#12 小気味よい本物感出してみた
永禄十二年(1569)九月三日
召喚日当日早朝。まだ朝五つの鐘(食事刻)は鳴っていないはずだが、天彦は布団に横になりながら妙な視線を感じて目を覚ました。ぱちり。
「ちかっ」
ゼロ距離に顔があった。
天彦は憮然としてその顔を掌で押しのけ布団を剥いで起き上がる。
女は名前も知らぬ射干党の連絡係。イルダの従者だったように記憶しているがそれがなければちょっとした騒ぎになるほど距離感がバグっていた。なのに、
「ダイジョブりん。だって僕、お雪ちゃん推しだりん」
「個性詰め込みすぎっ!」
天彦とて語尾の“りん”が三河地方の方言であることは知っている。織田軍にはこのりん使いが案外多いから。だがそんなことが問題ではない。彼女は総合的に盛りすぎだった。
「イルダの従者、名を明かさんのは無礼と違うのんか。身共を推さんのんも十分な無礼やけど」
「ルカ」
「あはは、おもろ」
「ややウケ?」
「いやけっこう笑かしてもろたん。着替えるわ、着付け係を手伝うたれ」
「はぁーい」
初見は引くほど慇懃なのに馴れたら平民だいたい無礼。
戦国庶民あるあるはさて措き、全力マンキンで米顔のルカはおそらく真実を告げたのだろう。
だからこそ天彦は可笑しくて笑ってしまったのだ。可笑しいが不適当なら顔と名のギャップに萌えた。差分萌えとしておこう。
だが反面、虚偽ならさすがに笑えない。そんな胡乱な者をいくら射干の乱破者であろうと傍には置いておけないから。
つまり米顔ルカが名乗った名は霊名。いわゆる洗礼名ということなのだろう。でないとホラーだ。そうしておく。
布団から出て伸びをして桶に張られた水でさっと顔を洗い流し、日課の歯磨きをシャカシャカ済ませ支度に入る。
本日は従三位権大納言への祗候である。召喚とは言っているが実際は祗候である。祗候とは読んで字のごとく下位者の上位者へのご機嫌伺いにほかならず、質問状にも正しくそう認めてあった。即ち如何な将軍家でも清華家に連なる菊亭を召喚するのは風聞が悪いという証であり、裏を返せば義昭の朝廷権威に対する十分な忖度が予想された。
いずれにしても仕来り的に呼びつけられた格下彦は正装で向かわなければならない。それがむちゃんこダルかった。
こういう怠いことの積み重ねが天彦の中でやはり偉くならなければの思いを日増しに強くしていくので、舞台装置としてはそれなりに役目を果たしているのだが。
時は戦国室町時代。反面偉くなるということは無暗に呼びつけられる怠さがどうでもよくなるくらい悪しき副次的なオプションも装備されてしまうのでは。思ったり思わなかったり。
「……」
ぐぬぬう、お利巧さんなショタボディめぇ。もっと我がままでもええんやで。
寝間着越しでも隠せない薄い胸板。隙間から覗く浮き出たあばら骨。なのにちゃっかり帯が巻きやすい仕様のぽっこりしたお腹に視線を落として憤慨する。
といった、ほぼ日課のお約束をこなしつつ本来なら一人の方が早い。だがそれをすると着付け係が職を失い側近イツメンの中でも一番言いやすい佐吉に矢のクレームが飛んでくる。
真面目な佐吉は真摯に受け止め、板挟みにあって苦悶する。までがセットのパターンである。
天彦としても半泣きの佐吉の顔は見たくないので言われるがままされるがままでお着替えされるがまま人形役に徹するのであった。
「本日はこちらなど如何でしょうか。凛々しいお殿様にこの萌黄色はたいへん映えると思いまする」
「ほなそれで」
「はい!」
黄緑色はさすがに派手やろ。凛々しいって誰。内心の違和感には蓋をして、着替え係が三着ほど用意した選ぶテイの実際は選ばされているその内の一着の着物に指をさし選択。なんこれ。
そんな表情で本日の当番と着付けを手伝うルカに黙って身を任せる。するっと寝間着を脱いで褌一丁になってさあどうぞ。哀しくなるので我が身はけっして顧みずに。
「ほなあんたさんは帯を締めたってください」
「はぁーい。うんしょうんしょ」
「そうやない。そこはこうや」
「ほー、なるほどだりん」
馴れていないのかぎこちない帯の結び方に一抹の不安を覚えながらも、天彦は根気よく付き合ってやり着付けられていく。
「ルカ、射干で洗礼を受けたんか」
「洗礼? なにそれだりん」
「もう不穏でしかないが、一応訊く。お前さんが名乗ったんやろ」
「ああ、御姉さま方に憧れがあって。米でりん。家はじっちゃんのじっちゃんの代からずっと禅宗だりん」
「米かいっ!」
ホラーだった。切支丹ですらなかった。推察時間返さんかい!
