#17 絶対量ではなく純度が足りなかった定期
永禄十二年(1569)九月四日
野生の海賊姫に拾われたあくる朝、目覚めるとすでに周囲に気配はなく。
「じんおわ」
天彦の朝は遅い。だがそれは客観視点で。言い訳ならいくつもできる。寝る子は育つとか。寝る子は育つとか。育たなければならないから。
根暗陰キャ、悪巧み狐、キモ笑顔、住居不定引きこもりがち公家とキャラ付け盛沢山。今でも十分お腹いっぱいなのに更に体格属性まで付けるといくらなんでも属性盛りすぎ。だから育たなければならない。ぐぬううう。
よって天彦基準では普通である。むしろかなり頑張っているまである時間帯なのだが、如何せんこの世界の住人が早すぎるという対比からすればそうとうに遅かった。
だからなのだろう。目覚めるなりまた寝坊したかという反省と後悔が謎の辛みとなって押し寄せてくるいつもの朝のルーティンから始まって冒頭のじんおわをつぶやかせていた。
「お早うございまする」
「おはようございます」
「うん。お早うさん」
是知、雪之丞から挨拶を受け返礼。几帳面を地でゆく是知はお察しだがさすがは意外性の家来、雪之丞の朝は意外にも早かった。
すっかり身支度を整え終えた二人はおっちん正座で折り目正しく、天彦の起床を表面上はツンと澄まし内心ではきっとニマニマしながら待ち惚けていた。
たぶん一時間は待ち惚けているだろう。雪之丞のそわそわ感からすれば。
「ぐぬう、お雪ちゃんの裏切り者め」
「最近毎朝ほとんどそれ言わはりますけど、どうゆう意味がありますのん。新参さんが訊かはったら某のこと胡乱に思わはりますやろ」
「知らん。ふん」
「えぇ」
それによって起き抜けから謎の劣等感に苛まれて、結果不愉快な気分にさせられこの不愉快の元凶である雪之丞にお返しするという天彦のここ最近ルーティン化しつつあるいつもの朝から始まった。
もちろん知らん、ふんの行間には“お雪ちゃんなど所詮一生凡骨可愛いだけのむちゃんこ愛おしい家来なだけのくせに生意気や”という文言が入るのだが。
憂さも晴れたことだし。天彦はふぁぁ大きな欠伸と伸びを同時にしながら、ああそういえば専用の天幕を貸してもらえたのだと野生の海賊姫の親切を思いだし寝ぼけ眼をごしごしこすって覚醒を促した。
「皆は」
「はっ、何やら河原にて集いましてございまする」
「礼を申さんとあかんな」
「はっ」
敷布団の代用茣蓙と掛け布団を自分で畳み一礼。
是知の“あっ”というしまった顔に腹立つドヤ顔を送り付け、対する何もリアクションも起こさなかったアホアホ家来の脇腹にはチョップ! 痛っ、とつぜん何をしますのん。のまぢギレリアクションには「ファルコのジャイロカッター」とこちらも真顔で返しておくムーブの巻。
天彦は横暴な君主役を十二分に満喫しながら、お水で顔をさっと洗いくちゅくちゅお口を濯いで、
「ほな参ろうさん」
「はっ」
「はーい」
天幕を後にした。
◇
河原に向かうと遠巻きからでも会議が紛糾している様子が窺えた。
厳つい男たちの揉め事はたとえそれが真っ当な議論スタイルだとしても、傍目には野蛮にしか見えないとしたもの。
さて如何したものか。危機管理こそ天彦の本領。不確実でリスクが高いは選択できない。自分だけでなく家来の命もかかっているから。だから正解でなくていいのだ。間違いでさえなければ。
数舜躊躇していると視線を感じる。気配の方に目線を向けると、そこには忌々しいほどに五月蠅い視線があった。天彦はちっ邪魔やの感情で、
「なによお雪ちゃん」
「某、知ってますけど」
「何を」
「若とのさんの最悪の性格」
「おいて! いくらなんでも人聞き悪いやろ。何が」
「たった今、算盤弾いてはりましたやろ。このまま逃げた方が得か損かの」
