#10 その薄汚い首を置いていけ、と彼女は言った
永禄十二年(1569)十月二十九日
「天、菊亭さ、ま」
「おやおや……? 身共もお前さんの申す、欲に塗れた無力な能無し共の一人やけど?」
「くっ、ご無礼仕った」
「あれあれ? 詫びれば何でも済むんやろかぁ。ほな身共もたんと謝って寺社どもに寛恕してもらおうかなぁ」
「ぐはっ」
天彦は平八郎にダル絡みしていた。こうなったら天彦は本気の本気のまぢでウザい。
家康は言え易ではなかった。鉄壁の鉄強だった。探りの会話には終始ニコニコと柔和に如才なさを崩さず、だが肝心要の本丸に対しては頑として否を突き付けた。一貫して近衛との関りを否定し通したのである。
だが天彦は信じていない。家康をというよりも戦国室町の治安の悪さを。
訊きたいことは知りたいこと。とばかり家康は質のいいコメントに終始した。むしろそれこそが胡散臭かったのだ。
天彦にとって質のいいコメントこそ治安の悪さの裏返しであるからであった。
だが尋問もタイムアップ。魔王様の仲介によって一切不問の沙汰が下されたのである。よって事実はすべて闇の中。
スッキリしないマンはちょっと荒れた。誰彼構わずダル絡みをする程度には荒れていた。
故の生贄。天彦の気を和らげるため人身御供的に差し出された格好になってしまった平八郎は延々ずっとウザ絡みの餌食となる。←今ココ。
が、そんな平八郎を救う救世主が姿を見せた。まさかの自軍からではなく織田家と菊亭家からである。
「おい菊亭! 儂の出番がないではないかっ」
「おいコラ菊亭、お前また儂を巻き込んで儂にケツ拭かせようとしとるな」
「う゛」
三介と茶々丸の登場に天彦の独壇場が終わりを告げる。
誰にだって得意なことがあるのと同じ原理で苦手なものは存在する。それは好き嫌いにかかわらず。
天彦にとって三介と茶々丸は愛すべき苦手であった。ネコは愛らしくてかわいい。けれど見た目の似通っているネコ科の野生動物が同じく該当するかといわれれば違うのと同じ理論で。
もっと言うと天彦はヌイ派。感情のある生き物全般、あのキティ(子猫)ですら苦手としているくらいである。ましてや大型のライオンやトラやジャガーやヒョウかなんか知らんけど、そもそもデカいだけで論外なのである。
ならば打てる手は一つ。――逃げろ。
それしかない。
天彦は平八郎のむちゃんこ広い背に飛び乗り、首に腕を回して叫ぶ。
「ゴリマッチョロボ、発進――!」
「なんと!?」
「こら、ぼさっとしてんと発進するん。こういうのはノリだけなん」
「どこへでござる」
「とりあえず身共を攫って」
「はは、まるでお年頃の姫様の文言ですな」
「む。ロボのくせに生意気なん。身共は歴とした男子やぞ」
「それはご無礼を仕った。ではご命令通りお攫い致そう。平八郎、発進の前にしばしお待ちを」
平八郎ロボは立ち上がると上座を一瞥。自身の殿様の裁可を仰いだ。
一方、裁可を委ねられた上座の御方はこれまた左斜め隣に視線を送って判断を仰ぐ。その間ゼロコンマ5秒。家康公に躊躇いはなかった。
キラーパスを受け取った上座上席に鎮座している座のホストは左隣斜め下に向かって睨みつけるような鋭い視線を投げかける。――ひいっ。
本日二度目、是知がじんおわしたのを確認すると“ちっ”信長はあからさまに期待外れのリアクションをすると右手の御猪口をぐいっと呷って、
「善きに計らえ」
回り回ってきた平八郎の意図に許可を与えるのであった。
二段階右折ならぬ二段階承認がおりた平八郎はこくりと頷き、では参りますると背中の覆いかぶさった軽いお荷物に申し告げる。
が、天彦は憮然として、
「お前さんの心情を考えればしゃーないことや。そやけど一遍だけやで。次に身共の命に即応せんかったらもう二度と、天ちゃんとは呼ばせたらん。心しとき」
「はは、ふはは。それは心せねばなりませんな、天様」
「ん。参るん。発進や、ゴリマッチョロボ!」
「はっ」