元気よく声を張ってツッコミを入れる天彦だが禅には少し興味があった。
ルカの実家は臨済宗なのか曹洞宗なのか、果たしてどちらなのだろうとどうでもいいことを思っていると、
「殿」
「おはようさん、どないしたん」
「はっ」
是知が神妙な顔つきで何事かを仄めかし登場した。
その背後には織田の駐在員を従えて。
「大河内城落ちたな。三介さん、頑張らはったんやなぁ立派立派」
「はっ、お見事にございまする」
「なっ……!」
天彦の予言めいた推論を訊いて、片やお得意のどや顔で得意満面な是知と片や絶句し言葉を失う織田の駐在員の表情があまりにも落差がありすぎて可笑しかった。
それもそのはず。伊右衛門でさえ聞かされていない織田軍の内情を言い当てていたのだから。
むろん織田の勝利は予想できる。だがどの城を攻略しそして誰が指揮するかなど絶対にわからないはずであった。織田はそうとう布陣を隠して侵攻作戦に入ったから。
「種を明かすと身共が策を授けたん」
「あ。……得心いたしましてございまする。付け加えますれば左近衛権少将、討ち死にとの由にございまする」
「侍従具房さん、お亡くなりにならはったんやねぇ」
伊右衛門は恐怖に張り付いた表情を幾分か和らげて言う。だが完全には覚めていないのだろう。小刻みに指先を震わせている。
それは天彦の死者を追悼する言葉があまりにも単調で誠意が微塵も感じられなかったからか。それともそう言っている表情があまりにも凄惨的に見えてしまったからなのかはわからないが、伊右衛門は完全に怯えきった目をしていた。
そんなことにはまったく関心がない天彦はだが彼なりに必死だった。
なぜなら織田軍が北伊勢を攻略した。この史実にない快進撃はこの場の多くにとって朗報となる出来事であろう。だが天彦にとっては悲報となった。事この日ばかりに限っては。なんで今日なん、なんで今なん。その思いを強く抱いて。
何しろ今から向かう先は将軍家。史実では義昭、北畠仲裁に乗り出すほど北畠贔屓である。意図や思惑まではわからないが、この和解仲裁が発端となって信長との軋轢が生じてしまいやがて織田包囲網が形成される流れである。
だが籠城で粘るはずの侍従具房が逝った。北畠は滅ぶだろう。仲裁しようがないではないか。どないするんじゃおいコラボケぇ。
将軍義昭はキレ散らかす。織田陣営と目される天彦に向かって。それはもう激怒だろう。そんな日に呼び出されているのだ。天彦でなくとも厭すぎた。
だが一方で、その流れからすれば和睦説はご破算となり天彦のお友だち三介くんも北畠の猶子に入ることはないだろう。天彦がそうし向けたから。
滅ぶ家を継ぐ利はそうとうない。特に格式や権威など唾棄するほど嫌っている魔王様であれば猶更のこと。
「くふ」
ひぃっ――。
天彦の愉悦顔とワンセットな周囲の悲鳴を伴奏に天彦は思考の淵に意識を沈める。
三介残留。こればかりは天彦にとって吉報だった。織田家にはどうだかわからないとしても、というのも織田家嫡男である未来の信忠、現奇妙丸(未だ元服せず)がどうやら天彦をよく思っていないようなのだ。
二条城でもすれ違い様に、“おい狐とやら。貴様、茶筅と上手くやっているようだな”と、暗に脅しをかけられているし、藤吉郎からも書簡で直に警告されてもいた。奇妙丸様オコですよとは書かれていなかったが完全に仄めかせて。
