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雅楽伝奏、の家の人  作者: 喜楽もこ
六章 天衣無縫の章
112/314

#15 自重しなければどれだけやれるか見せてやんよ

 



 永禄十二年(1569)七月二十五日






 九条なき後、朝廷出仕貴族を纏めるのは関白に返り咲いた摂関家筆頭近衛家と清華家筆頭大西園寺家の二家である。

 いずれも家格はもちろん人物・実績共に申し分なく、目下この二家が二大派閥の領袖として朝廷をけん引していくと内外に広く認識されていた。だが……、


「勅である。控えおろう」

「はっ、謹んで拝聴いたしまする」

「清華家西園寺藤原朝臣実益、本日をもって貴卿の位階没収とし並びに近衛中将の任を解きお役御免と致すもの哉」

「っ――、臣実益、謹んで勅命拝受いたしまする」

「ふん、そうしい」

「……なにを、おのれ」


 深く首を垂れる西園寺一門衆の前で告げられた事実はどうでもよかった。勅使の不遜な態度が権高い実益の逆鱗に触れてしまい激昂させた。


「ひっ、ま、麻呂は勅使であるぞよ」

「知るか、死んどけ」

「ひゃあ――、助けてたもれぇ」


 斬れば勅使は死んだかもしれないが西園寺家も死んでしまう。さすがに一門総出で止めに入ったのだろうけど、こういった騒動があったのである。


 こうして朝廷を二分していた片方の大勢力領袖が帝の勅勘を被ってしまい出仕の任を解かれてしまう。謹慎ならまだしも事実上の洛中追放刑に処されるという厳罰付きで。

 公家にとって失官失職も堪えるがそれ以上に洛中追放は相当堪える沙汰である。普通ならば。

 だが西園寺家の俊英は一般的なモデルケース公卿ではない。温室では育ってきたかもしれないが心根と志が男なのである。むろん極めてサンズイ辺寄りの相当かなり武辺に寄った。彼も戦国における不世出の英傑の一人であった。


「はっはっは。麿、龍が如く天を飛翔せん。さっそく子龍に教えたろ」


 ここに野生の実益が爆誕した。言葉を選べばここに戦国大名が誕生した。となるのだろうがパッケージが別なだけで中身はまったく同じである。

 無位無官。しかも洛中追放の実益を縛りつける道理がなくなってしまって泣くのはイツメン側近衆とむろん麿眉彦である。柴犬彦も泣くだろう。わんわんきゃんきゃん。

 天彦や彼らばかりでなくこの西園寺を旗印とする巨大一門がギャンギャンに泣かされること請け負いの一大事態は内外に激震を走らせることになるだろう。

 注目度の高さの証に、九州大友家がこの一報を耳にしたのは勅令発動の当日陽が沈むより先であったとかなかったとか。いずれにしても一報が京都中を駆けめぐるのにそう大した時はかからなかった。


 むろんそんな足の速い報である。天彦の許へはいの一番に届いていた。それは出仕前、まだ位袍を着つけてもいない起き抜けすぐの朝飯前のことだった。


 上げ眉にして以来ロクなことがないのである。眉、早よ。




 ◇◆◇




「実益おいって! ……でもやりおる」


 菊亭にも早々に一報が舞い込んでいた。無礼極まりない勅使の言にも震えながら耐えたとか。……ほんまかな。まあ盛ったやろ。ちょっとおもろい。


 大いに動揺すると思われた天彦だったが、その報せを目にしても特別な動揺は見せなかった。むしろ覚悟を思わせる雰囲気の方が色濃いほど余裕さえ浮かべてみせる。

 事実、報せを持ちこんだ西園寺の家人を労ってこちらは心配ご無用、一番後回しでええさんや。気遣いの言葉を託して帰すほど心のゆとりを見せていた。たとえテイでも。


 というのも天彦にしては珍しく今朝は妙に冴えていた。奇しくも忙しすぎて眠りが深かったからだろうか。睡眠時間もたっぷりなその冴えた頭で冷静に受け止め尚且つ正しく事態を分析できていたからだった。

