#09 損しかない感じアホすぎて、すこ
永禄十二年(1569)八月十一日
「如何な織田さんとこのご家来やゆうても無礼やろ、放してんか」
天彦は憮然と言う。
「ご無礼は承知の上。ですがならば重心を前に置き召されるな」
「ちっ、難しい言葉さん知ったはるわ。ほんにお利巧さんなことで。これでええさん」
「はっ。ご無礼は後ほど如何様にでも罰されるがよろしいと存じます」
「信長さんの大事になさっておられるあんたさんを一体誰が罰せるん。おるんやったらお顔が見たいわ」
「それも含め戦国の習いかと。ですがなるほどならばお鏡をお持ち致しましょうか」
「あ、そう」
まあその気になれば自分は誰であろうと罰するだろう。天彦は得心した。むろんその気になるかどうかは別問題だとしても。
つまり遠回しに感情に振り回されるなと指摘されているのだ。天彦は腹立たしさと同じくらい恥ずかしさも覚えたので、この感情に従って矛を収めることにした。他に意図もありそうなので。すると、
「私の裁量でお渡しする時期は下知されておりませんでした。どうぞ」
「頂戴さん。……開封、失礼さんにあらしゃります」
天彦は使者の手前封書を掲げ、慇懃に取り扱った。
その封書には絶対に見間違えないお洒落な封蝋で止められていて、蝋には天下布武の刻印が押されていた。まんじ。
天彦は眉を顰めながらええいっ開封し書状をばさっと勢いよく投げ広げると、書面の右端にそっと目を落とした。
書状原文
雖未申付候、得今度之便啓入候、仰々大炊御門御内證条々被載書候、一々令納得候、毎篇山内伊右エ門へ申達候、京都在国故、自貴辺承之由執着存候、向後可申入候、過則宣改之候、涯分可被走回事肝要候、自責国被京候段、具付与御使小姓候、定而渕底可被申宣候、委曲期再便之時候、恐々謹言
七月吉日 信長 花押 天下布武落款
意訳し纏めると、会った時に必ず詳しいことは申し述べる。だから大炊御門家との婚約は納得せよ。盟約を足掛かりとした策意を見抜けぬ貴様ではあるまい。わかったならそのように心得よ。しかしながら当面はまだ伏せておくので併せて一切合切を公にせぬように。けっして騒ぎ立てするでないぞ。
疑問があればこの件以外の今後の大まかな動きは小姓の市若に伝えてあるからあいつから訊け。とのことであった。つまり魔王さん朝廷工作に乗り出していると読み解ける。
次に今後はこの山内伊右衛門を介しなさいとある。言い換えるなら彼を介した文しか信用しないの意と受け取れた。つまり魔王信長も情勢が極めて不穏と読んでいるのだ。
天彦はさすが野生の魔王さんと信長の勘所の良さに感心しつつ、その山内なる人物に視線を向ける。ぺこり。侍は頭を下げた。
実にうだつのあがらなそうな風体だった。まあきっと有能な肝っ玉の奥さん頼りで戦国の世を伸し上がるあの山内さんなのだろうと当たりを付けて意識を文へと戻す。
因みに天彦が史実の偉人に関心を抱かないのではない。単に山内一豊が数年後には藤吉郎の重臣となるから興味を抱けないだけであって、けっして蔑ろにしているわけではなかった。念のため。
そして問題の箇所、“涯分可被走回事肝要候”であるが……、即ちいろいろ画策するのも結構だが身の程を弁えよでないとおみゃあをボコるみゃあの意味であった。じんおわ。
嗚呼、むちゃんこキレたはるぅ。
結論、むちゃんこキレていた。
大事なことなので何度だっていう。織田信長はブチギレていたのである。
婚姻の意志は誰でもない魔王の指示だと市若は言った。飲めぬならキリ捨てると仰せだとも断言した。
この場合のキルは斬るであって切るであってあるいは伐るかもしれなかった。根伐りを含めて。
市若の言葉を補足するように代替案はない。これは天意であるぞあきらめよ。文には暗にそう認めてあったのだ。
天意とはこの場合東宮のご意志を指すのだろう。上意なら自分だろうから。だがちゃんちゃら可笑しい天意である。いくらでも恣意的に操れる意思を何が天のご意志であるか。ふざけろ氏ぬ。
しかしながら信長が天彦の窮状を予見していたことは確かである。何なら天彦を困らせ追い込むために京の撤退を決断したまであるかもしれない。……ある。
天彦は薄っすら以上に確信してしまう。史実になかった撤退のすべてが自分に対するお灸であると。
「だがしかし! それが何や。あかんもんはアカンのや」
