば話は早い。天彦は思うまま感情に任せて筆を走らせる。
しかし一方で近衛前久にも恐れ入る。
近衛のMBTIはESTP(起業家)であろう。何しろ社交的で人懐こく周りを楽しませる機知に富み、エネルギッシュで華やかな存在感があり、どこにいても注目の的になる。そして現在の状況や変化への対応が得意で冒険や挑戦を好む性質である。
まさに絵に描いたような完璧なプロファイリングではないか。
猶、天彦のMBTIはESFPです。生きづらさランキングぶっちぎり第2位の。
「次に生かすん」
ぼそっとつぶやくと、
「お越しになられました」
「皆で盛大にお迎えさんや」
はっ――!
◇
御両人が来臨し、場に緊張の帳が降りる。
勾当内侍好子は厳かに奉書を奉戴し、
「奉書にあらしゃります、控えおろ」
はは――!
天彦たち菊亭一同は奉書の前に辞を低く、最敬礼の意で御使者を手厚く迎え入れるのであった。
◇
「新内待さん達ての願いとあらば、この菊亭、訊かぬ耳は持ちゃしゃりません」
「どこでも誰にでもゆーたはるんでっしゃろ」
「急にメンヘラ!」
流行っていた。
横大路領、将軍家被官衆小川丹波守から苦労してせっかく取り上げたのに、また分捕られたんご苦労さんの巻。
正しくは横領した大神藤林右衛門尉を当主の座から罷免し、代わって天彦の推薦する藤林磯良を当主代行に据える条件を受け入れた。即ち近衛は震えながらこの折衷案を飲んだのである。
証人として勾当内侍好子と新内待基子が立ち会ってくれた手前、有耶無耶にされることはけっしてない。
願った圧勝からは程遠い。しかし天彦の菊亭はこうして洛外とはいえ京の真ん中至近に念願の土地を手に入れた。それも立派なお城付きの。
正確には磯良が城主だが磯良が城代に天彦を任命したのでそういうこと。
こうして天彦は、大手を振って威張れる居城という名の棲家を手に入れることになるのであった。
「おい夜叉丸。お殿様、なんか知らんうちにお城分捕ったぞ」
「ああ市松。儂はちょっと信じられんくて、まぢでびびってるところじゃ」
「実はすごい人なのかも」
「それはない。運があるだけじゃろ」
黙れ清正の中のキッズ。キッズは一生びびっときなさい。
そこに新城主となった藤林磯良がカットイン。
「菊亭様。何とお礼を申し上げればよいのやら。正直に申さば驚きで未だに信じられておりません」
「何も申さんでええん。感情は後から追い付いてくるやろ」
「ですが、それではあまりにも温情が勝ちすぎております」
「ほなこうしよ。磯良はもう身共のお身内なんやしなーと」
「なんと……! この御恩、代々語り継ぐことをお誓い申し上げます」
「そうしい」
「で、娶っていただけますので」
「無理やろ」
「何故ですの」
「見たまま、身共はキッズやろ」
「きっずとは」
「ガキ」
「女を舐めないでいただきたい。五年くらい待てます!」
逃げろ。
秒で捕まる。今度は別口の五月蠅いのに。
「凄いです!」
「そやろそやろ。おほほほほ」
「あ、それ近衛様の真似だりん」
「そうやで。おほほほほ。似てるか」
「そっとしとくのがいいと思います。おっかないお人だと知れましたので」
「あ、うん」
やや凹まされ、癒しを求めてつるつるてんの頭を撫でに、
「おい菊亭。図にの、ってええわ。今日くらいな」
「乗る!」
「何しとんじゃ」
「撫でてるん」
「……ふん。ホンマはアカンぞ」
「知ってるぅ」
じゅうぶん癒されたところで、
「殿!」
「殿!」
「殿!」
「殿!」
「佐吉、是知。他のみーんなさん纏めて一つの勝ちを菊亭は拾った。この通りおおきにさんにおじゃりますぅ」
天彦も天彦とて有頂天を演出して。
いずれにしても家内はほくほく。城と名誉を取り戻し手に入れた磯良を筆頭に誰も彼もが天彦の偉業を称え、菊亭ファミリアに久しくなかった笑顔だけの花が咲く。
こうして天彦の悪巧みという名の異能は死者誰ひとりとして出さずに炸裂するのであった。
炸裂とは。
最後までお読みいただきありがとうございます。
頑張った心算です。評価や声をびくびくしながらお待ちしております。
ではまた。