 何より実益が下向して暴れることは織り込み済み。いつまで寄り添えるかはわからないがとことんまで歩調を合わせることだけは覚悟している。その覚悟も大きかった。何より、


 結論、この問題は起こるべくして起こった問題である。


 実益に京兆家の姫を預からせたことから発端となったわけではなく、もっと前から。そう九条・二条派閥と敵対したところからこの問題は潜在化していた。

 妙に帝からお声が掛からないのはそういうことであったのだ。あれほど寄進しているのに。銭金の問題ではなかったのだ。感情論。しょーもないとも割り切れない根が深くなる案件だった。


 だが捻じれは解消できないとわかった。それは一つの収穫である。

 そしてこれで危惧されていた諸問題が見える化して天彦的には方向性を決めやすくなった。その点も大いに収穫である。


 感情論は抜きにして帝は西園寺を、延いては菊亭を見限った。そう見立てるのが一般的な公家ウォッチャーの総論であろう。天彦視点でも確実視している。

 事実として帝は九条を側近として重用していたし、追放の際はその決断にはかなり苦慮されたと訊く。よってこの問題は側近九条の追放がやはり尾を引いての発端であると考えるのが妥当だろう。だとするとこればかりは帝・菊亭の双方共に致し方なく天彦としても納得のいくところ。

 よって結論、すべては九条派のせいである。この結論は天彦にとってはすべての責任を九条に転嫁できる点で悪くはなかった。


 しかし決定的となった実益の行動に対する勅勘だけは納得できない。

 というのも実益は預かった京兆家の姫を想い、室町幕府に働きかけた。二十一の質問状を突き付けるという実に実益らしい愚かしくも真っすぐな正攻法を用いることによって。

 足利将軍家ではなく室町幕府に突き付けたのが肝である。

 万一これが足利の家だったなら天彦とて賛同はできなかった。細川京兆家は義理を欠き義昭の実兄を弑した勢力に加担していた。立場を入れ替えたら天彦とて許せない。義昭の抱く細川憎しの感情は強く理解できた。むしろ心情的には義昭に寄り添えるほどに理解できた。

 しかし実益も考えたのだろう。だからこそ征夷大将軍としての義昭に室町幕府としての立場を問うて正道の何たるかに訴えかけたのだろうから。


 誰の目にも無理筋である。だが実益はそれを承知で押し通した。つまりそういうことなのだろう。ご祝儀は奮発しなきゃだね。

 それは相当の決断だったと想像に難くない。何しろ恋千代姫、天彦でさえ悪巧みの切り札に使うことを躊躇する厄ネタだったのだから。

 伊勢とは違い細川案件はどの角度からも筋が通らないのである。だからこそ猛烈な嫌がらせと悪巧みには打って付けの人材だったのだが、こうなっては是非もない。ガラガラぽんで策を練り直す他あるまい。


「でもそっかぁ。実益もこれぞというええ人見つけたんやなぁ」


 淋しさ半分のつぶやきがぽろり。


 さて話を戻してなぜこの決定に納得できないのか。要するに帝の決定は実益の行動云々とは無関係に堪忍袋の緒が切れただけ。結果的に魔王率いる織田家と敵対する可能性が高くなる愚かな真似をしでかしてしまったのだ。

 つまりなぜこのナーバスな時期にするのだという意味一点において天彦はまったくこれっぽっちも納得感を得られなかった。実益は話題にすぎない。擁護ではなく客観事実として絶対にそう。


 忍耐強くご賢明な帝がなぜという感情を強く抱いてしまうこの沙汰だが、この時期の決断だけは何が何でも避けなければならないはずだった。魔王が不在なのだから。

 あの気性である。不在時に偶発的に事が起こるはまだいいとして、人の意志を介在した事が決められるは絶対に我慢ならないはずである。ましてや実益ほどのお気にの追放などは最も気を回さなければならない案件である。実益はあの一件以来天彦を介さない魔王のお気にの一人であった。

