#07 成算もないくせにすぐえーかっこするの、なん
永禄十二年(1569)十月二十八日
山菜取りの翌日 徳川接待の前日。
戦国室町誤解されがちあるあるをお一つ。
この時代の主従関係はマスター・サーヴァントの関係ではない。まったく。むしろ主君は求心力を保つため彼らの望むアイコンとしての存在証明を常にしなければならず気が抜けない。つまり威信を示すことに人生のほとんどを懸けている不毛な職業。
そして戦国室町誤解されがちあるあるのその2。
こちらは本当に誤解されているのだが、戦国時代はそれほど無秩序で下克上の時代ではないということ。認識としてはちょっと荒れている室町時代が正しい。
幕府の権威は弱まってはいるものの権威として正しく機能しているし、朝廷も同じく。皆挙って官位を欲しがった。武田、上杉、毛利といった名立たる大大名を始めとして国人や豪族といった末端まで等しく。
少なくとも足利家にとって代わって自分が天下人(幕府を開く)になろうとする大名はおらず、後にも先にも魔王様だけ。
あるいはその動きは武家や公家だけではなく民間も同様であり、寺社はえげつないほど勢力をひろげていて公家や武家の頭を押さえつけていた。
もし本当の意味での戦国時代なら信仰や神仏の威光など鼻ほじだったのではないだろうか。だがそうではない。寺社は目も当てられないほどのあくどい銭貸し事業で人々の首根っこを絞めて頭を押さえつけていた。
むろんだからと言って修羅の時代であることには間違いがないが、そもそもこれで少しずつだが民度は上がっていて、鎌倉時代よりかは相当かなりお上品となっているので許してほしい。民度の低さはノーカンということで。
話を戻して、つまり本当に出自不確かな身分卑しい戦国下克上大名など存在しないということ。但しお猿さんの中の人を除くと。
そう。物事には何にでも例外があってその例外こそがお猿さんの中の人であった。
あるいは広義には信長義理ぱっぱ蝮の人も含まれるかもしれないが途中で家ごと退場したのでノーカンとする。
いや入れろや。あ、はい。厳密性を問われたところで、だがそれでもせいぜい二人きり。分母ほぼ無数の内の二人である。仮に十万とするなら0.00002%。
そういうこと。やはり実際の戦国時代は後世に語られるほどの下克上イメージとはかけ離れているのではないだろうか。とか。
仮説を立てたりしてみたが、要するに下克上や戦国という観点は最上位あるいはピラミッドの天辺三角レイヤーから見下ろした世界観であるということなのだろう。
信長卑しい。下克上や! いやいやいや。じゅうぶん高貴な血筋ですけど。我々土地に根差すだけの氏も姓も名字ないパンピーからすれば。となる。
少なくとも圧倒的マジョリティ庶民視点では語られておらず、お猿さんの中の人の途轍も凄まじさが際立つのだが。
つまり何が言いたいのかというと、
「この通りにござる。ご寛恕くだされ」
藤吉郎が辞を低くして……、凄味を利かせていた。
対する天彦は果てしなく引いていた。それは若干ビビっていることも含めてやり口のえげつなさ、容赦のなさにドン引いていた。
またそれと同時に天彦は誰の目にも明らかなほどの不快感を覚えてもいて、そのせいもあって会談場所である禅堂には得も言われぬ緊迫感が広がっていた。
天彦にも言い分はある。藤吉郎サイドから無礼の謝罪がしたいと申し入れられ誤解を解く心算があるのならとそのテイのいい申し入れを快く受け入れたのだ。一旦の和解はお互いに利があると見越して。ところが蓋を開けてみれば。
これは謝罪ではない。態度云々の話ではなく作られた場面演出が謝罪ではないと公言している。
「参議さんには家のもんがえりゃーご無礼仕ったみたいで、この通り儂の顔に免じて許してちょーよ。参議さんと円満でなきゃ儂は枕を高うして眠れんでいかんわ」
儂の顔とは。
天彦は呆れ果てた。これほどわかりやすい脅迫もないと一周回って逆に感心するほどであった。むろん皮肉ではなく然りとてまったく可笑し味のない。
ただただ藤吉郎の怖さが浮き彫りとなり、改めて彼の戦略性の高さが再認識されるだけの場面であったから。
何しろ彼は詫びに参ったといいながら背後に織田家一門序列一位の人を配置して睨みを利かさせているのだから。やり口えっぐ。そこまで、する?
