#02 我が身ひとつの秋にあらねど
中盤から後半部分、そこそこ改稿してみたのでよろしければどうぞ
永禄十二年(1569)九月六日
「――で、あるか」
急ぎ設えられた織田陣幕。
信長は愛用らしい床几に腰かけてこれまた愛用しているのだろう脇息にひじ掛けいつもの口調で言う。
けれど彼らしさは鳴りを潜めていて、ぼそっと吐き出された言葉からは持ち前の圧倒的な支配力は感じられず瞳にもその影はない。
人の感情は体調に左右される。ならば強行軍の移動疲れが彼を弱気にさせるのか。違う。そうではないはずだ。たしかに多少疲れは感じられるが信長の瞳にははっきりと見てとれる失望落胆の影が浮かんでいた。
天彦は広義のダブルスタンダードを悪とは認めていない。天彦自身が斜めに構えて清廉潔白んごに真正面から喧嘩を売るスタイルなのと、誰にだって使い分けや二面性はあるはず論者だから。
その論点からあながち正義とさえ感じている勢なのだが、この時ばかりは味が悪く自分の二面性を恥ずかしく感じてしまう。
このあまりにも真っすぐすぎる社会通念上等ニキが見せた弱みに直面して。
天彦はあからさまに動揺してしまっていた。
と同時にこの人でも無理して笑うのだと知ると、なぜだかわからないが胸が痛烈に痛んだのだ。いっぺんにストック二機は氏んだだろうほどメンタルを食らわされて。
天彦は信長が好き。これは真実だ。だが怖いのも本心である。だから常に保険を掛けて接してきた。魔王と相対するプレッシャーは半端ないのだ。いっつもしんどい。毎度ヒリつく。
この感情が文献や書物や物語由来の認知バイアスだとわかっていても、この強固に張られたバリアーを解くことは天彦を以ってしても容易ではなかった。
だから勘気に触れてもいいように、いつでも伝家の宝刀を抜き放ち抵抗できるように対策としていくつもの保険を打ってきた。
そしてそれはずっと成功してきた。だが今回ばかりは裏目に出た。大裏目である。むろん誰も指摘はしない。
それでも天彦は確信している。信長の見せた弱気の姿が、あるいは今もこうして体質的に得意ではないだろう酒を痛飲している状態こそが雄弁に天彦の味の悪いしくじりを露見させているから。
天彦は信長という人物が好きだからこそ答えたのだ。尋ねられた問いに言葉を飾らず率直に返答しただけなのだ。負けると。圧倒的に敗北すると。
すると一を訊けば十を直感する魔王にしては珍しく勘の冴えが弱かったのか、信長は理由を問うてきた。だから天彦はこちらにも率直に応じた。朝廷を敵に回したからであると。
謙信公は言った。織田を討てと朝廷から治罰綸旨が参っていると。
綸旨とは蔵人が帝の意を受けて発給する命令書である。即ち発行元は蔵人所でも勅と意味合いはほとんど同じ。いざというときの保険の意味合い以外は帝の御内意そのものである。
その帝が織田を討てと言った。これを訊いたとき天彦の中で信長の敗北は決定的なものとなっていた。史実での甲斐武田家がそうであったように帝の御内意には神意に通じる神通力があったのだ。ともすると得体のしれない。あるいはときとして荒唐無稽な。なのにこの戦国室町では最も格式の高い絶対的な理不尽として日ノ本に君臨している。
むろん互いが互いの国力の持てるすべてと全戦力を傾けて激突すれば血の苦手な天彦とてドキワクの大決戦となるだろう。キッズ目線なら巨頭の大決戦はワクテカである。
だがそうはならない。帝の御内意がある上に手紙公方が黙ってはいないから。背後に敵を抱えたまま越後上杉とは戦えない。これは謙信ドラゴン上げなのではなく純然たる事実として。
しかしこれが逆なら謙信ドラゴン軍は魔王信長軍の優に倍は凌いで見せることだろう。地政学的にそれほど越後は圧倒的に有利なのだ。だが織田は……。
「持って半年におじゃりますぅ」
「で、あるか」
包囲網されたら妥当な線を予測して進言したまで。ましてや史実より越後の龍はよりドラゴンである。実際は半年持たないと天彦は見立てている。
対する信長は天彦の眼を見るとふっと優しく微笑んで、けれど杯を持った手を突き出す所作は実に荒っぽく、杯に注がれた酒を飲み干す様も見ていられないほど痛々しかった。
天彦は信長推しである。これは本心から。
感情的に好き。それを認めた上で天彦は、人柄や為人などという眠たい人事考課ではないと断言する。評価軸は常に一定の指標のみ。自分に有利か不利かのその一点のみで判断され感情などは度外視される。
