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雅楽伝奏、の家の人  作者: 喜楽もこ
六章 天衣無縫の章
110/314

#13 野見宿禰

 



 永禄十二年(1569)七月二十四日






 天彦は嫌がられ煙たがられ恐怖され、中には噂を鵜呑みにして蛇蝎の如く忌み嫌う同輩もいたがキレず挫けずに頭を下げて回り同僚諸氏への義理を果たした。

 そのまま居座ってもよかったのだが居てもやることが特になく、何より居づらさが半端なかった。


 ならばと足を向けた先は紫宸殿の東側、宜陽殿の一室。ここは書庫である。

 皇家伝来秘蔵書無数の立ち入り厳禁書庫ではなく、割と誰にでも解放されている類の書庫である。むろん誰にでものダレには殿上家という限定条件は付くのだが、それでも制約の多い内裏では比較的出入りの自由な言ってしまえばフリースペースと言える部屋である。


 そんな書庫には実は地下人や貴族でさえない庶人(使用人)も少なからず出入りしているある種の憩いの場となっていた。そんな場所だからなのか書庫という性質上なのか、殿舎は構造的に敢えて光を遮断していてやはりカビ臭くどこか陰気臭いのである。実際的にも視覚的にも。

 だがそんな書庫が一瞬で華やいだ。女の登場によって視覚的に室内が華やぎ、室内に香しいフレグランスオイルの香りが漂い始めたことによって嗅覚が喜んだ。

 その香りは人をほとんど選ばないのだろう。死角になっていた者まで漏れなく鼻をすんすん。嗅ぎ鳴らした後ほうっという感心の表情に変えていく。


「天彦さん、こちらに居らしたのですね」


 かわいい風鈴のような声が書庫に小さく響く。この場に集う多くが縁側の涼を想像したことだろう。この時期にはうってつけの。それを証拠にすっかり死角はなくなっている。書庫民族が大移動を始めてしまっていたから。

 不自然と声の主に視線が集まる。それはそう。皆が移動してまで見に集まったのだから。

 女を見ようと集まった視線はするとたちまち魅了されまんまと息を飲ませてしまう。魅入ったまま固まる野次馬たちは、すごっ。


 美という言葉を独り占めする絶世の美女を目にしてあんぐりぽかん。男どもは惜しみなく内心の賞賛を送り届ける。締まりなく惚けた間抜け面で。

 客観的にはわからない。価値観は多様性を持ち評価軸は変遷するから。だがこの時代この時を生きる男どもの目にはきっとそう映っていたことだろう。いつの時代もモテ要素の主役はその時代に善きとされるルックスさんに決まっていた。


 だが如何な絶世の美女でも男どもの視線をいつまでも釘付けにはできない。むろん常なら列を成しただろうシチュエーションであっても今だけは例外である。

 何しろ彼女は固有名詞を発声している。冒頭に。しかもその名は都では知らぬ者はモグリだろうと断言していい禁忌の名である。


 その事実に気づいた者から順に表情と態度を豹変させていった。いくつかの観点からそれはそう。この室町では貴人のギブンネームを公然と呼ぶことは普通ではないからだ。公家に諱はないので禁忌とまではいかないとしても、倫理的にも心証的にもよろしくないとされている。大人の嗜み程度には。

 そして大前提、ここは嗜める者だけが集う場所。自ずと可能性は絞られる。

 可能性は三つ。むちゃんこ親しい。すごく偉い。頭が可怪しい。の三つのいずれか一つである。


 類縁の近しいはむちゃんこ親しいに含まれるとしてさて。

 人は見た目で判断する。哀しいけどこれ現実なのよね。とか。この瞬間、書庫に居合わせたほとんどが彼女のパーソナリティをすごく親しい者とした。まんまと。首尾よく。掌の上とも知らずに。