「それが何や」
「あきませんよ。一宿一飯は義理ですから。大事なんですやろ義理。義理欠かすなってずっとゆうたはりましたもんね」
「弟お兄ちゃんお雪ちゃん。正解です」
無限に無責任やけど。
ママ彦が雛鳥の成長を喜び甘い採点で合格を出してやるのだが、けれど雛之丞は弟。あれお兄ちゃん?あれれ。と別のポイントに引っかかって疑問符と格闘していたので意図は一生伝わらない。
だが家来の面目を立てた手前揉め事への介入は決定した。
天彦は自分と同じ感覚なのだろう是知の、雪之丞の言動がどうあっても看過できず受け入れらない風に憮然とする顔に苦笑いを送って、
「菊亭、理が非でも際疾く切り込むが家訓にて」
「殿……! 某は、某こそが……」
時代掛かった如何にも是知の喜びそうな口調と熱量でフォローしつつ言い置いて向かうはずだったのだが、その踏み込めない感情、知ってますけど。天彦は不意に立ち止った。
でも是知、一生やらずに終えるのか。お前がええならええんやけど。それだけは伝えてやりたい。の一心と感情で天彦はらしくないお節介を差し向けることにした。要らないなら返してもらうそんな軽い気持ちで。
「是知」
「はっ」
「一流の策士になりたいんやろ」
「はい。いずれ殿のようになりたくござりまする。その一心で務めておりますれば。某は……、殿にとってかわいい家来ではありませんので」
「なんでそんなことゆうん」
「現実から目を逸らすなと教わりましたので」
「あ、うん。でもそれは誤解や。お前さんも可愛い可愛い菊亭のお家来さんやで」
「ご厚情、恐悦至極に存じまする。ならばこそ殿の恩義に報いるべくお力になりたくございまする。某、微力では納得できかねまする」
欲張りさん。だが実に是知だった。天彦はつい口元をほころばせ、
「それは嬉しいさんやなぁこそばいけど。でもな是知、ほなら猶更安全地帯にばっかし居ったんでは届かん高みもあるんと違うか」
「ですが指揮官が前線に……、某は主家の指揮官になるべく日々務めておりますれば」
「知ってるで。なってもらわな困るしな。確かにそら指揮官になってしもたら動きは制限されるやろ。頭取られたら何事もお仕舞いさんやから。そやからこそ下拵えのために今から知見をようさん積んでおくんがお利巧やと身共は思うん」
「……然り。なるほど一々得心入ってございまする」
「うん。ほなお利巧さんなかわいい是知には悪巧みの極意を教えたろ」
「極意……、はい! ありがたく拝聴いたしまする」
「ええか。情報は絵に描いた餅とは違う。生きているんや。そこに隠されている文化や文脈を知らんとどんな情報も上手いこと扱えへん。そして正しい情報を手に入れても知識や教養がなければ正しく読み解けへんのや。その心はすなわち行動し学べ。極意はそこにありけり。最後に身共の国にはこんな金言がある。死ぬ気でやってごらん。死なないから」
ご清聴ありがとうございま、し、た……、あれ。
…………。
「殿」
「あ、はい」
死ぬ気でやると死にます。戦国でした。
「殿のお国とは某の――」
「待て! わかってるから、ナシ。今のナシ」
「は、はぁ。ですが殿のご金言染み入りましてございまする、そして極意一々感服致しましてございまする。長野是知、ご厚情に報いるべく決意を新たに一意専心、行動すると学ぶの二つを確とこの心の臓に銘じまする」
「うーん。心臓ゆうてる時点でなんかちゃうけど、まあええさんや。気張り」
「は、はい! 気張ります……?」
頭でっかち知を説き伏せ、騒動の中心に向かうのだった。
「なにお雪ちゃん」
「某なんもゆうてませんやん。ぷぷぷ」
おいて。言うより効くやつやめろし。
◇
野生の海賊姫は騒動の中心にいた。姿は見えないが独特のよく通る声が輪の中心から聞こえてくる。