皆の唖然を置き去りにして天彦とロボに仕立てられた本多平八郎は饗応の間を後にするのであった。
が、
「おい禿げ頭、追わぬのか」
「なんやと。……お前か。おう、追ってどないするんや」
「お前、菊亭の家来にしては阿呆じゃの。捕まえるに決まっておるではないか」
「はは、聞きしに勝るど阿呆やの。捕まえたところで余計に真意が隠されるだけであろう」
「……真意? いやいや待て。誰に何をぬかしておる。己は誰じゃ。儂は――」
「黙れ小童。儂は大菊亭家の家令であるぞ」
「お、おう。……おう?」
儂、織田弾正忠家の二子なんじゃがの……。
聞き取れないレベルでぶつくさぼやく三介だが、完全に茶々丸の迫力に飲まれてしまっていてそれが自分でも口惜しいのだろう。口をへの字に曲げて不貞腐れる。
「なんじゃ噛み応えないの」
「ふん、いつか見とれよ!」
「負け惜しみ友だちか」
「なに、を」
「図星か。だがおう。いつでも掛かってこい。そのたんびにボコったる」
「ぐぎぎぎぎ」
天彦は、あの三介が勢いに気圧されて煙に巻かれて納得させられるという超貴重な名(迷)場面を見逃すこととなるのであった。
◇◆◇
「ロボ、ここでええさん。おおきに無理訊いてもろて。堪忍なん」
「何のこれしきのこと。……しかし、これは」
「奇麗やろ」
「はっ、絶景にござる」
天彦が誘導したのは探検のとき発見した絶景ビューポイントであった。
普段も美しいが今夜はとくに冴えて見えた。とくにどこかで行われているのだろうミサの灯火が美しく映える。
むろん城まで上がればいくらでも望める景色だが大そう。それと自分だけの場所も欲しかったので総合的には100点満点の穴場である。
何より、
「どないさん」
天彦は平八郎に問う。何を問われたかは問われた平八郎には理解できている。
目を凝らせば夜陰に紛れて銀閃が煌めき、耳を澄ませば軽妙な息遣いと規則正しい衣擦れの音が微かに聞こえる。
そう。ここは穴場。人の滅多に立ち寄らない祠が祭られた、人の目が気にならない修練にも格好の穴場スポットだったのだ。
「……中々の槍筋。何より足捌きは達人並み。あれで膂力がつけば空恐ろしい達人になりましょう。あれほどの使い手は早々お目にかかれず、あれほどならばこの本多平八郎でも少々手古摺りましょうな」
「ほーん」
平八郎は得意がった。事実なのだろう現状の優位を告げて100の自信を隠しもせずに。
だが天彦は特に興味を示さず素っ気なく応じる。そして務めて普通のトーンでけれどこれぞ菊亭の本領発揮とばかり平八郎の度肝を抜くとんでも発言をぶっ込んだ。
「得物を貸せ」
「は……?」
「腰の刀を貸せと申した」
「聞こえております。いくら天様の仰せであろうと、意味もなく侍の命を貸せませぬ」
「意味はある。あれな修練者、我が菊亭千年の宿敵である」
なるほど意味はあった。
平八郎は目を凝らして闇に紛れる銀閃を追った。だがそれも束の間、
「菊亭家は天様一代と聞き及んでござるが」
「精神論的物の例えや」
「昨日、家人をボコられたと耳にしましてござる」
「……しつこいとモテへんのん」
「はぁ」
平八郎は衒いなく呆れる。そもそも何がしたいのか。
仇討ちなら今すぐ命じればよいではないか。そのためにこの場に誘導したのではないのか。
会話の流れから薄々察しているのだが、どうにもそれも違うらしい。
終始掴みどころがなくやっと尻尾を掴んだかと思わせて、やはりぬるっと逃げられてしまう。
平八郎は二転三転、結局天彦の真意が読めずに混乱のまま思考を放棄してしまう。
ならば残された手は一つ。平八郎は正直に相手に委ねた。
「真意は那辺にござるのか」
「お前さんはこう考えているんやろな。このチビに何ができるものかと。ごっこ遊びも大概にいたせと。ならば申す、そっちこそ舐めるなよ! 身共は臥竜十遍流の使い手なん」
「がりゅうじゅっぺん、流にござるか」
「うん、そう」
平八郎は槍術、棒術、剣術、柔術と、自身が覚えあるありとあらゆる流派の記憶を呼び起こす。だがどの項目にもヒットしない。