と、呆れ果てていると、
「よもやこの儂を下座に就かせるとはのう。さすがは大宰相と名高い菊亭ともなれば道理であるか。あっはっは、恐れ入る」
じんおわ。
さらっと人生が終わっていた。むろんフラグとして。
織田家一門序列一位とは全家臣序列一位と同義。その人物などただ一人と決まっている。天彦が謎に敬遠されている織田勘九郎信重さんに。
昨年茶筅、勘八と共に三人で元服を果たし奇妙丸くんからメタモルフォーゼした未来の信忠さんの中の人である。
せめてもの救いは藤吉郎が本域で牙を剥いていないということだろうか。
それにしたって気休めだが。
「まあまあ若殿様、あれで無理をなさっておいでです。ちーとは都の顔も立てておやりなさいませ」
「何を申すかサル。儂はこうして立てておるわ。立てておらずば斬っておる」
「きゃは。うきゃきゃさすがは若殿様御見それいたしましてござる! これは一本取られましたな。確かにその通りにございまする」
「うむ。で、あろう」
お猿さんは上手に宝玉を転がしていた。
天彦は痛感する。藤吉郎は侍ではなく寝業師だと。それも宮廷にいればよほど出世栄達を果たしたことだろう性質の寝業師であると。尤も侍界という斜めの確度からでも関白・太政大臣の地位にまで上り詰めるのだけど(棒)。
いずれにせよ天彦にとってこの会談は圧迫外交そのものであった。
いずれ面識は得なければならない相手ではあったがここではなかった。
しかし勘九郎信重。さすがは嫡男といったところか。フィジカル的にはガトリング砲外交レベルの圧迫感は十分あるし、メンタル的には更に、もう色々とくるものがあった。
まず一番に、あれやこれやと考えこんでしまいがちな天彦にとってこの繋がりは寒かったのだ。藤吉郎と勘九郎とのホットラインは想定外の事実であった。
天彦的に藤吉郎は信長の究極イエスマンであり信長だけを見ているそんな人物だと高を括っていたところがあって、まさか嫡男とこうも密接だとは心底驚きの感情が強かった。
というのも勘九郎は信長に好かれていない。時代が進むにつれて折り合いはつくのだがこの時期は特に厳しい目を向けられている。
なにせ信長公に「見た目だけの器用者など愚か者と同じである」と人物を酷評されてしまっているほどなのだから。
紆余曲折を経て家督を継いだが信忠はそこでも酷評されていて、謹慎処分も一度ではない。しかも本能寺の変の際、信長は真っ先に「城介が別心か」と信忠の謀反を疑ったとされるほど彼我の関係性は微妙であった。※城介は信忠の官位。
その勘九郎に信長絶対マンである藤吉郎が親しいというのが天彦には違和感だらけで、耳障りなノイズでは済まされない異常シグナルをどうしたって感じとってしまうのだ。
しかも徳川という特大の地雷まで引き連れて。
というのも家康は数年前、三河守拝命の許可が帝から降りずに難儀していた。家格ロンダリングすることによって三河守拝命にこぎ着けているのだが、この手立てをつけてやったのが前ちゃんなのだ。
家康は徳川という家名に改めなさいと言う知恵を拝借したのを切っ掛けに以降も繋がりは細く長く続いているとか。
むろん前ちゃんと言えば天彦にとって目下いっちゃんうっとい前ちゃんでお馴染みの関白・太政大臣近衛前久御大ただお一人様である。
点は点のままいてくれないとかなり不都合。扱う物がでかすぎて正直しんどすぎるから。
むちゃんこ気懸りだが今はそこから一旦離れて、ではなぜこうも敵視されているのか。天彦の中では結論が出ていた。結論、家督相続が確定していないからである。やはりこの一点に尽きるだろう。
よって天彦が嫌われていることは理解できた。三介と親しいという事実が勘九郎を頑なにさせても然程違和感はないのである。アレにそれほど警戒感覚えちゃいます?という根本的な疑問符は脇に置くとしても。感性は人それぞれだろうから。