常はダブルスタンダードを標榜するほどブレブレの理念や信念や思想軸であっても、ことお家が絡んだ天彦の判断基準はこの点だけは一ミリのブレもなく作用する。
その観点から織田信長推しは天彦にとって利得が大きい。いやもはやマストの人材と言えた。何しろこの戦国乱世の中で唯一、武家支配を終わらせようとしている戦国大名なのだから。
むろん信長自身が明言したり匂わせたりといったオフィシャルアナウンスは一切ない。あるいはあっても天彦は知らない。単に天彦が分析してそうだと感じているだけで。
だが天彦は確信している。信長のあの怜悧な思考にはすでに武家支配の限界説が仮説として浮かんでいるのだと。この情報に乏しい情弱社会にあって、自力でその解にたどり着いているのだと。延いては日ノ本の終わりをも予感しているのだと。天彦は確信していた。
あの最近専らのお気にである黒人奴隷の弥助や、しきりに呼びつけては会談を繰り返している伴天連切支丹宣教師からの聞き取りで、その結論に至ったのだろう。恐るべし。
でなければ史実で征夷大将軍ではなく太政大臣を拝命しはしない。そして史実に頼らなくともヒントは無数に転がっている。
何しろ信長、文句を言いながらも朝廷のしきたりや公家作法の女房レクをちゃんと真面目に受けている。つまりそういうことである。
でなければ織田家の施策に説明がつかない。というのも織田家はこれだけの版図を築きながら、独自の直轄領は微々たるもの。ほとんどすべてを配下に分配している。
しかも分配された配下とて完全に君臨しているのではなく、あくまで預かり物として扱っているのだからお察しである。
すべての式がこの土地はいずれ何らかの手段で還るべき場所に還るのだという解へと導いているように、織田家中では当たり前のことのように捉えられているではないか。
彼らが考え主張するだろうその還るべき場所と人物には大いに議論の余地があるとしても。
信長は自身の立ち位置を鮮明に明示している。
権威によって日ノ本を支配するということを。
自身こそがその権威の長に相応しい人物であると。
真に天才は信長である。天彦はその思いを強くしている。それこそ信長と会うたびにその思いは強くなる。そして対比で自分の凡庸さ、小並感が浮き彫りとなって辛みに苛まれるのだ。ぐぅ、つらたん。
ひょっとしたらクソ陰険策士気取り氏ね光秀も、あるいはこの感情が極まってキレ散らかして暴発してしまったのかも。
同情は一ミリもしないがそれなら妙な納得感は得られるだろう、そんな愚にもつかない仮説が脳裏に浮かぶほど、信長という人物に触れると自分が惨めを通り越して憐れになってしまうのだ。己を憐れむ辛みたるや……。
天彦にとって信長という人物は他者を絶望させる天才であった。それも自身を優秀と思っている鼻高ほど痛烈に自慢の鼻を圧し折るニキなのである。メンタルダメージ二機分だけに。
結論、信長は朝廷権威を利用して自身が権威の権化になろうとしている。
仮説だがかなりそうとう自信があった。合理的な信長らしい実に合理的な統治理念である。あるいはこの仮説が正解でなくとも否定することが極めて厳しい仮説と言えた。
むろん謀反でも下克上でもない。順々に位階を上げていき、いずれ頂きに届けばそれは格式流儀という正当性の印を正しく踏んでいるのだから。後に血統も自ずと付いてくるやつ。
皇統が織田の血族一色に染まったとしても。あるいは皇家の血筋など絶たれたとしても。
朝廷は存続するだろう。織田家の栄華とともに。
あれほど自身の血縁と血統にこだわるお人。天彦でなくとも予想カルチョは倍率マイナスに限りなく近しい確度でド本命視されるはず。
天彦が嗅ぎ取ったのだ。日ノ本創世以来つづく朝廷が、あるいはその基となる帝が気付かないはずもないだろう。
ならば朝廷の織田家忌避は本能的な警戒感が生じさせているのではとの仮説が濃厚と読み解ける。つまりちょっとやそっとでは拭えない、あるいは朝家の臣を標榜する天彦には触ってはいけない根が深い問題と言えた。
何しろ朝廷が滅びれば母体菊亭の正当性は根幹から失われいずれ滅び、織田が滅びても天彦は詰むのだから。
よって生涯公家を信念(縛りプレイ)としている天彦であればこそ絶対に、どちらの側にも立てない酷く繊細な問題であった。