 その彼女はにんまり。その美顔にうっとりするほどの笑みを湛えて、


「天彦さん、ここに居らしたのですわね」


 ダメを押した。あざとく強かに。男どもの欲望を燃料としたどこか勝ち誇る目にやり遂げた感を滲ませつつ。


 だが相手が悪い。彼女はよく頑張った。その生物としての野性味や女としての健気さは拍手喝さいが送られていいはずである。お目当ての対象がポンコツすぎただけで素敵かわいい生物である。

 そんな感情とかあんな感情とかを物ともせず書庫に居合わせたほとんどすべての利用者の複雑な感情混じりの視線を一身に浴びた天彦は、けれど一切のリアクションを見せずに黙々と手に取る書物の頁をめくる。


 長い沈黙の末に、


「ちょんちょん。……もし」


 名家葉室の椛姫さまは、釣れない人の服の端を小さく引いた。実際の効果音付きで。それは彼女なりの熟慮の末の行為なのだろう。切なさが天元を千切っていた。


 しかし逃げ切ってやろうと考えていた天彦にとってはしんどい状況に追い込まれてしまった。こうなったら是非もない。いくらなんでも書庫で調べ物をしていた天彦に向けて掛けられた声に決まっている。名指しなのだから。ちょんちょんされたのだから。

 だが天彦はそれでも粘った。応じる素振りをまったく見せず手に取った書籍の頁を食い入るように読み耽って返事とした。これも天彦なりに考え抜いた末に導き出した結論だった。


 むろん天彦とて男子。ちょっと斜めに構えているだけで志向性的には世間一般とまったく同一の男子である。むしろ男子である。本人的には。

 だから逢えないと胸が痛いほどの相手は欲しい。思うだけで力が漲る感じもやってみたい。単に命がけの恋愛にだって少なからず憧れはある。根拠はないがそんな相手に出会える予感も少しはしている。だが……。


「1587年。伊予西園寺は滅亡する。実益は命乞いをするタイプやないからきっと果てているやろう。その同年、伴天連は追放されるん。それは酷い目に遭って。いずれもそう仕向けるのは関白や。豊臣とか抜かすど平民の。正義や道徳やとええカッコは言わん。血筋や何やもどうだってええ。全部身共の大事なもんなん。それだけはどうあろうとも死守するん。たとえ後世がどうなったって……」

「天彦、さん」

「ああすまん。唐突な謎語りキモすぎたな」

「いいえ」

「でも答えになってへんわな。頭可怪しいやろ。こんな阿呆で堪忍な。そやけど身共は大事な家族を破滅とわかって巻き込めるほど阿呆になれん。はは、むちゃんこ阿呆やのに変やろ。要するに家族さえ守れへん小っちゃい男やねん」

「いいえ。天彦さんは偉大なお方です。浅学のわたくしにはなぜ卑下なさるのか理解が及びませぬが、少なくともこうしてお言葉を頂戴でき嫌われてはいないと知れて、それだけで有難くも嬉しくおじゃりまする」

「前向きさんや」

「はい。わたくしはお陰様を持ちましてこれでも葉室の当主にございます。何よりどなたを大好きなのかを承知しておりますので挫けてなどおれませぬ」

「あ。うん」

「そのお困り顔こそ素敵です」

「どこが!?」

「はい。そのお顔こそ曲者家中をお纏めになられる、これぞ菊亭様という感じがいたしますの。ふふふ」

「まあたしかに、あいつらは難物揃いやけど」

「うふふ」

「はは」


 椛が小さく微笑むと初めて天彦も表情を和らげた。


「ですけど椛はその笑顔が一番好きです」

「うん」


 微妙な空気で振り出しに戻った。

 天彦はお察しだが、椛も完全に“しくった顔”をしてしまっているので察したのだろう。教訓、天彦の笑顔は弄ってはダメ。菊亭採用試験には出る。確実に。


「もうしわけございません」

「ええさん。で、どないしたんや。身共を探してたんやろ。ようわかったな」

「はい。天彦さんの動線を追えば容易でしたわ」

「ふーん。そらええさんや。身共は容易にはたどり着けん」

「何をお調べにございましたの」

「これや」


 天彦は家名が無数に羅列された人別帳のような書面を見せる。

 系譜図にすらなっていない家名の羅列なので過去(先祖)を辿るのは更に複雑化している。


「堂上家をお調べでしたのですか」

「それやったら話は早いん。よう見てみ」

「……あ。まあこれは難儀な」

「そやろ」

「はい」


 堂上家なら何とかなる。それでも大変な作業である。だが地下人ともなると砂漠で砂粒を探すとまではいかないが心情的には同等レベル。いずれにしても気が遠くなる根気作業は余儀なくされるレベルでしんどい。

