#05 地下水脈まで掘り下げる覚悟なんてとっく
2024.1.27 浴室での会話を補足改稿いたしました。ご確認ください。
永禄十二年(1569)七月三十日
東宮御所からの帰り、菊亭一行は汚いチビを一匹拾って拠点に戻った。
結果的に父親は一命を取り留めた。事後はどうだかわからないが預けた医師はそう請け負った。専門家に預けたのだ、信じればいい。親子は訊けば父一人子一人の行商稼業らしく行く当ても当然ない。
身寄りの有無は訊いてはいないが訊くまでもないだろう。あれば父親があれ程必死に倅を頼むと言ったりはしないだろうから。半ばうわ言で。
不幸な目に遭った人全員は当たり前だが救えない。ひょっとせずとも一人きりだって救えない。噂を聞きつけた大勢が押しかけでもしたらどうするのか。門を閉ざすしかなくなるだろう。己の無力に震えながら。
そんな思いはしたくないお互いに。だから原則誰ひとり救わないのが菊亭の大方針である。というより戦国の。
だが野良なら。イヌでもネコでも傷ついた野鳥でも野良なら拾いやすいはず。可処分所得の激増した目下、粋な京都っ子がペットを連れて歩く姿は意外に見られる光景となっている。特に武家の間では大流行の兆しだとか。
よって便乗して拾える。野良を拾ったのだからワシも拾え。言ってくる者はいないだろう。いても頭が可怪しいので雑に扱いやすくなる。
何が言いたいのかというと天彦は見たら結局手を差し伸べちゃう阿保阿保星からやって来たメンタル弱弱の雑魚なめくじ星人だから。
よって苦肉の策として、たとえ形態が何であろうとお外で拾ったものはすべて野良として扱う。それが評定衆の定めた菊亭家の流儀であった。但し善い人キャンペーンを張っている期間だけ限定の。つまりずっと。
すんすん。臭い。オニ臭い。
拾ったチビはそこらにいる野良よりも匂った。そしてなぜか天彦をまるで極悪盗賊団か誘拐犯にでも仕立てているのかオニ睨んでいて、懐く素振りは一ミクロンも見せていない。
この悪感情は天彦を取り巻く噂のせいかそれとも単純に天彦自身の適性か、いずれにせよまったく可愛げのないかつ親切のしがいのないクソガキである。
「ガキ、なんやその目ぇさんは」
「ガキやない。あんたに言われとうもない」
「あんた! 出たあんた。おいクソガキ、せめて名で呼べ」
「厭や。喰われとうない」
「がう」
「ひ」
喰われるて。
ガキとしか言いようがなかった。頑なに名前を教えないのだからそれ以外に形容できない。できる。
いずれにしてもどうやら教えると喰われると思っているらしい。最新の風説なのだろう。お狐伝説にまた悪い方の噂が上書きされているようであった。ぐすん泣けるん、……が。
このガキが金子に化けると思えば我慢もできようというもの。
天彦はいつになく忍耐強く大事な大事なキャンペーンの役に立ってもらう予定なチビちゃんのご機嫌を窺いつつ拠点へと運び届けるのであった。到着。
「ほなお雪ちゃん、頼んだで」
「はい。お任せください。参るぞ童」
「うん」
是知でも氏郷でも天彦はむろんダメ。ガキは雪之丞に預けることになった。精神年齢の近さだろうか。懐くまではいかないが雪之丞にだけは警戒心を解いていたから。
一日ぶりの陣屋前はとくにこれといった変化もなく、だが人通りがいつにも増して多い気がする。
天彦は予感の裏付けを取ろうと視線を一筋先の雑踏に向ける。うん。きっと気のせいではないだろことを確信して定宿陣屋の暖簾をくぐった。
「ただいま」
「お帰りなさい旦那様」
「あ、うん。六男、えらいお人さん多いようやけど」
「はい。みな六条河原に参りますんやろ」
「あ、やっぱし」
絶好の処刑日和。天彦には一ミリも理解できない嗜好だが室町では処刑が娯楽として認知されていた。阿保である。だがバカにはできない。