「天様、流派の術系と師範の名を」
「竹刀術、我流である」
「素振りかい!」
耳がキンっと痛むほどの物の見事なツッコミだった。ややパワーに寄っているのできっと天彦好みではないのだろうけれど。
「うん。身共は素振りしかしたことないん。それも十遍が限界で、皮が剥けてお手手痛痛なるん」
素振り十回で、おてて、いたいた……だと。
平八郎は呆れた。呆れ果てた上で武士を愚弄するなと叱ろうとするも声が出せない。何故だ。これはいったい……。
平八郎が疑問を感じたときにはすでに、己がこのチビすけの切実な気迫に飲まれていたのだと気づいてしまう。
「……よろしかろう。ですが天様、実は某も剣術はてんでできませんでな」
平八郎は言って腰の小を鞘ごと外すと天彦に預け渡す。
天彦は不慣れな手つきでギラン。と光もせず言いもしない小太刀を抜いた。
「今宵の竹光丸は血に飢えておる。……っておい」
「申しました通り、剣術からっきしなれば酷いときは自らの足先を切りつける始末。殿からお前は槍だけを揮っておけと命じられておりましてな」
「よってこの竹光丸なん。あー……、了解でぇーす」
尤もその槍を揮って単騎駆け。敵方一万を超える朝倉兵に突撃し見事お味方の窮地を救い死地を切り開くのだから家康の炯眼もきっと本物。
「お一つ、よろしいか」
「一個だけなら」
「なぜ自らの手で事をなされる」
「なんでやろ。改めて訊かれると、身共にもわからんのん。そうやな。……その者とは苦楽を共にしてきたん。その片割れが正義のため身体を張り、自分だけが無傷なことが許せない。となるんやろか。知らんけど」
「勝てるとは」
「思うわけないやん。アホやな平八郎さんわ、身共に負けるてそんなんギャグやん」
「がはははは、然り。ぎゃぐとやらは存じませぬが、某は生粋の阿呆にござる。天様、よろしければ某を忠勝とお呼びくださいませぬか」
「ええさんよ、忠勝さん」
「はっ! 光栄至極に存じまする。思う存分、家来の仇を御取りなされい」
「うん。そうするん」
天彦は袍を脱ぎ、タスキを掛ける。
そして平八郎に背を押される格好で宿敵の下へと向かうのだった。千年の宿願(草)を果たすために。
怪しくも光らずギラリとも哭かない、けれど血に飢えているらしい竹光丸を供に引き連れて。
◇
「い、痛いん」
知っていた。何なら当事者全員が。
天彦はえげつないほどボコられて、これ以上は命に障るというレベルまで打ちのめされていた。だが最後まで人間無骨は振るわれなかった。
何がしたかったのかはきっと誰にもわからない。答えは天彦の胸にだけあるのだろう。
そして片や血塗れのボコボコ。襤褸雑巾よりも酷い有り様で転がされ見るに堪えない悲惨な状態。対する一方は息を切らすどころか汗一つ掻いていないのでは誰の目にも勝負の結果は明らかである。
だがこれは尋常な勝負である。天彦が仇討と言った以上、見届け人である平八郎に決闘を止める権利はない。
むろん江戸ではないのでまだ仇討ちに正式な作法はない。だが不文律ではすでにあった。確と存在していたのである。
すると弱った。平八郎はここにきていよいよ切羽詰まってしまう。
まさかよくて切腹、悪くすれば一族郎党連座で断首。そんな破目になろうとは夢にも思わず。
が、平八郎に思わぬ救いの手が差し伸べられる。
平八郎は嬉々としてそれまで躊躇していた介入に踏み切った。
「小僧、そこらに致せ」
「儂を小僧呼ばわりする其許は誰じゃ」
「某は徳川家供廻り筆頭、本多平八郎忠勝にござる」
「ほう、貴殿があの三河の鹿殿か」
「然様」
「ならば聞かれよ。儂もやめたい。じゃがこの強情っ張りがやめさせぬ」
「いいからやめろ。でなければ死ぬるぞ」
「これでも武士の端くれ。殺すような下手は打たん。こいつを殺るとややこしいらしいからの」
すると、平八郎の身体が何倍も大きくなったかのような錯覚に見舞われる。
じゃかましい――!