阿呆降臨! 顕在ともいう。
「なぜ拘られるのか。懸想なさっておいでならあなた様なら如何様にでも娶る手段はお持ちのはず」
「そんなんちゃう。キモいからやめて」
「では」
「まだ幼いん」
「むろん姫御前はお若い。ですのでそれを承知で世に名が挙がるその前に、周囲を固めてしまわれようという我が殿の意にございましょう。それをあなた様ほど聡明なお方がご理解なされておられぬ、は、ず、が……、まさか、この期に及んでそれすら楽しんでおられるのか」
「ぎく。はは、あはは、ほ、ほら。あれ、物には様式ってあるやん?」
「何たる……、愚、いや聞きしに勝る突飛なお方。今私はつくづく実感してございます。奇妙丸様をして妙ちきりんとはやつのことであると言わしめた、その意味にも大いに得心いたしました次第にて」
あ、はい。
白い目とはまさにこんな目を指すのだろう。天彦に向けられる寒々しくも空々しい白い目は無数の矢となって天彦の全身を射貫いた。
だがそれも束の間、市若の表情が急変した。それまではそこに集う大勢と似たような反応を見せていた市若の呆れ顔から色味がごっそりと抜け落ちているではないか。
彼は見たのだ。ほんの一瞬、ほんとうに僅かな刹那、天彦の口角が小さく上げられていたことを。
「あなた様は、まさか……」
天彦のレスはない。なんでかなぁという惚けた表情を反応と捉えればそうなるだろう表情だけでしらばっくれる。
だが市若はすっかり断定してしまっていて“あなた様というお方は”口が渇いているのだろうかすれる声を絞り出すようにしてつぶやいた相貌には、得も言われぬ形容しがたい表情が乗っかっていた。
「あ、嗚呼……! 私はなんたる思い違いを……」
「ん? なんかあったん」
「いえ滅相もございませぬ」
「ほんならええけど」
どうにか感情と折り合いをつけたのだろう市若だが、それでも平素は細く絞られている双眸は依然として大きく見張られたまま。状態異常は明らかである。
それはともすると市若が長らく魔王の小姓として仕え培った我流の処世術なのかもしれない。
魔王に恐怖する場面など側近として仕えていればままあるだろう。想像に難くない。そして応接をしくじった者の末路も。
故に市若は恐怖心さえ超越した畏怖の感情を浮かべながらも、懸命に見える化しないよう苦心している苦悶の仕草に見えてならない。
ざわざわ。
一方、市若の反応を受ければさすがに異変に気付く菊亭の家人たちだが、異変には気付くが中身に気づけずほとんどがぽかんとする中、だがやはり算砂だけは違った。
彼だけはどこか恍惚とした表情で、天彦の惚けた横顔に熱い眼差しを向けるのだった。
むろんそんな算砂の反応はすべて茶々丸にがっちりマークされていて、茶々丸の敵意のボルテージは否が応でも跳ね上がるのだった。
「儂、どえらい場面に出くわしてしもたんと違うやろか」
かいなかいなと後付けすることも忘れた河内天満屋の子番頭、与三郎の小さなつぶやき声さえひろってしまうほど静まり返ってしまった応接室には痛いほどの静寂の帳が降りるのであった。
与三郎のキャラ道への道はまだ遠いようだが、何とも言えない気配を纏ってしまった座は一旦お開きとなった。
◇
場所を移して余人を交えず。天彦は市若の要望を聞き入れ、市若と二人きり差し向かいに対面する。茶と茶請けの菓子を間に挟んで。
むろん家来たちからは相当の抵抗はあった。とくに茶々丸などは血相を変えていつもの二倍こめかみをピキらせ異論を訴えていたほどである。
だが上意である。市若の抜き放った伝家の宝刀を前にすれば如何な野生のカリスマ細マッチョも打つ手なし。おのれ後で絶対に覚えとれ。
実に不穏な捨て台詞と引き換えにして市若は天彦とのプライベート空間をゲットするに至っていた。
「呼ばれよ」
「はい。……ずずず。美味い茶だ。これは茶請けにございますか」
「そや。知らんか、大福」
「初耳にて。これの食し方に作法はございまするか」
「強いてゆうなら手づかみでかぷ。半分目掛けてかぶりつくんや」
「ございませんようで。では馳走になりまする」
「ビビるで」
「はて……、なはっ!?」
市若は白い丸にかぶりついて天彦の予言どおりビビった。
「はむはむ、ごくん。……これは、いったい」
「美味しいさんやろ、あんこ」
「小豆を砂糖で煮ているのか。何たる美味。はっ、それはむろん言葉もないほどに。ですがこれは……瓜?」