そっと歩み寄ると稲生重政が天彦に気付いて目が合う。ぺこり会釈をしてきたので扇子を両手で掲げて返礼。あ、しくじった。反射的に故実で返してしまったことを後悔していると、すると向こうから歩み寄ってきた。天彦は足を止めて待った。
「貴種殿はやはり本物の貴種殿であったようじゃな。よく眠れたかな」
「お早ようさんにおじゃります。おおきにさん安眠できましたん」
「……おじゃるのござるか。それは重畳。して如何なさいましたか」
介入するならどうせバレる。天彦は開き直って普段使いの口調に戻して会話を進めた。
「何やら紛糾しているようにおじゃるが」
「訊いてどうなさいますか」
「特に意味はないさんにおじゃる。強いて申すなら家の家来が一宿一飯の義理を返せと申しよる。それまでにおじゃる」
「ほう、今どき律儀なご家来をお持ちのようで、関心にございますな」
「話して損がないなら申すがよい。訊いて進ぜたろ」
「……なるほど。では貴種殿のお知恵を拝借。我ら千賀党――」
天彦は叡智を拝借と弄られない時点で身バレはしていないことを確信して相談を訊く。
稲生曰く回収した船の部品を高値で買い取ってもらいたい。そして自分たち千賀党も高値で売り込みたい。の二点の問題で揉めていた。
まず部品は単純に競取りや仕切り屋などの中間業が一切入らずに値が合わないのだそう。船奉行に直接買い取っては貰えるがかなり買い叩かれるらしく、反発した同業他社は盗人呼ばわりされ武力で蹴散らされてしまったとのこと。
次に千賀党の売り込み問題は売り込むなら甲斐か越後いずれがよいのか。そしてどういう地位で売り込むのがよいのか。あるいは物の価値がわかならない吝嗇な大名になど売り込みたくないといった方針の違いで衝突して、今朝かすでに怪我人が出ているらしい。アホかな。アホやん。想像の範疇だった。
おそらく家職制度を敷いていない弊害だろう。議長の権限が弱く尚且つ皆が好き勝手を言って折り合わずただひたすら紛糾するパターンのやつ。
かつての天彦にも思い当たる点の多い苦い記憶を呼び起こさせる悩ましい問題で、戦国小さい家あるあるなのでぴんときた
良し悪しはあると前提した上で、家内序列が機能していればこういった問題は一切起きない。下位者は命令系統に従い粛々と事務作業に徹すればよく、方針周知以外の目的でも会議などという無駄な時間を大幅に省ける利点があった。殴り合いで血を見なくてもいいし。
つまり稲生重政が頼りないの一言に尽きるのだが、いずれにしてもフレキシブルな対応が求められる案件には違いなかった。
天彦は主君を差し置いてまさか自分だけお腹満腹まで朝飯を詰め込みぽよぽよしている雪之丞はスルーして、是知に介入の意思を目で伝え思考を整理する。
何やら船の部品問題は違和感が大きい。目下地域に対していい人キャンペーンを張っているのは火を見るより明らかな状況で、どう考えても整合性が計れていないこの違和感たるや。
単なる思い過ごしやただの横領ならいいのだが、それとは別のもっと大きな何らかの意図をやはり感じてしまうのだ。
戦時徴発ならばもっと偏りのない抽出感が出るはずだし、そもそも論天彦は徴発をしないでくれとお願いしてある。それもかなり強い文調で。
むろんお願いベースなので強制力など一ミリもない。だが“ふーん。あ、そう”とはなる。何しろ天彦は自分がその気になればドラゴンでもタイガーでも何でも滅びる世界線は十分あり得ると固く信じている派なので。
そうではないことを願いつつ。狙いが読めない時点ですでに十分気色悪い上に一貫性がなくて更に気色悪さが上乗せされる。つまりこの策、四郎でも謙信公でもないとなるのだ。天彦の感覚では。