 それも想像と連想から導き出さなければならないとなるとクエストの難易度は果たしてSがいくつ付くだろうか。


「なぜお調べですのとお訊ねしても」

「お節介で拾った猫がまったく意固地で何遍訊いても名乗らんのや。それどころか噛みついてきよる。そやからぎゃふんと言わせたろ思てな。まあ筋は言い出しっぺのお雪ちゃんマターやけど、しゃーなしで合力したってるん」

大楽だいがくさまの。ですが、あの天彦さん……、野良は喋りませぬが」

「いやこの拾い猫、みゃあと鳴かず酒を寄越せと鳴きよるんや」

「ん? ……もしや女。いえ絶対に女やね。女やろ。おい」

「おいっておい!」

「なにか」

「あ、いえ」


 天彦は薄く笑うつもりがしくじって頬を引きつらせてしまう。別に正解だったところで図星でも何でもない。はずなのに。

 何だろうこの妙な居心地の悪さは。何だろうこの妙な苛立たしさは。

 そんな可怪しな感覚に見舞われてしまい、するとこの場にとどまることができなくなった。追及されると不味い気がして。


「あ、天彦さん!」


 逃げろ。衝動に身を任せれば自然と足は扉に向かっていた。




 ◇




 申刻晡時、夕七つの鐘がなる頃、宜陽門から建春門を経て待ち合わせの二条通と西大宮大路が交錯する角にて出迎えの家人と落ち合う。

 つまり勝手知ったる遊義門は避けていた。利便性の観点からと何となくの感情で。けっして実家を避けたわけではないと自分自身に強弁しながら。


 本日は本領帰還ターンで且元一名を欠いたイツメンの護衛組二人とその家来衆六名の計八名の出迎えだった。

 多い。以前の天彦なら間髪入れずそう言った。だが越後遠征を経験して以降はすっかりそんな態度も見せず、おとなしく家来に身の安全を任せている。


「お帰りなさいませ」

「只今さん。ご苦労さんやな、家はどない」

「はっ、あれと大楽殿以外は大過なく」

「つまりお雪ちゃんは張り切ってるんやな。さよか。参ろう」


 内裏を出て帰路、五条東洞院本拠に向けて歩く。イツメン二人を影のように引き連れて。太陽の位置と背後を行く立ち位置関係的には天彦が影か。

 いずれにしても馬がいる。思いの外土地取得が難航していて引っ越しが先延ばしになっている以上足は必須。この通い距離は無駄すぎた。時間的にも安全面でも。


「参議昇職後初のご出仕は如何でしたか」

「想像の範疇やった」

「つまり首尾はよろしくないと。殿らしくお優しいお言葉にございますな」

「なんでそうなるん」


 自分の解釈の方が百倍優しいやん。アホやろ高虎は。天彦の悪態にも心なしか力はない。


 一瞬だけでも実家の前を通ってみてもよかったのかも。そんな後悔がちらっと脳裏を過ってしまった。むろん無敵愛くるしいゆうづつちゃんとの偶然の邂逅というラッキー最強演出を期待して。アホである。

 ただでさえ出不精の姉撫子姫。その彼女が偶然気が向いて表に出ていて、しかもそこに偶然出くわす確率は如何ほどか。考えこまずともそれがいったいどれほどの極レア演出かなど秒で考察できるのに。少なくとも牛車に轢かれる場面の方がよほどシーンとしては出くわすはず。

