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雅楽伝奏、の家の人  作者: 喜楽もこ
七章 八面玲瓏の章
126/314

#13 整合性という名の騰落レシオ、あるいは冴える閃きとか

 



 永禄十二年(1569)九月三日






 二条城主殿本丸謁見の間


 甲越軍上洛の一報はたちまち室町第を駆け巡り二条城に激震を走らせた。

 室町幕府としても詳細が掴めていない間は甲越軍を逆臣にはできない。よってオフィシャルアナウンスでは上洛としているが幕臣たちの間では意見は大きく二分していた。


「ええい何を温いことを申されるのか! こんなもの討ち果たしてしまえばよいではないか」


 彼の主張も尤もであろう。実質侵攻なのは明らかである。何しろ幕府軍が撃破されたのだから。それも鎧袖一触で。むろんネガ情報は一切すべて封鎖されているけれど。


 言うは優しい。だが、


「ならば細川殿が兵を率いて御出陣召されるがよろしい」

「然様」


 然り然りのシュプレヒコールが巻き起こる。要するに室町第は震えあがっていたのである。

 そう。幕府勢は評定衆を筆頭に奉公衆のすべてが即刻の参陣を躊躇い消極姿勢を隠さなかった。


「おのれぇ恥を知れ恥をっ!」

「恥を知ればたおせるのかな」

「愚かなり。よもや京兆家に連なる細川殿が斯様な猪侍であったとは」

「京兆家とか草」

「誰だ! 某を愚弄した者は」


 議論は阿保みたいに紛糾していた。


「誰でもよかろう藤孝殿。今はそのときではござらぬ」

「惟任殿のお姿をお見掛けせぬが」

「公方様をお連れになられた」

「ちっ、またか。あの二枚舌のキンカン頭め」

「これこれ滅多なことを申されるな。三枚舌殿とご昵懇な猪侍殿の耳に届きまするぞ」


 わははは――、誰かの惟任弄りにどっと場に笑いが起こった。

 そしてまた振り出しに戻る。議論は阿保みたいに紛糾していた。

 あるいはもはや議論でさえなく単なる悪口と保身の場にすり替わっているのかもしれないが、一方ではそれはそうだろうなと同情もできた。


 京を守る守備隊は二万。そもそも室町幕府は自前の武力で防衛する設計になっていない。あくまで織田ありきの戦略布陣となっている。これまでは。

 対する甲越軍は五万の大軍勢である。しかもただの大軍ではない。あの魔王をして盆暮れの付け届けを切らさずけっして下に置かないことで知られている龍と虎の指揮官二人を要する常勝不敗の軍勢である。

 すると意気軒昂であることは想像に難くなく、誰だって向かった先が死地であろうことは容易に想像できてしまう。


「申し上げます――!」


 一報が舞い込んで以来、順次飛び込んでくる情報は回を追うごとに全容を具にしていく。

 何やら衝突は偶発的が濃厚で不味いことに幕府軍の勇み足のようであった。

 この一報を聞き届けた二条城主殿本丸謁見の間は上に下にの大騒動。というのも内心では侵攻に決まっていると高を括っていたのだろう。それが違って動揺が手に取るように伝わってくる。


「室町殿は大丈夫なのか」

「それが問題だ」

「この喫緊の事態に公方様は何をなさっておいでなのだ」

「評定衆が纏めぬから」

「惟任めぇ」


 するといよいよ会議は空中分解。議論はもはやお気持ちの表明と化していて空転し、右往左往している間にも刻一刻と迫る軍靴の気配に誰も彼もが我を見失っていく。いと憐れなり。


