#14 へんな使命感に駆られてやってます
永禄十二年(1569)十一月二日
京への帰還に向けた移動中の申刻晡時、夕七つの鐘が鳴る頃。
菊亭一行は一路、最初の中継地点を目指して進む。
天彦はいつもより断然視線の高い木曽馬の鞍上で終始ニコニコと朗らかを振りまく。……が。
その方がむしろ怖いことを知るイツメン家人たちは誰ひとりとしてその感情の機微には触れない。
「お雪ちゃん、大丈夫やろか。不安がってへんとええんやけど」
天彦は誰に問うでもなく問いかける。相手はお馬。信長から頂戴して虎徹と名付けた駿馬の首をポンポンと撫でるように叩いて問いかける。
そう。雪之丞は置いてきた。どう考えても移動に耐えられる健康状態ではなかったのだ。
だが一方では、もう成人した歴とした侍の身を案じるなど訊くものが訊けば不遜とも思える。構い過ぎであると。
しかし彼我の関係性を知り、かつ朱雀雪之丞の為人を知り過ぎるほどに知る家人たちにそれを揶揄する者はいない。
その一の家来を自称するアホさんは、“某、行けますけど!”勢い言うやお馬に飛び乗った瞬間傷口パッカーン。開いた傷口からぴゅーとなってお仕舞いです。医療班数名と僅かな用人を残して現地療養が確定した。
『若とのさん酷い!』
『いや、それは身共のセリフやでお雪ちゃん』
『わーん、びえーん。某も一緒に帰りたいー、痛いですー』
見るからに痛そうなので、だろうねとしか。アホかわいいがこればっかりはどうしようもない。
再会は早くて二月後とのこと。淋しい。淋しすぎた。考えるまでもなく天彦のこれまでの人生で、こんなに離れたことなどない。想像の億倍は辛かった。
だから天彦は雪之丞を気遣うフリをして自分の淋しい感情を闇雲に埋めていたのだ。
家人なら見る者誰もが頭をよしよしと撫ぜ撫ぜしたくなるほどの哀愁をひた隠して。無理して気丈に下手くそな笑顔を振りまいて。
「ちゃんと身共の言いつけ守ってくれるかなぁ、どうやろかぁ、心配やなぁ。なあ虎徹、お前さんはどない思う」
ぶひひひん。
と、思うらしい。訳せば“知らんがな”になるのだろう。きっと。そんなやる気の感じられない嘶きだったので。
と、
「殿、小腹が空きませぬか」
寄せようと思ってなぜか遠ざかっていく是知と違って普段の鍛錬を怠っていないのだろう。佐吉は巧みな綱さばきで馬首をそっと寄せてきた。
天彦はどんどん遠ざかっていくオモシロさんの背中を見ながら、首を振り向け“そやなぁ”と気のない素振りで応じる。
「あいつ大丈夫やろか。ときどきほんまにおもしろいな」
「いい薬になるのでは」
「なるほど。お前さんら侍は辛いなぁ」
「殿の大甘に甘えているだけにございまする。それより殿、こちら、よろしければどうぞお召し上がりください」
「ん? いや卵……! それも味噌漬けやん。身共の大好物っ!」
「はい。僭越なれどそうとお聞きし、仕込んでおりましてございまする」
「あの用人さんか! お喋りさんめ。でもご褒美やらなアカンな。こうして佐吉の耳に入ったんやし」
「はっ。重ね重ね僭越なれどすでに与えてございます」
「僭越なことなんかないよ佐吉すき」
天彦はもう頬張っていた。見た目に色の悪い味噌漬けの茹鶏卵を。
「はぁ美味しいさんやわぁ。佐吉おおきにさんやで。やっぱし佐吉は気の利く凄いお人さんやなぁ。お雪ちゃんも学んでほしいわ」
「はっ。いえ滅相もございませぬ。某は殿の下さる勿体ないお言葉に相応しい家来になりたく思いまする」
「いっつも控え目やし。もう十分適ってると思うけど。ミリ飯は旅の醍醐味やもんな。佐吉も呼ばれ」
「みり飯にございますか」
「うんそう」
「はっ。お言葉に甘えて、ではお一つ頂戴いたしまする」
天彦が横目で黒目灰髪のローマ戦士に同意を求めるが、当たり前だが同意を得られず、けれど会話の提供者にはなれたようで、
「ロルテス。ピコはなんて言ったの」
「ローマでも携帯食をミリ飯と言うのかとお尋ねなされたんだよ」
「ふーん。相変わらずおバカよね。ちっこくてぶちゃいくだし」
「こら。滅多なことを言うものではないよ。主君は語学マスターなんだぞ」
おいコラ聞こえてんゾ。
だが天彦の口にはすでにまんぱんのゆで卵が詰まっていて発声できない。
食べている内に文句も忘れてしまっていた。結果的に佐吉と二人で美味い美味いと頬張って、なんと10つも平らげた。アホである。
食が太くない天彦はもうそれだけでぽんぽんぱんぱんなん状態。鞍上で上下に揺れるたびげふっうぷっと催すのだった。
「ね。どう考えてもバカよね」