なぜなら屋台や露店商が挙って場所取りの先を争うほど多く出店される稼ぎ時となるからだ。特に首切りスプラッター系の斬首刑が人気演目とのこと。
不謹慎極まりないが現実である。あるいは教訓でもあろうか。倫理観を育む人間教育の大切さの。
嘆いたところで戦国室町の倫理観などこんなもの。割り切れないものから順にメンタルをやられて退場するしかないのである。あるいは人生そのものから。
だが目の前の丁稚は蔑んだような口調と表情で言っていた。教養があるようには思えないのできっと生まれ持ってセンスがいいのだろう。それとも感度が敏感なのか。いずれにせよ天彦がどこか気に入っている理由の一端が垣間見える場面であった。
天彦は小さく笑って、
「そうか。ご褒美に飴ちゃんやろ。あーんせえ」
「何のご褒美ですの」
「四の五のほざくな開けんかい。なんで開けへんのん。ずっとあーんの口して飴ちゃん持たされてる身共が阿保に見えるやないか。せえ」
「厭ですけど」
こんのっ……。まあそれでもやるのだが。
「おおきに菊亭さま。相変わらず芸はありませんけど飴ちゃんは美味しいです」
「あ、そう。お前ももう少ししたら古典芸という言葉を学ぶやろ。その面白味も知ることになる。……おおそや六男、茶々丸はどこにいてる」
「そちらさん、どなたさんです」
「知らんか、頭つるつるてんのいっつもこめかみがピキってるオラオラ風の御坊さん」
「ああ暴力さん。やったら湯殿ですわ」
「暴力さん! ……まあ絶妙に的を射た名づけやけども。本人の前でゆうたらあかんで。身を以ってその暴力性を思い知らされることになるから」
「はい。それはもちろんです」
「それでええ。風呂って誰が許可出したんや。あれは身共の許可ないと入れんはずやが」
「ほなお訊ねしますけど、どなたが止められますの。あの御方を」
デスヨネ。そういうこと。
六男にいってらっしゃーいとぞんざいに送り出され風呂場の有る裏手に向かった。右腕をぶんぶん振り回しながら。
◇
私費を投じて拵えた風呂である。原則、他人には使わせたくない。
いまだ様式の美しさに勝る正義を見つけ出せていない天彦だからこそ強い拘りがあったのだ。たとえば湯を浴びず湯船に浸かるのもその一つであり、天彦の中に前提としてそんなやつには使わせないという強い感情はずっとある。
だが天彦とて設置当初から狭量だったわけではない。ルールを守らない不逞の輩があまりにも多すぎて自然と感情がそうなっていったのだ。だから身共ワルクナイ。
「ん……?」
脱衣場には茶々丸の物らしき着物と、謎にもう一着あった。
天彦はそうとう胡乱に感じてしまう。なぜなら茶々丸は昔から警戒心が人一倍強く、特に裸状態即ち無防備な状態での他人との接触を極端に避けていたから。
あるいはもはや鉄則めいているほど、無防備な状態ではけっして他人を寄せ付けないという態度が習慣付いていた。
その習慣は今も健在で、少なくとも菊亭家に茶々丸の警戒心を解いた者がいることを天彦は知らない。……なのに二つ。
天彦は自分がイラついていることに気づきよけいにイラつく。果たしてこの感情が何由来の感情かわからないのでまたそれで苛々イラつく。どうやら治まりそうにない。一端諦め苛々を隠さず浴室に足を踏み入れた。
「じゃまするん」
「邪魔するんやったら帰らんかい」
「ほな帰るわ」
「何しに来たんじゃい」
「あ、ほんまや」
「阿保やろお前」
ふは、あははははは――
二人で大いに笑い合った。何度となく繰り返してきた天丼ネタ。たぶん面白いのは当人二人だけだとわかっていながら。
ほっ、いつもの茶々丸だった。ちゃうちゃう。オコやったん。
天彦は嬉し味をどうにかひた隠してるんるんと湯を浴びて丁寧に身体の汚れをごしごし落として、ぽちゃん。
「泊まりやったんか」
「怒ってるん」
「それは珍しいこともあるもんや。どれ……、笑とるやんけ」