 なのに柴イヌ眉の麿眉彦は何なら当然の出逢い回を一回飛ばしたくらいのローテンションで凹んでいた。ちょっとおもろい。


「高虎、アレさんはなんか申したんか」

「それが……、己は宿禰すくねだと申したとか」


 アレとはむろん拾い猫。推定無罪の法則は令和の時代よりむしろ室町こそ生きていた。但し確定冤罪も同様に放置されているだろうけれど。

 そんな辻君(夜鷹)を拾った天彦だったが、雪之丞に拾わされたが正しいが二言三言言葉を交わしてみて確信していた。あれは絶対に貴種であると。

 品格云々もそうだが何より会話に知性を感じた。端々に織り交ぜられた語彙が豊富な知識を彷彿とさせた。所作の一つ一つが故実の有を直感させた。


 学と知識。そして作法。これらを備えるだけで人材不足の菊亭では引く手あまた。むしろお釣りが出るくらい。

 よって飼うことにしたのだが、出自不確かはこの身辺不穏なご時世にいくらなんでも寒いということで身元を調査中なのであった。

 飼うと言ったのはそういうこと。当人が頑として名を明かすことを拒否する以上、菊亭としては猫としてしか飼えないのである。にゃん。


 それがぽろっとか意図してかはわからないが名乗ったという。


「スクネとな。はて、あれほど頑なやったのにどういうことや」

「実は当家の諸太夫どもがあれに教えを乞うておりまして」

「お公家さんの御落胤やったら、まああり得るか。それで」

「はい。それがあれの博識は凄まじく、算砂殿まで座学授業に関心を寄せ熱心に聞き入る始末。日がな一日質問攻めにあっております。それはよいとして殿、あれは御落胤などではなく誠の公家にござらぬか」


 じゅうぶんあり得た。天彦の中ではむしろ本命。だからこそ地下人別帳からそれっぽい年代の女子がいる家をシラミ潰しにあたっていたのだ。

 だがすくね(仮に宿禰とする)とあらばかなり絞れる。むろん真っ当な匂わせ戦術だと仮定してのこと。そんなのが好きそうな性格っぽいし。つまり捻くれ者である。めんどいかまちょとも言うけれど。

 いずれにせよその博識ぶりなら更に的は狭まった。天彦の推論が正しければ地下人は地下人でもかなり名のある名家である。

 先ゆーてよ。半日かけたのに。そんな地味な作業に対する徒労感が地味な怒りを込み上げさせる。いずれにせよ選択肢は相当に狭まった。天彦は自慢の記憶力を頼りに推測していく。会話を交えて。


「高虎、氏郷も。宿禰といえば何を思い起こす」

「某も考えてございました。家来とも話し合い、結論としてまったく。申し訳ござりませぬ」

「ええさん。高虎は」

「さて。古くは土師氏はじうじの始祖、野見宿禰でござろうか。あとは子孫の菅原家や五条家ですか。そのくらいしか某には見当もつき申さん。お役に立てず面目なく」

「ええ線突いてると思うで」

「ほう。と申されますと殿は」

「うん。だいたいは見当ついた」


「おお、さすがにござる」

「なんと、おそるべし」


 お見事――!


 何も明かしていないのにこの信頼度。氏郷、高虎につづき陪臣たちの感嘆の声が西大宮大路に響き渡る。

 大袈裟や。テレテレ満更でもなさそうに天彦は、けれど表情だけは毅然として偶然と運命の違いをはっきりと認識していた。


「これは運命や」


 デスティニーちゃんツンデレさんやから。


 嘯きながらもそして位置づけを明確にする。宿禰と名乗った拾い猫は天彦にとっての運命の鍵だった。少なくともそう仕立てる算段で脳内をフル活動させている。悪巧み師としての面目にかけて必ずそう仕立ててみせると意気込んで。


 高虎の指摘通り宿禰とは野見宿禰を指すのだろう。そして野見宿禰を始祖とする末裔はかなり多い。菅原もそう。五条も天彦の藤原も古くはそれに該当する氏族である。

 だが主に連想されるのは大江氏であろう。しかし天彦が思う大江は家名の大江ではなくかばねの大江。室町貴族にとって一般的な大江の認識は本姓なのである。天彦でいうところの藤原と同様の大江朝臣。

 そしてその大江姓の代表格は武家なら毛利家。貴族なら五条家、次いで北小路家であった。


 ビンゴ……!