閑話休題、
それはそれとして、天彦はここで押されっぱなしもよろしくないと感じていた。ここでの戦果は金華山に広まりそれは都にまで届けられ、延いては全国中を駆け巡るだろうことは明らかだから。
またそれらネガティブ情報は天彦の立場を必ず苦しめるだろうから。
敗北にも種類があった。口で成り上がった天彦にとって舌戦での完膚なきまでの敗北は断頭台への階段を上っていくのと等しい敗北である。
つまり天彦はずっといちびっていなければならないのである。それを本人が望む望まざるとは無関係に。
だからと言って完璧に捲るのはもっとよろしくない。丁度いい塩梅のちょい勝ちが天彦に求められる菊亭の唯一の勝利条件あった。
むっず。だっる。
この勝利条件の難しさもさることながら、天彦には別の観点での危惧もあった。
この無意識に提示あるいは意図的に開示された事実には一番といって過言ではない恐るべき可能性が示唆されていたのである。
それはたとえ事実の一端だけであったとしても織田信忠とググれば出てくる、知識としてのオーガニックな検索結果を知る天彦にとっては極端に無視できない材料であった。
そう。勘九郎はエグいほどの能狂言好きであると。クローム先生は教えてくれる。ヤフー先生も同様に。あるいはエッヂ先生でも同じように。
史実では能狂言が好きすぎて“ええ加減にせえシバくよ”ぱっぱ信長に謹慎処分を申し付けられているほどのフリークであった。
するとヲタの行動など一択に決まっていて、蒐集も必然である。勘九郎は超超稀少な世阿弥の著作を搔き集めた。その収集に貢献したのが何を隠そう三河守であったとかなかったとか。
この徳川家康が訪れるタイミングでの勘九郎の登場に、どうしても天彦は意味を考えてしまうのである。
むろん三河守は藤吉郎などお呼びも付かない忠義のお人。裏切りを画策しているなど仮説レベルでも思ってもいないが、そのように勘繰らせることは十分可能ではないだろうか。そう。繋がりもしない点と点を無理やりこじ付けて線にしたい人がいれば。そして誰かがそれによって凄まじい利益を得るなら猶更のこと。
疑いは限りなく濃い色味を纏い、天彦の脳裏に輪郭を描き始める。
では誰なのか。
だが勘九郎本人の描いた絵ならあまりにも下手すぎる。幼稚園児も半笑いの出来栄えである。ならば……。
三介はない。何しろあのお人さんは善きにつけ悪しきにつけ生粋の本物さんだから。ゲノム塩基配列が人と100%一致であることより、ニワトリ……はあまりにも哀しいしどこからかクレームが付きそうなのでバナナとするが、バナナと60%一致すると言われた方がしっくりくるレベルの本物さんなのだから。
ならば藤吉郎。それも違う。但しこちらは微妙。それでもやはり得が少ないように思われる。断言はできないが相当低いと天彦は思っている。
羅列できる事実だけでも、例えば出世は順調以上に順調で、ましてや足軽に毛が生えた低い身分の自分を取り立ててくれた大恩人を裏切れるような性質の悪党ではないといった為人を含めても、天彦にはどうしても可能性は限りなくゼロに思えてしまうのだ。正誤は別としても。
すると誰……。
仮説は敢えて立てないでおく。九割想定する人物はいても。もし想定が外れてしまっているとかなり効かされてしまうから。この重要課題へのアプローチは広く浅いレンジで臨むことに決めた。
ふむ。
ならば狸のお人が訪問する前日に開示された意味を特に殊更フィーチャーして考える必要はないのか。
天彦は意識を切り替え目の前の直面している難題に向き合うことにした。
とんとん、とんとんとん、とん……。
やや引き締められた表情から天彦が腹を括ったことは誰の目にも明らかだった。
極めつけは扇子である。天彦愛用の扇子が登場しその扇子が打楽器のようにリズミカルな拍子を刻み始める。すると禅堂の気配は一変し、敵ながら藤吉郎も感嘆のため息を漏らすほど本当に文字通り禅堂の気配が一変したのだ。菊亭色に。
