#02 意図せず状況を悪化させてしまうお家芸が炸裂した
永禄十二年(1569)十一月十日
先導する小春につづくルカこと米。に抱っこされる抱っこされ彦の図。
「いや、普通にハズいんやが」
「そういうとこ、ほんとお子ちゃま」
「くぢょあがっ、いだぁああ」
「黙らないと舌を噛むだりん」
「もう噛んだやろ!」
「黙らないとまた噛むだりん」
「いや待て、ほな降ろそ? 縦揺れで吐きそうなん」
「厭だりん」
「なんでや。もう自分で歩けるん」
「すーはー。くんくん。――やだね!」
あ、はい。
やはり射干は血族なのか。ラウラを筆頭に彼女たちは誰も彼も挙って天彦の頭皮を嗅いで喜んだ(棒)。
「まあ、ええけど。ほな任せたろ」
「やたっ」
まったくの胡乱でもない。天彦も雪之丞のお日様の匂いは大スキだし。
さて、菊亭と世間との違いは文化面・技術面・考え方と何かにつけて乖離している。
中にはもはや幅と言ってしまうには無理があるような差異もあって、その極みが医療に顕著に表れる。天彦のオフィシャル大題目である“命大事に”が極まって伝わって射干党を筆頭に心血が注がれてきた結果である。
と、御大層に天彦上げをしたところで実際は大したことはない。
鼻高でいられるのはあくまでポジショニングの問題であって、未来の現代医療からすれば半笑いのお飯事の域にも達していないキッズの砂場なのである。
ましてや科学を音速で置き去り(笑笑)にしている天彦のイレギュラーな知識は実に中途半端。何なら知らない方がよかったまであるザルポン知識も少なくないとなれば、どこにも文句は付けられない。……はずなのに。むろんそこは天彦である。それでも文句はつけるのだが。
よって菊亭の医療が他者目線からえげつなく進歩的に映るのはすべて家来、主に医療班の血と汗と涙の結晶。天彦が薬聖などいう賞賛の声を一手に担うのはさすがに気が引けていた。それでも満更ではないのはけっして気のせいではないはずで。
つまり俗物。自分可愛い彦はあるいは偽善と揶揄されるほど喜んだ。
さてその比較対象だが、これがとことん酷かった。室町後期の医療は知識も技術も控えめに言ってエグいほど終わっていた。
しかも道徳心まで終わっていて(あるいは始まっていない)、医師や薬師を自称する人々は好き勝手な治療方法で出鱈目な医療を思い思いに施した。
どれほど酷いのかというと、この時代、比較的かなり相当マシとされる金瘡医(最先端医療のプロフェッショナル集団)でさえ独自に編み出した手術呪文を駆使して痛みを緩和させていたり、馬糞で溶いた癒薬を処方したりしていたくらいなので医療レベルはお察しである。これガチです。
では何がいけないのか。常なら一言には言い切れないのが戦国のあるあるである。だがしかしこの点に限っては言い切れた。明白である。
それは正しさの定義である。言い換えるなら国家資格の有無こそがこの有害を蔓延らせている唯一にして絶対の要因であると天彦は考える。
但し考えるだけで手は打たない。将軍家に訴えたところで。朝廷に訴えたところで。半笑いならまだしも“ほな、お前せえ”と伝家の宝刀を抜き放たれて押し付けられたらお仕舞いです。
天彦にはそんな時間も銭もないのである。責任感は一番ない。そういうこと。
「ああ、えぐい。ジェネリックですらありませんやん」
「ん? 何かおっしゃいましたか」
「なんもない」
「ほんとかなー」
疑り深い家来である。その胡乱は正しいのだが、つまり何が言いたいのかと言うと、その名うての金創医がそこいらに落ちている馬糞を掴み、今まさに塗りたくろうとしているのだ。今まさに術後なのだろう患者の傷口に。
おそらく刀で斬られたのであろう怪我人の傷口に塗りたくろうと右手でほやほや感の強い馬糞を掴んでいたのである。……まぢか。