よって保険の意味でも好き好きの意味でも織田家に三介は置いておきたかった。
今夏の北伊勢侵攻は、そんな意向含みの天彦策がまんまと嵌り炸裂した近年非常に珍しい花丸成功例だったのである。
意識を覚醒させ気をよくしていると着付けも終えていた。
「なに、ルカ」
「正直に申してもよいでりん」
「ええりんや」
「あ。バカにした」
「ちゃう。バカにはしてへん。可愛いさんやからちょっと弄っただけなんりん」
「かわいでりん?」
「うん」
「ほんとだりん」
「ほんまさんや」
「やったりん。じゃあちょっとだけお殿様も推してあげるだりん」
「あ、うん」
天彦は不満を抱えながらも全力で乗っかった。何にでも可愛いを付ければセーフみたいな風潮があれほど嫌いだったのに。一転して何にでも可愛いを付ければ凌げる説を提唱したくなっている感情に駆られるほど好きになっているではないか。
「そんなお殿様にはこれをあげるりん。はいどうぞ」
「……おいて」
書簡だった。それもまだかまだかと喉から手が出るほど欲していたやつ。
天彦はルカのおふざけを叱ることも忘れて書簡を紐解きさっと放って広げて夢中になって読み耽った。
最後まで読み終えて興奮する感情が制御できない指で書簡を折りたたみ懐に仕舞いこむ。――さあこっからは身共の戦や。
天彦は双眸険しく窓枠から表を眺める。視線のはるか先にはこれから向かう二条城の偉そうな天守が望める。
高まる鼓動と比例して傍付き用人でさえ息を飲むほどの凛々しく切り替わっていく表情に更なる喝を注入し、これでもかと戦闘意識を高めていく。
……と、
「殿、お迎えが参られましてございます」
「うん。なんや是知、その微妙な顔は」
「あ、いや……」
天彦は怪訝に思いながらも階下に降りて玄関暖簾をさっとくぐる。……と、
「いや乗る箱がオープンな牛車、お前かいっ!」
「なんや義弟、朝っぱらから一人で大きい声出して。はしたないからやめなさい」
牛車のお人が、って言う。
天彦的にはそんな気分ではなかったが、おもしろには勝てないのでちょっとだけ乗ってやることにした。おもしろは生き物。おもしろは一期一会なのである。
「果たしてそうかな」
「なんや」
「何ややないん。はしたないんはどっちさんやろ」
「阿保なことを。ほら乗りなさい。ふざけられる状況やないぞ」
「どっちが!?」
大炊御門経頼。色々と頭の痛いお人だが逃げないで来たことには一定以上の評価を下せた。何しろこの交渉、応接を間違えると首ちょんぱの刑であることは再三に亘って伝えているから。
臆さない胆力の持ち主かそれとも想像力のたりない愚か者かはこの浅い付き合いではまだわからない。
だから天彦は絶対お願い後者でありませんようにと祈りながら牛車の後部座席についた。進行方向に向かって。背を向けて乗ると酔うから。
「なぜ並ぶ。狭いではないか」
「ここが身共の定位置やから」
「これは麻呂の牛車やが。対面に座られよ」
「ほなお席を譲ってくださいませんか義理兄ちゃん」
「……酔うから厭や。いくら義弟の頼み事でも」
「お前もかいっ」
ひと悶着あって、
「出発いたせ。ゆるりとやぞ」
「急げ。約束に遅れたらかなわん。主人の面目が潰れてもええさんか」
「はい。ほな急いで参ります」
「おい待て、待たんかっ」
ごろん。引き牛に猛然と鞭が入ると車輪がじわりと転がった。
◇