 するとこの一件、あるいは朝家が滅びかねない愚考とさえ天彦の目には映っていた。呆れ果てる。と同時に本当に誰も気づいていないのかという率直な疑問も覚えてしまうのだ。

 だとしたら誰も彼も舐めすぎである。人は魔王の魔王たる所以を忘れがち。だが忘れてはならない。魔王は神をも恐れぬから魔の王なのである。


 何をバカな。大げさな。世間一般はそういうだろう。だが天彦はまったくその意見に賛同できない。魔王はやる。あと数年もすれば世界がそれを知ることになる。

 はっはっは、こいつを見て戦慄けっ! 髑髏の頭蓋骨で酒を呷り、まざまざと魔王信長の恐るべき決断力と実行力を世に知らしめるのだ。

 大殲滅大会・大虐殺祭りを直視させられた世界は否応なく震撼させられるのである。そして権威を権威とも敬わず神仏を神仏とも崇めない魔王の更なる恣意的行動に、人々は初めて知ることになる。あれ、これ朝廷滅びるんじゃね。と。


 もう一度言う。魔王はやる。やるし殺る。根伐りなどそんなフランクに使っていい言葉だったっけ。そんなレベルで乱用する。つまり現状の問題は世界に共通した想像力の欠如。あるいは一歩譲って足りなさにあった。

 しかしこの不足、補うことは難しい。人は認知バイアスの呪いからは逃れられない仕様となっているから。今更解く必要性もあまりないし。天彦的には頑張る気にはとてもなれない。


 だがこの件はよって幕府と朝家の密接関係も明らかになった。おそらく近衛・惟任ホットラインの頑張りなのだろう。素直に凄い。そして朝廷との信頼関係が白日の下にさらされたことによって幕府はより一層の力を持つことになるだろう。

 逆に敵対者や抵抗勢力は相当苦しい立場に追い込まれること必至である。

 日ノ本の太平には遠く及ばないものの天下安寧くらいには及ぶだろう今回の事案、延いては京町雀のためならそれもいいのかもしれないが、天下の安寧よりもっと大事なことを抱えている天彦にとってはよろしくない。最悪の展開である。


 そしてもう一歩踏み込んで紐解きそれを基に仮説を立ててみる。

 と、あれもそれもこれもすべて織田家の北伊勢出征という絶妙のタイミングで仕掛けられていることに気づく。相関図を思い浮かべられずともすると必然ある人物の策意が浮かび上がってくるではないか。


「惟任さん、エグいて」


 天彦から思わずもれる率直な実感の言葉。エグい。その言葉には何なら少し敬意さえ滲ませている。

 少なくとも天彦はそう確信した。この一連の動きの中心には惟任日向守の本意が見え隠れしていると。惟任は魔王信長の気性や指向性まで想定した上で、この際一気にこの一連の仕掛けに踏み込んだのである。

 つまり魔王潰し。よってこれは本能寺の変と織田包囲網の合わせ技代替事象であり、仮にこの仮説推論が正しいのなら天彦は地べたを這い蹲って泥水を啜ってでも命を張って食い止めなければならない最重要案件でもあるのだった。


 約束したん。


 そういうこと。己が妹姫撫子ゆうづつのことを思ったばっかりに。いっちゃんヤバいときのいっちゃん熱い火中の栗を拾う羽目になってもうたんの巻。

 しかもその妹ちゃんにはずっと怒られ三昧すし三昧でうまうま出禁を食らわされているいと憐れ。まったく美味くはないのだが、うぅぅ撫子ぉ逢えへんとかお兄ちゃん氏ぬ。


 そんなキモヲタ妹ちゃんラブ厨はデコじゃない方で物理的に死ねばいいが、いずれにせよ実益の出仕停止処分はそういった諸問題を鮮明に浮き彫りとする歴史の転換点的試金石となっていた。