「怒ってるん。誰や、こいつ。この風呂は身共の宝や。知らんもん入れるな」
天彦は湯気で煙って見にくいが確かに存在する人物らしき物体に指をさして問い質した。
誰何された人物は茶々丸の紹介を待たずして自ら名乗った。
「それはご無礼を。参議、御無沙汰しております」
「うわ、市若や。なんやお久しぶりさん」
「はい。このような場で申し訳ございません。ご尊顔を拝し――」
「ええのん。湯場はそういうのんちゃうし」
「はっ。ではお言葉に甘えまして」
市若だった。
市若とは魔王の小姓。それも常時傍に控える寵愛著しい側近中の側近である。
その市若がなぜ。単純に疑問に思う。それ以外にも近況諸々訊きたいことは山盛りある。だが無粋であろうこの場では。
天彦はあれやこれやを考えるのをやめ好きな湯船に身を委ねる。
真夏の湯なので長風呂はできない。数分入るともうすでに汗でびっしょり。
天彦があっついさんやなぁとつぶやく。すると珍しく茶々丸の方から話かけてきた。
「ちゃんとせえ」
「懐いなぁ。昔はようそうやって叱られた想い出あるん」
「舐めるな、儂は今この場で叱っとる」
「……湯船でゆうこと違うと思う」
「おのれは場を弁えてやったらすぐ逃げ散らかすくせに、眠たいことをほざくな阿保がっ」
「散らかすて」
「ほな逃げへんのやな」
「解釈の相違や」
「やかましい。ちゃんとせえ」
「うぃ」
おそらく財政状況。言葉を飾らず言うなら銭のことだろう。それ以外にちゃんとしないといけない部分は……、きっとないはずなので。いやあるな。
茶々丸は手堅い。一方の天彦は笊。それも底抜けの笊である。普段の生活ではどが付くほど吝嗇なのにこうと決めたときの使いっぷりたるや見事の一言に尽きた。いや阿呆も加えて二言か。
いずれにしても茶々丸の指摘はきっとそう。市若の手前具体性をぼかしてくれているだけで、感情の発露は本物である。この戦国室町での銭は命とほとんど等価だから。命を粗末にするなと叱ってくれているのだろう。この同級生お兄ちゃんは。
あるいはいつの世も銭の大事さは同じかもしれないが、少なくとも天彦ほど他人事で銭をばらまく者はいない。
天彦としては嬉し悲し痛し痒しである。茶々丸の垣間見せた身内意識が嬉しくて、反面おないからされるお説教がとても悲しい。そして銭がない現実は泣けるほど痛くて。結論さっきからずっとむちゃんこ背中が痒かった。
「ここ掻いて」
「しばく」
ぷくぷくぷく。
湯船に沈められてさて、
「どない」
「横着して大雑把な質問すな」
「わかってるくせに」
「ふん」
図星だった。それでも茶々丸の視線が痛いので言葉に従って主語述語を付け加える。
「お家とはどない」
「まあ近衛の猶子になって、親父の顔は立てたから今のところは静かなもんや」
「周りは」
「やかましいてしゃーないな」
「そやろな。でもそんな流れがあったんや。親は親か。ええのん」
「ええも悪いもないやろ。お前が嫌っとるのに」
「嫌ってはない」
「言葉尻はどうでもええ。要するに儂に戻ってほしないんやろ。ほんなら同じこっちゃ」
「……うん。ごめん」
「詫びるな。しょーもない」
「うん。おおきにさん」
「おう。それでええ」
やっぱし大好き。天彦が内心でテレテレ見惚れていると、
「菊亭、なんで家令を置かん」
「ああ、……まあ、うん」
「居らんようになったもんの背中を追うんは悪手やぞ。利口なお前のたったひとつの弱みや。直せ」
茶々丸は言外に自分を家令に据えろと訴えてきた。
他のことなら飲める。少なくとも真剣に検討しただろう。今の感情のように頭ごなしに拒絶はしない。
こればかりは絶対に飲めない相談だった。
「あかんわ」
「そうか」
「え」
「おいこら、拒否したやつがなんで驚いとんねん」
「だって」
「泣きそうな顔すな。どうせ恩人なんやろ。しょーもない」