「義弟よ。なぜ紛れてしまっておる」

「それは居ろと申されたからやで」

「……あんなもの義昭殿の苦し紛れに捻り出した、負け惜しみの捨て台詞であろう」

「将軍さん直々の言、身共には恐れ多うてとてもとても」

「とても、何や」

「とてもはとてもや」

「お前と言うお人さんは……」


 経頼のやれやれ顔も尤もであろう。

 天彦はここにおれと申し付けられたまま謎の会議が始まってしまい逃げ遅れてしまっていた。それは定点で捉えた事実であり正義でもある。

 だが将軍義昭直々に申し付けられたのだから従うのは当然だとそこから動けない理由を堂々と言い放つ悪ショタの図は嘘だし正義ではない。だってアホみたいな顔をしているから。人を食っておちょくったような腹立つ顔をしているから。


「なあ義弟よ。しかし室町第、これでええんか」

「あかんやろ」


 室町幕府はお仕舞いです。天彦にとっては朗報、吉報でしかないけれど。


 だがやはり足利将軍家は天彦の知る将軍家だった。つまり誰も彼もが美味い汁を吸うことだけに夢中な自己中の集まり。ちょっと安心。

 例えるなら蝶の成れの果て。自分では美しいと思い込んでいる憐れな虫。どう足掻いても蝶にはけっしてなれないのに。

 ならばせめて恐れられればいいものを単体では脅威にすらなれず群れて初めて脅威となれる蟲であり、強い光と熱があればつい目先に飛び込んでしまう愚かな生物。


「義弟よ。参考までに甲越勢、山科郷より先に進軍は致すのか」

「予想でいいならお答えさん。身共の見立てでは軍を展開させたまま待機、大将格さんらだけで上洛なされるんではないさんやろかぁ」


 ならばそうなるのだろう。経頼のは呆れて頷くだけにとどめる。

 どうせ問い詰めたところで確証など取れっこない。


「ほな義理兄おにいちゃん、ぼちぼち参ろうさん」

「なんや、これから面白そうになるとこやのに」

「うん。もう飽きたん」

「義弟。お前というお人さんの為人がわかったぞ」

「それは重畳におじゃりますぅ」

「ええんか、ほんまにええのんか。麻呂が人品じんぴんを確定させるとそれが公家界の定説となるんやぞ」

「己惚れえぐっ。けれどお好きにどうぞ、なさってください」

「ほう。怖いことないんか。人の口に上った噂は勝手に独り歩きをし、その印象はときにお人さんの運命をも狂わせるんやぞ」

「はて運命、運命はて? なんやろそれ。何味なんやろ。美味しいさんやったらええのになぁ」


 天彦は虚空に箸で掬わせてぱくりと食べるジェスチャーを入れて、お得意のすっ惚けを炸裂させる。経頼は目をぱちくり。


 この自信の根拠はなんなんや、いったい……


 つぶやき頻りに首をひねるが、構わず席を立つ天彦に置いて行かれるとたまらない。ここ室町第は少なくとも敵地である。慌てて席を立ちその場を後にするのだった。




 ◇




「ふぁぁああ」


 景色はもちろん演芸ものでもスーパービューイングだった天守を後にした天彦は九月にしてはやけに雲足が速い空を見上げて大きく伸びを一つ。

 野分の前触れか。今年はまだやって来ていない。そんなことを薄ぼんやりと思っていると、


「義弟。麻呂に付き合え」

「……無関係やと申しましたん」

「何も申しておらぬが、お前にはお察しか」

「どうせどこかに連れて行って、引っ張り回して引き摺り回すつもりやろ」

「あかんか」

「ええよ」

「え。ええんか」

「なんで誘っといて吃驚したはるん。へんなお人さん」

「あ、ああ。……なるほどたった今、お前の怖さを痛感した。その天命を知るかのような閃きこそが義弟を義弟たらしめているんやな。竜楼が陣営の切り札と仰せなのもようやっと理解が及んだ」

