#08 ふっ、タイトな損切りやったん
永禄十二年(1569)十月二十八日
当初は感情的になってしまうからと自分に言い聞かせ見舞わないとしていた天彦であったが、やはり居ても立ってもいられず雪之丞を見舞ってしまった。
この行動が凶と出るのか吉と出るのか。それは誰にもわからない。
だが雪之丞を見舞った天彦の瞳から色という色味が消え失せていたことだけは紛れもなく。そして終始傍近くに控えている側近イツメンたちを始めとして、報せを受けて急ぎ駆けつけたあの茶々丸ですらその状態の天彦に掛ける言葉を失っていたことは確かである。
それほどに雪之丞の状態は酷かった。それほどにその惨状を目にした天彦の激情は凄まじかったのである。
「お雪ちゃん。……見事にやらかしたな」
「そのお声は若とのさん。へへ、ねえ某どないです。不細工ですやろ」
「それはもう嫉妬に狂うほどの見事なブサイクっぷりやで」
「ほな若とのさんに勝ってますね。……心配かけてごめんなさい」
「なんや神妙て珍しい。フラグになったらかなんから、もう喋らんとき」
「そうや、旗色悪い時ほど立てたらアカン旗でした。ほなお言葉に甘えてそないさせてもらいますね」
「うん、そうしい。ゆっくりな。率先して有給制度を活用するんや。胸張って休み」
天彦の言葉を訊き終えるより早く雪之丞は意識を手放す。
会話は辛うじて成立しているはずである。傍目にも噛み合っていたので。
だが雪之丞の視線は終始虚空を彷徨っていて捉えどころを失っていた。救護班曰く極度の衝撃による一過性の失明症状らしいが安心など一ミリもできない。
雪之丞の顔面は一ミリも原型をとどめておらずこれが雪之丞と言われてもすぐには信じられない、あるいはずっと疑わしいほど変形していた。あの天彦でさえ会話を交わすまでは信じられなかったほどである。
また肩口についていたおそらく槍によるのだろう鋭利な傷跡は肉を抉って白い物を露見させていて、控え目に言って想像の何倍もえげつない怪我の状態であった。らしい。
今は軟膏をぬりたくって包帯でカバーされているので確認できない。しなくてよかったとも思う。
救護班もよくこれで命に別状はないと請け負ったものである。それが偽らざる皆の心境であり雪之丞の外傷の状態であった。
おそらくは遊ばれたのだろう。雪之丞に槍の使い手が放つ命を奪う一撃をかわせるような技術はない。
それを想像すると口惜しさが何倍にもなって込み上げてくる。
相手のDQN侍に対してはもちろんだが自分自身に対しても。雪之丞が悲惨な目に遭うときはいつも自分が隣にいた。だいたい同じような酷い目に遭って痛みと苦しみと口惜しさを共有してこれたのだ。これまでずっと。あるいはフィジカルの痛みを伴わない痛みだって共有してこれた。……のに。
「お雪ちゃんだけ、ずるいん」
それは偽らざる天彦の感情である。だが同時に少しは考えてほしいとも思ってしまう。なんで助けな、助けよ。となるのか。普通は想像するはずで、想像すれば躊躇するはずなのである。
天彦とて人間無骨の刻印を刻んだ十字槍の使い手を前にして、例え仲間を救うと言う目的があったとしても我が身を顧みず飛び込む勇気は考えるまでもなく無いと断言できてしまう。だって普通に死んじゃうもの。
「お雪」
雪之丞の応答はない。ようやく興奮状態が冷め、鎮痛薬が効きだしたということらしい。
天彦は膝をつき手をぎゅっと握ってその手の甲を自分の額に押し付ける。むろん意味など何もない。だがどうしてもそうしたかった。念じずにはいられなかった。
しばらく何かを念じるようにそうしていたが、そっと額から手を外して最後にもう一度「お雪」名を呼び、そして菊亭が誇る優秀な救護班に後を託した。しくじったら世界を破滅させたんぞの感情はぐっと飲みこんで。
