#02 閾値の最適設定、うそ松ふぁぼる
永禄十二年(1569)七月二十九日
前略、銭がない。すべての問題はそれに尽きた草々。
草が二つも生えているからといってけっして笑っているわけではない。
むしろ泣いているくらい深刻に菊亭には本当に銭がなかった。即ち天彦も素寒貧なのである。
「ぐぬぅぅぅおのれ意庵め。身共達てのお願いやのに、くそリプしか返されへん上に目を見て言い返しおったん。……さてはあいつリア充やなっ!」
「若とのさん、感情戻って!?」
雪之丞のお願いにも耳を貸さずむしろ身共は感情しかない感情の権化さんなんやでぇと鼻息の荒い麿眉彦だが。
けったクソ悪い二寧坂家のボンボンに散々いびりたおされて煽りまくられて這う這うの体で帰宅したせいでテンションが可怪しなことになっていた。
腹いせに欲しいものリストを思うまま書き殴り「これ買うて」財務担当兼会計士である吉田意庵に無理難題を吹っ掛けていたのだが、けんもほろろに突き返されて今に至る。
さす意庵、やりおる。
「ほなドカ食い気絶部立ち上げるし。お雪ちゃん買い出しに参るで。ついてくるんやっ」
「参るわけありませんやろ。なんですのんそのけったいな部署は」
「けったいなことあるかいな。伝統と格式と短時間で血糖値を急激に上昇させ気絶するように眠りにつく高度な術理を体感できる栄えある部署や」
「アホなことを。正気に戻ってください。その部署のどこに伝統と格式要素がありますの。あらへんでしょ」
「……ほんまや」
「ほんまに若とのさんは。でもわかりますよ。よほど口惜しかったんですね。某かて同じ気持ちです。よしよし」
「よしよしすなっ!」
「ほなやめます」
「え、やめんといて」
歳入のメインは香油座からの上がり27,000貫(3,240,000,000JPY/四半期ごと)と家領久御山荘から3,000貫(360,000,000JPY/年一)である。
他家からすれば立派な稼と言えるだろう。因みに朝廷からも織田家からも出仕金は出ていない。朝廷はまだしも織田家には仕官したわけではないし、織田からなど直接給金を頂戴した日にはたちまち家来扱いをされるに決まっている勘弁という理由から固辞していた。
朝廷からも似たような理由で。よって菊亭ご家来衆の彼らにも賃金は発生していない。官職・位階はいずれもオフィシャルだが常勤の出仕義務を負わない名誉官位となっている(報酬が発生していないため)。
他方歳出は人件費と居住費とそして有利子負債、そして謎の雑費が占めていて、収入はばちくそ多いのだがそれにしたって賄えていない。有利子負債があまりにも多すぎて。謎の雑費も侮れないが。
借財の大部分八割方は信濃路で拵えたもの。残り二割は織田との喧嘩で。いずれもメインバンクである吉田屋からの借り入れなので喫緊性はまったくない。むろん無利子。あっても微々たるもの問題はない。
だが問題はその金主である吉田屋店主の了以に話せていない筋の帳簿上十割を超えた伏された中身にあった。吉田屋には言えないのだ。それは記載もできない。
という流れからうそ松になるしかなく、菊亭は有利子負債があることであまりにその額が膨れ上がりすぎていて内情は火の車、どころかほとんど破綻寸前であった。
なぜ明かせないのかは兄弟子が優しすぎるからとしておこう。天彦にも家防の観点から話せない筋の借金はある。
「くそりぷなるものが何かは存じ上げません。ですがどうせ善からぬこと。ならばこちらをご覧になられてもまだ欲しいだ足らぬだと仰せになられまするのか」
「ぐう」
天彦はオチ的にぐうの音を出したところで意庵にぺこりと謝罪する。
天彦の謝意を目にしてあたふたと、そんなつもりではなかったと急に我に返って大慌てし始める意庵かわいい。は、さて措おいて。さすがは兄弟子の実弟である。職務に関してはまったくの妥協知らず。実に頼れるスーパー会計主任であった。
いずれにしてもざっとした歳入と歳出とを比較してみると一目瞭然。菊亭の財政状況は状況云々を語る以前に愚かしいほど破綻していた。