「飴ちゃん欲しいんなら素直にゆうが上策ですよ」

「あはは、ならばそうしよ。飴ちゃんおくれ」

「あーん」

「あーん」


 飴ちゃんはあげる。いつでもニッキ飴を布教したいから。


 そんな天彦はすでに一つの結論に達していた。

 メタ思考なら思い出したとなるのだろうか。だがここはカッコよく閃きが降りてきたとしておこう。天彦がそう思っているのだからそこに合わせて。


 さて何を閃いたのか。それはずっと引っかかっていて気になっていた点がついさっき線となって繋がって粗筋が読めてきたのだ。

 切っ掛けは己の言動。天彦自身がヒントであった。大炊御門家は家門の格式・格調・血筋いずれも押しも押されもせぬ貴家である。経頼はその貴種であり第十七代当主である。

 なのに天彦は経頼にそうとうぞんざいに接している。清華家の本流当主に対する接し方ではない。それがすべての答えだった。


 なぜこうも気安く接することができるのか。たしかに天彦も貴種である。紛れもなく。だが西園寺実益には大炊御門経頼にしているような、こんな舐めた接し方はできない。絶対に。

 それはそう。先人から連綿脈々と紡がれてきた家門の格式とはそういうものだからである。


 つまり知っていたのだ。あるいは感じていたと言い換えてもいい。経頼が生粋の大清華家の貴種ではないことを。

 そう。経頼は言葉を選ばず言うなら張子の虎、厚底スニーカー、コンビニサンドイッチである。何なら天彦の方が血は尊いまである格下の系譜に連なる貴種だったのだ。


 経頼は羽林家中山氏の三子であった。目下格落ちして半家となっている天彦よりかは格上だが、血統・系譜ともに雲泥の差がある格下である。

 中山家から養子に入った経頼は当主とは言え位打ちされることは確実であり、就ける官職も権大納言が極冠である。

 ところが天彦は血統的に太政大臣になれる資格を有している。その違いはまさに天と地ほどの開きがあった。


 猶、この感覚は血筋の驕りだとか逆の蔑みとかではけっしてなく、鼻高は少しあるかもしれないが公家社会における血筋様式の中の流儀に則った正しい感覚である。

 つまりこの感覚こそが皇統の正当性へと通じる権威の正体なのだが、よって天彦がある日突然権高く厭なヤツになったとかそういう話ではけっしてない。

 天彦は善きにつけ悪しきにつけ延々ずっと天彦である。こういう不要なところだけ一貫性を貫くところなども含めて。


 そして意外なことに、この出会いは史実に則った正規ルートの展開だったのである。驚くべきことに。

 なぜなら同時にどうして東宮(阿茶局含む)が大炊御門家を推すのかの一端にも触れているからである。どうして魔王が朝廷工作の軸に中山家などを選んだのかの答えが詰まっていたからである。


 天彦はずっと不気味だったのだ。なぜ菊亭、つまり自分と経頼を引き合わせつなぎ合わせようとするのかを。あるいはひょっとして実益への悪い伏線なのではないかと心底怖れていたのである。それが違った。安堵感が解放感を呼び込んで不思議ではない。天彦は久方ぶりの全能感に酔いしれていた。全能なんてとてもおこがましく一ミリも及ばないけれど。


「……なんやその気色の悪い顔は」

「血統への文句やったら聞き流したろ」

「逆やろ。でも正常ではあるようやな」

「もうちょっと待っとき」

「……!?」


 経頼にメタ的にマテを告げて、さて。


 つまりすでに次々世代(史実での次世代天皇・後陽成天皇)皇統の伏線は始まっていて、中山氏は対内裏広報活動の成果を挙げているのだろう。さすがはぱっぱ晴季と双璧をなす宮廷の寝業師である。恐れ入る。


 故に経頼は次世代天皇の外戚(皇后の父親)となる中山親綱なかやま・ちかつなの実弟だった。つまり未来の現代史実ではこの経頼の兄の下に生まれる御子が大典侍(皇后)となるのである。


 依然としてなぜ羽林家中山氏から召し上げられた姫がどういう経緯で大典侍(後宮女房の統括者・実質の皇后)になるのかはなぞのままだが、いずれにしてもよって天彦はそのストーリーの流れの中にあったのである。