 天彦は書面から目を離すとゆっくりと顔を上げて天を仰ぐ。そこには見知った天井が。そんな思いとともに痛切に実感する。

 上げ眉にして以来ロクなことがないやんか。と。およよ。眉はよ生えるん。

 そんな心境で天彦は、今か今かと状況報告を待ち受ける家来たちに視線を向ける。




 ◇




「大丈夫や」


 報せの手紙を読み終えた天彦は開口一番言い放った。あっさりと淡白に。

 意味ない発言が専らでお馴染みの天彦であってもさすがにこの場面での発言には意味がある。もちろん。

 この場合は“実益勅勘食らったってよ”の一報は当たり前だが派閥筆頭の自負がある菊亭家中を大いに揺らしていたからだ。


 一見すると何の根拠もない無責任な言葉に思われるがその通り。何の根拠もない無責任な言葉である。急ぐな待て。

 さて世の中には大丈夫と言って欲しいだけの層が一定数あるらしい。エビデンスの必要としない言わば感覚星人なのだが、それはここ菊亭にも居た。それも呆れるほどむちゃんこ多く。事実、ややあって、


「なんや大丈夫なんや。心配して損しましたやん」


 側近が言えば、


「お。大丈夫らしいぞ大楽殿がお笑いだ」

「某は存じておりましたが」

「某も知っておった」

「殿さまが大丈夫だってよ」

「大丈夫だって」

「大丈夫かよ」

「ほっ。よかった」

「なんや。ほな仕事しよ」

「某も」

「儂もしよ」


 たちまち家中から不安の芽が取り除かれていったのである。なんら解決されていなくても。

 まるで天彦の言葉に魔力が秘められているかのように文官諸太夫・武官青侍衆を問わず、しかもほとんどが手放しの安心感を覚えていて誰ひとりなぜを問わない。聞こえる発言の多くははむしろ前向き風でさえあった。阿呆である。

 阿保は言い過ぎだとしてもせめて別角度の考えを持つ者が一人くらいはいてもよさそうなもの。しかし天彦の魔法の言葉めいた無責任発言に怪訝な表情を浮かべている者は見渡す限り皆無である。

 あの陰険腹黒策士メガネ坊主とバイオレンスカリスマ坊主頭の二人組でさえも絶対に100気付いているはずなのに。とくに感情は揺らしていない。そういうこと。


 菊亭は独立していた。独立不羈を貫いていた。実益におんぶに抱っこの西園寺派閥の多くとは違い、派閥単位で猟官活動をしていなければ西園寺家の後ろ盾を防衛力の頼りともしていない。経済的にも関係性は極めてクリア。何ならむしろ集られている側である。故に天彦が心配ないと言えば心配なかった。

