#08 明星と三ツ星、いずれも星の宿り哉
永禄十二年(1569)八月十日
天彦が階段に足を掛けようとしたそのとき、
「おい菊亭。上手いこと逃げたつもりか」
茶々丸が待ったをかけて立ち塞がった。
進路を妨害された天彦は憮然として目で抗議する。むろんそんな抗議が通じるなら端から通せんぼなどされていない。
それでも天彦は懲りずにチャレンジ。首根っこを掴まれ厭々する子猫のようにじたばたとして階下に降りようと試みた。
だが相手は茶々丸。天彦に抜けるはずもなく。
降参はしないが抵抗は諦めた。そしてブスっとして、
「人聞き悪いん」
「ほなちゃうんか」
「ちゃうとはゆうてへん」
意外にも会話は穏やかに進行した。あるいは二人の間では納得ずくの会話なのか。だが少なくとも天彦には茶々丸が何を論点としているのかわかっていたのだろう。あっさりと状況を受け止めると少し(かなり)高い位置にある茶々丸の目を上目遣いに覗き込む。
対する茶々丸も天彦のどこか拗ねた風な黒い瞳を真っすぐに下目使いに見つめ返した。
すると次の瞬間には天彦、茶々丸、二人の表情が引き締まった。
どちらが言いだすでもなく示し合わせるでもなく阿吽の呼吸で対決ムードが出来上がる。
二人はじっと見つめ合う。仕掛けた茶々丸は表情にやや緊張を浮かべて拳を固く握り込み、対する天彦は愛用の扇子を懐から取り出しぱちんぱちんと調子を取って受けて立つ意思を示していた。見た目には茶々丸が気圧されているようにも見えてしまうが。
この場にたまたま居合わせることになってしまった家人たちは息を潜めてじっと成り行きを見守った。
茶々丸は「菊亭政所扶として申す」ただでさえ自然体でも険しい表情に輪をかけて緊迫の度合いを高めた表情と声で言った。
「おふざけとは違う。お家の大事や、確と聞き届けい」
「ええさんや。疾く申せ」
「応。では一つ物申す。姉御前撫子はくれてやれ。市若殿から聞き及んだ。織田は撤退するとの由。この期に及んでは大炊御門家との縁、今の家には欠かせぬ伝手や」
「なんや茶々丸。猶子になったらもう公家の真似事か」
「謀やない。これはお家を守る正道の話や」
「ふん、さよか。……お雪ちゃんやないな。誰や」
「黄門や」
「あ、そう」
事実はあっさり明かされた。
おしゃべり雪之丞であっても話さない話題もある。それが撫子案件だった。危なすぎるから。フィジカル面でもメンタル面でも撫子に触れるには危うかった。
黄門。すなわち中納言とはこの京の都公家界隈では目下ただ一人、東宮別当を指す代名詞。そして東宮別当とは今出川晴季ただ一人である。中には永代別当なる特別職に就いた強運の持ち主もいるが例外は外す。世間的に別当は中納言今出川晴季一人である。
ぱっぱ晴季の名を耳にして天彦は拒絶感を露わにした。不機嫌を通り過ぎ一周回って感情を失くすほどに。
むろん撫子の件の衝撃もあるのだろうが、自分の知らない裏で大スキすぎる茶々丸と大キライすぎるぱっぱ晴季が繋がっていた衝撃の方が何倍もでかかったのだ。
コロス……?
「菊亭、前以って訊いておくが家が置かれている最悪な状況の前提すり合わせは必要か」
「いらん」
「ほな何があかんのや。家柄・条件共に大炊御門経頼は申し分ない人物やぞ。器量かて悪ないはずや。あの亜将とタメ張るほどの逸材らしいからな」
「実益とタメなんか張るかっ! ほなゆうたろ。人柄があかん。着ぐるみ全部剥いだら何もできんボンボンや。余裕の薄ら笑い浮かべているあの憎たらしい薄皮一枚剥いでみい。しょーもないクソガキが出てくるわ」
「あ?」
「一人では何もできんあかんたれや。ゆうてるん」
「お前もできんやろ。お前の方ができんやろ。お前の方が憎たらしいし」
「おい!」
「なんやちゃうんか」
「う」
「お前、政略がええとか悪いとか眠たいこと抜かす心算やったら加減せんぞ」
「む」
天彦はきっちり政略結婚がええとか悪いとか抜かしてボコられた。
いやナレ凹! ……はあかんやろ。
天彦は傷む腹をさすさす、う゛ぅ痛いんと呻きながら茶々丸の肩を借りて立ち上がった。
「作麼生、事情通の訳知り扶さん。お前さんの目ぇにはどない見えてるん」
「えらい広範囲の問いかけやな」
「ふん、そんなもんか」
「勝った気になるなよ菊亭。お前に作麼生説破で負けたことは一度もないんじゃ」
「いやあるし」
「ない。説破、……そう言えば蒲生が射干党となんか企んどるな」
げろまんじ。なんやねんこいつ。
天彦は実につまらなそうに階段に足を運んだ。
◇
平等と公正。一件似通っているように思えるがその実まったく性質の違う両者の字義を踏まえその違いを明らかにしていく。
平等は文字通り遍く等しく一律の意味。対する公正だがこちらも条件の均一化を図るという志向性では意味は似てくる。