しかも物の価値をわかっていないなどあり得るのか。あの天下に並ぶ者はあっても上回る者のないとされる大戦略家の二人が揃っていて。あり得ない。
結論、どう考えてもどこか途中で捻じ曲げられてしまっている。それも悪意マンキン100の感情で。そしてそれは何を隠そう菊亭へと向けられているのでは。
天彦にはそうとしか思えない歪さを感じてしまう。だが藪を突っついてもよいのかはかなり微妙ではあるけれど。
甲斐、越後。いずれの藪にもかなり狂暴そうな毒蛇や大蛇がとぐろを巻いてあるいは手ぐすねを引いてうようよと潜み待ち構えていそうだし。
天彦は一旦沈んでいた長考から浮上して、扇子をぱちり。
「事情はわかった。力になれるかは約束できんが話くらいは通したろ」
「貴種殿。その口ぶりではいずれかに知己がおありかな」
「ないこともない」
「いずこに」
「いずれにも」
「ほう。それは心強い。ならば貴種殿、僭越なれどもお尋ねしたく。果たしてその筋どのような間柄にござろうか」
天彦は一瞬躊躇った。それは言葉を選ぶために躊躇したからなのだが、稲生は違う捉え方をしたようで、ふっ。失笑まじりの微かな溜息を吐いてしまう。
あ。
あろうことか売られた喧嘩は値踏みなく最高値で買い取りまっせを一丁目一番地の超クソデカ信条として掲げているキレ彦の目の前で。
「舐めるなっ。身共と先方さんは腹ではなく瞳の奥を探り合う関係性や」
「ほう。何やらご気分を害された様子。ならば問う。そのご関係性とはつまり如何なりや」
「う」
「如何なりや」
「友だちのお友だち?」
帰れガキ――、ここは小僧の遊び場ではないぞ。
ちょっと強い口調でかなりがっかり感を感じる荒い語気で言われたので仰せの通り従い帰る。
あ、はい。
結論、やだーこわいー。
適者生存の言葉を送って千賀党の陣地を後にした。
◇
海賊が何だ。この音羽村には見るべきものが多くある。そもそも目的は庶民の文化風俗に触れることだったのだから。
「なにそのルカリオとしずえしか選ばれへんようになった呪いかかった人みたいなお顔さん」
「久しぶりに一つも意味がわかりませんでした。つまり絶好調ですね。なんや落ち込んだはる思て心配して損しましたやん」
「心配に損得はないんやで」
「ありますやろ。やっぱしアホやな若とのさんは」
「おまゆう!」
「すんすん、あれ? わぁええ匂いやわぁ。どこやろ、あれや! 行きたいなぁ行ったろ。ほな某用事ありますんで」
出た!
キミとは一遍、じっくり洗い浚い語り合う必要がありそうやね。
の感情で天彦は、やれやれ顔で捨て台詞を吐いていたくせに匂いに釣られた途端前後の事情などぽいっと放り出して団子屋に突撃していく雪之丞の背中を見送るのであった。
「ぐぎぎぎ、あいつめ図に乗りおって」
「まあそう怒ったるな」
「ですが示しがつきませぬ!」
「そうは申すがあれはあれでよい鐘になってるんやで」
「鐘、にございまするか」
「うん。そうや。情報には変わっていくものと不変なものとがあるやろ。細かく読み取ればお人さんは通常前者でありブラッシュアップしていくもんや。たとえば恥ずかしいを経験で学ぶと同じ轍を踏まんと言った風に」
「ぶらっしゅあっぷ」
「よりよくする」
「おお、なるほど。はい。そのように思いまする」
「そやろ。でも見てみいお雪ちゃんの不変度合いを。ずっと一貫してアホ可愛いまんまさんや」
「はぁ」
「意味わからんか」
「はい。思慮が足りず申し訳ございません」
「そんなことはないけどな。どう思う。お雪ちゃんが調子崩してたり真面やったら」
「あ」
「そうや。家内のそれもかなり身共に近しいとこで異変があるというこっちゃ」
「ああ……」