「意庵。当家は銭儲けをせなあかん。御蔵が空なん」
「然様にございまする。某の能力不足を謹んでお詫びいたしまする。ですが兄上のお力を借りれぬとあればそう容易くはござりませぬぞ」
「うん、知ってるん」
吉田屋もかなりきつい状態であった。むろん天彦の好き勝手のせいでだが。
与七改め了以のことなので必ず帳尻は合わせてくるのだろうけど、それにしたって頼りすぎた。
越後遠征の一連のアレコレで動いた銭は自治都市堺会合衆の提出する昨年度における年度会計(貿易額)をおそらく匹敵、あるいは超えてしまっている。収支差額ではなく貿易額である。恐ろしすぎた氏ぬ。
天彦は考え込むとあまりにもおぞましいのと申し訳なさすぎるのとで思考を逸らすことにした。意庵が目頭に心苦しさを湛えるほど大袈裟に頭を振って。
「あ、いや。殿をやり込める考えなど毛頭なく――」
「それはどうでもええさんや。意庵、何が銭を生んでくれるやろ。考えよか」
「はっ。では世情に明るい勘八郎も呼んで参りまする」
「知恵者か。それはええさん、そうしたって」
「はっ、然らばしばし御前失礼仕りまする」
「急がんでええけど巻でなぁ」
意庵が従弟の勘八郎を呼びに席を外している間、天彦は自分がいったい何ができるのか。真剣に分析することにした。
のだが、
「射干技巧特戦隊にございます」
髪色も虹彩も色味あざやかな色彩をした青年ちょっと前年代の五人組が姿を見せた。
射干党秘蔵っ子かどうかは意見の大いに分かれる彼らだが、紛れもなく菊亭の誇る科学技術開発集団である射干技巧特戦隊(通称ギーク)の面々だった。
揃って天彦の目には嫉妬も馬鹿らしい超絶イケメンだがこの時代の美醜観点からは残念ブサメンであるラテン系ミックスハーフたちなのだが、彼らは揃いも揃って美醜以前にそもそも残念男子だった。
戦国室町なのでサブカル系男子がモテないとまでは明言しない。だが武にも銭にも出世にも関心がない彼らギークたちは、あの各方面に水際立った存在感を解き放つ射干党ですらハッキリと持て余すほどのキワモノであった。
むろん逸材には間違いないのだがあまりにも際立ちすぎてその突飛さの粗ばかりが目についたのだ。
そう。彼らは科学に憑りつかれたサブカル男子。言葉を選ばず言うなら狂っていた。科学技術(主に化け学)の探求に。虫すぎて蟲になってしまっていた。スキを己の思考で蟲毒化して。
そして何より彼らが際立って敬遠される最大の理由は、彼らは彼らの維持にオニ銭を必要としたのである。そう。彼らこそ菊亭謎の雑費支出の元凶だったのである。
天彦でさえ稟議書への決済印を押すのに躊躇して震えてなかなか押せないほどの銭食い虫、いや蟲だったのだ。控え目にいって世間受けするはずがない。
同類を憐れんでいると何でか知らん安心するん。
思ったわけではないだろうが天彦は言ったのも同然のマウント笑顔で歓迎の意を表明して、過去事例に照らし合わせ難色を示す護衛の態度も気にせずに、実に好意的にこっちおいでと手招きして至近に呼び寄せる。
「どないしたん。珍しい深刻なお顔さんして」
「はい。殿の叡智を拝借したく罷りこしましてございます」
「何があったん」
彼らのことはかなりスキ。だがそれはそれ。彼らはまぢにヤバいのだ。天彦は経験則を踏まえ慎重に問いかけた。
天彦×射干党ギーク=混ぜるな危険。は菊亭の第一標語になりつつある。何しろ織田との一戦と越後遠征で厭というほど家中は思い知ったのだから。そのあまりの危険性を。
「はい。十七棟全壊させてしまいました」
「冒頭から不穏! いや待て。喜んでツッコミ入れてる場合ちごた」
「はい。喜ぶにはまだ早いです。どうしても衝撃感度を緩められず低速爆発を起こしてしまいまする」
「おい。待てと申したぞ」
「ですので三日お待ち申し上げておりました。ですが殿、朗報ですよ。エタノール発酵させる際に亜硫酸ナトリウムを加えることでグリセリンが発生することを発見したのです! ……したまではよかったのですが」
おまっ、いやニトロっ!