実際に直面すると言葉を失ってしまう。未来の現代知識を持つ天彦にとってそれほどえげつなく直視に耐えられない光景の一つだった。
◇
結論、つまり将軍家である。だいたい全部足利のせい。知らんけど。
朝廷も多少はあるがこの夜警国家状態である戦国室町に曲がりなりにも君臨し武で統治しているのは武家であり、その頭領こそが将軍家である。よって悪いのは足利家。証明として完璧である。逆に朝廷はワルクナイ。朝廷はただの権威。これ絶対則である。
これぞ天彦の断固として絶対に譲れない主張であり一線であった。むろんこちらも自分可愛い彦の120偏った思想によるポジショントークであることはお察しである。念のために。
何が言いたいのかというと、
「で、妹ちゃんは小春でええんか」
「はい、菊亭お兄様の小春にございます」
「その設定やったら家名はせめて同じにせい」
「え、よろしいので」
「ええわけないさん。理由はいるかぁ」
「いいえ。ではやはり菊亭お兄様の小春にございます」
「それはちゃうやろ」
「ちっ、けちんぼ」
舌打ちがなければまだ検討の余地は、ないな。
天彦は庶人の力強さと強かさに若干の嬉し味を覚えつつも本題に切り込んだ。
「あれを何とかせえと申すんやな」
「はい何卒。何卒どうか菊亭様のご威光で仲間を救ってください」
連れてこられた先には、天王寺方に仕えているらしい被官(下級役人)が血塗れになっていた。
刑罰の一環として直接の接触を禁じられているのだろう。誰も直接手を触れずに遠巻きから励ましの言葉を送るにとどめている。控えめに言って重症なのに。
天彦は若干の他人事感情で、人物の人相を思い起こし記憶を探る。と確かに面識があったようななかったような。薄ぼんやりと記憶が浮かぶ。
だが血塗れの被官を神妙な顔で見つめている下級貴族になら確と見覚えはあった。
天彦をコテンパンに伸した楽団の一人、高麗笛の達人である。むろん感情は“ぐぬぬぬいつか倒すん”しか持ち合わせていない。
さて措き打擲刑は見せしめ要素の高い刑罰である。たしかに視覚的効果は高いと認められる。何しろゲロ吐きそうだし。
だが一方で犯した罪に見合っていない量刑の、最上位に位置する刑罰ともされていて天彦の嫌いな刑の一つでもあった。
「何をしでかした。死にかけとるやないか。余程やぞ」
「いいえ、何も」
「は? 何もとはなんや」
「はい。ですので言葉通り、ほんとうに何も歯向かうようなことはしておりませんのです」
「ほー、言葉が事実ならそれは不運さんやなぁ」
「庶人の不幸を不運と一言で斬って捨ててしまわれるのですね」
「誤解や」
「では」
「うん。身共は公家。如何なるときも斬り捨てはせんで。放るだけや」
「あ。……ご無礼、申し上げました」
「ええさんよ」
小春の顔に明らかな失望の色が浮かんだ。あるいは失望よりももっと色濃い色が浮かんでいるのかも。言葉にするなら絶望とか何とかどす黒さより無色に近い感情に置き換えられる系のやつが。
他方、対する天彦の目には明らかなやる気が漲っている。何ならどこか浮かれている雰囲気さえ漂わせて。
それが更なる不信感を招くとも知らず……は天彦に限ってなさそうなので、知ってか知らずかお構いなしに。天彦は愛用の扇子で小気味よいリズムを刻み、やがてストン。やや小首を傾げて扇の先端を小春に向けて言い放つ。
「庶人一人の命などただの記号か。貴様らは黙って粛々と権威にひれ伏せておけばよいと。あははは、おもろ。よし女、身共が事情を訊いたろさん」
「感謝申し上げます」
「がっかりさんか」
「いえ」
「ほな、口だけのガキが庶人の生きるか死ぬかの不遇を面白がって不愉快か」
「いいえ、けっしてそのようなことは」
「ウソの顔で申すか。まあええさんや。その前に、ルカ」
「はい」