 天彦の脳内には羽林家中山氏の系図がはっきりと浮かんでいた。


 中山孝親なかやま・たかちか・後陽成天皇外戚 1513-1578


 一子、甘露寺熙長  1542(ひろなが数え28) 名家

 二子、中山親綱   1544(ちかつな数え26) 羽林家

 三子、大炊御門経頼 1555(つねより数え15) 清華家


 猶、中山三兄弟はいずれも五辻諸仲の娘を生母とする同腹の兄弟である。


 天彦はニヤリと笑い経頼に上目遣いの視線を向けて、


「経頼のぱっぱとまっま、仲良しさんやね」

「家はまあ。そういえばお前の母親は……、お悔やみ申し上げる」

「え!? 身共のまっま亡くなってるん」

「いやそれは存じぬが政略で離縁され放逐されば悔やみもする。一般的な言葉を贈ったまでなのだが」


 こいつキラキライケメンのくせに実はむちゃんこいいヤツなのかも。

 あれ、キラキライケメンて無自覚に酷いヤツばっかしなんちゃうのん。

 天彦の中には素朴な疑問と同じだけ、本当に薄ぼんやりとだが経頼への好感情が芽生えていた。


「あ、うん。身共、経頼のことなんも知らん。だから教えてんか」

「逆になんやしらん、強請られたら急に厭になってきたぞ」

「おい」


 それに気づけた天彦は経頼がやたら勿体ぶった時点で察することができたのである。経頼は天彦を自分の実兄、甘露寺熙長かんろじ・ひろなが中山親綱なかやま・ちかつなに引き合わせようと画策してくれているのだと。

 きっと経頼には二人の兄が今後間違いなく朝廷の中心人物へと駆け上がっていく確信があるのだろう。だから善意で繋げようとしてくれている。

 つまりきっとその感情は天彦の味方を増やしてくれようという善意からに違いない。そう信じていたい。ちょっと好きになっているから。延いては自分にもその利が跳ね返ってくると確信して。

 つまりこの瞬間、経頼は天彦を最高値で買ったことになるのだろう。天彦の感情とは無関係に。


「お前、身共のことどんだけ好きやねんっ!」

「さすがに引くぞ」

「むりむり、もうバレてるって」

「なんや知らん、義弟は痛くて寒いヤツやったんやな」

「哀れを誘う遠い目!?」


 経頼が奇しくも大正解を引き当てたところで、よって義理兄の兄・中山親綱は親しくしておいて絶対に損はないお相手。ファインプレーは認めざるを得ないだろう。

 お節介なイレギュラー義理兄おにいちゃんには相当かなりイラッとはさせられるが。何しろそのおかげで気づきが遅れてしまったのだから。


「弁償してもらいます」

「文脈が可怪しいぞ。さっきからずっと」

「しゃらっぷ。義理兄おにいちゃんのお兄ちゃんは中山侍従さん、そのまたお兄ちゃんは甘露寺侍従さんやったね」

「呆れるほどよく存じておるな。伏せてはおらぬが広まっている話でもないというのに」

「ほなお参りさん」

「……」

「はて。お兄ちゃん方に会わせてくれはるんと違いますのん」

「そや」


 経頼はちょっと不貞腐れた声と口調と態度で、お前にはもう何も言わん。ということを敢えて告げて牛車カブリオレを呼び寄せるのだった。


 きっとサプライズを潰されて拗ねているのだろう。案外かわいい。




 ◇




 天彦と経頼が座席取りで戸惑っていると、何やら自分たちを目掛けて近づいてくる集団の気配に気づく。


「曰く付きか」

「たぶん」

「出させるか」

「逃げるはないさん」

「お前なら誰よりも早く逃げ果せるように思うが」

「舐めるな、身共を」


 相手にもよる。


 天彦は言って下っ腹に力を込めた。たしかに相手によっては逃げもする。むしろその場面の方が多いのかも。だが向かってくる人物が誰だかわかりその選択肢は一番に消え去っていた。