謁見当日二条城主殿本丸謁見の間にて、緊迫の帳が天彦と将軍家、両者の間に降りていた。
相手方は総勢五十は下らない。それもそのはず天彦が将軍に拝謁するなどかなりレア。過去に一度じっじに連れられあったあれ一度きりのこと。
噂の狐をひと目見てやろうと早々たる顔ぶれの幕臣が列席する中、将軍義昭は以前とはまるで別人のような貫禄と余裕をその身に纏い、開口一番、大上段から言葉をぶつけた。
「おのれ物の怪、なんぞないのか」
「はて、何のことにおじゃりまするかぁ」
「惚けおって! 今ならまだ詫びの言葉とその薄汚い首、置いていくだけで差し戻しとして進ぜてやるぞ」
天彦の耳元にぼそり。義弟、短い付き合いであったな。とか何とか戯言が聞こえてくるが黙れ経頼。
普通に考えたらわかるやろ。だがその言葉さえ億劫で送れない。ここは理が非でも必勝を求められている場面だから。
天彦は静かな闘志を胸に秘め、将軍義昭の煽りに乗っかり峻烈な視線をぶつけるのだった。
「それはできません相談におじゃりますなぁ」
「ならば己に何が能う。何を詫びとするのか疾く申せ。申しておくが北畠の御家存続など余に関心はないからの」
将軍義昭は嘲笑うかのように薄い唇に愉悦を浮かべて言った。
お見通しとばかり勝ち誇っているのだろう。はは、おもろ。
舐めすぎやろ。織田も身共も。
天彦はまったく効いた素振りも見せず持ち前の可愛げのなさを前面に押しだして義昭に対峙した。
「言葉さんなんか所詮は概念。切り取って固定化するも消去するも身共の胸先三寸におじゃります。いくらさんでも虚仮になされるが、宜しいさんにあらしゃりますぅ」
「お得意の言葉遊びで煙に巻こうという魂胆か」
「然に非ず。心の観測と制御こそメタ思考への道でありそれこそが禅の境地にあらしゃりますと申したいだけにおじゃります」
「なにを小賢しいことをもうしておるのか……」
だが将軍義昭がそうであるように列席する幕臣一堂にも困惑が伝播し、まさしく煙に巻かれていた。天彦は構わず続ける。
「なぜお人さんは不幸になるのか。簡単におじゃります。幸福を求めるから。その一言に尽きまする。お人さんは己で求めて己で苦しむ。そんな愚かな生物、他におじゃりますでしょうか。そんな阿呆なお人さんを束ね導くのは果たしてどなた様が適役にあらしゃりますのんか」
「ふん。下らぬ。余に決まっておろうが」
天彦はせせら笑った。座が雑然とする中、けれどその雑音を消し去ったのは誰でもない将軍義昭だったのである。
「黙れい。おい物の怪かまわん。疾く続けよ」
「おおきにさん。では寛容さんに甘えさせてもろて。世界は物語で引っ張られていく。その真理に気づいたんは最近のことです。ならばあれやこれやと考えずに新たなメソッドで生きたいもんや。近頃はつくづく思うようになりましたん。国家などという幻想単位が成立する前でしかでけんおもしろエピソード、ぶっこんだろと思いまして」
歴史家への謎掛け言いますねん。ぷぷ意味なんてあらへんのに、可笑し。
言い切ってぽつり小さく追記。そして気が済んだのか、天彦は将軍義昭が上座の大上段で仰け反ってしまうほどの凄惨な笑みを浮かべてくつくつと込み上げてくる可笑し味をかみ殺して小さく笑う。
まるでこの世のすべてを嗤い消し飛ばすかのような得も言われぬ薄気味悪さをすっと秘めて。
「遅参、ご無礼」
と、天彦は遅れて姿を見せて最前列に鎮座した惟任に横目を流して、猶もつづける。
