#05 頽れる蓋然性と強いられる文化触変と
永禄十二年(1569)九月八日
「断られるって、何やねん」
謁見の許可が降りたのは翌日午後、それも永代別当のみ許すという菊亭にとっては目的を果たせないという意味でのほとんど意味のない許可であった。
加えて東宮御所への接近も禁じられた天彦はくさくさしながら指定された公家町との境に位置する旧朱雀門跡地(二条朱雀)の辻で永代別当さんこと雪之丞の帰りを待ち惚けていた。
おそらくだが武田家の噂が広がりよくない判断が下されていると推測された。
というのも昨日夕刻、やはり実家であり本家今出川から助命嘆願の書簡が届けられていた。
正直天彦からすれば“めんどくせー”なのだが、けれどこれを放置しておくとどうなるかもお察しなので明日以降の段取りで正式な会談を申し入れてある。
つくづく儒教の精神が煩わしい。長生きが神で正義ならもっと人の死に対する忌避感が高くないと間尺に合わない。死が崇高な神聖視されている時点でなんか違う感がエグいし、人殺しに対してはオニのような刑罰で以って当たるべきなのにそうでもない矛盾たるや。
いずれにしてもこの長命の功と早世の栄との矛盾は、天彦の依然として拭えない戦国訳わからんあるあるの一つであった。……ん?
「どないした庶人。身共に惚れたら苦しむだけやぞ」
「え。キモいんだけど」
「おい待て! 大丈夫だリンの件するんと違うのん。勝手に梯子外すとか家来の風上にもおけんやろ」
「……はぁ。笑いが欲しいんだ。ほんと呑気なお殿様だよ」
「おくれ」
「その前に、射干党から主力1,500もぶっこ抜いておいて戦力足らんとおたおたするって何考えてんの、バカなの氏ぬの」
「……欲しかったんはそれとちゃう。でもそれは事実。心から堪忍なん。猛省してます」
「ダイジョブりん。だって僕、お雪ちゃん推しだりん」
「個性詰め、いやその前に口調のトーン、抑揚なさすぎん!? 感情戻って!?」
「忙しすぎて無理だりん。お殿様、お休みおくれりん」
「お前さんは陪臣やろ」
「じゃあお姉さまに命令してりん」
「もうちょっと頑張ってほしいかな」
「死ぬよ?」
「あ、うん」
目下の菊亭はプラチナブラック企業であった。氏ぬ。
さて、天彦とて語尾の“りん”が三河地方の方言であることは知っている。織田軍には多いから。だがそんなことが問題ではない。彼女は総合的に天彦を舐めすぎであった。
だが所詮は射干に入りたがる変わり者。真面な神経の者がいるはずない。
大前提に立てばそれほど怒りも込み上げてこない。むしろ逆に菊亭などという奇妙な家に出仕してくれておおきにさん。そんな感情さえ芽生えてくる。
そんなラフでカジュアルな心境で、
「舐めすぎやろっ! どいつもこいつも。庶人が無知で蒙昧で迷信深い愚かな人種やとしても、身共は貴種で太政官参議やぞ! もっと敬えもっと有難がらんかいっ」
「気が済んだ? ねえ殿様、うちって今ピンチりんなの」
せめて乗ろ? 一世一代のボケが氏ぬから。まあええけど。
「ぜんぜん。なんでや」
「家中が騒がしいから。出仕先を探さなきゃって。もうお仕舞いだりんって」
「誰が」
「待機を命じられている文官の内の御本家からの出向組りん、かな……?」
「おのれ本家諸太夫共、恩を仇で……、まあええわ。ほな希望者は名乗り出るようゆうといたって。行くあてなかったら身共が紹介したるからと」
「殿様、もっと怒った方がいいだりん」
「なんでや」
「損だりん。外様からこれほど嫌われ恐れられているのに。どうせならこの厳しい悪風、大いに逆用しなきゃ損じゃん」
「以外に冷静なんやな。ふーん。実際はオラのお殿様はこんなに優しくって可愛いのに、って?」
「ア、ウン」
「片言! そして四十六文字をたった三文字で片付けるやつやめい!」
だがまあ言わんとすることはわかる。天彦としてもそこは何度となく通った道だ。だが馬鹿らしい。阿保らしい。合わせるのは自分ではなく世間の方。せめてそのくらいの気概でなければこの戦国、生きていけない。そう気づいた。
むろん本心では毎日手が震えている。毎朝うなされて目覚める。毎夜恐怖で寝付けない。
だが男子。強がってナンボでやらせてもろうてます。とか。
――あ……!