ご要望のあった生産ラインには漕ぎ付けましたが何か。ではなくて。
「なんてことを。誰が頼んだん。身共はゆうたよね。可燃性の高い(物理)開発はアカン控えるようにと口を酸っぱくしてゆうたよね!」
天彦は絶叫した。だがやはり菊亭の誇るギークだった。
「異なことを仰せになる。単なるケミストリーをフィジカルケミストリーとして昇華させこの世に顕現なされたのは殿ではございませんか」
「ほんとそれ。やれやれこれだから殿さまは」
「毎度毎度この手順踏まされるのダルくない。科学っぽくないんだよなぁ」
「残当、だってあれ絶対に天才マウント取ってんだもん」
「ぐぬぅぅ、だとしても拙者は負けぬ! はっ……!? いやあるいは我らの本気度をお試しなのやも」
はははおもろ。合体。はいダメぇ――! ゆうてる場合か。こんなん相手にしてられん氏ぬ。
たった一滴で世界を震え上がらせる。ちゃうねん。世界が思い知る前にまず身共が思い知らされ震え上がらされるん。ほんまやめてもらっていいですか。
教室の隅っこにいるキャラ四人は菊亭には多すぎるしキモすぎるだろうと思っていたが、教室の真ん中を独占する陽キャどもがまさかの研究室籠りきり男子だった方がキモコワすぎた件。まさかの思い知らされに悶絶する。
「さあ殿。出番にございますぞ」
うそーん。
五人は口を揃えて天彦の出番を強請った。当然の顔で。氏ぬ。
だが放置など危なっかしくてとてもできない。しかし時間もない。射干党の住まう西院地区に向かえば100%泊りになる。だってむちゃんこおもろいから。ここはぐっとこらえて自粛の一字。いや二字か。
「かきかき。ほいこれ」
「……?」
天彦の書付が回される。待って。え。え。え。えぇ。
ややあって、ぬおぉぉおおおおおおおおおおおおおお――!
大絶叫が私室兼応接室に轟くのであった。
天彦が手渡したのはNHO₃/H₂SO₄→に代表されるいくつかの合成式。
と、そして主に彼らが低速爆発に苦しめられ衝撃感度の定着に難航しているニトログリセリンのニトロゲル化の化合式であった。
天彦は専門知識こそ乏しいものの教養のレンジはかなり手広くやっていた。
◇
「殿、連れて参りました」
「お呼びと訊き馳せ参じましてございます」
「おおきにさん。実はな――」
勘八郎が参ったのでおっつけ菊亭財務健全化企画緊急ミーティングが開催されることとなった。この面子では会話が固い。周囲を見渡す。
「佐吉ぃ、与六も」
「はっ、石田佐吉ここにおりまする」
「何なりとお申し付けくだされ」
吉田孫次郎意庵、岡村勘八郎、そして佐吉と与六を加えて座組完了。
天彦はうんうん満足げに頷いて、
「佐吉、お役目なくて暇やったやろ。お仕事あげよ」
「是非とも!」
座の座長に佐吉を任命し好きに任せることにした。
佐吉は平民出身で尚且つ無位無官。この面子での明らかに格下である。
念のためにと各々じっくりと表情を覗うも異論反論の色はない。それどころか微笑ましげ。うむ善き哉。
これも佐吉の普段からの行いのたまものであろう。天彦は胸を撫で下ろし、
「期限は三日。報告書を楽しみに待ってるん」
「はっ! 鋭意専心一所懸命に務めまする」
おおすごい。佐吉のまぢ度が四字熟語一個分上がってる。
でもそれ意味の重複やでぇ。
アホなことを言いながら天彦は自室兼応接室を後にした。お雪ちゃん是知参るで。
◇
雪之丞は心の拠りどころとして。是知は伸びきった天狗の鼻と日に日に粗が目立つ権高さにケレンをかけるために連れ出した。
目下菊亭は継続していい人キャンペーン中であり、しかもそこに生き残りをかけていい人ぶらなければならない条件が加算されている。
副題を付けるなら八面玲瓏の巻となるのだろうか。即ち誰とでも円満かつ巧妙に付き合わなければならなくなった。たとえ不信感やわだかまりがあろうとも。
生き残っていくためには何が何でも実践しなければならいため、必然頭を下げる頻度も上がる。それを言葉ではなく態度で示そうという算段であった。
「タイトルコール! はい大きく息を吸い込んで」
「若とのさん、さすがに恥ずかしいんですが」