「こら。オルカやめなさい」
聞こえてん、おろろろろろろ――。
さて、目的地京まではおよそ36里(140キロ)であり、途中幾つかの難所が控えている。
難所とは文字通りに踏破が険しい伊吹山越えのようなトライの道程と、命の危険が伴うデンジャラスな二種類の難所がトラップとして控えていた。
要するにとにかく移動がヤバかった。50人ぽっちの武力ではちょっと心許ないほどヤバいのである。
未来の現代では信じられない話だが、いるのです。山賊が。海賊も。行為によって使うお面を付け替えるというご都合主義の、しかも地域に根差す豪族や国人領主オフィシャルの凶賊がうようよといる。
当初は長良川で川下りをして木曽川を経由して伊勢湾へと抜けるルートも検討したがやはり危ういと判断して渡船ルートはやめにした。海上は襲われたらお仕舞いなので。
よって陸路と水路の混合パターンを採用した。淡海(琵琶湖)まで陸路を行き長浜湊から一気に船で南下する行程を採用した。
というのも信長に“様子を伺ってはくれぬか”と打診されたから。誰の。例の人の。
むろん信長が義弟浅井長政の裏切りを勘繰っているなどということは一ミリもない。むしろ全幅100の信頼感があるからこそ信長は天彦に寄って行けと勧めたのだ。
まあ甘いよねお身内には。曰くお市が強請ってきおった。今を時めく五山の御狐様のご尊顔を拝したいそうじゃ。逢ってやってはくれぬか。らしい。
魔王様が丁寧にお願いしてきた場合、これは命令よりも効力が上だった。遜るという行為に価値が発生するので。知らんけど。
いずれにしても天彦に否やはない。むろん稀代の美人さんに会いたいというしょーもない理由では一ミリもない。これが安全な京ならいざ知らず命がけの移動にそんな酔狂な感覚は一つもない。
天彦は天彦で信長とは別視点の思惑もあったので快く応じた。
むろん遡及して歴史を改変するだとか、日ノ本のデザインのためにだとかそんな大義は抱いていない。そもそも論天彦にそんな大義はないのである。それは天下を見据える偉大なお人の領分である。
だから単に浅井新九郎長政なる人物が果たしてどのような人物なのか。とても興味があっただけ。
天彦は実弟信成、筆頭家老林秀定、柴田勝家、松永久秀、荒木村重、惟任光秀と並ぶ織田信長公を裏切った稀代の裏切者たちの心境が知りたくって仕方がなかった。反面教師とするために。
そう。すべては自己的、あるいは利己的な理由だけ。信長公にお借りしているほんのちょっとでも返せたらいいなー、利子分くらいにはなれの感情で。
よって北国脇往還道ルートで小谷城に寄り道をして帰ることにした。
「殿、あれなるは大垣宿本陣にございまする」
「うん。盛況やね」
「ございますな」
「なんや氏郷、えらいご機嫌さんで。やっぱし故郷が近づくと嬉しいもんさんか」
「あ、いえ、そんな」
「そんな? なにさんや」
「そ、某、状況を調べて参りまする。しばしお待ちを!」
「ふふ、頼んだで。いっつも頼りにしてるん」
「は!? ……はっ!」
一行は最初の中継地点に到着した。宿場町は中々の活況を見せていた。
「蒲生党、参るぞ。我につづけ」
「おう」
氏郷の号令で青侍たちが先行して宿場町へと向かっていった。
猶、氏郷がいつも以上に出しゃばって張り切っているのは、ここら一帯が勝手知ったる故地だからばかりではないのだろう、きっと。なにせ背中が飼い主にもっと褒められたいだけの灰色狼みたいだから。
◇◆◇
永禄十二年(1569)十一月三日
翌日、大垣宿場を出立し強行軍で駆け抜けた日の夕方間際。
菊亭一行は北近江・浅井郡近辺に辿り着いていた。例の戦が行われる予定地姉川河原付近である。訊くと見るではイメージの具体性に大きな差が生まれるということでちょっと現地入りしてみていた。
天彦が一夜の寝床に決めたのはとある惣村であった。
村にはあまりいい記憶がないので一瞬躊躇したものの、そんなものはバイアスだと厭な予感を振り切って宿泊先に決定する。というよりこの時代、村泊を毛嫌いしていては真面な旅などできっこない。
天彦の名代として氏郷が先触れに向かう。むろん訳あって身元は一切明かせない設定で。
「名主、世話になるぞ」
「これはご丁寧にお侍様。何もない村ですが、せめてお体だけでもお休みください」
「うむ苦しゅうない」
村からすれば100迷惑なだけの招かれざる客であることは知っている。普段こそ傲岸な氏郷もこのときばかりは殊勝な一面を見せるのだった。
さて近江国浅井郡だが、近江と言えば守護六角である。