「尾張瓜を品種改良した菊亭瓜の入った果実大福や。どや」
「果実大福……、ではもう一口。美味い!」
「そやろ、そやろ。身共も大好きなん。来週の盆に合わせて家で売り出す予定の新商品や。吉田屋本店か錦小路西堀川にある流行茶屋で食べられるで」
天彦は菊亭大福として売り出す予定だと言った。
妙案だと誰もが思う。大福などすぐに真似られて先行販売の利は薄い。だが菊亭の名を冠していればそうとうかなり真似しにくい。少なくともここ京の都に限っては。
「ふむ。菊亭大福にございまするか。たしかにこの雅なお味と菊亭様の異名とが併さればさぞや飛ぶように売れましょうな。ですが菊亭様、当家の特産を改良したなど聞き捨てなりませぬぞ。が、もう一口。……美味い」
「訊き捨てとき美味しいねんから」
「では、そのように」
「ははあっさりさんやな。ほな御代わりお召し上がり」
「おおそれは重畳にございます。ならばお言葉に甘えまして。三つほど頂戴いたしましょう」
五つ出したり。
すぐさま果実大福が持ち運ばれた。それぞれ中身の違う。
市若はあまりの美味さに震えていた。だが貪るように食い尽くした。とくに季節物でもある蜜柑大福は大そうお気に召したようだ。思わず土産を強請るほどお口が喜んだようである。
「馳走になりました。満腹で言葉もございませぬが……それはそれと致して、ご本意をお聞かせいただきましょうや。道化を演じるその訳を」
「誤魔化されてくれへんのんやね」
「私といたしましては山々なれど、殿の御意志には抗えませぬ」
「デスヨネ」
わかるぅ。
天彦は痛いほど寄り添える市若の心境を察し、それ以上強請るのをやめた。
天彦が躊躇よりの思案顔を浮かべていると市若が気を利かせてかそれとも答え合わせに気が逸ってか、いずれにしても天彦の言葉を待ち切れず一人勝手に語り始めてしまっていた。
「あなた様を縛り付ける枷。殿は当初そうお考えにございました。いや実情を存じ上げない今もそうお考えにございましょうな。……だが違った。張り巡らされたあれやこれやのすべてはあなた様の思惑通りだったのですね。菊亭様、あなた様は御自身のお立場を顧みず、人の思う印象や風聞など歯牙にもかけず、あるいはそのお命さえ擲って文字通りにすべてをかなぐり捨ててでも姉御前を御守りなさるご意志を貫き通されたのですな。……如何」
じゃあそれで。
天彦は茶をすすりながら適当を具現化させるにはこれ以上はないだろう究極の生返事で応答した。もっと短く掻い摘んだ方がウケはよろしいさんやでぇと揶揄気味に嘯いて。
むろんクソデカ感情の表裏にある応接である。つまりこのすっ呆け。言い換えるなら声を荒げて否定しているのと何ら意味は違わない。そういうこと。
相変わらず図星を突かれると芸がない。慌てふためくか、すんと感情を無にしてしまうかの2パターンしかないリアクションは如何なものかと思われるが、この場合は功を奏した。
市若の表情が見る見るうちに感動色に塗り替えられていったから。
「お点前お見事っ!」
「こわっ、なになに!? どんなテンション」
「姉御前の最適な婚姻先、いや姉御前にとっての最大の御利益を引き出すまでご自身は捨て身となり道化を演じるその御決意、御覚悟。私市若、猛烈に感動いたしその御心に触れてしまいもう後には引き返せませぬ」
「いや引き返そか。てかすぐ帰って」
「菊亭様っ! 私にも愛する姉がございまする」
「いや、知らんし」
「知ってください」
「あ、はい」
「感謝申し上げます。菊亭様のお気持ち、痛いほど痛切に切実に痛感している次第でございまするっ」
「ちかっ。ほんで言葉重複しすぎやし。あと決定的にちゃうよ。ゆうづつは妹なん。というより市若の姉御前は嫁に参らんともうええ年と違うんか」
「この不肖市若、菊亭様に一生付いて参りまする!」
「訊いて?」
話を訊かない織田のお家芸が炸裂した。
だが何てことはない。それはお得意の悪巧みでもなく、ましてや謀略などではけっしてない。ただの人読み。むろん己の目と耳と心、そして450年と少しの情報を叩き台にした人読みである。確度はかなり自信があった。
魔王なら必ずこう指せばこう指し返してくれるという絶対の信頼感からきた人読み策であったのだ。