天彦はハッとすると不意に浮かんだ悪巧みにニヤリ。だが次の瞬間には自ら思いついておきながら首筋をぞぞぞと泡立たせて戦慄いていた。
天彦は気づいたのだ。ずっと与えられた問いがポピュレーションサイズにおける勝利条件と必勝の蓋然性との因果関係を証明せよとばかり思っていたが、この設問は違うのだと。
くふ、くは、うふふ、カハハハハハ――!
「ふははは、命の取り扱いがこんな軽率なん。私文書偽造なんか気にするだけ損の巻」
「と、殿様!? どうなさったのですりん」
「どうした? そやな、強いて挙げるならこの出会いかな、はなほじ」
「……」
キモいを超えてキショかった。
パーソナルスペースを気持ちワイドに取っているルカが更に彼我の溝を開けるほど天彦から負の何かが漏れ出ていた。
というよりも一人悦に入り“くつくつふふふ”する様が普通にあまりにもキショかっただけという可能性はかなり高い。それほどにキモかったのだ、今の天彦は。
だがそれも束の間、表情をキリッ。
「ルカ。墨を」
「墨、だりん?」
「お前さんは一々疑問を挟む癖、早う直した方がええさんやな」
「あ。ただちに磨るだりん!」
調子を合わせると狂わされるということを一つ学んだルカは、傍用人から硯を受け取るとその場に腰を下ろして、うんしょうんしょと墨をすった。
護衛、用人、ルカ。四方八方から向けられる矢のような白い眼を物ともせず天彦は一通の書簡を書き上げた。
そして何度も視線を往復させ、その出来栄えにうん。これ以上ないだろう会心の笑みを浮かべて満足感を頷きのすべてに集約させて表明するのであった。
と、
「ただいま戻りました」
「お帰り。ご苦労さん。どないやった」
雪之丞が戻ってきた。
「どないもこないも、ずっと優しいお人でした」
「そうやろな。詳しく訊かせて」
「はい。その前に、参議許せよと託っておりますのでお伝えいたします。漏れ聞こえる世情が穏やかならぬ故、謁見は見送った。いずれ落ち着けばこちらから報せる。との由にございました」
「ん、確と受け取ったん。ありがたくご厚情賜りますぅ」
天彦は東宮御所の方角に向かって扇を額に掲げ、故実の礼で謝意を述べた。
「よかったですね。嫌われてのうて」
「余計な心配や。ほんで」
「嬉しい癖に。はい。阿茶さんにごめんなさいしました。東宮さんにも」
「それはよかったん。これで一つ憂いは晴れたな。それで」
「はい。ええか別当、お前は生涯そのままでいよ。今後は親王や姫御子たちとも仲ようしたってくれと命じられましたので、はいとお答え致しました」
「親戚の叔父さんムーブ!」
「某もそない思いましたのでそない申しました」
「え」
「なんや拙かったですか」
げろまんじ。厭な予感しかしないのだが。
天彦は訊くのが怖すぎて次の言葉が継げずにいた。だが意を決して、
「……お雪ちゃん、東宮さんなんぞゆうたはらへんかったか」
「はい。とくに」
「ほっ。まぢでビビらせる」
「でも阿茶さんがゆうたはりましたね」
「おい待て。途轍もなく厭な予感がするんやが」
「なんや嫌味な言い方ですね」
ぎく。ははは、とお愛想笑いを一つ挟み、スーハーすー。
「キノセイキノセイ。疾く申し」
「嘘くさいわぁ。まあよろしいわ。そうや、阿茶さんが笑いながら、永卲なんぞどないやろと申されましたので、某、永卲とはなんですのんとお尋ねしました」
「えいしょう、さん……やと?」
「さん? まあともかく、ほんなら妾にとっての宝玉やと申されましたので、お宝なら欲しいですとお答えしておきました。ほならいずれお前にやろと申されましたんで、おおきにとお答えしておきました。どないです。儲かりましたやろ」
「シャラップ!」
「ふべしっ――」
天彦渾身の右ボディブローが炸裂した。
「いきなり何しはるん! 大して痛ないからええものの、手を上げるなんて若とのさんでも許……あれ。あれれ、某、何か間違うてましたやろか」
もうお仕舞いだよ、この雪之丞。身共の右も弱弱やし。
天彦は呆れを通り越してもはや恐怖を覚えていた。だが見捨てられない。ならばどうする。答えは一つ。早急な教育一択しかない。
良さを伸ばす教育方針はもはやこれまで。今後はマイナスの粗を消していく方針に切り替える。