 果たしてそうかな問題はあるものの、いずれにせよ菊亭は西園寺が揺れても微動だにしない。悪坊主どもの揺らがない表情はそういう裏付けあってのこと。

 むろんこれは菊亭が特別製なだけであって他の貴族がどうこうという問題ではないので誤解なきよう。西園寺派閥はかなり優秀なのである。


 だが、


「ほな若とのさん、参内せんでもええんですね。朝ごはん呼ばれましょ」

「お雪ちゃんさあ」

「なんですのん……あ。そのお顔、腹立つときのやつですやん!」

「そっちの勘だけ鋭いのんもどうかと思う」

「む。やっぱしや。腹立つわぁ。若とのさんなんかキライやっ」


 ごはん食べきられへんほどようさん盛ったろ。

 雪之丞は言って得意満面の顔を作る。


 とほほである。それは違うぞ雪之丞。信用も信頼もそれはされたら嬉しいで。でもね。もう少し考えよ。立派なおつむが付いてんねんし。

 天彦のほっこりため息交じりの独白はなにも雪之丞にだけ向けられているものではない。佐吉にも是知にも何なら与六にだって向けられていて誰も彼もがポンコツに映った。

 すんすんと鼻を啜り鳴らして赤く染める鼻先の上に付いている塩水で曇った天彦の魚眼レンズには。


「若とのさん、なんで涙ぐんではるん」

「涙ぐんでるかいな、すんすんぐすん」

「あ。ほんまや。もう泣いてますやん。ぼろ泣きですやん。ひょっとしてお腹減りすぎましたん?」

「ぼろ泣きなことある、かいっ。お腹はすいたん」

「ほな食事呼ばれましょ。泣かんと、ね。よしよし。実益さん追放されてさみしんですね。わかりますよ」

「よしよしやめい! それにあいつが追放されたくらいで泣くかっ」

「ひどっ」

「一つもひどない」

「ほな薄情もんや。あんだけ世話になっておいてようゆわんわ」

「もっと違う」

「ほななんですのん」

「脳筋DQNに対する正しい評価や。……お雪ちゃん、主君に向かってその目はしたらあかんねんで」

「何が主君や。ほなふざけんといてください」

「あ、うん」


 ふざけるしかない。嬉しすぎたから。


 この不安極まりないときだからこそ余計に染みた。実際に抱きしめられるより百倍きつく抱きしめられる気分だった。心もほっこりぬくぬくと。

 道理を弁えている者たちからの手放しの信頼にこそ、これまでの努力が報われた気がして泣ける。温めてきた彼我の関係性が率直に現れているように思えて泣ける。天彦の冷め冷めの心は蒸せるほど熱され逆上せ上るほどに嬉しかった。


 だがそれはそれ。


 仕切り直して喝を入れる。いよいよ将軍義昭が重い腰を上げて牙を剥いた。軽い筆を走らせる手紙攻勢が始まるのか。それとも単なる傀儡に留まりすべては惟任の術中なのか。あるいは……。


 天彦は思案に耽る前にすべきことを片付けていく。


「是知」

「はっ、ここに」

「墨をすって欲しいん」

「お安い御用にて。ですがつまり」

「うん。かなり要る。百は認める心算やし」

「畏まってございます、ただちに取り掛かりまする」


 そして、


「算砂」

「お、これが大事態かな」

「軽口ほざくな。ふざけるなら他へ回すが」

「はっ、ご無礼仕りましてございます。臣算砂ここに居ります」

「暗号考えて」

「ほう。と申されますと」

「実益とのやり取りに必要になるん」

「亜将はいずこへ参られると」

「決まってるやん」

「あー……、なるほど。亜将はいよいよ」


 下向するのか。伊予だけに。


 天彦は算砂のオニクソしょーもないと切って捨てたダジャレを完無視。無視するからずっと横目で睨んでくるのだがその表情ごと放置を決め込む。

 算砂の発言は的を射ていた。ギャグのクオリティもそれほど悪くもない。

 結局のところ天彦にとって算砂の言動などに関心はなく、言い換えるなら極論他人の発言などに意味はないと考えていた。深く浅く。それならば何を言ったかより誰が言ったかの方にむしろ意味を求めるきらいが強くあった。

 天邪鬼ともいえなくもないが、この場合仮に同じギャグを雪之丞が言えばバカウケしていたことは間違いない。


 こんなんばっかし。誰か身共を抱きしめてあげろ。


 今にもそんな主語が誰だかわからない謎の愚痴構文が聞こえてきそうな顔つきで、算砂のジト目を煙に巻いて掻い潜る。

 天彦のうんざりも尤もで、これではつい雪之丞や佐吉を重用したくなる心情もお察しである。油断も隙もないのである。内も外も。


 改まっていうことでもないが菊亭の動きにはすべて紐が付けられている。行動はもちろん手紙一枚に至るまですべて。だからこそ天彦はせめて内くらいは安心させてほしいのである。だからこそ是知の丁度いいバランスが異彩を放って映るのだが、彼は彼で一癖ある出世したすぎてちょっと痛いマンなのだった。