「殿!?」
ちっ、ノリの悪い。知るか、せえ。
「八面玲瓏の巻! はい、そこにお二人さん。身共につづくん」
「八面、れいろうの巻……? なんですのん」
「八面玲瓏。心中にわだかまりなく清らかに澄み切っていることにござる」
さすがにやってはくれないか。天彦は仕方なく諦めうんと頷く。是知も得意満面。だが雪之丞が不満顔を浮かべたことで雲行きが怪しくなった。
「ほえ。さすがは是知。博識さんやなぁ。要らんことはよう知っとる」
「大楽殿。某も今や歴とした貴族にござる。正しく式部大丞とお呼び下さらねば下位の者に示しがつき申さん」
「貴族も安うなったもんや」
「己を見返しての言にございますな。納得です」
「いいや棚に上げての弁や。お前が安いとそう申したん」
「何にを!」
「ちぇんじで」
「代わってほしいのは某にござる! 如何な上役植田様とてこれ以上申されるなら聞き捨てなりませぬぞ」
「ほな捨てんかったらええやろ。お前、最近目につくぞ。鼻か。あれ?」
「ふん愚かな。そんな例え説教もろくにできん浅学の御仁に、博識たる某が誹られるいわれはござらん」
「なんやとぉ。若とのさぁんこいつこんなん言いよるんです。もうやってられへん。ちぇんじしたってんか、むきぃ」
こめかみをピキらせて怒るムキ之丞はかつて天彦が乱発していた不満表明ワードを告げて天彦に仲裁という名の救いを求めた。
だが原則家来どうしの会話には口を挟まない方針の天彦として少し困る。……はずなのだが今回は介入を即決した。もちろん雪之丞贔屓もあるが是知は最近ずっと心配だった。
「是知。お外ではかまへん。そやけど内々に対してはあんまし尖ったらんとき」
「よいですか殿! お言葉ですが殿は――」
あ、はい。……じんおわ。
千倍の口答えで返ってきたので早々に白旗を上げる。柄にもないことはするものではないという教訓を胸に説教され中ずっと脳内で、ゆっくりレイムですマリサだぜのテキスト読み上げ声真似をしてやりすごすのであった。
「気は済んだか。ほな参るん」
「どこへ参りますん」
「日課さんや」
「ああ」
「嗚呼」
片や雪之丞は同情的に苦い表情を浮かべ、他方是知はうんざり感情を隠さず表情を曇らせた。
日課とは実益下向が決まって以来欠かさないと定めた関係各位へのご挨拶周りのことであった。天彦は寝る間も惜しんで作成した相関関係リストの重要度順に従って本日の目的先へと向かうのだった。
着いた。
◇
一件目終了。
「なんであんなこと言わはるんやろ。某、黙って訊いてられへんかったです」
「ぐぬぅ許、せん。大炊御門家が何するものぞ」
何するも何も清華家やからそこそこやぞ。
天彦の内心はだが言葉にはされなかった。あまりに二人が感情的になっていたから。
雪之丞は内面で静かに怒り、是知は感情をそのまま表面化させて激怒した。
天下の趨勢はいざ知らずここ京の趨勢は明確だった。朝廷の権威と室町幕府の威信はものの見事にマッチしていてもはや誰かさんの思惑通り。
だから天彦には二人の態度が何を今更感が強い。あまり怒っていると阿呆に見えるからやめて欲しいのも少しある。
それとは別に実感したこともあった。
経済は百年時計の針を進めているがやはり時代は百年遡行している。足利将軍家が朝廷の信任を得るなどどう考えても天彦の手に余る想定外に過ぎるのだった。
そんな通りなので参った先の公卿さん家では散々だった。目下の趨勢を如実に表す不敬極まりない無礼な応接だったのだが、それも尤もな話である。
この足利将軍家全盛の状況に真正面から立ち向かえる人材の最右翼であろう天彦ですら半分尻尾を丸めているくらいなのだから。柴イヌ眉彦だけに。
「お雪ちゃんも剃ろか。今日剃ろ、ほら帰るで」
「アホなことを。厭ですからね、何があろうとぜったいに」
「時代は上げ眉やとゆうたはったよ」
「どなたさんが」
「……みつのぶ? そや光宣や!」
「あ。いま絶対に吐いたらアカン嘘つかはった。だってぜんぜん会えたはりませんやん」
「ほな別人さんやったん」
「なんでそんなご自分が哀しくなるしょーもないだけの嘘をつかはるんですか」