轟音が轟いた。平八郎が怒号を飛ばしただけなのだが、木霊が鳴り響き大げさではなく金華山の木々を揺らめかせた。むろん野鳥も一斉に飛び立つ。
「死ぬると申した」
「う。だから」
「小童、貴様はもちろん最悪は儂も道連れじゃ」
「なっ……」
確かに平八郎に救いの手が差し伸べられた。だがあくまで仲裁の口実を得られただけで、平八郎は本域で焦っていた。
というのも彼は最近やたら嗅ぎなれるようになった火薬の匂いと撃鉄が引き起こされる音を正確に聞き取っていたのである。
程なくすると夜陰に紛れて影が動き、物音が姿を見せた。
「お殿様を返すだりん」
「菊亭の」
「黙れだりん」
パン――。
乾いた銃声が轟くと、またぞろ野鳥が羽ばたいた。そして平八郎の頬から赤い雫が滴り落ちる。
「お殿様を返せ」
「わ、わかった。……小童。そういうことじゃ」
「射干か。敵にとって不足は――」
「待て馬鹿者めがっ」
が、すべてが後手の緩手であった。平八郎の制止の声は間に合わず、
「ていっ――!」
容赦のない指揮者の声が耳朶を叩くのとほとんど同時に、無数の爆裂音が轟き無限とも思える閃光が煌めくのだった。
消炎の煙が平八郎の視界を奪う。ようやく判然とする頃には天彦は謎の集団の手に落ちていた。
嗚呼、なんということをしてくれた。
平八郎の無念の思いが闇夜に溶ける。
「なんと……、女、わかっておろう。戦になるぞ」
「それが何だりん」
「儂も殺るのか」
「お前とそいつ。何が違うだりん」
「まさか。いや、それが狙いか。……お前どこの手の者だ。なるほど」
だがレスはない。平八郎もそれ以上には言及しない。
すべては平八郎のナルホドの言葉に集約されていたのだろう。
見つめ合うことしばらく、
「間者が染まったか。強ち聞かぬ話ではあるの」
「お前など物の数ではないだりん。でもお望みなら吝かではない」
「女、それは語ったも同然であるぞ」
「それがどうしたっ!」
「うむ。どうもせん。じゃがの女、貴様らの殿様はけっして望まぬ不幸に見舞われるぞ」
「不幸? ふふふ、ウケるだりん」
「何が可笑しい」
「平和を望み尽力するお殿様を散々虚仮にしくさって、挙句このように甚振っておいて抜け抜けとほざく! これが可笑しくなくていったい何が可笑しいか」
女は激怒していた。もはやこうして会話が成立していることの方が逆に不思議なくらいの激情を迸らせて。
だがそんなこととは無関係に平八郎は感心していた。
身に覚えがあり過ぎるほどあったのだろう。なのに妖術に誑かされたか。違うと知っていながらもつい嘯いてしまう自分がいて、その自分の愚かしさがよほど可笑しかったのだろう。堪えきれないとばかり大声で笑ってしまっていた。
がはははは、わはははは、あはははは――!
「な、なにが可笑しいだりん!」
「あ、いや。真に恐ろしきは意図せず間者さえ魅了してしまうそちらのチビ公卿様かと思うと可笑しいてな。何を隠そう某も魅了されておるその一人である」
否定も同意も返ってこない。けれど感触は悪くなかった。
と、平八郎が手応えを感じたのも束の間、どうやら余興はこれまでのよう。
気づくと周囲を更に多くの気配が取り囲んで事態の緊迫度を劇的に飛躍させる。
「訊け女、某は己の名誉に誓って申す、断固として違う。敵ではないぞ」
「黙れ同じ穴の貉。ならば言い換えてやる。貴様ら侍が人様の幸不幸を語るから可怪しいだりん。お殿様は仰せであった。汚物は消毒に限ると。可能なら焼いてしまえと仰せであっただりん」
「……」
平八郎は悟ったのだろう。大きく一つ息を吸い込み、
「我が首は額田の実家に送り届けて頂きたい」
「知るかだりん。どうしてもというのなら己の首に希え」
「で、あろうの。ならばせめて腹を切らせろ」
「小物風情が大物ぶって臭い息を吐くなだりん」
「貴様ら素破に武士の心など理解できぬが道理か」
「最後まで必死か。武士のくせに見苦しいだりん」
「必死の何が悪い。某にも無事を喜ぶ身内はおる。無事を祈る家来もおる」
「お前ら侍の能書き、例え理解できたとしてしないだりん。構え――!」
「隔靴掻痒、無念なり――」
てい――!
本多平八郎は、十数挺の種子島による一斉掃射と共に大地にひれ伏せるのであった。
【文中補足】
1、袍(ほう)
朝服(フォーマル)の上着
2、隔靴掻痒(かっかそうよう)
思い通りにいかずもどかしいこと。転じて人の心は読めないとも
最後までお読みくださいましてありがとうございます。