わけねー。
できるならとっくにやっている。すでに何度となくトライもしている。
即ちこの野生の凡骨は筋金入りのポンコツなのだ。教育云々で改善できる代物ではない。少なくとも天彦にはムリ。
「なんかちゃうやと。お前は……、もう堪忍ならん。ルカ!」
「ここだりん」
「この阿呆を縛り付けて即刻陣屋へ連れ戻せ。当面謹慎処分と致す」
「はいだりん。食事も抜くだりん」
「殺す気かっ! 某、食事だけが生き甲斐なんやぞ」
雪之丞の猛抗議に、
「うん、それはどうやろ。それはちょっと厳しすぎと違うやろか」
「そうですよ若とのさん! この阿呆にもっとゆうたってんか」
謎に天彦が援軍に回ったので空気と雲行きが可怪しなことになってしまう。
甘すぎるにも程がある。紛れもないこの場の統一見解である。
それを証拠に護衛の青侍や用人たちは雪之丞にではなく天彦に対し一斉に白い眼を向けた。むろん先頭に立ち進言した張本人のルカを筆頭にして。
「お殿様は、このすっ呆けたおバカさんと共に滅びるおつもりだりん」
ルカの口から、家中の誰もが思っていたが誰もが言葉にできずに今日まで来た本質的な問いが投げかけられた。
むろん天彦の答えは一つ。堂々と臆面もなく言い放つ。
「家のもん誰ひとり区別なくすき。誰とだっていつだって一緒に滅びる用意はあるん。それはルカ。お前さんとて同じやで」
あははは、ウソくせー。
天彦の答えがお気に召したのかどうかは定かではない。
言葉は悪いし態度も悪い。だが心証は悪くなさそう。ビビットな赤い着物を着た少女は見せたことのない朗らかな表情で、実に愉快そうに笑うのだった。
「ほな参ろうさん」
「どこにです」
「行けばわかるん」
「あ、意地悪若とのさんや」
一行は公家町へと足を向けた。
◇
「二条さんの追放劇は痛快やった。愚息も世話になっとる。そやけど参議、お前さんは跳ねすぎた。親御前を延いては自身の起源たる生家を粗末に扱う者に正道は歩めんと麻呂は思うにおじゃるが。お如何さんや」
天彦は公家町近衛屋敷に出向いていた。
ダメ元だったが近衛家当主、関白・太政大臣前久卿は在宅しており、トントン拍子で申し入れは受諾されこうして謁見は叶っていた。
天彦の申し入れは菊亭の無条件の撤退許可。即座に包囲網を解き、菊亭兵のすべてを無事に解放せよ。それだけである。
だが返答は予想の三倍、いや五倍は辛い答えだった。あまりの塩辛い応接に甘いとは思っていなかった天彦も舌を巻く。むろん尻尾までは巻かないが、やはりこうも敵意を剥きだされると困惑してしまうのが本心であった。むろん喧嘩上等ではあるのだが。
「こんなとき思い出すことではおじゃりませんが、初めての出会いは関白さんの仲介でしたん。懐かしいさんやわぁ」
「さすがの狐も故人を忍ぶか。しかしあのときの童がな。善き侍であった。誠に残念至極におじゃる」
「ほんに」
「恐るべきは今出川の血か。息を吐くように嘘を吐く。さすがは黄門さんの実子やと申したいところやが、このときばかりは寒気がするで」
「寒気。……はて? なんですやろ寒気、寒気なんです」
「なあ参議、親族や友人なくしてこの世に生が要るもんか」
「さあ。甲斐武田が身共の友人やったこと、一遍でもあったさんやろか。あるいは父御前が、義理母御前が身共の親やったことただの一日でもあったさんやろか、……はて。関白さん、思い出すのにしばらく時がかかりそうにおじゃりますぅ」
「おのれ……。まあええ、茶をもて」
「はい。畏まりました」
一息入ったかと思いきや、すると天彦に向けられていた白い目に灼熱を思わせる熱気が帯びる。果たしてどちらが狐で狸か。茶を出せは人払いの意味らしい。
天彦の脳裏に暗殺の二文字が躍る。だが覚悟はしてきた。それも含めて勝負をかけた。敵地に乗り込んでいるのだから。
ここまで意地を張る意味はあまりない。あるいはほとんどまったくないはずである。とくに頭が取られればお仕舞いルールの戦国であれば猶更に。
あるとすれば誰とは特定しないが訊かれたとき、命を張ったんと真っすぐに目を見て答えて困らせてやれるという自己満と、胸の奥にこっそり仕舞い込んでいる男子としての熱い血潮を慰めるというこちらも自己満が満たされる、たったそれだけのことである。