たしかに大炊御門家なら悪くない。一時的に源氏派についてはいたが血筋はバリバリの藤原であり清華家のプリンス。故に家格も血筋も地位も何よりポジション取りが申し分ない。何しろあの時期の九条についていないだけセンスがいいとさえ思えてくる。現在の近衛にもついていないし。
やはり上策であると思えてくる。いやこれ以上ないほどの御の字であろう。目下置かれた天彦自身の位置からすれば相対的に。相手さんはいけすかないイケメンボンボン野郎だとしても。
撫子は女子。家は腹違いの弟季持が継ぐ。故にいずれ今出川を出て行かなければならない宿命を背負っている。だから嫁ぎ先には慎重を要した。
出戻りでもして夜を儚み引き籠りでもすれば事情は違うが、あの快活で活発な半身がそんな黒歴史に染まるはずもなく。つまり天彦が引き取る世界線は一生こない。だから嫁ぎ先には慎重を要した。
最も可能性の高かった後宮への出仕は避けたかった。これはぱっぱとも意見の一致を見ているところ。話し合ったわけではないが。
嫁ぐなら公家一択であった。武家は論外、降嫁は夕星のプライドが許さないだろうから見当もされていない。
だから一芝居打った。魔王の面目が立ちかつ魔王が後ろ盾にならざるを得ない伏線を張って。
同時に大炊御門経頼が織田家を後ろ盾とする今出川の姫を通常の何倍も慎重にかつ大切に扱わざるを得ないようにも策を巡らせ押し進めた。
あと職業朝廷寝業師もほんの少し信頼していた。本音を語るなら癪に障るがかなりしていた。
あいつ(ぱっぱ)なら感情はどうあれ利さえ見込めれば必ず歩調を合わせてくるに決まっている。そういった意味での信頼感は絶大だった。何より逆を張ってくる。まんまと今回も逆張りに動いた。
なにせ己の利得と御家の大事しか頭にないクソ野郎だから。違うか。やたら実の息子にマウントを取ろうとしてくる狭量極まりない老害クソ野郎の中のクソ野郎だから。言ってまだ三十路に差し掛かったばかりだけれど。
いずれにしても天彦の読み通り狙い通りに事は運んだ。
気をよくした天彦は市若に問いかけた。
「市若、いったいどこで感付いたんやろ」
「はい。感情的になられるのはいい。むしろあなた様らしいから。ですがこの数日観察していてわかりました。あなた様が主観で語られるのは可怪しいと」
「ふーん」
「ご不快ならばお詫びいたします」
「ええさんや。つづけ」
「はっ。ご家来衆の沙汰にしてもそうにございます。常に客体的評価軸をお持ちのあなた様なればこその違和感。そこに解がある以上ならばそこには必ず策意があると読み解きましてございまする」
なるほど納得。つまりこれも人読みの一種か、納得したところで改善の余地はなさそうだが、天彦にはひとつわかったことがあった。
この史実に知られぬだろう埋もれた人材市若も戦国に生きる俊英であり英傑の一人なのであると。天彦は感心しきりに思うのだった。
延いては魔王軍の人材の豊富さにも舌を巻きこれらを完璧に掌握している魔王の手腕にも脱帽させられる。しかもこの賢明な市若でさえ名もなきモブという事実に恐怖すら覚えてしまう。
更に展開すれば惟任も傑物。討ち果たすのはやはりあの策しかなかっただろうから。
信頼させて懐に入って討つ。天彦であっても完全に打倒するには思いつく手段はそれしかない。
そう考えると惟任日向守、実に合理的な手段を選んでいた。負けたからこそボロカスに罵られ叩かれているが、もし勝ち続けていれば評価はまったく違っただろう。なにせ歴史は勝者が描くとしたものだから。だからといって好きに転じることはあり得ないが。コロス。
天彦が織田家を筆頭とした偉人の凄さに頻りに感心していると、
「僭越なれど、ならば私からもお一つよろしいか」
「ほんまに一つならええさんや」
「ならばお二つ、あなた様の得はどこにございますのか」
「あるわけない。姉想いのお前さんの言葉とも思えぬ愚問やな」
「ああなんと! なるほど得心いたしました。ならば殿であっても策は見抜けぬはず。あなた様の千里眼はいったどこまで先をお見通しなさっておいでなのか」
「今は五百年先を」
「なっ」
オフィシャルで。少し盛ったけど。最後にぽつり、ナイショやでと。
そう付け加え嘯く天彦はそっと星に祈るのだった。
ゆうづつ、幸せになるんやで。
あとお兄ちゃんの出禁早急に解いてなぁ。
真っ青に煌めく快晴の青空の彼方にあろうだろうはずの宵の明星に向かって。