ルカに傷の手当に適した人材の選任指示を出す。
猶、今回の逃走で散り散りになってしまっている救護班とはまだ集合できていない。
よって天彦専属の医療班はいない。だが菊亭ではその職責に限らず代用人員でもそこそこの腕(菊亭西洋医術)は見込めた。何しろこの時のために日々の訓練に応急処置を必修教科として取り入れているのだから使えないと逆に困る。猶、但し外傷に限る。
天彦はルカが早速指示に従い行動に移すのを横目で見ながら、
「ほな参ろうさん」
「え」
「えやない。参るぞ」
「あ、え、はい」
今一つ飲み込みの悪い、あるいは邪悪彦の気配に気圧されてしまっている小春を催促して引き連れ、自分は自らの足で怪我人の元へと歩み寄った。
だが小春の鈍い反応も無理はない。天彦と恐ろしいがイコールで結ばれないのはよくあること。
それは噂を100知っている京町雀でさえままあった。何せキッズ。しかもフィジカル的な威圧感がゼロのへなちょこのしょぼショタなので仕方がない。
またそれとは別に一般論でも公家は権高いだけで無力としたもの。怒らせたところで実害があるでもなし。という武家以下に共通された認識がバイアスとなって意識させていた。
加えてましてや天彦は天王寺方にコテンパンに伸されて半泣きで震えていたキッズモードを見られてしまっている。何ができるものかと高を括られていても不思議はない。
だから小春の求める天彦へのお願い事は精々が関への上奏くらいなのだ。
そう考えるのが妥当であり、事実そうなのだろう。少なくともこうして実力行使に打って出るなど想定外も想定外。さすがに揉めさせることは本意ではないはずである。
「あの! 菊亭様にご無理をお願いしたいわけでは……」
「はァ?」
「ですから男子としていい恰好をなされたい気持ちは汲みますが、無理していただいても、私にはすでに親が定めた許嫁もおりますし」
「おい待て。なんぼなんでも舐めすぎやろ。てか妹設定どないした」
「ですが」
天彦にもさすがにわかる。冗談でこの殺気張った雰囲気を和ませたいことくらいは。だがその手には乗ってやらない。だって凹しに行くための凸なのだから。
何よりもいつの間にか姿を見せて、視界の端でにちゃにちゃ笑っているクソガキ二匹がとてもウザい。
「おい夜叉丸。あのちび殿様、喧嘩するってよ」
「らしいな市松。これは見ものじゃ」
キッズさあ。
こいつらに目に物見せてやるという確固たる意図を胸に、尚且つこいつら今日にも元服させて激戦必至の三河に送り込んだろかの感情で、つい言葉を荒げてしまう。
「黙っとれ、庶人風情が」
「はい……」
しくったん。小春がしょぼん。
すぐに失態に気づき誤魔化すがだいぶ遅い。しかもオニダサかったし。
腹立つわぁ。視界の端っこ。まぢでどつきたいん。
だが天彦は気づいている。あるいはこのおかげで気づけたのだが、ちょっと煽られた程度で心がささくれるなんて。やはりイツメンの不在は天彦のメンタルゲージをゴリゴリに削っていた。
天彦は自分でも心に潤いが不足していることを自覚しつつ、
「舐めるな、身共は警察で検事で裁判官や。裁くことはあっても裁かれることは誰にもないさん。あとこれはよう覚えとけ、ええか。身共は生まれたときからカッコいいん。しかもずっと! お前さんの申す無理なんか一個も必要ない。それを今から証明したろ」
「はぁ」
クソ、すべった。
明らかな反応の鈍さにうんざりして、打擲刑を受けた怪我人被官の元へと向かう。数名の新参青侍を引き連れて。
むろん刑罰の執行を監視している下っ端役人が天彦に悪意100の威嚇の視線を送りつけてくる。が、余裕で無視する。
すると役人二人は鼻息荒く立ち塞がり、持っていた槍の穂先から被せを外して銀の鈍い輝きをチラつかせて身構えた。そして、