お前はそういうヤツや。
ぽつりと付け加えられたつぶやきが天彦にとって何よりの称号だった。
「いちいち喜ぶなきしょく悪い。まあでも立場は寄越せ。いるようになる」
「あ、なんか企んでるときのやつや」
「ちゃう。企んでるボケを斬れる立場が必要なんや」
うちのもんは五月蠅いやろ。そういう建前に。
天彦は訊いた途端、頬を綻ばせてニマニマしてテレテレした。そしてカリカリピキピキしている茶々丸の顔を覗き込んだ。
「なんや、どないした」
「ぷぷぷ、家のモンやて。身共訊いたし。そっかぁ、茶々丸が御家来さんになってくれるんはこんな嬉しいさんなんやなぁ」
「ちっ、それがどないしたんじゃ。あかんムカついてきた。死んどけ」
ごんっ。
ぬおぉおおおおおおおお――。
茶々丸を弄りすぎて猛烈な拳骨を頂戴するというお約束を踏んで、
「ぐすん、痛いん」
「次にやったら粉々にすんぞ」
「粉々!? 粉々はアカンやろ」
「ほなちゃんとせえ」
「あ、うん」
「ほんで、どないするんや」
「ああ、あれか」
触れたくないから誤魔化した。だが彼我の関係では隠し果せるはずもなく。
「お前の気持ちもわかる。そやけどあれはヤバいぞ。切れるし斬れるしもうキレとる。お前には明かせんが企む発想の種類が常軌を逸しとるんや。エグい……」
天彦は算砂が好きすぎて困る。とデコって誤魔化す。だが脳裏には克明に狂信型サイコパスの文字が浮かんでいた。
だがそもそも論、戦国に名を馳せるような偉人など往々にしてどこか可怪しい。狂っているとまでは言わないが天彦の感覚的には誰も彼も常軌を逸していたのである。よって算砂だけが特別可怪しいわけではないと考えを改める。
「追放やったらあかん?」
「あかん。あれは他所に出しても絶対に祟りおる。寄越せ」
「……そっか。職は渡すけど沙汰は待ってほしいん」
「考えがあるんか」
「ない。これから考えるん」
まあなんでもええが大火傷せん前にな。
茶々丸の忠告が妙に天彦の頭にこびりついた。
「さっそくお役に立てそうですね」
妙に意味ありげな市若の言葉も。
◇
風呂上がりの汗も引いた。ロビー活動も万全である。市若はどうやらしばらく逗留するよう。ならば今は後でいいだろう。
親友相手にロビー活動も違うと思うが、感情的にはそんな感じの下拵えを済ませた天彦は、満を持して評定衆に集合を呼び掛けた。
雪之丞が東宮名誉別当に任じられたのだ。主家である菊亭もちゃんとしなきゃね。当然である。それはそういう言外の御達しでもあるのだから。でなければ十六八重表菊を下賜されるはずがない。
そう。雪之丞は(つまり天彦だが)菊紋の使用を許可されていた。
皇室から家紋を下賜されるということは何にも代えがたい名誉であった。しかも帝と東宮にしか許されない菊紋の下賜ともなれば格別のご高配。
普通なら畏れ多いと辞退するところであろう。それも含めての恩寵の証であるのだから。
だが雪之丞は普通ではなかった。ええのん、ほな頂戴します。
まぢに。大真面目に頂いてしまったのだ。なぜなら妖精王は大いに気に入り大いにお笑いになられたそうだから。こっわ。無知って最強やん。
いずれにしても雪之丞の朱雀家は十六八重表菊の使用がオフィシャルで許された。ならばこれを使わない手はない。主従揃って同じ穴の狢であった。
これまで全くレベルで皇太子のことなど脳裏になかった天彦だったが今は心中のど真ん中にその存在を据えている。
記憶を探れば案外出てくるもので。史実ではぱっとしない誠仁親王だが実務レベルでは地味だがいい仕事をしていた記録があった。
とくに朝廷に持ち込まれた訴訟に深く関与し、とある一件で魔王が帝に意見を無視されて憤っていると耳にするやただちに帝に代わって書簡を送り謝罪の弁を述べている。