 何と珍しいことに天彦の闘志には赤々とした火が灯っていた。


「菊亭、やってくれたな」

「お久、元そん」

「一字くらい略すな!」

「吠えるな元そん。弱く見えるで」

「どんだけ弱っとってもお前よりは強いからええ」

「あ゛?」

「あ?」


 息のかかる距離で睨み合う天彦と元尊意。どちらの双眸にも敵意しか読み取れない。

 還俗した元尊意だが今は二寧坂昭臣にねいざか・あきおみとして足利将軍家昵近衆を務める傍ら、近衛家の諸太夫として近衛派の外縁を纏める重要な地位にあった。要するに敵の中の敵である。


 尤も祇園社でもそうであったように還俗した今も政略一本で伸し上がろうとする実に彼らしい、小癪小憎らしい出世の仕方を訊いて天彦はつい笑ってしまっているのだが。

 そういうどこか憎めない叩き上げ頑張るマン気質なところがあるのだ元そんには。やることはえげつなすぎて可愛げの欠片もないけれど。


「で、どないしたん。元そん」

「またどでかい花火を打ち上げたのう菊亭。あれもお前の差し金やろ」

「昵近衆になった途端、お前呼ばわりか」

「ほなさん付けたろ。お前が」

「あはは、おもろ。身共との格と器の違いをまざまざと感じた恨み辛みを訊かせにきたんか。しゃーないこれも好や。訊いたろ、申すがええさん」

「まあそうや。お前の血筋には逆立ちしても適わんわ。せっかくの申し出やけど今度の機会にしとこうか」

「なあ元そん」

「元そんやめい。儂には歴とした昭臣という公方様から頂戴いたした立派な名があるんじゃい!」

「ええか元そん。お前さんとは――」

「訊かんかいっ!」


 天彦は無視してつづけた。

 お前など眼中にないという不遜な態度を前面に押し出して。


「ええか元そん。お前さんとは色々あった。今も色々したりされたりの仲やと思う。そやけど考えてみ。身共も元そんも、争う理由などひっとつもあらへんやないか」

「湧いとんか。あるやろ。しこたま。おどれ胸に手を当ててみい。祇園社や延いては寺社界に対しどれだけあくどいことやったんや」


 あった。それもしこたまらしい。だから天彦はまた無視した。

 そしてつかつかと自ら元そんに歩み寄り、手ぇ貸し。言って右手を差し出させる。そしてつづける。


「ええか元そん。こうやって握ればお人さんをぶつ拳も、こうやって開けばお人さんをよしよしと撫ぜる掌に――へぶしっ。……痛い、なんでぶつん。ぱっぱにもぶたれたことないん」

「嘘をうつけ嘘を。お前、亜将にボコられとるやないか」


 あ、うん。


 使い古された不良更生プログラミング常套句が通用しなかった。たっち。

 背後で状況が飲み込めず終始ぽかんの経頼に場を譲った。

 交渉にリアル暴力が介在すると天彦の勝負スキルは俄然用をなさなくなる。第二次性徴を控えたお利巧さんボディではバイオレンスという物理的な衝突とは相性が悪かった。負けるとはいっていないのだ、負けるとは。あくまで分が悪い勝負はしないという戦略的……、はよ代われや。