ところがここに権利という概念がカットインしてくると突然装いをがらっと激変させてくる。
条件ひとつで公正さんはまったく平等性を失って、むしろ不公平でさえあるだろう面持ちで我らの前に降臨する。
つまり平等と公正は対極の言語。ムズい。しかしながら人の感情の機微はこのパワーワードを無視してはけっして読み解けない仕様となっている。理解度は深めなければならないだろう。郎党を纏める当主として。
よって人事考課はこの点を踏まえるに尽きた。むろんあらゆる判定で評価点が互角ならだが。
「大前提、当家は公卿家である」
天彦は大上段に構えた台詞で演説を打った。すると佐吉が傾聴と黄色い声を目一杯に張って叫ぶ。こんな演出がなくともみな注視して耳を傾けるだろうけど、天彦はその気遣いが嬉しくて頑張っちゃうのだ。おおきに佐吉。
そんな感情で天彦は周囲の傾注を意識しつつ、絵に描いたように見事なクアドルプルノックアウトしている四人を前に、これが身共の方針であると訴えるように高らかに宣言した。
「当家はいつ如何なるときも公正を旨とする。これは平等には非ず。そのことを心せよ。こたびの決闘、勝負の行方は引き分けである。だがしかし体格に恵まれぬ与六が引き分けたは明らかな加点である。よってここに公正な判断から侍所の扶は、樋口与六とする」
おお――。
小さくないどよめきが起こる中、天彦の躊躇ない決定は宣告された。
だが少なくない不満の気配も色濃く漂っている。天彦はその発生源である射干党の群れに身体ごと向けて言う。
「不満があるなら疾く去ればええ。乗っ取りたいなら受けて立ったる。そうでないなら身共が居てくれと乞うたような真似は二度とするな。不愉快や」
ざざっ。
数百名が雪崩を打つように地に平伏した。先頭を切って土下座したイルダとコンスエラなどは満身を胴震いさせるほどに恐れ戦き平伏していた。
天彦は得意がるでも勝ち誇るでもなく、不満があるならいつでも去ればええさんや。冷たく突き放すことを沙汰とするのだった。
すると万雷の拍手が巻き起こった。その盛大な祝福の手拍子はむろん天彦の沙汰への賞賛もあるが別の意味も濃くあった。
それはあからさまに勝者与六を煽っていて、主君が主君なら家来も家来。拍手一つとってみても菊亭家人の底意地の悪さを映し出す。
「各々方の賞賛の声、有難く頂戴いたす」
だが負けてなるものか。与六は痛みすぎてもはや痛覚さえバグっていそうな肉体に喝を入れ、苦悶の表情で呻きながらも起き上がりオーディエンスの煽り手拍子に応じるのだった。
天彦はにんまり。野次馬どもは更なるどよめきの声で勝者を称える。
四人の中で唯一立ち上がった与六はまさに勝者の姿に相応しく、だがだからといって這い蹲り倒れ伏せている他の三人が敗者なのかといえば絶対にそうではない。
彼らも死力を尽くして戦い抜いた戦士である。まあただのDQN侍なのだが。
天彦はそんな三人の傍に寄り、順々に気遣い労い天彦なりの賞賛の言葉をかけていく。
「且元、ようやった見とったで」
「力及ばず申し訳ございません」
「頑張ったが足らんかったん。経験を絶対視する悪い癖が出てたん。いま一歩の踏み込みが足らん。一歩及ばぬは千里及ばぬにも匹敵する哉、身共は思うがどうさんやろか」
「ぐっ。……精進いたしまする」
「氏郷。ようやった見とったで」
「面目次第もございませぬ」
「一個も目立ったとこなかったん。ああ、そう言えばあったな。射干の声援は目立っとった」
「ぐはっ」
「オイタも程々にしいや。化かし合いの寝技合戦がしたいんならいつでもお相手したるよって」
「あ、いや、これには……」
「高虎。乙」
「なっ」
オチは付いた。釘もさせた。天彦はよろつく与六に肩を貸し、うわっ。二人して絡み合うように倒れ込んだ。
ゼロ距離で交錯する視線。不思議と気まずさは感じない。記憶にある限り雪之丞以外には許したことがない距離感に、気付けば天彦の頬はこれ以上ないほどに緩んでいた。
「殿は鍛えが足りませぬな」
「ええねん。身共はそういうのでやってへんから」
「ふふ、少しずつ鍛えて参りましょう。某も付き合いまする」
「むり」
「侍所の扶は殿へ苦言を申すこと能うということで某は命を張り申した」
「扶さんには手心お頼みさんにおじゃりますぅ」
「ははは、心得ましてござる」
言って二人で立ち上がる。
周囲の目が痛い。とくに茶々丸のちゃんとせえの視線が激烈に痛い。
背筋をぴん。
「与六。頼んだで」
「はっ。何物も足らぬ某はこの剛の侍どもの手を借りて、大菊亭家をお支え守り通す所存にござる」
やはり与六は人格で他に一歩先んじていた。それが誰の目にも明らかとなりこの決闘に終止符が打たれるのであった。
その雰囲気を読み解いた天彦は内心で小さくガッツポーズを決め、
「おおきに。ほな頼んだで。――剛の者さんらぁも」
はっ!