「友だちおらんのや! これでええんかっ」
「はい。それでええですよ」
「おいコラ。宣戦布告のつもりやったらとことんやったんぞ」
「泣くくせに」
「泣くかっ!」
戦争どころか平和かな。主従はいつも平和である。腹立つ以外は。
いずれにしても関係先挨拶回り営業は天彦なりの手応えあり。想定の範囲であった。
「そや是知、宿禰の姿を見んが知らんか」
「そう言えば。……はい。申し訳ござりませぬ。某は承知しておりませぬ」
「お雪ちゃんは、知らんか」
「知ってますけどそんな決めつけをする若とのさんには教えたりません」
「ほんまかな」
「ほ、ほんまです!」
ゆーとりますけど、まあ知らんな。可愛いからええさんや。
そのタイミングで氏郷と目が合いそっと二人で小さく笑う。
さて財政立て直し班はどうなっていることやら。無理な注文を押し付けたかと今になって少し心苦しく思う天彦だが、それはさて措き。
「あの男女は夫婦やない」
「なんでわかりますん」
「勘や」
「あはは、あてずっぽうですやん。ほな某も。あの男女は親子です」
「ちゃう」
「え」
「あれは店主、いや着物問屋の番頭と丁稚や」
「またまた。風呂敷などどこにもぶら下げてませんやろ」
「見るんや心の目ぇさんで」
「また嘘や」
「ほう、おもろい。ほな賭けるか」
「……やめときます。若とのさんの勘、妙に当たるときあるから」
「やっぱしお雪ちゃんは賢いな。博打はしたらアカンで。負ける博打は特にアカン」
「勝てばええんですか」
「場合によっては鉄板勝負もあるしな」
「ズルのやつですね! まったく若とのさんは」
「ええかアカンよ」
「はいはい。ずっと博打しっ放しのお人さんからゆわれても納得はできませんよって」
「あはは、それもそう。身共は人さんを説くような者やない。是知もな、邪魔にならん程度に覚えといて」
「はっいいえ。常に確と肝に銘じておりまする」
「さよか」
勘と言っているがそれは違う。幸か不幸か天彦は洞察力には自信があった。そして根気強くもある。即ち観測者としての素養に長けているのである。
むろん観測者としての確かな知見など持っていない。専門知識だってほとんどない。
だが本質を鋭く見抜き抽出したそれら事象からデータを拾い出し数値化し置き換え、データとして欠落した数値を推論で埋めていく作業は大の好物。仮説を立てて検証する途轍もなく地味な作業は天彦の得意とする十八番であった。
「問題は銭がないこと。これに尽きる……」
身共が阿呆なのも是知が生意気なのも雪之丞がかわいいのんもぜんぶ。お家にお銭がないからなんやでぇ。とアホなことを言いながら内心ではかなりまぢ。
よって稼がなければならないが無駄な資金は掛けられない。無駄も何もほとんどまったく掛けられない。これは菊亭に課せられた枷であり一丁目一番地に君臨する大前提絶対条件である。
ならばどうする。選択肢はそうとうかぎられてくる。だからといって安易な商売に手を染めると座と揉め首を絞めかねない。すると方々に張り巡らされた幕府御用達案件も掻い潜っていかなければならず、するとつまり既存の商売の仕様変更商売はもちろん、奨励的な競合案件さえ可能性から消去することを視野にいれなければならないだろう。詰み。
「うーんキビぃ。……身共って何なんやろ」
「若とのさんは若とのさんですやん。また阿呆にならはって」
「これ大楽殿、無礼が過ぎまするぞ」
「ええのん。この状態に入った若とのさんなんか何ゆうても訊いたはらへんから」
「噂には聞き申すが本当にござるか」
「ほんまほんま。見とき。若とのさんのあほぼけなすび」
ややあって、
「株券発行するか。ギークどもがエタノール発酵しよったことさんやし」
と、雪之丞の見立て通り見当違いの答えで応じた。
「な?」
「なんと」
むろん内容が理解できるレベルで聞こえてはいるが相手にしないだけ。思考に没頭しすぎるあまり会話に割けるキャパがないともいう。
己は何だ。貴種であり貴族である。そして貴族レイヤーの上位に君臨する公卿である。紐解けば権威の象徴。……象徴?