「はっ! 我ら一同、死ぬ覚悟を以って朱雀様の救命にあたりまする」
「そうしい」
大袈裟なとか死ぬ必要はないなどという軽口は一切零さず、天彦は終始感情の消えた目で淡々と応接するのだった。
天彦にとって雪之丞のいない我が人生など無意味なので、きっとそういうことなのだろう。
そしてすっと立ち上がり、
「藤吉郎、先方へアポは取れたんか」
「アポ……」
「アポイントも知らんと偉そうに殿様ツラやってんなよ。貴様の殿様が伴天連に謀られていたら何とする心算や。そのときも知らんかったで済ませるんか」
早口で捲し立てまったくの部外者である藤吉郎を責め立てた。
まるで彼我の間に明確な何らかの線引きがされているような錯覚にみまわれるほど、厳しいとは別種の決然とした口調で責め立てていた。
するとどうだ。天彦の感情の変化に機敏な者から順に藤吉郎に対する見る目が如実に変わっていき、程なくするとその場に集った三十数名すべての家人が藤吉郎、延いては織田への完全な敵意を露わにしていった。
菊亭の若さ故の染まりやすい脆さが出た場面だが、藤吉郎はそのことについて敢えて非難も言い逃れもせず自身のこととして受け止めていた。やはり役者が何枚も違う。
「お前さんら武家は害悪や。何一つとして生産的なことをせんと威張り散らして挙句善良な公家を甚振って何がしたい。口を開けば腹を切る。えーかっこ抜かすなよ。その森の倅とやらが腹を召せば我が愛臣の無事は確約されるんか」
「くっ、重ね重ね、面目次第もござらぬ」
天彦の感情は極限を突き抜けているのか。言葉はもはや相手を選んでいなかった。
だが藤吉郎と無言で見つめ合う沈黙の時間が天彦に冷静さと知性を少しずつ取り戻させていったのか。それとも単純に毒を吐き出して少しは留飲をさげられたのか。いずれにしても天彦はいつもの天彦に戻れていた。
ややあって、
どこか罰悪そうに藤吉郎から視線をはずして、ぽつり。
「アポとは先方の都合。この場合は身共の来臨の告知や」
「あいや、そうでござったか。ですが先ほどの今、それはまだ取れておりませぬ」
「ならば菊亭として申し付ける。疾くせえ」
「はっ、確と承ってございまする。小なりとは申せ一家の大黒柱を務めるご心中お察し申し上げる」
「藤吉郎さん……」
「きゃは、わははは。なぁに、某、今ほど貴君を身近に感じたことはござらぬ。これを縁に末永くお引き立てくださりませ。それで十分、帳消しにござる」
「……ほな、それで。菊亭、確と借りときます」
「はて、何かお貸しいたしましたかな。きゃは、がははははは」
「おおきにさんにおじゃりますぅ」
天彦は確信した。いつと問われればまさにこの瞬間であると。この瞬間に木下藤吉郎秀吉に落ちた、いや落とされたのだと。
二人は納得していればそれでいい。だが家臣や家来はたまらない。
木下家は弟小一郎を筆頭に家臣一同が肝を冷やし蒼褪めたまま、まだ一つも安心できないのだろう。じっと事の成り行きを見守っている。
それはそう。まかり間違うとどえらい目に遭う。太政官参議家と織田の重鎮家の喧嘩騒動、扱う題材がデカすぎて迂闊にはどちらの肩も持てたものではないのである。選択をミスると確実に木下家など吹き飛んでしまうのだ。
が、他方対する菊亭といえば妙に対照的だった。
茶々丸の額には大粒の汗が滴っているのが見えるがよく凝らせば見えるだけ。それもそのはず。鋭い眼光に宿るあまりに好戦的な光が強すぎて額の汗など印象にない。
以下も同様、一見理性的でおとなしそうな佐吉でさえ何かを覚悟した表情で一点を見つめ、是知はそもそも天彦の感情だけを必死になって探っている。死ぬ覚悟など一昨日にできているタイプなので問題ない。