だが緊迫感をそのままに天彦の危惧する事態には陥らなかった。いずれにせよなるほど公家の応接、会話であった。
「ならん。お前さんは一度鼻を圧し折られた方が身のためや。そやろ小癪な鼻高さん」
「ふふ、それはおめおめと都を逃げ去ったどこぞのどなたさんのように。と仰せにおじゃりますかぁ。おほほほほ」
「ほざけガキがっ! それがどないしたっ、この世は生きてナンボなんや」
「はい。身共も100同意におじゃります」
「ふん。小癪なガキめ。もうええ話はこれまでや。お前さんの浅慮のせいでかわいい子飼いを失くしたらええ。今日の傷は明日の肥やしになるやろ。帰り」
交渉決裂。
天彦はすっと腰を折って故実で礼を尽くす。
すると上座でふんぞり返っていた前久もすっと居住まいを正し返礼した。
天彦は思う。近衛前久、順応能力高すぎ系モブであると。
天彦は立ち上がる。呼応するように前久も立ち上がった。
天彦は再度扇を額に掲げて故実の礼で感謝の念を告げる。前久は鷹揚に頷いて返礼とした。
すると天彦の表情から険がとれる。なにも同じモブ同士シンパシーを感じたわけではないだろうが、天彦はさきほどまでの険しい表情はどこへやら。
まるでじっじに接しているときのような親しみを込めて前久に語り掛けた。
「また参ってもよろしいさん」
「今の殊勝なお前さんならいつでも歓迎や。そないして心を入れ替えて精進し。まだ若いんやなんぼでも出直せるで」
「はい。金言確と賜りまする。おおきにさんにおじゃりますぅ」
「うむ。父御前ともようよう話し合い、あまり世間さんを騒がすもんやないで」
「はい。参議天彦、関白殿下のありがたいお言葉さん、肝に銘じて精進いたしまするぅ」
「うんうんそうしい。今日はよう参ってくれた。これで麻呂も主上さんにええ報告が――」
と、関白前久が言葉を言い終えるより先に、天彦が掌を掲げて言葉を遮った。
そして懐に手を突っ込むと予め仕込んでいた書簡を一通、実に芝居染みた所作で大仰に掲げて見せる。
「……なんや、それは」
「お預かりしておりました書簡でにおじゃります。身共のうっかりさん。ほんまにあかんわぁ」
「麻呂にか」
「然様にあらしゃりますぅ。どうぞお確かめを」
「承った。……どれ。……関東、管領、殿、からだと」
ばさっ――。
文は最後から目を通される。差出人がわかるからだ。そこには関東管領上杉謙信と認めてあるのだろう。
が文を一字も読むことなく次の瞬間には前久の気配は一変していた。さすがは公卿の頂点を極めるお人。勘所は抜群である。
関白前久はすでに表情の前面に不穏の感情を張り付け、感度100で天彦を睨みつけていた。
対する天彦は……、
「くふ。ふは、うふふふ」
これ以上ないほどいい(悪い)顔で、悪巧みの成功を確信していた。
文が前文側からさっと開け広げられ、前久は右から順に読み下していく。じっくりと。その文脈をまるで咀嚼するかのように。あるいは行間に秘められた意図さえ読み逃さぬという決意を感じるほどに熱心に。
一頻り読みふけると、一周回ってもう一度。いや一度では利かず二度三度、前久は震える手で文をきつく握りこんで何度も何度も視線を前後に往復させた。
ややあって、
「景虎、なぜや……なんでなんや。……はっ!? お前か! お前なんやな景虎をそそのかし血判盟約を反故にさせたんは。ぐぬぅ鬼畜め、要求はなんぞ。申してみいっ!」
「大そうなことはあらしゃりません。物集城に籠城している当家家来の無条件の解放。それだけさんにおじゃりますぅ」
「麻呂は知らん」
「ほなこれまで」
「待て! ……相当の血が流れたと聞き及んでおる。それはどう手当てする」
「金銭での補償には応じますよって、あんじょうよろしゅうお頼みさん申し上げます。但しこれ以降、当家の者に傷一つでもついたら契約は不履行と見做しますよって、越後さんにはそのように」
「相分かった」
「せいだい警告を促したってんか」
「くどい、麻呂はわかったと申したぞっ」
おのれ小童めが。
関白前久は天彦を鬼畜と罵ったその口で悪し様に天彦を罵った。だがやがて観念したのかぐぬぬぬと無念を吐き出して鬼の形相で天彦を凝視した。
「件の猶子には絶縁申し付ける」