「山科関横目付け、右衛門尉様のお達しである。何人も咎人に触れてはならん」
「何人さんなに、何さんなんぴと」
「なにを。ガキが舐め腐りおって! 無礼は許さんぞっ」
「はて、ガキと侮っているのはお前さんの方やと思うが」
「ここを関白様の御料地としっての暴言かっ!」
「暴言。はて?」
この関がどこのどなた様が設けたものであろうとも、大宰相たる菊亭の当主の歩みを阻めるものではけっしてない。少なくとも京にはいない。直接の雇用主である帝をおいては他にない。それが公家のしきたり、あるいは流儀だから。
序列はあくまで立て付けであり、役職はあくまで所属を意味するだけ。彼我の契約関係ではけっしてない。皆、厳密にはフリーランス。だからこそ組合(派閥)に入って守り守られの一門ごっこをするのである。
故にそれが例え位人臣を極める関白太政大臣様であろうとも、菊亭の歩みを阻むそんな権限はないのである。正当性があったとて。
そして対する帝の直臣たる殿上人参議天彦にはその権利が確とあった。誰憚ることなく帝の納める日ノ本を闊歩するという正当性が確とあった。
むろん権利を行使できる実力も多少は必要だが、天彦には名も実勢も申し分なく備わっている。
ざざざ――。
広げた扇を仰ぎ掲げる。生まれ育ったこの京で、駆けずり回った身共の庭で、菊亭の家紋を存じぬなどは言わせんぞ。の感情で。
「なっ……!」
天彦の粋り散らかした感情などとは無関係に、燦然と掲げられた三つ紅葉紋は実にシステマチックに与えられた役割を果たし抜群の効力を発揮していた。
つい先ほどまで下級役人と天彦との諍いを、暇つぶしのいい寸劇とばかりにやにや顔で傍観していた高級役人たちが挙って地に膝をつけ、心身ともに屈服するという菊亭ではもはや親の顔よりよくみる確定演出を伴って。
「それを貰い受けるが異議はおじゃりますかぁ」
「ご、ございません!」
「ほなどいたってんか」
「ご、ご無礼仕った」
それでもさすがは近衛の諸太(の家来)。気概だけは一流だった。
天彦はそんな近衛家の家人たちをとびきりの目線で煽りまくって、
「参ったか」
「はは。参りましてございます」
「それでええん」
誰に得意がっとんねん。の声が聞こえてきそうな小春に鼻高ムーブをぶっ込んで留飲を下げるのだった。
「お前さんはごめんなさい反省文五十枚の刑に処す。しかも自腹で」
「えぇ。……それは何でしょうか」
「これは効くで。地味に効く。なんせイルダとコンスエラが泣いて情状酌量を訴えたくらいやからな! はっはっは」
「はぁ」
菊亭家内式目ではかなりの厳罰である。むろんダルい苦痛罰という原始的な意味合いではなく、いやそれも多少はあるにはるが、実際は紙がむちゃんこ高いからというちゃんとエコノミックな痛みを伴う重罰である。
しかもまったく無意味なことを延々させられるというメンタルもちゃんとやられるおまけ付き。とか。
裁判官として小春に罪を言い渡した天彦は、置石のように固まってしまっている下級役人をしっしと手で追い払って怪我人の治療に当たらせる。
和みの冗談はさて措いて、再三言うが天彦専属の医療班はいないが代用人員でも菊亭直参ならそこそこの腕はあった。
「どないや」
「……! お、御見それいたしました。重ね重ね感謝申し上げます」
「重ね重ねとは」
「文字通りにございますが」
「おい、これが一度目やと記憶しているがまあええ」
「ご、ご無礼をお許しください」
「どのや」
「あ、え、いや、あわわわ」
「あははは、それ好きなん」
「もう、もう! 菊亭様は意地悪です!」
「あははは、よう言われるん」
小春の調子まで取り戻させてやって、やっとこさ本題に切り込んでいく。
「事情を話せ。訊くだけ訊いたろ」
「ありがとうございます!」