算砂は全体を俯瞰するように見渡してはニヤリと厭らしく嗤い、且元や氏郷たち青侍衆に至ってはむしろここが出番とばかり血気盛んに意気込んだ。
射干に至っては性質が天彦の菊亭と一蓮托生みたいなものなので粋るも氏ぬもすべてが天彦の匙加減一つである。
つまりまさしく討ち入りに臨む姿である。さすがの藤吉郎も呆れを通り越し絶句していた。だがさすがは未来の天下人。胆力は並ではなかった。
完全にまったく気後れしながらも冷静にただあるがままの事実を伝えることを忘れない。
「森様は外様なれど我が殿の信厚き御方なれば、例え菊亭様とは申されましても刃傷沙汰に至っては御咎めなしとはまいりませぬぞ」
全員の視線が藤吉郎に向けられる中、
「おおきにさん。で、それが何か」
「あ、いや。御覚悟なさっておられますなら結構にござる」
「藤吉郎さんはお侍のくせして随分と温いことを申されるのやな」
「っ――、申し開きもございませぬ」
「いやかまへん。そやけど一つ教えといたろ。木下家のご家中どなたさんもよろしいか」
天彦はその意志があろうとなかろうと、周囲にはそれと伝わる完全な威圧の視線をぐるりと向けて、
「この菊亭、それが例えどなたさんであろうと、あるいは第六天魔王さん自身であろうとも大事な家来が傷つけられて笑って許せる甲斐性は持っておじゃりません。誓って申しあげますん。その長可とか申す森家の慮外者、この場ではどうにもならんかってもいずれ必ず確実に! このことを後悔させたるよって。ようよう肝に銘じとき」
「はっ、確と肝に銘じまする」
「うん、そうしい」
「恐れ入りましてございまする」
「そんなん要らん」
藤吉郎は額の汗を手拭いで拭き拭き、思ってもいないおべんちゃらで持ち上げてお茶を濁すのであった。
「ほな参ろうか」
「はっ」
藤吉郎を除く全員の同意を取り付け天彦はいざ鎌倉と森邸へと向かうのであった。
◇
森家屋敷応接間。
上座に天彦を始めとした菊亭イツメンが鎮座する中、下座では森家当主可成を始めとした森家一門衆と重臣が、フィジカルでもメンタルでも重そうな頭を畳に擦り付け誠心誠意の謝罪をしていた。
「何卒、お怒りをお沈めくだされ」
「ならんし要らん。そのきちゃないお首もきちゃないお腹もやっすいお命も、なんもかんも一切合切要らんもんは要らんのん」
「なっ……!」
森家はすべての事情を把握した上で全面的に非を認め、当主可成自らの切腹で事を収めて欲しいと真摯に詫びた。つまり全面降伏である。
――を受けてのこの返答。さすがに森家も黙っていない。
「おのれ大殿の寵愛を受けておるからと図に乗りおって――!」
「殿の誠意を愚弄しおって、クソガキ無事には返さんぞ」
「やはり所詮は公家、我ら武家を下に見て好き放題抜かす」
「ふはは、あのちんまいの言いおる。おい当家、舐められておるぞ」
「元は貴様のせいではないかっ!」
「ん? そうなのか。知らん。わははは」
そもそも喧嘩など両成敗が大原則。森家当主が腹を召すなら菊亭当主も腹を召せと罵声を浴びせる一幕もあった。
が、そこに場の混沌を一言で沈黙させる人物の思いもよらぬ言葉が投げかけられた。
「直言をお許しください」
「許そ。名乗りぃ」
「はっ。ご尊顔を拝し光栄至極、また直言の栄に預かり恐悦至極に存じまする。某、森家当主左衛門尉可成が嫡男、傳兵衛可隆にござる」
「さよか。菊亭や」
「光栄至極。さて我が愚弟、夜叉武の不始末、父の腹でご不足と申されるのなら某も共腹を召しましょう。如何」
森家嫡男可隆であった。あの鬼武蔵の兄とはとても思えないそこはかとなく知性を感じる涼しげな双眸で、天彦のけっしていいとは言えない目性の瞳をじっと真っ直ぐに捉えて離さない。