菊亭にとって完全アウェイであった藤吉郎というより勘九郎色だった禅堂の気配が完全に菊亭カラーに染まっていた。
それは旗色と言い換えてもいい士気の向上がすべてである。
それまでのアウェイ感はどこへやら。それまでじっと息を凝らしどちらかと言うと怒り心頭の感情を懸命に押し殺していた菊亭家中の感情の変化が禅堂の気配を激変させたからである。
「者ども。よう堪えた」
「見ていろよ」
「殿が」
「やって」
「くれるぞ」
主に青侍衆だが、彼らは遅ればせながら主君に近く侍ることで天彦の細やかな感情の機微を察することができるようになってきたのである。
イツメンなどはとっくだが、多くの家人たちが期待感100の感情を視線に乗せて当主であり主君である天彦の発言を今か今かと待ち望んでいるからこそのホーム感への変質であった。
そんな追い風を背中に受けて、天彦はビシッ――。……えぇ痛いん。
扇子を自身の太ももに強かに打ち付け、やや加減を誤ってしまったのか締まらない表情でアホみたいに痛いのを隠す天彦クオリティで問いかけた。
「藤吉郎さん」
「はっ」
「博打は打って三流、勝って二流、負けて一流、負けて笑いとばせて上がりとしたもんですけど、さてあんたさんは何流のお人さんにあらしゃりますかぁ」
「博打は生まれてこの方、負けたことが一度もござらぬ」
「いっぺんもないさんですかぁ。それは羨ましいことにおじゃりますぅ」
「ははは、御冗談を」
「ほんまにおじゃりますぅ。身共、生まれてこの方、博打という博打に勝った記憶がおじゃりませんのん」
「……していないというオチでは」
「いいや、やった上で全敗におじゃりますぅ。それは命を賭けた勝負も含めて」
「……」
藤吉郎は思わずなのだろう。固唾をごくりと飲み込んだ。
藤吉郎は瞬時に理解したのだろう。天彦が仕掛けてきたことを。
文脈が可怪しい上に矛盾と疑問だらけ。なのに問い質すことができない怖さがこの会話には含まれていた。それが理由。
これは認識ではなく事実である。勝負事はルールがあってこそ初めて成立するゲームであると。そのルールを根底からひっくり返されてしまうとそもそも論、勝負自体が成立しない。
つまり天彦はお前の土俵での勝負は完敗した。だが土俵ごと引っ繰り返してやるから見ておけと宣言したのに等しかった。
すると天彦は背後に控える勘九郎に一礼、同意の頷きを確認してからすっと扇子をそちら側に差し向けた。
周囲が騒然とざわつく中、藤吉郎と指し示めされた勘九郎の二人だけは沈黙を守る。というより天彦への怪訝と胡乱でリアクションに困っている、が正しいだろうか。
天彦の扇子の先端が指し示す先は勘九郎を通過して背後の小姓に向けられていたからである。
程なくしてざわめきが止み、今度は別種のざわめきが起こる。勘九郎の取り巻きである織田勢の怒りが興味へと変わった瞬間だった。
その関心を示している筆頭格である藤吉郎が居ても立ってもいられない風に言葉の続きを催促する。
「天彦は焦らすでいかんわぁ」
「藤吉郎さんの和睦はしゃーない。受け入れましょ」
「うむ。それは重畳。若殿さまのお顔もたった。むろん貴殿のこと、そんで仕舞いではないんだぎゃ」
「そこな小姓、寧々殿の縁者におじゃりますかぁ」
「小姓……とな」
天彦が再度指し示した先には年頃にして11、2の若侍がいた。
「はぁ。寧々の縁者にござるがそれが如何なされた」
「その者、伏せた衣服の下。すでに爛れているのではおじゃりませぬかな」
「……それがなんじゃ。おみゃあ考えて物言うだがや。承知せんがね」
こっわ。
だが勝負どこ。天彦も怯んではいられない。ぐっと歯を食いしばり、
「その若侍さん、らい病を患っておじゃりますぅ」
「なっ」
なんだと――!