天彦がつらつらと考えこんでいると、
「才の有る者は鍛錬を怠る。己惚れるであろうからの。しかし才のない者は日々努力する。のう大天才殿。儂はまだ努力が足らぬのであろうか」
なぜ天は我に背を向けるのじゃ。
信長はぽつりと付け足す。
知らんし。
でも野望を捨てたら楽に生きられるよ。少なくとも今よりかは。
天彦の率直な感情だが、むろん使命感は満たされない。
それを承知しているからこそ天彦は言葉を発せず、……生唾を飲み込んだ。信長の壮絶な表情があまりにすべてを物語っていすぎて。
ともすると深紅とさえ思える双眸は野性味を帯び、直感的にこれは答えてはいけない類の問いだと予感させた。天彦は咄嗟の判断で至近に侍る弥助に目配せする。
すると彼は大柄な体をぎこちなく縮めて「カタジケナイ」下手な作法と片言で言うと酩酊状態の信長を軽々と担ぎ上げて陣をそっと後にした。
…………、
「ふぅー、しんど」
いや、しんどすぎるやろっ!
あれは意に沿わない発言をしたら間違いなく斬られていた。絶対に。
勘弁してよの感情で空を見上げると月が中点で威張っていた。天彦の眼には欠けることのない満月が、やたらと何かを暗示するように煌々爛々と怪しい輝きを放っているように感じられた。
――え。
すると影が足音なく背後に忍び寄り、そっと「失礼いたします」の声が耳朶を叩いた。
その声を訊くまで天彦は影の接近に一ミリも気づけなかった。不覚とは思わない。彼らの技前は一族を挙げての集大成の結集だから。
天彦はおそらく伊賀衆か甲賀衆か。当たりを付けて観念する。幕の外で待機している愛すべきお家来さん二人を責めても酷だから。いずれにせよその道の鍛錬を積んだプロなのだろうから。
それはそれとして、むかっ。後でシバく。それはそれとして。
「無礼者さん、せめて名ぁくらいお名乗りさん」
「直言の栄誉を賜り恐悦至極。拙者、織田家家臣滝川左近尉が家来、伴太郎左衛門と申しまする」
「ああ甲賀の上忍さんやね。たしか五十三家の長信さんかと記憶しているが」
「あ、え、いや、まさか……」
「その反応、どうやら合うてるみたいやね。ほなお初さん。身共はしがない田舎公家の菊亭と申す三流半家の当主を務めておじゃります、参議天彦にあらしゃりますぅ」
伴長信は絶句した。五十三家の内訳はお家改め帳にも記されてない滝川家でも秘中の秘。甲賀衆でもない他者が知るはずもないからだ。
そして伴長信、気づけば片膝武家流故実だったのを完全に両膝を地につけた格上への最上位屈服姿勢へと変えて額を平伏せさせていた。
「噂は真にござったか」
「態度と言葉の間尺くらい合わせよか。それとも身共の知らん上忍ギャグやったら堪忍なん」
「ご、ご無礼仕りましてございまするっ」
「ええさんよ。身共との初見はだいたい皆さんそんな感じにならはるから」
「くっ、重ね重ねご無礼を。我が身の不覚、申し開きの余地もござらぬ」
「うん、ほんまやね」
「う」
伴長信は単なる様式的フォームではなく完全に心から屈服して天彦に対し平伏せた。
天彦はその様が尻尾を丸めて降参する大型犬のように見えて少し笑った。
対する伴長信はその笑顔に魅了されてしまったのか。その愛くるしさとは真逆と定評のあるあの笑顔に。
一々すべてに驚嘆させられる人物だ。それは訊いて知っていた。だが聞きしに勝る見聞の広さに度肝を抜かれた。これは試してはならない。といったところか。
いずれにしても彼のそれだけで勝負してきたと言って過言ではない頼れる相棒である勘所がかつてないほど強烈な警鐘を鳴らしてくるのだろう。表情が悲痛を超えて死んでいた。
しかし反面、いったいどのように。そんな興味が尽きないのか。職務の性質上、彼の存在は織田家中ですらそう広くは知られていないのだから。加えてまだ端役でしかない己を知り得たその術が職務柄、どうにも彼の欲求を刺激するのだろう。だから訊いた。子供アバターという油断もあって。
「如何にしてお知りになられるのか。後生にござる。何卒ご教授くださいませぬか」
「ああそんなこと。お安い御用や。ほれそこに、お前さんの頭上に浮かんだはるやろ。お前さんの何から何までもが。そっくりすべてそのままさんに」
「え」
「あ?」
「某のすべてが、頭上に浮かんでござるのか」
「そやで。甲賀五十三家の三席にして柏木三家の一角。本拠である伴中山城には倅、五兵衛を城代として日々諜報に勤しんでいる。ちゃうかぁ」