そしてたいへんお利巧さんでもあるようで、弟長可の名を幼名の夜叉武として呼び、暗に子供のしでかした不始末だ。この辺で手仕舞えと諭してきていた。
普通なら通じる応酬も相手が悪い。性格も根性もひん曲がっている上に、雪之丞が怪我を負わされてしまって冷静などという単語が一ミリも見当たらない天彦にとっては火に油を注ぐようなものである。
「ふん。親子揃って半年と持たんお命差し出していったいどういうお心算なんやろぉ。それがいったい何の詫びの印になるん。天筒山で討ち死にするかここで腹を召すかの違いなんか誤差やろ誤差。気の長い身共かてさすがに腹立たしゅうて臍で茶ぁ沸かしておじゃりますぅ」
「……何と、仰せか」
秒でえげつない応手を返されてしまうのであった。
だが問題は対応ではない。文言その物にあったのだ。
そのことに天彦より早く気付いたのは会話の相手可隆ともう一人、
「――で、あるか」
そう。この金華山、魔王城の主、魔王様のご降臨であった。
声が響いた瞬間、あるいは脊髄反射のように座が一斉に辞を低くして出迎えた。
森家菊亭双方ともすべての首が垂れられる中、けれど天彦だけは違っていた。
然も“身共は怒っているん不愉快なん”とばかり膨れっ面をして、満を持して登場した主役こと魔王様に向かって感情まるごとぶつけていた。
「狐、儂が詫びれば納めてくれるのか」
「信長さん、寝言は寝てから申すものなん」
「……怒っておるのう。気持ちはわかる」
「うん。……知ってるん」
天彦もあまりきつくは詰れない。そうしたいのは山々だが、そうするには一番相手が悪かった。
なにせこの人、根っから情の深いお人だから。そういう人だと知っているから。
けれど天彦は膨れっ面を隠さずにぶーたれる。
「申しておきますけど、信長さんのお腹でも許しませんよって」
「抜かしおる。まあ結論を焦るな。おい左衛門尉」
「はっ、ここに居りまする」
信長は天彦を直視したまま可成に投げかけた。
「ここは太政官参議に借りておけ」
「借り、にございますか」
「そうじゃ。左衛門尉、命の借りは安うないぞ」
「……殿の仰せ、甘んじて受け入れまするが、果たして何を申されているのかさっぱりにて」
「わからんか」
「はい。正直申せば皆目わかっておりませぬ」
信長は天彦に目で問う。天彦は黙ってこくりと頷く。
但し当然天彦にもわかっていない。一つにこの場ですぐに迂闊な発言をしましたよと叱ってくれるラウラがいないから。言い訳ではなく事実として。
現状の茶々丸では語学力の壁の時点で遠く及ばず、理解力を含めた総合力の観点からも僅かに及ばず。すると天彦の失言は半永久的に訊き流されるか違う解釈で誤解されてお仕舞いの流れであった。
閑話休題、
天彦の同意を受けて信長は改めて下座に面と向かった。
「左衛門尉よ。太政官参議は先ほどなんと申した。思い出してみよ」
信長の言葉を受けて可成は頭を捻る。だが待てど暮らせどレスはない。
すると倅が自ら手を挙げた。
「僭越ながら申し上げます」
「傳兵衛か。許す、申せ」
「はっ! 参議様は期日を指定なされた上で、某並びに父の死を暗示なさいましてございまする。また某に至っては死に場所まで明確に言及なさっておいでにございました」
「で、あろう。余もそのように思う」
座にどよめきが沸き起こる。
そんなことがあり得るのか。嘘も大概にしろ。などという批判的な言葉はいっさい聞こえない。ただ驚きと感心と恐怖が少し混じったクソデカため息が漏れ聞こえるだけであった。
そして、