また魔王が洛中に構えていた新二条城を個人的に献上されるほどの密接な関係性を築き上げていて、この世界線だけでなく史実でも昵懇だったことが知れるのだった。
為人を表す逸話として、惟任が謀反を起こしたあの一件でも誠仁親王は朕も腹を切るべきであろうかと光秀に問うたという記録がイエズス会日本年報に記されてある。
つまり世間の目だけでなく皇太子自身でも魔王と一蓮托生である御自覚があったことの証だと思われる。
天彦はなぜこうもよくしてくれるのかと戸惑っていたが納得。ならばこの世界線でも東宮は魔王と歩調を合わせる方針をとったのだろうと判断できた。
ならばこの手厚さにも理解が及ぶ。利害を勘案した上で菊亭を自陣勢力の有力な駒と捉え手厚く遇する方針を定めたのだろう。
あるいは本当にただ雪之丞を可愛がっただけならそれはそれでよい。いずれにしても理由にも納得できると整合性が計れて初めて腹落ちするのだった。
余談だが誠仁親王は阿茶局との間に13人もの御子をなしたとされている。
まさしく妖精王に相応しい逸話であろうと微笑ましく思う。妖精界の婚姻制度は知らないけれど。
ということで汗も引いたことだし評定衆に集合をかけた。雪之丞の吉事報告と併せて閃いたテイの案件を周知するために。
「殿、評定衆総勢十四名。ここに集いましてございます」
「うん。おおきにさん。ほな始めよか」
傾聴――!
自ら進んで書記官役を買って出た与六の、実に戦場映えするだろうよく通る凛とした声が天彦の私室兼応接室に響くのだった。
◇
菊亭は本日を以って家政機関を正式に置く公卿家となることが宣言された。
天彦の口から宣言されたのでオフィシャルである。
本来なら摂関家と清華家にしか許されない家政機関の設置だが、雪之丞の思わぬ出世がそれを可能としていた。半ば以上催促された形ではあるが。
家政機関は言ってしまえば小さな政府だ。職務を明確に区分するため政所、侍所、文所、納所、楽所の部署を設置して、
それぞれに扶(次官)、大・小従(三等官)、大・小書吏(四等官)を配属し、それらを家令(長官)が統括して管理する。
それらをこの評定で公表し役職を任命した。
但し雪之丞だけは無役とした。なぜなら官職には相当位という制度があり、歴とした朝廷の伝統様式として存在する。
その様式に則ると雪之丞は三位相当位上。何しろ東宮の別当なので。しかも家名に付随する永代の。たとえば足利家の征夷大将軍と同じ位置づけで。
だが天彦は四位。そうすると主君を上回ってしまうことになる。階級縦社会でもある室町ではそれはけっして許されない。よって三位相当五位東宮永代別当という官職となるため他の職には兼務できなくなってしまっていた。むろん知らされた当人は不満顔を隠さないが。
雪之丞はああ見えてごまめ扱いの次に特別扱いを嫌うのだ。きっと長らく寝食を共にしてきた誰かさんの意固地で偏執的な性質が大いに影響を及ぼしてしまっているのだと思われる。アホか逆や。
そんな反論が聞こえてきそうなものだがどうしたことか。どうもしない。
ただ単にそんなことがどうでもいいくらい喜んでじゃっているだけで。
「保険事業を行う。担当は石田佐吉。麾下に石田家一門衆を置くものといたす。佐吉、存分にその秘めた力を揮うがよいさん」
「はっ! 石田佐吉三成。殿の御期待に添いますよう全力で……、事にあたりまする。お命をおかけいたして」
佐吉は何に指名され何をやらされるのか一ミリも理解せぬままそのお命を張って寄越すのであった。
絶対に勝てる博打とは即ち保険であった。
保険事業の始まりは出荷された船がたどり着くかどうか賭けた博打が起源。よって本質的にはギャンブルである。但し胴元が120%勝利する。むろんマニュアル化された最適解を間違えないことと、保険が持つ原理的な性質が暴発しなければだが。
保険には大まかに損害保険、生命保険、傷害保険(疾病定額)の三種あるが、天彦は損害保険(通称損保)事業を選択した。