溺れそうなため息を掻き消す大きな怒声が場を騒然とさせた。
だが次の瞬間には事態は動く。事実関係の確認よりも早くたちまち勘九郎は取り囲まれ側近たちに神速で連れ去られていった。
それもそのはず。それほどにこの時代のらい菌は無双常態であったのだ。ひとたび罹患すればそれこそお仕舞いレベルの疾病として広く知られ恐れられていたのである。
織田の本家勢が去った禅堂はそれでも閑散とはしていない。藤吉郎の手勢と菊亭家人たちだけで十分視界を埋め尽くせる数に上っている。
「おのれ、何の恨みがあって斯様な非道をしくさった!」
さすがは戦国一の下克上侍。張り上げる声が鞭のようにしなった。
口調の無礼を咎める者はこの場にいない。木下勢もそうだが菊亭勢もすでに覚悟の人たちである。あとは天彦の合図を待つだけの状態で緊張はピークの状態で高止まる。
感情のままに吠えた藤吉郎は顔から火を噴かんばかりの勢いで更に厳しく天彦に非難の目を向けていた。本来なら驚いて然るべきのところを。
これの意味するところはつまり、ある程度小姓の病状を把握していたとみるのが妥当であろう。あるいは知らなかったが天彦のやり口がよほど腹に据えかねたかの二択。
いずれにしても藤吉郎は天彦を猛然と睨みつけ、烈火の如く怒り猛っているのであった。
藤吉郎の立場からすれば理解はできる。事実であろうとなかろうと一部では薬聖とさえ聞こえる医薬に通じるでお馴染みの菊亭が断言したのだ。それは確定事実と同じ。つまり小姓の命運はこれにて尽きた。
それと同じ理由で同じく自分の立場もかなり危ういところまで追いやられていた。それはそう。主家の嫡男を伝染病患者に近づけたのだから。
即ち今この瞬間藤吉郎は、よくて切腹。悪くすればお家断絶の窮地に追いやられていたのである。この認識はこの場に集う誰もが共有している事実であった。
だからこそ藤吉郎はブチギレていた。仕掛けたのは自分だがこれは高尚な舌戦であったはずだから。天彦にはそういう意味での絶大なる信頼を置いていたのであろう。その信頼が裏切られたのだ。怒って然るべきである。なにせ天彦ほどのお利巧さん。いくらでもやりようがあったはず。なのだから。
その思いが強いのだろう。藤吉郎はらしくなく怒りに震えた。いつの間にやら腰の得物を正対に持ち替えきつく握ってしまうほどに。
だが自分の感情の数倍の殺意に見舞われハッとして我に返る。
藤吉郎が油断のない視線を周囲に向ける。一歩でも踏み出せば首が胴体と離れるだろう達人たちが揃いも揃って藤吉郎の挙動を注視していた。
藤吉郎は小さくつぶやく。無念――と。
そして実に人好きのする柔和な笑みをたたえると、
「紀之介。この場で腹を召せ。儂が介錯したるがや」
「はっ。畏まりましてござる」
若侍に有無を言わせず死を迫った。
若侍は微塵も動揺を感じさせずに秒で請け負うと、躊躇うことなく膝立ちの状態となり裃の上をそっとはだけた。
しん――、と静まり返る禅堂に御免仕る。響き渡る覚悟の声と抜き放たれた銀の一閃。
誰もがじっと息を飲む中、けれど天彦だけはニヤリ。と嗤う。ようやくここで確信したと言わんばかりの実にいい(悪い)顔で。
その通り。それまでは半分以上賭けだった。それもかなり分の悪い。だが勝った。これはそういう筋の博打であった。
満を持して天彦は立ち上がる。
敵、味方。周囲の視線をすべてその小さな体に一身に集めて。
「紀之介さん。腹など召されんでも構わっしゃりませんのん」
ここ一番での天彦の声は誰よりもよく通った。
まるで耳元でお気にのボカロ声で囁かれていると錯覚してしまうほど聴衆の意識を惹きつけ釘付けとした。
だがさすがは偉人、英傑である、若侍の真っ直ぐな視線は揺らぐことなく床板一点に見据えられ、ただ己がなすことにのみ向けられている。
そうとはっきりと伝わる決然とした視線を感じ取った天彦はこの場にきて初めて焦る。どうにか感情を揺さぶって意識を向けなければ本当に死なせてしまう。
それだけは避けなければならない結果である。少々痛い思いをさせても。あるいはしても。本末転倒が臍で茶を沸かすほどの大失態である。