「者ども考えてもみよ、余がなぜ頼りにし遇しているのか。考えるまでもない道理であろう。それは狐の星読みの精度がどの陰陽師よりも凄まじく的中するからである。少なくとも余は狐の星読みが的を外したことを知らぬ。内外で見聞きしたことも併せてこれまで一度たりともな」
信長の確固たる公言が確定させる。これは天彦の助言であると。
すると後は各々が勝手に脳内で補完するのだ。例えば世の神社仏閣がなぜああも忌み嫌うのか。とか。あるいはなぜ大大名たる越後の関東管領がああも執心するのかに紐付けて納得しているはずである。
更にもっと事情通ならば、朝廷を始め関白近衛や将軍家がなぜ斯くも小さき家の当主を敵視し、なぜこうも恐れ遠ざけようとするのかまで想像の範囲を広げて納得を深めていくことだろう。
と、なれば。
天彦の立場は一転、家来の報復に来たはずのクソ生意気な忌むべき公卿から、敵にも特大の塩を送れる寛大で途轍も凄まじく頼れる仲間にメタモルフォーゼしたではないか。ちょっとした神格デコまでしちゃったりして。……アホなん。
まあ賢くはないだろう。なにせ神仏の予言をまぢに信じる人たちだから。
何よりそう提言する天彦自身が阿保なので問題なく話は勝手に進んでいく。
「天筒山、つまり越前に侵攻しておるのだな。半年内とは範囲が広い。もう少し絞れぬのか」
「身共は何も申してないさん」
「ならば申せ。恩に着るぞ」
「知らんのん」
「頑なであるの。そういつまでも不貞るな。そうじゃ天彦、切支丹どもから新たなレシピを手に入れたぞ。大そう美味らしいのだがな。ん?」
「え。……それって甘いやつ?」
「甘いのう。それはもう大そう甘い」
「参るん」
「くふ、あははははは」
「む」
「おうこれは失敬。うむ、では参ろうぞ」
甘味に秒で釣られる甘彦の図。これよく見かけます。
当人はときにガキっぽさの演出も必要だとか何とか嘯くも、家令代理の目は節穴ではない。
茶々丸の“おいコラ後で覚えとれ”の言葉が耳朶を叩くと浮かれた頭を秒で冷やす。いや凍らせる。
「まあ冗句なわけやが(キリッ)」
「弁えていればなんでもええ。儂から言えることは一言、ちゃんとせえ。それだけや」
「あ、はい」
おおきにさん。
天彦ははたと立ち止り、信長の袖をちょんとつまむ。
「どうした」
「あのぉ、お雪ちゃんに見舞いの品を持って帰ってやらな身共の気――」
「二万貫」
え。
天彦が何かを言い終えるよりも早く、信長が何かを提示する方が早かった。
何か凄まじい数字が聞こえた気がするが、きっと空耳。天彦は耳ではなく目をさすさす擦ってもう一度聞き直す。恐る恐る、
「いま、なんと申されましたん」
「二万貫じゃ。不足か。ならば三万貫用立て、直ちに持たせよう。家臣の不始末を当家が詫び、菊亭家来であり東宮の別当である朱雀殿を見舞うのじゃ。のう天彦、これにて矛を仕舞ってはくれぬか。この通りである」
「お、おう」
震えながらこう答えるのが今の天彦にできる精いっぱいだった。
ラッキー。
早く元気になって、お揃いのオートクチュール狩衣仕立てようねルン。
現金彦は羽が生えたように浮き浮きとする。
だが天彦は知らない。東宮の直臣と公言された以上、東宮家にも詫び料の分け前が当然のように発生し、何なら取り分は家格相応の9対1が適正であることを。
むろん1は格下菊亭の方である。それでも大した額ではあるがぬか喜べる額ではない。
何のことはない。東宮の新居予定である新二条城建設の献金を、テイを変えて信長が工夫し工面しただけであった。むろんそこには様々な思惑と趣向が凝らされてはいるのだろうけど。そしてむろん天彦も当然読んで含んでいるものと察した上で。
つまり読み合いや腹の探り合いに長けていると思われているキャラの損なところと弊害であった。