「ええかこれは身共からの真摯な忠告や。そこの偉そうにふんぞり返っているキンカンさんもよう御訊き――。
武家の統治は破綻する。これ絶対の定説なり。
なぜならお前さん方は阿呆の一つ覚えみたいに土地ばかりを求めるから。身の程を弁えなさい。お百姓でもあるまいし土地など住居分あれば事足ります。
為政者はもっと再現可能な論理体系を基に政治を行うべきである。つまり数学を基にした統治こそ上策である。
なぜなら統治者に芸術性など求められていないから。時代こそが人の生み出す最も偉大な芸術だから。偉いお人がゆうたはります。正当性もない、芸術性もない。そんなお武家に何ができる。結論できないQED。
苦し紛れに偉大さを求めても無駄。ええかお人さん。あんた方が偉大な輝きを放つのは回想か空想か妄想においてのみなんやで。
――以上、ご清聴おおきにさんにあらしゃりますぅ」
と言うようなことを、まるで就学前児童にでも言い聞かせる口調で言い切るのであった。当然、
「ぐぬうぅ、余を愚弄しておって! ええい、斬れ斬れ、この不埒者を斬って捨ててしまえいっ!」
こうなる。さすがに即座には切り捨てられはしないが座は一瞬で不穏に染まった。
天彦は至近から伝わる“お前何してくれとん”の視線を頬に感じつつ、さあどうしたものかとまさかの無手でもあるまいしの表情ですっ呆ける。有罪無罰の法則がきちんと作用することを切に願って。
双方共に何とも言えなく気まずい、けれど確実に抜き差しならないだろう緊迫の時間を共有していると、そこに、
「申し上げます――!」
「なんだこのような場に、いや通せ」
助かった。表情には確とそう刻んでいる将軍義昭はいち早く我に返って報せの伝令小者を招き入れる。
さすがに不味い。いずれ始末するにもこの場ではない。この場で天彦を斬れば織田との全面戦争は避けられない。そんなところだろう。将軍義昭の理性は働いているようだった。
「申せ」
「はっ、山科郷に軍勢侵攻の報、参っております」
「なに、を」
「その数五万。旗指物には毘の一字、そして風林火山でありますっ!」
なん、じゃと……。
だが伝令の口から更に届けられた報せに将軍義昭は肝をつぶした。
「槙島昭光殿、和田孝是殿、真下元種殿、ご無念。揃って率いられました部隊と共に殲滅召されお討ち死にとの由にございます。また報せによりますれば、勢いを駆った五万の軍勢はそのまま将軍様の御座すこちら二条城を目掛けて進軍中とのことにござる――」
追加で告げられた報せは酷だった。将軍義昭の脳裏には“御所巻き”の四文字が何度もカットインしていることだろう。
絶句し呆然とする将軍義昭を前に残し一礼。役目を果たした伝令は興奮気味に頬を上気させたまま座を辞した。
「はっ、よもや」
「はっ、まさか」
「そんなはずが」
「いったいなぜ」
「甲斐」
「越後までもが」
沈黙はやがて途轍もない混乱を呼び起こし、状況が飲み込めない幕臣たちを恐怖のどん底に引き摺り落とす。むろんそんな中には天彦の宿敵も含まれているのだろう。すでに姿は見えないが。くそっ見逃したん。
残念がってこっそり歯噛みする天彦だが、視線は自ずと天彦の小さな背中に集中する。
周囲から向けられる視線は明らかに天彦の動向を覗っていて、つまり彼らは臆しているのだ。