天彦の脳裏に一瞬光明が差し込んだ気がした。そこにヒントを見た気がしたのだ。素晴らしいかどうかはわからない。だからこそ天彦はじっくりことこと煮込むように閃きの源泉を突き詰めていく。
権威とは偉ぶるだけでなく人々に畏怖を感じさせるもの。そういう性質の概念である。それは即ち言い換えるならレガシーでありブランドと言えないだろうか。言える。絶対にそう。
実際古い名門貴家は複数の稼ぎ口を持っている。そのほとんどが名前貸し。聞こえが悪いならみかじめ料。もっと悪くなってしまったがいずれにせよ顔と名前と血筋で商売をしているのである。やはりブランド力に他ならない。
それらが成立しているのも不思議とそう望まれているから。人は合理性のみには生きていないことの何よりの証であろう。
即ち名門貴家とは訴求力、あるいは購買意欲に訴えかける宣伝力にこそ優位性を発揮する人種なのではないだろうか。あるいは本領を発揮するのではないだろうか。
「結論、するん」
そう考えるとちょっとだけ嬉しくなった。天彦はその感情のままに仮説を立てた。
むふふん。身共、貴族自身は気付かない可能性に気づいてしまった。とか何とか嘯いて、余計な考えを削ぎ落していく作業に腐心する。何しろ貴族は自身が民草と蔑む存在が銭を生み出す根源だなどと夢にも思っていないだろうから。
彼らが平民を視界の端に追いやっているかぎりその有用性には一生かかっても気付けない。ボトルネックは彼ら貴族自身であったのだ。
「メモ帳おくれ」
「はっこちらに」
「ん」
すらすらすたと書き認める。
気付いたはいいが手立てがない。なにせ菊亭では何を売るにもするにも悪評が邪魔をすること請け負いである。すると代わる名が必要となるのだがぱっぱ晴季の御座す今出川家には氏んでも頼りたくはない。
一番打ってつけの人物は家ごと払ってもういない。淋しいん。ならば格的にも茶々丸だが近衛など論外以ての外。どないしよ。
「おお、綺麗さんやぁ」
「ほえーむちゃんこきれいですね」
気づけば辺りは一面夕焼けの茜色に染まっていた。雪之丞と二人並んで阿保面で夕日を眺める。悩みなど吹き飛ぶほどロマンチックで美しいその光景に溶け込むように。
だが西日は強烈だった。余力で差し込む光量でさえまだじりじりと頬を焦がす威勢は顕在であった。だがそれでもいい。このときばかりはそれさえも妙に心地よく感じてしまう。
この感情が何かは天彦にはわからない。だが良いもの。それだけわかればこの感情の説明には十分だった。
「平和やなぁ」
「はい平和です」
天彦が言うと雪之丞が答えるを何度か繰り返しつつ一行は、天彦に倣い夕映えに染まる町並みに見入りしばし足を止めているとその夕日を背に夕日に照らされて数名の明らかに身形の正しい人物が数名、明らかに天彦たちが目当てだろう雰囲気を醸して直進してくるではないか。
「殿」
「わかってる」
「ご注意を」
「うん。頼んだで」
「お任せあれ。おい者ども」
「はっ、抜かりござらん」
不穏か。また不穏なんか。ん……? だが天彦の当たる方の予感は不穏をまるで感じない。
注視するまでもなく彼らは揃いも揃ってお上品すぎた。足取りもお世辞にも軽やかとは言い難く歩きなれていないことが明らか。そして注視してみれば納得。肝心要の武威とは対極にある無手の装いなお人さんたちであったのだ。
この物騒なご時世にかなり不用心である。そんな連中は水色桔梗が睨みを利かす洛外であっても限られる。そう。つまり彼らは公家である。
それでもけっして緩めない。氏郷を筆頭に護衛班が警戒感を高める中、
「ようやっと見つけた。ずいぶんお探ししておりました。参議藤原天彦さんであらしゃりますな」
「はい。そう仰せの其方様は」
「麿などどうでもええさんや。東宮様がお呼びにおじゃります。疾く馳せ参じますよう厳に申し付けいたしますぅ」
「この足でですか」
「解釈の余地なきようそう申しつけおじゃりましたが」
「あ、はい」
奇しくも貴族の頂点にご君臨なされる東宮こと誠仁皇太子殿下からの召喚であった。
「また何かやらかしましたんやろ。もうええ加減にしてくださいよ」
「おい」
お雪ちゃん。お前さんだけはやれやれ顔したらアカンねんで。
言いながら天彦は確かなフォローの風を頬に感じとり、果たしていつぶりだろうルンルン気分で東宮からの遣いの後について行くのであった。
最後までお読みいただきましてありがとうございます。誤字報告、まぢにもの凄い達人がおられて大助かりですありがとうございます。
さてこの新編でようやく少しはホームドラマっぽくなりそうです。但し公家っぽさからは遠ざかっていく気がしてなりませんけれど(泣)。味ということでご勘弁ください。
何やら天候不穏な様子です。作品フォロワーの皆様におかれましてはとくに移動には気を付けてください。バイバイキン。