いずれにせよ詰めでいつも脇が甘いマンはそうとは気づかず一旦は冷めたもののやはり浮かれてルンルンのホクホクで森屋敷を後にするのであった。
これぞまさに三方よしの上をいく五方損無しの策であり、やはり魔王の方がまだ何枚も天彦の上手を行っている証であった。
「殿、儲かりましたね!」
「見ましたか、奴らのあの顔を! 某は胸がすく思いでございましたぞ」
「やはり凄いぞ、我らの殿様は」
「こんなことが起こるのだな」
「信じられん。三万貫だぞ」
「ふっ。天彦ならそのくらいやってのけるよ」
「おいあまりに図に乗せるなよ」
天彦は家人たちの賞賛の言葉を何食わぬ顔で訊いているフリをしつつ酔いしれていた。嬉しいに決まっている。三万貫といえば敢えて未来の現代価値に換算するなら36億JPY。この時代でも似たようなもの。どうせ個人で一生使いきれないほどの大銭という意味での共通した価値観として。
と、皆の陽気にあてられたのか。珍しくローマ人専属護衛ロルテスが積極的に発言した。
「Grao-vizirèu quero comer alguma coisa」
天彦はくすくす笑う。
「おい菊亭、こいつ何ゆーとんねん」
「お腹が減ることはいいことらしいん」
「は? アカンやろ。こいつ頭可怪しいんか」
「いいや、かなりいいと思うよ。すでに身共らの言葉も理解し始めているし」
「ふーん。けったいなやっちゃのう」
空腹は当たり前だが普通はダメなことである。
なので腹ペコですと訳すのがこの場合の正解であり、直訳してしまう自分の語学力が可笑しいという天彦にだけわかる笑いである。
要するに気分がいい。何もかもが愉快で仕方がないのである。
三万貫にはそれだけの破壊力と魅力があった。
「今晩はお雪ちゃんの回復を祈願して何か精のつくものを皆で呼ばれるん」
おお――!
浮かれる天彦、浮かれるイツメン。そして更に浮かれる家人たち。
「のう菊亭」
「なにさん?」
「何もない」
「変なお茶々」
「おいコラ誰がお茶々じゃい!」
「お茶々はお茶々なん」
「まあ、ええ」
「え。折れるとかもっと変なん!」
だが茶々丸は知っていた。誰が見過ごそうとも茶々丸だけは見逃さない。
天彦の目の奥が一ミリも笑っていないことを。一ミクロンも楽しげではないことを。茶々丸だけはしっかり感じ取っていたのである。
そして重々知っていた。そんな雰囲気に流されてすべてを有耶無耶にするような生温い男ではないことを。
だからこそ釘は刺さなかったのだ。だからこそ苦言はすべて飲み込んだのだ。
頼もしくもあり恐怖すら覚える天彦の一面に触れ、茶々丸は……。
明日はいよいよ魔王のその更に上を行く確定天下人との対面、饗応の日。
そうとはむろん茶々丸は知らないが、勝負どころだとは感づいている。そんな空気感が天彦からひしひしと伝わるから。
その上で、浮かれ気分で滑らなければよいのだけれど。などとは無用な忠告であると理解していた。
そんな映え美しい夕日が差し込む紅葉色一色に染まった金華山であったとか。
【文中補足】
1、作中(1959年・10月)時点での年齢相関 すべて数え年齢
>織田信長 36才
>木下藤吉郎 33才
>柴田勝家 39才
>佐々成政 34才
>丹羽長秀 35才
>村井禎勝 50才
>佐久間信盛 42才
>河尻秀隆 43才
>森可成 47才
>森可隆 18才
最後までお読みくださいましてありがとうございます。
一門がそこらの破落戸より信用していないのが俺だ。の回でした。
本作では逆なのですが、さてまんまと本心は隠し果せたのでしょうか。
ちょっとこのエピ不人気(痛恨の歴代最低15いいね泣)みたいなので次回以降の反応次第ではとっとと切り上げようと思います。
では皆さま、ごきげんようさようなら。