「お前さんの気高くも清き血で清める必要があるほどに、この禅堂は穢れておじゃるとは思えませんのん」
「舐めるな小僧。それで皮肉を申したつもりか。その程度の愚弄で某の決意を揺らがそうなど片腹痛し」
「べつに舐めてはおじゃりません。大谷紀之介吉継さんと承知した上で、腹などお召しになられんでも構わっしゃりませんと申しておじゃりますぅ」
なんじゃと……。
若侍は驚きの声を上げる。そして初めて天彦の顔を直視した。
それもそのはず。彼が元服の儀を済ませたのは小姓に取り立てられた三日前のこと。まだ身内にさえお披露目をすませていない。
彼の感情は想像に難くない。もはや神仏の奇跡に通じるレベルの驚嘆であろうから。
それと同時に、ほら出た。藤吉郎が呆れた風につぶやいた。
藤吉郎にしてはかなり珍しくまるで吐き捨てるようなかなり強い口調ではあったが、いつもの彼の卒ない気配と柔和な表情に戻っていた。
勝負あった。
「某の負けにござる。種明かしを願いまする」
「言葉は安いん」
「何なりとお申し付けくだされ。某で適う限りお詫びさせていただく所存」
「ゆーたな」
「お手柔らかに」
「それは出来ん相談なん。身共の願いはただ一つ、紀之介が欲しいん」
「なっ……、るほど。なーるほど。相変わらず抜け目なく何もかもを搦めとられる御方ですな」
らい病を治せる。これは言外の宣言に等しく、しかも請われて菊亭の家来になれば紀之介の悪い噂は一瞬で善い噂に転じることができるだろう。しかも菊亭の名は上がる一石二鳥の妙案である。
藤吉郎に否やは言えない。たとえ思っていたとしても。
藤吉郎は観念したように唸ると、己のポンと膝を強かに打ち付け、
「我が遠縁の大そう目にかけてきた倅同然の家来にござる。叶いますれば可愛がっていただきたく存じまする」
「治るとは訊かんのんか」
「はは、まさか。菊亭様に抜かりなどあろうはずもございません」
「ほなそれで。約束するん。預かった紀之介、この菊亭、目に入れても痛ないほど重用することをお誓いさん」
「はは――!」
紀之介の意思などどこにもなく、勝手に身の振り方は決まっていた。
これぞ戦国。上位者の意思が絶対の理。まったく誰もが損をしない美談に丸く収まっている風の、その実はまるで人身売買のオチであった。
とか。
天彦が苦肉の策と会心の悪巧みでどうにか勝利条件を満たしようやく人心地つけるはずだったのに。
一難去ってまた一難、急報が舞い込んだ。
「申し上げます!」
「申せ」
「はっ、朱雀雅楽様、大怪我を負われ意識不明の重体との由にございます」
禅堂が凍った。比喩ではなく本当に。
天彦の訊いたことのない低い声が禅堂を震わせる。
「様態は」
「お命には別条なし!」
「見立てた医師は」
「当家の医療班にございまする」
「ふぅー……」
天彦の心の底からの安心が伝播したのか。溺れるほどのクソデカため息が禅堂に響き渡った。
天彦は何かを噛みしめるように床板を見つめて程なくすると掌をグーパー。
「事情は掴んでいるのか」
「はっ粗方の聞き取りは終えておりまする」
「申せ」
「は、当家の小姓見習いが織田家の小姓と争いコテンパンに伸され大怪我を負ってございます。そのあまりにも酷い仕打ちに猛抗議なされた朱雀雅楽様も諸共打ち……」
「もうええ」
「っ――、はっ」
「その相手は」
「はい。森長可との由にございまする」
禅堂が殺意に満たされていく。敵は織田家重臣森家の次男坊、鬼武蔵その人であった。
だが、
「まだガキなん」
天彦は感情をぐっと抑え報復はならんと厳に命じた。
数え12の小僧のやらかし。命を取るには幼過ぎた。それにある程度の想像もできる。きっとお互い様である。これは逆も十分にあり得たはずと。
だが許せることとは全く別の話である。せめて慰謝料はふんだくらないと気が収まらない。
「森さんの御屋敷はどこさん」
「某が承知してござる」
するとなぜだか藤吉郎が相槌を入れた。天彦は一瞬びっくりして、
「えんのん」
「参議への借りは一日でも御早く返さねば座りが悪うござる」
「ほなお言葉に甘えまして」
「はっ、こちらへ」
天彦は少数の直臣だけを引き連れ、藤吉郎の先導で森邸に向かうのであった。