 事情は一向に飲みこめないまま、けれど経頼は激怒していた。怒れる相貌を剥き出しにして天彦のぶたれた頬をそっと撫で、


「おのれ地下人の分際で、よくも我が義弟をやってくれたな」

「あ、そんな」

「そんななんや! 名を名乗れ下郎っ」

「もしやあなた様は。絶対そうや。ひっ……、聞いてへん。西殿八座が御座すなど儂は一つも訊いてへんぞ」



 覚えとれよ、菊亭――。



 元そんは謎のモブキャラムーブをかまして退散していった。

 天彦は少し赤味の差した左頬をさすりながら、


「モブにやっつけられる身共って。ぐぬうう、考えたら考えるほど腹立ってくるん。身共だけ殴られ損なん」

「何を阿保なことを。あれはお前が煽ったからやろ。反省せえ。危なかったぞ。奴らの中には侍もおったぞ」


 侍を舐めたらあかん。

 正論に説き伏せられ更にダメージを重ねるのである。かっちーん。


「知るか。侍がなんぼのもんじゃいっ! 今からでも追って、身共がぎったんばったん――」

「やめとけ。聞いててしんどい」

「ひどい」

「酷ないやろ。そんなことより義弟、助けられたらどうするんや」

「あ、はい。おおきにさんにおじゃりますぅ」

「うん、それでええ」

「実はお凄いお人さんやったんやね。義理兄おにいちゃん」

「まあそうでもある。麻呂はこう見えて――」


 ウザっ。まぢでウザっ。


 DQNの腕自慢、戦歴自慢ほどこの世に聞き苦しい害悪はない。

 だが天彦の耳はノイズをシャットアウトできる機能がついていた。いない。


 おのれぺらぺらと。一生自慢ばっかししくさって。そや邪魔したろ。


「あの日の麻呂は――」

「ぷぷぷ、くふ。くくく」

「……なんや」

「ぷぷぷ西殿八座やって。だっさうっざ、だっるきっしょ」

「はぁ? お前の妖宰相より万倍マシやし格好ええやろ。しかも呼ばれるときは眉を顰めるがもれなく付いてくるんやぞ」

「ひどっ」


 一撃でカウンターを貰い天彦テクニカルノックダウンを食らったってよ。

 しかもカウントをきっちり10まで数えられるちゃんとしたやつ。効いてるやつで。この罵り合戦、天彦の完敗であった。


「ダレ広めたん、広めたん誰っ!」


 宮廷に限らずこの時代やたらと通名ハンドルネーム呼びを好む風習から大炊御門家屋敷が公家町西殿町北側にあることから専ら西殿八座にしでん・やくらのつかさと呼ばれていた。そして経頼に揶揄されたように天彦は妖宰相あやかしさいしょうの名で通っている。


 猶、天彦の必死の訴えのほとんどの回答は内裏後宮にあるとみて間違いないだろう。

 何しろそれら情報発信の発端は主に後宮であり後宮女房衆の間で使われる隠語が広まって世に拡散されていくので。よって世間の流行の発信も女性が中心だったようであるとかないとか。


「そんなとこでくたばってんと早う参るぞ。ふむ、何やら心身ともにしんどそうやし特別に前に乗せたろ」

「後ろやろ」

「う」


 どうやらじゃんけん勝負に勝ったのは天彦だったようである。












【文中補足・人物】

 1、竜楼 りゅうろう

 東宮の唐名、一般的にあまり浸透していない語句への言い換えの場合隠喩の意味合いが強くなる。親指を出してぱっぱと伝えるようなメタファー表現的なニュアンスとして使われる。


 2、八座

 宰相と同じく参議の唐名


 3、中山孝親(なかやま・たかちか)1513-1578

 羽林家、従一位・准大臣、神宮伝奏・加茂伝奏を歴任(いずれも極冠)


 中山三兄弟はいずれも五辻諸仲の娘を生母とする同腹の兄弟である。

 一子、甘露寺熙長  1542(ひろなが数え28) 名家

 二子、中山親綱   1544(ちかつな数え26) 羽林家

 三子、大炊御門経頼 1555(つねより数え15) 清華家


 猶、史実では天彦の異母弟である今出川季持は中山親綱の娘を正室としている。


 4、昵近衆(じっきんしゅう)

 足利将軍家に近侍する武家昵懇公家衆

















最後までお読みいただきましてありがとうございます。如何でしたか。


いや渾身……!


まぢで。すっげえ頑張った感がつよい回。めちゃくちゃ調べたし頭も捻りますた。

拝啓フォロワー様、方々。如何お過ごしでしょうか。

お褒めのお言葉を頂戴できると信じつつ、ちょっとだけ不安な感情でけれどぶんぶん尻尾を振ってお待ちしております敬具。


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