三人の健闘を公の場で称えるのだった。
するとそれまで死んでいた且元、氏郷、高虎が、まるで息を吹き返すように機敏に身体を起こすと天彦の言葉に反応し立ち上がって声を張った。
この光景にまたぞろ中庭にやんやの大歓声が鳴り響き木霊する。
多くの家人用人が菊亭に生まれた新たな侍所扶の誕生に歓迎の大歓声を送る中。
ほう。茶々丸は驚きを隠さず感心した。
「血筋か才能か。はたまた物の怪の妖術か」
茶々丸はすでにそれが何か知っていて、正解は候補には出していない第四の候補手であると自身の中ではっきりと結論が出ているくせに、阿保みたいに強がって嘯くのだった。
◇◆◇
永禄十二年(1569)八月十一日
「ぱっぱに会いにゆきます。青侍有志のみんなさん支度はおよろしいさん」
討ち入りになんか行かせるかいっ、みな若とのさんを抑え込むんや。かかれいっ!
雪之丞の檄に煽られ近場に侍っていた家人たちが天彦の身体目掛けて飛びかかるように雪崩打つ。
多勢に無勢、でなくとも容易に抑え込まれただろう天彦はたちまち抑え込まれて身動きを封じられてしまう。だが天彦はそれでも戦意を失わず戦の支度をするんやァと感情を失くした色味の無い目で訴えを取り下げない。
ややあって天彦は若干感情を持ち直した風な口調で、参ったん。ぽつりとつぶやいた。まあいくらか真面か。判断されて解放される。
「酷い。お雪ちゃん、なんでこんな乱暴するん」
「ひどいんは果たして某なんでしょうか」
「身共が訊いたんやが」
「若とのさん。お顔どころかお声まで死んでますけど、一応聞きますね。大丈夫ですか」
「訊いて」
「こっちの用事が先です。大丈夫ですか」
「大丈夫ちゃうん。お雪ちゃん、付いてきて」
「そらいつでもどこにでもついて参りますけど、戦はしませんよ。某も若とのさんも弱弱やし。家の阿呆連中どもは強強やし」
「お雪ちゃんのわからずや! もうええ。ほな与六、付いてきてんか」
与六は静かに微笑むだけで否とも応とも答えない。
天彦が痺れを切らすその寸前、
「かいなかいな、でっしゃろかいな」
まるで出オチのような癖の強い口上で商人がカットインした。
天彦は双眸険しくその癖つよ商人を睨みつけ、その他大勢は同情寄りの目線で迎え入れた。
何しろ彼は機転を利かせ報告に上がってくれた善意の人。礼を以って遇さなければ菊亭の名が廃る。
どこか惚けた風な口調で登場したのは、大阪商人の岡本与三郎。彼こそが天彦の異常事態の元凶であった。
正確には京都商人を使ったのでは天彦にバレてしまう。バレないよう大阪商人に結納の品を発注したぱっぱ晴季が元凶なのだが、彼はその発注された側の人物であった。
「えらいお怒りさんですなぁ。天下にその名を轟かせはるあの菊亭様も存外しょーもなさんなんやろか。かいなかいな、でっしゃろかいな」
「コロス氏ね」
おいたが過ぎまするぞ。
いきなり飛びかかった天彦を見事初動でとどめてみせたのは、魔王の小姓市若であった。
【文中補足・人物】
1、岡本三郎右衛門与三郎(1560年生まれ数え10)
総資産20億両(200兆円)を築く大阪の大豪商、淀屋常安。山城国岡本荘の侍の倅だったが信長に敗れたため武士の道を諦め商売の道に進み米相場で才能を開花させた鬼才。手形取引の起源の人、大坂夏の陣では徳川を支持した。
2、星の宿り
大臣、公卿、殿上人を指す意味にもなる。よってサブタイの星の宿りは二つの意味がある多義語である。
一つはそのまま四人(明星=与六・三ツ星=且元、氏郷、高虎)はみな星座に煌めく綺羅星の意であり、もう一つは四人は天彦を天高く殿上へと押し上げる菊亭の星であるの意になる。知らんけど。そんな感じで何卒。
お読みいただきましてありがとうございます。