軽快な言葉が返ってきて今度こそ本当に頼られるのであった。
曰くそれは関での何の変哲もない会話から発展したらしく。
始めは普通の会話だった。誰もが口にする通行料が高いことや雅楽寮発行の通行証がなぜ無効なのかの文句である。
どこの関でも聞かれる軽口。しかも前年度、尾張と美濃に関所撤廃令が発布されて以降は特に不満の声は大きくなっている、そんな素朴で率直な感情の声である。関所側も受けて流すのが通例であった。あったのだが……。
何やらこの新設された山科関だけは旗色が違った。特に織田様から招かれた来賓であるぞと口上を切ったあたりから明らかに反応が変わっていたとか。
つまり誰だか知らない京都側の、織田に対する明確な敵意であると小春は言った。その政治的な巻き添えを食ったのだと言い切ったのだ。
「まあそやろな」
「酷いです! そんなことで三吉さんらが死んでしまうなんて」
「生きてるやろ」
「菊亭様が居られねば死んでおりました」
「まあそやろな。そやけど、それこそお前さんらがこうして生きる室町世界の宿痾や。どないもならん」
「……難しいことはわかりません。でも口惜しいです」
すると、
へ……、あ……、わ……、やば――。
天彦の涙腺は完ぺきにバグっていた。
「何やしぶとい。まあお前は殺しても死なんと知っとったけどな」
「茶々丸――!」
天彦は周囲の目など一ミリも構わず茶々丸にダイブ。まるで同化する勢いで抱きしがみついて感情を見せ散らかした。
「お前という男はいつまでたっても恥ずかしいやっちゃな」
「お茶々ぁあああああああああああ」
「わ、待て、着替えがないのに、わ、鼻みずがくそ、もうええ好きにせえ」
「するんっ!」
一生いちゃいちゃしていたい。だが若干の冷静な感情の隙を突かれた。
と、言うのも、
「殿、御無事で何よりにございまする」
「殿! ご無事で」
「それに佐吉も! 是知、みんなも! お前さんらみーんな無事でよかったん」
愛すべき家来がいたのだ。小さくなって親友との再会を邪魔しないように。家来ながら憎い演出である。自分たちこそいの一番に抱きしめられたいだろうに。
「佐吉! 是知も! さあやり直しや。ばっちこい」
天彦は各々を抱きしめ感情を爆発させる。佐吉は自分の手の行き所を探しながら好き放題抱きしめられ、是知はここぞとばかりスキンシップを堪能した。
面目、知らん。キッズの目、もっと知らん。そして新参者である紀之介(吉継)などもそうとうかなり引いているが、それも併せて気にしない。要らん要らん要らんのよ。
だって天彦にはこの目の前の家来たちにこそ、この世のすべてが詰まっているといっても過言ではないのだから。言葉を飾らず言うなら、他などどうでもいいのである。極論ではなく各論で。
散々茶々丸成分を補充して、さて、
「殿」
「殿」
嗚呼……。
天彦は秒で察した。何ならこの瞬間から逃れたかったから再会シーンを引っ張っていたまであるのだから。
むろん菊亭家中は誰もが承知。だが逃げられないことも知っている。
佐吉は言葉なく沈痛に沈み、是知は拳を固く握って口惜しさを言語化して吐き出した。
「次郎佐が逝ったんか……、そうか。そうなんやな。淋しいなぁ」
「くっ、殿……」
「うぅぅ殿おおおお!」
佐吉や是知は共に切磋琢磨してきた大切な仲間を失う。むろん天彦にとっても痛恨のロストである。今回亡くした祐筆の一人は天彦も顔と名が一致する数少ない有為の人物であったのだ。
仕事熱心でとても好感の持てる、けれどどこか冷めたところのある。つまり生粋の公家付き侍適性◎の人材である。……そうか。
「覚えとれ。身共は忘れん。何があっても絶対さんや」
「はっ某もお誓い申し上げまする!」
「はっ! むろんにて」
強気の感情など秒とは持たず、
わあああああああああああああん――!