保険事業は極論、天数の法則と公平の原理さえ押さえていればシステマチックに展開できる。割と単純な商売である。そのデータを数値化し術理に落とし込むまでは大変なのだが、原理的には少なくとも株式などと比べれば、複雑さはさほどない。
よって宣言通り確かにこれなら勝率は100である。何しろ勝つとわかっているからこそ成り立つビジネスモデルなのだから。しかも少なからず社会にも貢献できてしまうという面目も立つし。
王室御用達のお墨付きまで手に入れて、これで負けるならもうこの戦国は生きていけない。潔く逝ってよし。
東宮の許可を取り付けることの心配はしていない。東宮とてこれからは足場を築くために入用になる。予算はいくらあっても困らない。問題は敵対勢力と後追いしてくるだろう各種神仏が開く座の方である。
だがそこでこの王室御用達が最高の効力を発揮するだろう。
すべてとはいわないが庶民の多くは皇室と何らかの形で繋がっていたいと思う者。とくに神格化されているこの時代の皇家では。
事業内容的にも社会福祉的要素も含まれている。いつの時代も存在意義があれば通るのだ。王道こそ最強の正義だから。
故にこの新たに立ち上げる保険事業、天彦の中では鉄板博打だったのである。すでに預かった銭の運用先にも心当たりはすでにある。まさに完璧! いっそ美しくさえあるほどだった。
「くふ、くく、こふ、くぷぷ」
ほとんど理解が落ち着かずざわつく座の評定衆たち。天彦のむふふん一攫千金。濡れ手に泡泡。アレも欲しいコレも買うたろ顔との対比、あるいは表情差分がえげつない。
それこそ温度差がありすぎて耳が云々というお馴染みのフレーズを連想させるほどに開きがあった。
「うわあ、若とのさんむちゃんこ悪い顔してはるわ。そやけど安心せえ佐吉、某の目の黒い内は悪の道には進ませへんから」
「何を畏れ多いことを申される。善きお顔をなされておられます。某は成功を確信いたした次第にござる」
「うわぁ佐吉の目はずっと腐ってんな」
「む、無礼な」
「何が“む”や。痛いやっちゃな」
「お言葉ですが植田殿こそ、う。朱雀、様には……」
「なに。なんやろ。朱雀様にはなんなんやろ。佐吉、うりうり、ほれ申してみ」
「ぽふ」
佐吉がショートしてしまう。
やめとけ!
堪らず佐吉弄りは雪之丞でも絶対許さんマンが吠えた。
「おいそこ聞こえてるん。お雪ちゃん調子乗ったら泣かすから」
「でも一遍くらいはよろしいやん。みんな名前ごときで態度変えて、なんや可笑しいんですもん」
「むちゃんこ真理突いてるけどあかんの」
「なんでですのん」
「あ。口答えした」
「ずる」
「な、それが答えや」
「へー。……いや、ぜんぜんわかりませんけど」
「あ、そう」
ほな知らん。天彦は喜ぶことに忙しかった。
むふふ、惟任しばく。ついでに近衛もボコったろ。
果たしてどう転ぶのか。捕らぬ狸の皮算用ならぬ天彦の場合何となるのか。
どうなろうとかまわないが悪巧み狐があわわとなって往復ビンタを食らわされなければよいのだが。
なにせ周囲をぐるり見渡す限りどこの次元にも菊亭の願い事を聞き届けてくれる奇特な神仏はいそうにないのだから。
そしてその神仏の窓口業務を請け負う由緒正しき団体さんとは正面切って争う流れは依然として継続中。あるいは更に激化の予感さえひしひしとさせている。魔王不在のこの京の都で。
お読みいただきありがとうございます。ほんとうにそれだけで感謝です。
さらっとですが読み直しました。相変わらず蛇足全開の駄文で泣けてきますけれど、流れ的に伝えたいことはフォローできているのでこれでいいような気もします。どうでしょうか。
読み返すといつもなんかもっと文章上手くならへんかなぁって切実に思います。こんなんですけれど、今後ともよろしくお願いいたします。