「こっち見んなし」

「ならどこ見るのさ」

「身共に絡んでくる暇あったら暗号考え」

「そんなのとっくさ」

「え」

「もう考えたけど」

「すごっ」


 くそ、不覚にも感心してしまっていた。そして算砂のこと。越後などよりよほど複雑化させた暗号を考え付いていることだろう。これだから天才は……。


「算砂、ほな後で」

「いいよ」

「いいってなんや。身共は仮にも主君やぞ」

「ははあお殿様、畏まってございまする。これでいい?」


 ぐぬぅぅぅ、どっちにしても腹が立った。コイツキライ。


 さて、これまでもずっと密偵はつけられていたこの密偵問題だが、今度の発見は種類が違った。とイルダは断定的に報告を上げている。ならばそう。

 それは昨日、佐吉と雪之丞は伊勢主従を匿う任に就いていたために陣屋を離れていたことで露呈した。任にあたっていた二人は知らないが、二人の護衛の任に就いていた射干党の報告によって判明した事実であった。

 イルダ曰く敢えて捕縛はしていない。事を荒立てないために。とのことであった。

 よって相手先は追って調べる必要があるだろうが天彦的におよその見当はついている。イルダの見解とも一致している。あれは伊賀者、甲賀者。束ねる者は鬼半蔵ただひとり。は、さすがに盛ったが当たらずとも遠からず。そんな予感はひしひしと感じている。


 いよいよ神君公、満を持してのご登場か。それは追々。いずれにせよ織田家にはずっと密偵を付けられているし朝廷は今や隠しもしていない。目々典侍は何なら仄めかしてもいたくらい。

 以前からのそれら隠密ならすでに射干党によって人物や所属団体の特定は済んでいる。伊賀者甲賀者ではけっしてない。

 但しそれが容易だったのはむろん裏の裏。朝廷・織田の双方共に敵視していませんよの意図からだろうことくらいは理解している。


 だが朝廷との敵対関係が実体化した今、放置しておくわけにもいかない。


 新顔隠密はこれまで付けられていた朝廷と織田家ではない第三勢力。

 やはり本命は一連の策意からもキンカン頭なお人であり、二割で天婦羅タヌキなお人さんか。それ以外にも僅かながらいくつか候補は残っている。

 惟任の飼い主だってそう。毛利家であったとて天彦は然して驚かない。裏に潜む事情やこっそり進行中の思惑など一ミリだって知らずとも毛利家の家風を知っていればそれだけで十分こと足りた。


 何より織田の牙城を切り崩すのに、菊亭がその筆頭候補に挙げられている傍迷惑甚だしい時点で他にも可能性は無数にある。ならば、


「氏郷、高虎」

「はっ」

「はっ」


 菊亭の誇る最高武力が天彦の前に片膝をついて呼び出しに応じた。


「目障りなんぜんぶ退けたってんか」

「はっ、確実に仕留めまする。敵はいずこに」

「伊賀者甲賀者」

「ほう。すべてにござるか」

「話し合いで済めばいいけどきっとそうはならんやろ」

「ですな」

「織田と朝廷には射干党から周知させる。ヤギさんぜんぶや。今すぐにあたってくれたら身共は喜ぶん。何色ヤギさんであってもこれから出すお手紙を一通でも食べられたら都合悪いん」

「ならば即刻。御前失礼仕る。参ろうぞ高虎」

「応、腕が鳴りおるわ」


 天彦は武闘派組に密偵排除の実力行使を指示して、自分は静かに思考の淵に落ちていくのであった。













お読みいただきありがとうございます。


今週はがんばったで賞? 誰か身共を抱きしめてあげろ。ゆーてましたよどなたさんかが。オンラインハグ募金だと思って”いいね”をよろしくお願いしまーす。善き週末をお過ごしください。

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