三人で車座になって抱き合って泣いた。泣き崩れた。それが次郎佐のレクイエムになると固く信じて。
ややあって、
すると気づけば天彦の背中に温もりが。振り向かずとも感じる息遣いに痛んだ心が和らいでいく。
どす。茶々丸の胸に顔を埋める。
「お茶々ぁ」
「何も言わんでええ、どうせもうどろどろや。泣き虫は儂の胸の中で一生泣いとれ」
「泣く! わーん!」
「よしよし。お前はよう頑張っとる」
「うわーん」
言葉には積極的に甘える系男子の本領発揮。天彦は溜まった澱の上澄みではなく澱ごと全部ほかす気持ちで号泣した。
「ひっく、ひっく。すんすんぐすん」
許さん。絶対に許さんぞ。
感情の整理はついた。ならばあとは……。
復讐はしてもしなくても失った人は帰らない。とか。知るか。
おのれ浅井、おのれ六角。
絶対に確実に何が何でも痛い目以上の地獄を叩きつけて殺る。そのときまできっちゃない首でも洗って待っとれよ。の、感情を押し殺して。
「次郎佐」
「次郎佐ぁ」
天彦は自分より少し食らっている家来二人を視界に入れると完全にお殿様モードに切り替える。
だってかわいいお家来さんたちは、まだお別れの踏ん切りが付けられていないから。
「殿」
「とのぉ」
天彦は嗚咽に咽ぶ可愛い家来二人をきつく、彼らが気の済むまでいつまでも抱きしめてやる。
武士にあるまじき行為だと知りながら。ほなお公家さんにならはったらよろしいやん。の感情でいつまでも。
が、感動の場面もこれにてお仕舞い。
天彦は現実に引き戻される。それも飛び切りよくない報告で。
「菊亭、なんや雲行きが怪しいぞ」
「なにさん?」
「耳を貸せ」
「ん」
ごにょごにょごにょ。
茶々丸成分まんぱんで幸福度100のはずの天彦の表情が、にわかに色味を失っていく。
話を訊き終えた頃にはすでにすっかりキレパンダ彦の顔になっていた。
それもそのはず。茶々丸の持ち帰った情報は、この関で天彦がずっと感じていた違和感の正体、つまり庶人や商人たちから何となーく向けられる悪感情や露骨に感じていた白い眼の理由そのものだったのだから。
この関の徴税を強請ったのは菊亭だってさ。
ハァ!?
おい待てふざけろ氏ぬ、いやコロス。
しかも通常の関の通行料は高くて精々50文。通常は25文が相場である。ところがこの山科関の関料は何と驚くことなかれ。100文と言うではないか。
切れていい。それが本当なら天彦だってそれを強請ったとされる菊亭のクソガキにキレ散らかす。なぜならば、ここを通過する者の多くはたった一度きりではないのである。むしろ何なら日常的に生活道路として使っている者も少なくないはずで、冗談でも大袈裟でもなく死活問題に触れていた。
炎上はドンと来い。いつだって受けて立つ。だがこの手の炎上はちょっと違う。放置も出来ない。菊亭を慕う家来たちのためにも。
「出どこは」
「知らん」
「ほな考えよ。これをして、いったい誰が得をするんやろか」
「まあ普通に考えて儂はお前に顔向けできんやろな」
「やっぱり」
「気を遣わせたようやな。お前ならこんな問題、考えるまでもないことやろし」
「そんなことないん」
「……すまん。許せ」
茶々丸は義理ぱっぱとリアぱっぱの最悪の共演を示唆して、天彦にこれまで見せたことのない感情の揺らぎを見せるのだった。
【文中補足】
1、金創または金瘡
刀傷の意味
2、茶々丸の義理ぱっぱとリアぱっぱ
近衛前久と証如光教です。念のため。