「……」
伴長信は訊かなければよかったと猛烈に後悔して更に深く、あるいは跪拝の領域まで深く天彦に首を垂れて屈服した。むろんただの天彦ジョークに。とびきり効くがむちゃんこ悪趣味なやつ。
「殿上人に対しいいや、多聞天の化身様に対し卑賤の身がご無礼を働きましたこと、ここにお詫び申し上げます。何卒ご寛恕賜りますよう切に――」
「もうええ長いしくどい」
「あ、は、ははっ」
天彦は織田の忍び内で自分がどう流布されるかを確信して、確信犯的に更なる念を押しておく。畏怖なんかナンボあっても困りませんからねの感情で、取って置きのいい(悪い)顔で。
「ずっと許してるやん。最初からずっと。でないとお前、とっくに命はないさんやで。身共に従う射干党の影働きによって」
「射干、党……」
射干党にそんな優秀さんはおりません。ほとんどだいたいポンコツです。の可笑し味をこらえて続ける。むろんただの悪ふざけ。
「知らんか、射干党」
「存じ上げております。異形のしゅうだ、あ」
「正直なお人。失言が元で廃業して行く宛のうなったら家においで。身共のお話相手に拾うたるから。うふふふ」
「くっ」
「今のはビックリさせたお返しやで。序にこれも広めといて。身共はやられたらいずれ必ず仕返すと。甲斐武田家のように執拗にと」
「……!」
「で。話しにくいな。面をお上げさん」
「はっ、はは!」
伴長信は下知に従い恐る恐る顔を上げる。やはり子供だ。紛れもない。彼の驚愕の表情は内心を如実に明かす。修業が足りないとは誰も彼を責められないはず。何しろ相対しているのは神仏の代弁者さえ恐れ戦慄く恐怖の児童なのだから。
そして長信は思うのだ。この事実もそうだが、何より立場上公家には多くあっているだろう彼をして公家の鼻につく厭味ったらしい権高さが微塵も感じとれない。今となってはこの違和感たるや。
やはり見たままとは受け止められない。――と。
というよりも伴長信はもはや天彦を直視さえできなくなってしまっていた。
結果伴長信は天彦の奇妙奇天烈という他ない返答の数々はもちろん、いったい自分が何を見せられているのか、それこそ狐に抓まれた気分でふわふわと気づけば言葉を失ってしまっていた。
「埒が明かんな。長信さん、お目覚めにならはったらお尋ねにならはるんやろ。そやからお役目として、答えるためのその言葉が欲しいんと違いますのか」
「……御慧眼、恐れ入り申した。はっ、何卒頂戴、できまするか」
伴長信は絞り出すように言い家来が主君に甘えるように褒美を強請った。
天彦は数舜考えこむ仕草をして、
「滅ぶなら共に。身共は受けた恩義を、頂いた勇気を、一度たりとも忘れたことはおじゃりません。そう確と御託さんにあらしゃりますぅ」
「はっ! ありがたきお言葉。主君に確とお伝えいたす。それではこれにて御前御免いたしまする」
一瞬で気配が消えた。どんな仕組み!? あんなのに的に掛けられたらお仕舞いやん。
天彦は半ば呆れながらもう一度空を見上げた。やはり月は偉そうに威張っていた。
◇◆◇
永禄十二年(1569)九月七日
「越後を贔屓するな。余を贔屓いたせ」
「意地悪すんな。謙信公は身共に優しいん」
「ならば娘を娶ればよい。余の倅となれ。いくらでも甘やかしてやる」
「要らんのん」
「む。余の娘を要らぬとほざくかっ」
「ほざいたん。お耳さん日曜なん」
「耳が日曜とは是如何に」
「三百年後にはわかるやろ」
「何を小癪な小生意気な」
「小癪さと生意気さをとったらなーんも残りませんやん」
「くふっ、で、あるか」
信長と話し合った明くる朝、意地悪すんな。ならば娘を娶ればよい。
一夜明け酒が抜けた信長に起き抜け三秒で襲撃され、おそらく託を受け取ったのだろうどこか嬉し味を纏う雰囲気と口調で言葉攻めにあっていた。
信長に起き抜けに襲撃された天彦は、そんな他愛ない口喧嘩を経て元鞘に収まって、信長の先導で洛中に戻っていた。
鞍上、
「お前の趣味じゃ。とやかくは申さん。だが……ふはっ、山猿ではないか。くふ、ふは、わはははは。やはり貴様は飽きさせぬの」
「まんじ」
ほぼじんおわ。
天彦はなぜだか天彦に付いてくるとオニ駄々をこねた千賀家の主従を従えての帰還に、人生の終わりではないけれど何かがじんわり終わっていきそうな終わりの始まりを予感しつつ、だがしかし!