というのも彼らの多くは、やれ上意だ武家だと普段から威張り散らかしているが一皮剥けば実際は半端武家がほとんどで、血が騒ぐと勇んで吠える強者はこの場には只の一人もいなかった。天彦にとってそれはちょっとした朗報だった。
よって天彦は所信を貫く。当人はまったく関知せずの態度を貫いたまま涼しい顔で、はて何さんやろかぁ。ぽつりと小さくつぶやくのみ。
如何にも中々の役者っぷりを披露しているつもりの本人は本気を出せばこんなもんやくらいは思っていそうだが、むろん誰も信じない。
芝居の上手下手もそうだがもっと単純に、この一件に菊亭が無関係などあり得ないだろうから信じられない。それを証拠に唯一の味方であるはずの経頼でさえ信じていない。
「やったな義弟! でかしたぞ」
「声が大きい。やってませんて」
「む。やってないのか」
「はいそらもう。こんなかわいいお顔さんして、大軍勢都に招き入れるなんてそんなえげつない真似できるとお思いさんですか」
「思う。お前ならやる。普通にやる。いやむしろ面白がってやるはずや」
「即答かい! あとお返事は質問一個には一個にせえ」
「む。お前は麻呂の義弟ぞ」
「アホかお前のような凡骨の義弟など厭じゃ」
「なっ……!」
その答えがおもしろくないのかそれとも面白すぎたからなのか、経頼はわなわなと震えてしまう。
だが控えめに言ってその姿はおもしろすぎた。
天彦は沈黙も束の間、誰もが呆然愕然とする本丸天守謁見の間に、またぞろ小さなかみ殺し嗤いをくつくつと鳴り響かせるのであった。
勝ったったん。
誰に。むろん魔王に。
身共を試すはまだええさん。脅すはアカン舐めすぎやろの巻。
そう。天彦は終始一貫して将軍義昭など眼中になかった。今回にかんしてなら惟任だってもっとなかった。視野にはずっとあのビロードマント姿があった。
「くふ、ぷぷ、ふは、うふふ、あははは、くふ、あはははははは――」
可笑し味があふれ出して一生とまらない。
岐阜の背後を突いての大軍勢の出現。それもまさかの秘密裏の上洛にきっと今頃はさぞや肝を冷やしていることだろうから。
と同時に隙を見せればいつでも背後を付けると報せた。事実に気づいた信長は愛用の軍扇を握り締め「で、あるか」涼しい顔でつぶやくのだ。だが軍扇は勢い余ってへし折られているかも。奥歯も一緒くたに。岐阜城の大天守で。
「ぷぷ、藤吉郎どつき回されてるやろなぁ。知らんけど」
天彦の妄想は尽きないのだった。
「麻呂復活」
「復活はやっ」
「しかし義弟、龍と虎が率いる五万もの大軍勢。都に引き入れて何とする心算か」
「切り替えもはやっ。でもうん。どないしよ。帝へのご機嫌伺いとかどないですやろ」
「迷惑やろ。あとこっそり懐くな」
「懐くってなんじゃい! 実益が鬱陶しがった理由がわかったぞ」
「え」
まあ好きな理由もしれたけど。思うが言葉にはしてやらない意地悪。
「やっぱし義理兄ちゃん居らんと何もできひん。一緒になって考えて欲しいん」
「義弟お前、さてはとんでもない阿保やろ」
「お前もな」
いずれが阿呆でもどうだっていい。どうせ天彦はキショイのだし。だが当然後先など考えていない。
五万人分の食事と寝床は兄弟子になんとか強請るとして。
想いは常にただ一つ。天彦を突き動かす原動力はただこれだけ。
世界が終わっても色褪せない関係を築いていたい。それだけを切に願って燃料として、今日も今日とて悪巧みに励むのである。