事実であろうとテイであろうとなかろうとそれでいい。天彦にとっての雪之丞の存在意義が無敵かわいければそれでいい。
するとどういうわけだがその雪之丞が大慌てで駆け戻ってきた。
「若とのさん、大変です!」
「な?」
「はい」
謎の納得を見せられイラッとする雪之丞はだがそれも束の間、
「辰男が大変なんです」
「辰男? 誰や辰男、辰男だれさん」
かくかくしかじか。果たして辰男が何者かの説明を受けて思い出した天彦は一秒で興味を失い知らん、とぽつり。要らんの感情で零すのだった。
「菊亭の当主がそない薄情でどないしますの、参りますよ」
「どないもせんやろ」
行くのだが。天彦のしゃーなしではなく雪之丞のゴリ押しで。
現場に急行。到着。
何やら辰男が凹られていた。それも完膚なきまでのボコボコのメタメタに。
これが寅夫なら、ほらみぃ上には上がいるんやぞザマぁと思うのだがさすがにチビはかわいそう。野次馬を掻き分け身を寄せた。
「なんやお前ら」
「気にするなお侍さん。ただの通りすがりのお前よりずっと偉いお人や」
「なにを」
音羽村の庄屋か乙名の倅なのだろう。この臨時保守座ではほとんど見ない二本差しのガキだった。ガキとはいえ元服していれば無礼討ちも許されるので応接には慎重さを求められるが。
天彦は内心で粋り散らかしている勘違い庄屋の子倅をあざ笑い飛ばしてぐったりする辰男の状態を看病する。といっても外傷を目視して脈を計ったり呼吸や心音の乱れを確認したりするだけだが。
結論、異常ありまくり。それはそう。えげつないほどボコられているのだから。
「さすがに酷ないか」
「何がや! お前だれやねん」
「訊いたんは身共や。酷ないか。やり過ぎたんと違うのか」
「チビ、お前もいてまうぞっ」
天彦は辰男を直近の野次馬に預け、推定庄屋の倅とそのサイドキックスたちと向き合った。
「事情は問わん。立場があろうから詫びろとも申さん。そやけど銭は包んだれ。気持ちがあるなら見舞ってやれ。それで堪忍したろう。どないさんや」
あははははは――。
天彦の予想に反してげらげらと大笑いされた。
なぜ天彦がそれで場が収まるかと思ったのかは背後に見回りの足軽隊の姿が見えたからである。だが足軽隊は騒動を確信した上であろうことか踵を返してしまっていた。たった今、目の前で。おいて。
しゃーない。
天彦はひとつも鳴らない指関節をコキコキして、絶対にプランになかっただろう大見得を切った。
「公家小舐めんなっ! やったれお雪ちゃん、行け是知ぉ!」
「えぇ」
「え」
ノリ悪家来に舌打ちして自身も含めて戦力として大声を張ると天彦は、わぁあああと庄屋の子倅向かって突撃した。
武力の低さには無類の定評があり、実際に菊亭で下から数えて三本の上位を常に独占しっぱなしのお三人さんで。
◇
「痛いん……、ぐすん」
「そら痛いでしょ。あんだけどつき回されたら」
「六対一とかないわ。そやっ、なんでかわすん身共おったのに。ひどいん」
「アホらしいて構うのも疲れますわ。なんで行ける思いましたん。某言いましたやろ、痛いの厭やて」
「思うやろ。あんなもんどう考えても主役が跳ねる美味しい場面さんやないか」
「誰が主役ですのん」
「身共」
「もう一遍訊いた方がよろしいですか」
あ、はい。
と、
「殿は悪くない。悪いのはぐぎぎ、おのれっ! あいつら覚えておれ。いずれ、必ずや、某が、この村ごと根絶やしにしてくれるっ」
是知の言霊はむちゃんこ強く叶いそうでなんだか怖かった。
そして是知は一度では飽き足らず、以降延々と実に実行力のありそうな呪詛を吐き続け天彦を不安の淵に落とし込んだ。
「堪忍な是知、至らぬ主君で」
「殿! 殿ぉ、うぅぅぅ」
痛つつ、痛ぅ。
抱き着かれたら気絶するほど痛い。だがこらえる。