 つまり武家、公家いずれであっても本命のど真ん中。いずれも目下天彦が攻略対象としている家門である。

 武家毛利は言わずもがな、貴族北小路なら猶更によき。何しろ貴族の北小路家は近衛家の諸太夫である。あの。しかもかなり家内序列のお高い。あの。


「近衛さん捕まえた」


 訊く者すべてがぎょっとするような低い声で天彦は言った。


 遅れること少し、実際に周囲はぎょっとして足を止めて天彦の状態を確認する。ややあってああアレか。家人たちは天彦の状態を認識して即座に共有作業に入った。ここまでがワンセット。

 むろん感情は八割勘弁してくれだが、こうして菊亭家中の絆は醸造されていくのである。当主のあまりにも不気味すぎる気色の悪さに耐え忍ぶという意味での忍の一字で。心技体も同時に鍛錬されていくのである。


 いずれにしてもこうなった天彦をもはや誰も止められない。考えが纏まるまで生温かく見守るしかなく、当人はずっとキモいまま思考はつづく。

 北小路家は三代に亘る朝廷への奉公と近衛家への忠心を買われて地下人から堂上家へとクラスチェンジを果たすレア貴族。ありそうで案外ないクラスアップだからこそ鮮明に記憶していた。その当代はたしか……、


「今から思うとアレもコレも伏線やったんかも知れへんなぁ。くふ。伏線子ちゃんももしやツンデレ。いやクーデレさんかも知れへんなぁ」


 やや白粉濃いめの眉上げおチビ公家が無感情にぽつりとつぶやく図。むちゃんこコワいの巻。


 せめて笑え。そんな検証やってないとしても。だが当人はやろうがやるまいがお構いなしに長考に沈んでいく。

 そしていよいよそのつぶやきを証明してみせるように遠く朧げな記憶を探りまんまと探し当ててみせたのだった。


「見っけたん」


 天彦の脳裏にはかつて参内していたときの記憶が鮮明に思い起こされていた。

 どこか冴えない風のけれど職務には実直そうな“フリ”がたいへんお上手でかつ周到、そして忘れてはならない散々イジメ倒してくれた中院派の中核にして先輩氏蔵人サイドキックス君の顔が鮮明に。……なあ俊直。久しぶりさん。


 当時は大江を名乗っていたが彼が北小路であることは間違いない。おそらく今出川の菊亭と同様にそういう仕分けか仕組みがあるのだろう。どうでもいい。あのど貧乏公家が北小路でさえあれば。


 因みに時代は室町後期バブル期に突入していても公家の多くは変わらず極めて貧しい。

 椛の葉室家がそうであったように、公家は商売と銭勘定が下手すぎた。おまけに家領を守る武力もない。それでも決定的なところは上下のどちらにも振れない半端なプライドの高さである。それに尽きた。

 よって血筋と名門だけが頼りの半端貴族はずっと貧乏。何なら割り切っている庶民や武家(主に織田家中)の方がよほど達者に稼いでいる。だからこそ貴族が縋る朝廷が権威を増しているとも受け取れるが。