そして時代背景的に健在とは程遠いもののまだ六角は完全に滅んでおらず、自ずとそこらかしこに影響力を及ぼしていた。
そんな浅井郡はけれど北近江にあり旧京極領にありながらがっちりと民心を掴んでいるようで、領民からも確と現浅井家領と認識されているらしい土地柄であった。
「浅井の殿様の下へ向かわれますか。それは善いことです。今夜は些少ですが宴を催したく存じます」
らしい。天彦が伝えると名主は上機嫌に宴を催すとまで申し出る激変ぶりを見せるのだった。
◇
簡素な宴も終わり夜も更けた。
寝所にあてがわれたのは名主の屋敷の離れ小屋。位置的に奥まっていて警備しやすいとのことで且元と氏郷が決めた。
その小屋で、いつもは寝つきのいいはずの天彦が不思議と珍しく寝付けず、窓枠からぼーっと月を眺めていると、
「風が……止んだ」
伊吹颪が吹き込んでいたがそれも止み、木々のざわめきが一切鳴りやんでしまっていた。するとしばらくして異変を感じる。
「なんや」
注意深く観察するとどうやら周囲の流れが逆流しているようである。いやしている。あるいは時間軸さえ遡行しているかのように感じるほど、風も雲も何もかもが逆流していた。
するとどうだろう。雲の切れ間から覗く月に異変が起こっていたのである。
天彦の目には赤銅色の月が浮かび上がって見えていた。嗚呼、ていう。
天彦は知識として気づけた。そう。蝕である。皆既月食である。
「まあ、ね」
わかればなんてことはない。だがまあ不気味ではあるのだろう。現象として物理的な理解が伴わなければ普通にキモいので。あるいはこれと神仏の何かをつい紐づけてしまいたくなる程度にはたいへん不気味なお月さまだった。
そんな薄気味悪い月を眺めていると、
「殿、起きてくだされ」
「ん、どないした声を荒げて珍しい。起きてるけど」
「それは重畳。ご無礼仕りまする」
「ええけど、なんや」
「大事態、出来してございます」
佐吉の声には極度の緊張が窺えた。
ははーんさてはルーナ―イクリプスに。てっきり月食にビビっていると高を括った天彦は余裕の声で上から応じる。
「大袈裟や。どうもないさんやでぇ。これは蝕とゆーてな――」
「殿、我ら賊に襲撃されてございます。青侍衆が応戦しておりますが一刻持たないとの由、至急お逃げくださいとのことにございまする」
え。
思考が止まる。急に政治的な文脈に脳を切り替えろと言われて脳がビックリしてしまっていた。理解が一つも追い付かない。
警備面から奥まった場所に泊まったことが幸いしたのか、災いしたのか。
元から長い面積の村だったのは痛恨だった。あるいはそれさえ意図的なのかもしれないが。
徐々に天彦の思考が冴えていく。
「殿、殿っ!」
「あ、うん。それで」
「片岡殿、蒲生殿は郎党と共に賊と対峙しております。殿におかれましては射干党を連れてお逃げくださいとの由にございまする」
「それはわかった。佐吉ら諸太夫もやろ。是知は。是知の鼻につく鼻高声が訊きたいんやが」
佐吉は首を左右に振るだけで天彦の求める欲しい答えはくれなかった。
なにかわからない。なぜ、なぜ、なぜ。ばかりが脳裏を占めてしまって真面な思考が働かず、理解を天彦の思考が拒絶する。
天彦は考えるよりも感情で言葉を操る。あるいは振り回されて発声した。
「佐吉、ほな参ろうさん」
「殿、お逃げください。某はここに残り、殿を務めまする」
「え」
「殿、某も侍の端くれ。殿をお守りする殿を務めるは誉にござる」
「あかん! 厭や! そんなん厭に決まってるん!」
「殿、何卒、たった一つのわがままにござる。何卒どうかお聞き分けくださいませ」
「厭や、絶対に厭や!」
「……是非もなし。ご免仕る。ルカ殿、殿をお連れいたせ。任せたぞ」
すると天彦の身体がすっと宙に浮いた。
「無礼者っ、離せ、離さんかっ。身共は太政官参議なるぞ」
「お殿様、王将は取られたらお仕舞いだりん。じたばた駄々を捏ねている時はないよ」
「身共が――」
「いい加減黙って。黙れっ!」
「う」
「これだからガキは。あのさ、うちの郎党や青侍衆の死を無駄にしないでほしいかな。片岡さま、笑って逝ったよ。お殿様さえ守り通せば郎党の未来は安泰だってさ。違うの?」
え。
そんな……。
え。
なにが何だかわからないうちに少し大きめの背負い籠に詰められた天彦は数名の射干党に連れられて惣村を離れるのであった。
最後までお読みくださいましてありがとうございます。
合言葉はオプティミスティック。そういうことです。
ひきつづきよろしくお願いいたします。