是知は悔しさで涙して呪詛を吐くのをやめた。気持ちはわかる。天彦もむちゃんこ悔しい。それはそう。さすがにバカではない。阿保だが馬鹿ではないので正義が勝つなどと眠たいことは信じていない。だが……。
大人が周囲にはあれほどいたのだ。誰かが味方に付いて然るべき絶好の場面ではなかったのか。あった。
天彦の中では100あった。倫理的にも道徳的にも社会正義は天彦側にあったはず。すなわち正義。だったら勝て。野次馬も取り込んだ総合力で勝ってしまえ。
それが叶わないのならせめて、正義なんて大そうな字義背負ってるのなら仕様として勝てよ。とは思う。切実に。でないと、
「キライになるん」
人様のことが。庶人のことも。むろん自分も。
いずれにせよだが現実はどうだ。物理的肉体的に強いものが勝ち、勝ったものが正義であった。なにしろ野次馬どもはやんやと勝ち馬に乗ったのだから。庄屋のDQN子倅を正義と見做したのだから。天彦から言わせれば、あ、そう。ふーん、はーん、ほーん。である。
よって天彦たち三人は庄屋の屋敷の脇に立つ座敷牢のような小屋に押し込められてしまっていた。
じんおわ。
「いや! どこの世界に庄屋の子倅にボコられて、挙句の果てにおんぼろ座敷牢に閉じ込められる太政官参議おるん」
「声張らんといてください。ここに居りますやろ」
「ほんまや。しかも余計に身バレでけんようになったしね」
「ほんまですわ。ほんでなんでそんな元気なんです」
「かわいい家来が凹んでるからや」
「某別に……ああ、そういうことですか。ほな某も空元気出しますわ」
「さすがお雪ちゃん。嬉しいさんやわぁ」
「某はただただ災難なだけですけど。でもどないしますのん。今更、身分を明かしてもいくらなんでも恥ずかしすぎますやろ」
「ていう。痛っあいたた」
「もう、ほら見せてください。うわぁぱっくり」
おのれぇええええええええええええ――!
天彦にとってはちょっとした社会体験の一環。あるいはちょっとおもろいまであるネタエピでも、是知にとっては身を焦がすほどの屈辱のようで。
またぞろ庄屋の子倅をオニ敵視する憎悪の言葉が絶叫されるのであった。
天彦は強がりつつも事実としての敗北という事象にかんしてならかなり口惜しい思いはしていた。人一倍まであるのだろう。そしてDQN侍とはいえなんちゃって子侍に負けたという事実は、公家男子にとってけっして軽くない事実でもあった。
でも不思議。あんなものただの肉体アビリティの見える化であり所詮は戦闘スキルの見せ合いっこなのに。喧嘩に負けるって想像の百倍口惜しいん。
天彦はじんじんズキズキ痛む傷が、実益や茶々丸にどつかれるのとはまた別種の痛みを心中に植え付けてくる不思議な感覚に首を傾げつつ。その痛みがまるで重くのしかかってくるようで更に不思議な感覚を味わっていた。
それを世間では口惜しい痛みという。だが天彦はその口惜しい痛みを紛らわせる術を知らないので余計に堪えた。延々と悶々としながら。
つまりこれは、調子乗って社会見学なんて余裕こいていちびってるから痛い目みたの巻。という警句なのだろうか。
ぬぐううう、調子こくやろ! 身共公家ぞ。太政官参議ぞ。舐めるなっ。
…………。
いや、ちゃうな。
「身共、明日から棒で素振りしよ。お手手いたなるし10つ」
「某もしよ。10つ」
「捲土重来、某もお付き合いさせてくださいませ。……10つ?」
よし三人でしよ。10つ。
おもしろ半分、邪念いっぱいの感情で記憶を捏造。あー楽し。
そして同時にこの痛みもきっと成長痛の一環である。
自身に言い聞かせるように思い込み、この口惜しさを今後の糧とするのであった。
いや、そうはならんやろ。
お読みいただきましてありがとうございます。