 閑話休題、

 天彦の笑みは深く険しくなっていく。確定要素などどこにもなく、まだ確率は50%にも満たないのに。

 だが天彦の中ではすでに100%の確信を得ているのだろう。すでに結論めいたそんないつもの顔をしているから。


「くふ、ふふ、うふふふ、やっぱしお雪ちゃんは天才やったん。身共はもっと賢いけれど。ふははは、あははははは――」

「と、殿!?」

「……とのぉ」


 いよいよ天彦のキモさが極まり高虎ドン引き、氏郷半泣き。


 そんな必殺スマイルを浮かべる天彦だが、眉を上げているせいかいつにも増して凄味が出ていた。

 泣く子も黙って一周回ってやっぱしギャン泣くレベルに仕上がっている必殺の天彦スマイルを浮かべる天彦は、るんるん気分を隠せないのか先ほどまでとは打って変わった足取りで、意気揚々と帰途に就くのであった。一転して足取りの重くなったイツメン二人を置き去りにして。


 るんるん到着。


「いや遠い!」


 遠すぎるん。これ毎日とかどこのアスリート!?


 るんるん気分では誤魔化せない物理的な距離があった。いた、いたた、痛い、痛いん、むちゃんこお足が痛いんさん。気付けば草履が脱げないほど足のあちこちが傷んでいた。

 恨むべくは鍛えの足らない薄い足の皮だが、それを差し引いても泣きが入るほど中々歩き応えのある距離だった。もちろんだからといって愚痴ってどうなるわけでもないのだが、感情的にただ単に文句を入れないと気が済まなかった。それだけのことなのだが。……おぉ、ハズい。


 さすがに往来でのソロ絶叫はちょっと気まずい。定宿の玄関対応係には笑顔を振りまく。いつもより多いめに。


「ただいま六男」

「お帰りなさいませ旦那様。えらい怒らはってどないしましたん」

「おいコラ。身共のどこがご機嫌斜めじゃい!」

「はあ。そこらかしこですけどすんまへん」

「なあ六男。何を差し出せばちゃんとするん」

「まずは飴ちゃんですわな。以降は都度そのたび交渉といったところですか」

「さてはお前、着ぐるみやな。中身は誰や!」

「どないしはったんです」

「はい飴ちゃん」

「おおきに菊亭様」

「あ、うん」


 買収して勝ってもあまり喜びはないと確認できた天彦は足から敢えて視線を外し、ゆっくり恐る恐る足元の汚れをはらって二階に上がる。いぎぎぎぎ、いたいぃぃぃ。一歩ごとに迫りくる恐怖の痛みに抗いながら。


 二階に到着。お目当てはすぐに見つかる。


「宿禰、身共の勝ちやっ!」

「酒。世の理はそこから始まるの。よいかなちびっ子、話はまずそれから。ええかちびっ子それが道理や。ほら疾く寄越さんかい」


 チビ、チビ、と。……あ、そういう。


 ちびちび飲むと掛けたわけか。ばんざい。……氏ぬ? だがよく見れば拾い猫の目が完全に死んでいる。その至近にあの算砂が。あ、察っ。

 むちゃんこ機嫌の悪いむちゃんこ別嬪さんには同情を禁じ得ないが、それはそれ。


「与六」

「はっ」

「逃がしたらアカンで。拾い猫がお宝さんに大化けしたん」

「ほう。それはおもしろい。合点承知にござる。女、手荒い真似はしたくない。神妙にお縄につけ」


 与六が迫る。だが自称宿禰は身動ぎ一つせず受け入れた。


「きゃあ捕まっちゃった。礼楽の美男子侍さん、どうぞお好きになさるがよろしい」

「む。礼楽とは如何なることか」

「礼楽は天地の情により神明の徳に達す。でしょお侍さん」

「ほう。しからば礼楽は斯須も身を去るべからずにござるな」

「貴方、いいわ」

「女、貴様も悪うないぞ」

「仁は楽に近く儀は礼に近し。酒、付けてくれるかしら」

「うむよかろう。しばし談義いたしたく存ずる」


 そこイチャイチャすんなコロス。


 おのれ与六め。さっきまでなかった能力発動させやがって。これだから野生の天才は……。制約が多いほど能力は高くなるらしいよ。だってクラピカ言ってたもん、やあるかいっ。


「はいはい解散、解散」


 お仕舞いお仕舞い。天彦の如何にも白けた風な乾いた声が自室兼応接間に空しく響くのであった。












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