「あらまあ。おおきにさんにおじゃりますぅ」
「なっ……!」
「ふふふ、お茶、ご馳走さんにおじゃりました。さすがは高級茶葉だけあって大そう美味しかったん。また呼ばれに参りますぅ」
「二度とっ、当家の敷居を跨ぐこと罷りならんっ!」
「しくしくおよよ。淋しいさんやわぁ。身共はこんなにもお慕いもうしあげてあらしゃりますと申しますのに」
「おのれ抜け抜けとっ、半端な血筋のそれも呪い子の分際で! この五摂家筆頭たる関白にほざくんかっ!」
ほざいたし勝った。ふははは、勝ったったん。
レッドラインを越えてきたのはお前の方や。ふざけろ氏ね。
だが天彦はそんな感情とは裏腹に、恨むなら菊亭に仕掛けた己を恨めの心境で余裕の涼しい表情と態度を崩さない。
まさか謙信公との友誼がここに繋がるとは露とも思わず。だが現実はこうして繋がった。そんなビックリがあったから。
史実では前久と謙信は肝胆相照らす仲であり将来の決起を誓い血の起請文を交わす仲だった。そして織田とは昵懇であり互いの居館を行き来する仲であったとかなかったとか。
だがこの世界線ではどうだ。室町幕府側に軸足を置いていてむしろ義昭と昵懇であり信長を追い落とす立場にある。そして肝心要の謙信公とは疎遠である。一昨日本人から確認をとっているので間違いなく。
そして問題の書簡。虚々実々の件だが、謙信公が果たしてどちらの正義を優先するのか。どうだろう、どんな博打よりも天彦が勝つ勝算は高いのではないだろうか。少なくとも天彦にはその自信があった。
「ほな、さいなら」
「疾く往ねっ! ええい塩を撒けっ、屋敷じゅうのすべての角にも盛っておけ」
こうして天彦は勝利を確信して揚々と近衛邸を後にするのだった。
明日以降確実に都を席巻するだろう地獄の悪評と引き換えにして。
与六、これが身共のできる精いっぱいなん。ちゃんと伝わってくれるとええなぁ。
お天道様に顔向けできるとかできないとか。罪悪感とか倫理観とか恥とか外聞とか、そんな誰もが抱く後ろめたい感情を二の次で。
筆を騙り花押まで真似て偽造して欺いた上杉謙信でもなく偽計の策に嵌めた関白前久でもなく。天彦の想いはただ一人、大好きな家来樋口与六にだけ向けられるとか向けられないとか。
天彦はいつものアホアホ天彦のまま、人には曲解して見えてけれど彼にはど真ん中真っすぐな心算の愛を叫んで今日も行く。王道という名の脇道隘路を。そしてアホ面を下げて愛する家来の元へと戻った。
絶好調。――を張り付けて。
「ただいま」
「おかえりなさい。あ。そのご様子、さては勝たはりましたね」
「わかる? むふふ、もうそら圧勝さんやで。見せたかったわぁ、身共の快勝劇を! そやお雪ちゃん、心配かけたな堪忍さんな」
「ぜんぜん心配してませんけど」
「おい! して。寂しいやろしてくれな」
「ははは、気が向いたら次の機会にでも。ほなもう平和なんですね。よかったです。某の天羽々斬の出番がのうて。残念ですけど、残念ですけどねっ!」
「二遍ゆう件はさて措き、神話の名刀て! え、まぢ?」
「はい。鑑定書付きです。先だって鍛冶師に教えてもらいましてん」
「鍛冶師ほんもん?」
「偽物の鍛冶師って居てはるんやろか」
「居らんか。ほなホンモンや、すごっ! ほんまのほんま?」
「そうですけど」
「ちょうだい!」
「なんや若とのさん可怪しな感情ですね。アカンに決まってますやろ。東宮さんからの恩寵品やのに」
「あれは身共との友好の証やん。欲しいおくれ」
「欲しなったら無茶苦茶やなこの人」
「ほーしーいー!」
「あきませんって」
雪之丞の指摘が正しい。プレッシャーから解放された天彦のテンションは可怪しかった。だが欲しい感情は本心である。粘った。
主従のアホすぎる呑気加減を他所に最も至近で侍っているルカはポカン。そして、え、戦が終わったりん……? 無意識的につぶやいて、
え、え、え、え、え、ええぇ――!
やっと現実に追いついたのか絶叫し、あまり天彦のことを知らない護衛や用人たちの公家町に響き渡るほどバカでかい絶叫の呼び水となるのだった。
そしてるんるんの天彦と刀を抱くように警戒する雪之丞を除く全員の“どうゆうこと!?”の疑問符を引き連れて菊亭一行は定宿陣屋へと戻るのであった。