この海賊ネキだけは絶対にないと予言した上で、見た目の野良猫感と匂いの野良猫感をビジュアルとスメルで前面に押し出す年魚市に今一度の打診を促す。
「帰れ」
「いやじゃん」
「なんで」
「おもろそうじゃん。お前の傍って」
「お前! 居らんのよ、身共のことお前呼ばわりできるお人。帰ってくれ」
「居るじゃん。ここに」
「だから目の前から失せてとゆうてるん」
「惚れたじゃん。お前の顔に」
「あははウケるぅ。この顔に惚れた? ずいぶん安上がりなお人さんやね」
「自虐エグいじゃん。だったら帰ってやるから、お前がアタシの物と認める一筆認めるじゃん」
「誰が認めるかい!」
出た、ジャイ子理論。
だが要求は秒殺され。しかも敵の要求はハードだった。あほかっ!
それでもさすがの嗅覚である。一党を率いる当主として、正しく天彦を評価している。天彦との親密度を上げると確実に越後勢での地位向上も目論めると踏んで。
侮れんのよね。戦国のDQNて。
すると、
「くははは、わはははは。年魚市、貴様、天彦狐の傍にずっとおれ。余が許して進ぜるぞ」
「ホント!? いいとこあるじゃんクソ魔王も」
一瞬右目が鋭く眇められたがそれだけで、年魚市の暴言は無邪気な海賊冗句として聞き逃された。ホンマかホンマなんか。
きっと本当なのだろう。だがこれ以上の失言は周囲の視線が痛すぎる、ということと信長の笑い声が腹立たしさを増幅させるばかりなので交渉はこれまでとした。天彦のポンコツ家来はてんで使い物にならないし。ずっと。
「お前さんら、身共が窮地なときほど役に立たんってどうなんやろ」
「若とのさんがじっとしとけばよろしいやん。ちょっと気が散るから話しかけんといてんか」
「おい」
「某の不覚。更に精進致しまする。ですが今ばかりは朱雀殿に同感にて」
「おいて。せめてこっちを見ぃひんか」
「やまやまなれど、即刻落馬いたしまする」
「あ、うん。手元に集中して」
二人とも雛形文言を上の空で答えるだけ。彼らは拙い馬術にそれどころではなく、いっぱいいっぱい必死であった。
到着。信長は公方に戦勝報告を。天彦は直帰。明日以降の京での再会を約束して信長とは一旦お別れした。
「さあ与六のターンや。……お手柔らかさんにお願いするんやでぇ」
天彦の切なる願望が聞き届けられるのか。こうご期待といったところだが経験則的にあまりどころかほとんどまったく期待薄な天彦の表情が浮くはずもなく。
すると馬の意思を自在に操れるはずもない雪之丞が偶然的に馬の意思で天彦の横に馬首を並べる。
「若とのさん、どないしはったんです。浮かないお顔しはって」
「お雪ちゃんよりかはマシやと思うけど、そうか。浮かんか」
「はい。それはもう酷いブスですよ」
「おいコラ。まあええわ。さあなぁ何でなんやろ。お雪ちゃん、自分の胸に手を当てて訊いてみ」
「ほんまアホやわ若とのさんって。今この状況で某が胸に手を当てたら真っ逆さまに落ちますやろ」
「おい待て。物理的に待て! って、どこに行くんっ」
「若とのさーん! ひゃあああああああ」
どうやら雪之丞曰く、天彦のアホは物理的なアホのようであった。
そして雪之丞は消えてしまった。洛外に向かって。
お読み下さいましてありがとうございます。