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雅楽伝奏、の家の人  作者: 喜楽もこ
六章 天衣無縫の章
109/314

#12 これを蔽えば曰く想い一途に邪念なし

 



 永禄十二年(1569)七月二十四日






 眉を剃って上げて描く、シバいぬ眉彦のお務めはここまで。


 誰が柴犬眉彦じゃい! 


 今にもそんな文句が聞こえてきそうだが、一人称も麿にした方が確実にしっくりくる麿彦の出番はこれまで。ここから先紫宸殿での皇太子即位式は三位以上の公卿と招待客、即ち畿内並びに地方からお越しの有力大名のみ参列で執り行われる。


 麿眉彦に不満はない。麿眉彦と呼ばれたらそれは不満顔で唾を飛ばして猛抗議するのだろうけど眉無激怒の図は単なるオモシロなだけ。現状に不満はないはずである。

 何しろ天彦、お祝いしたい気持ちはあっても儀式など面倒なだけでそもそも行事ごとが大嫌いである。イベントごとは大好きなのに。果たしてこの差は……。


「これ参議、即刻そのお顔をやめなされ。侍女どもが薄気味悪がっておるではおじゃりませぬか」

「ひどっ」

「事実であろう。ええいやめい。眉を上げて不気味さに磨きをかけおって。さすがの見慣れた妾もいくぶん引いておるぞ」

「あ、はい」


 嘘。不満はあった。しかも大いにおもクソ不満だった模様。この阿保はきっと親友ずっトモの晴れの舞台に立ち会い晴姿を見たかったのだ。後で弄るために。

 皇太子殿下そっちのけの不謹慎極まりない感情なので言葉にしないことがその何よりの証であろう。


「では参議、これにて妾は少し外します。ごゆるりとなさるがよい」

「お構いなく」


 お召替えで一旦外した目々典侍に代わって案内役を仰せつかった侍女の後につづいて紫宸殿脇の廊下をつらつらと進む。こちらへ。

 招かれたのは後宮七殿五舎の一つ、清涼殿北隣にある弘徽殿こきでんのやや下方東隣に位置する承香殿しょうきょうでんであった。後宮では弘徽殿に次ぐ格付け二位の殿である。


 天彦は緊張の面持ちで、お邪魔します。今更ながら自分が殿上人なのだと実感して居殿に上がる。廊下を渡り部屋をいくつか通り過ぎた先のその一角に通された。そこは奥向きの深度や部屋の広さそして調度品の格式から、おそらく目々典侍の私室兼事務室だろう一室であった。

 どうぞと指定された位置におっちん。沈み込むような感触のふかふか御ザブがいい感じ。


 無作法にならない程度にさっとだけ周囲を見渡す。部屋自体はたいへん質素。内裏でありがちな大部屋の間仕切りは見事な絵が描かれた屏風だけ。未来現代感覚の強く残る天彦にとってはザル過ぎる防犯意識だがこの時代ではこれがデフォ。これではなるほど忍者も暗躍する。ざっと見渡しただけでも潜めるポイントがいくつか見当たった。


 この情報筒抜け部屋には四名、四名ずつの計八名が待機していた。いくらなんでも待機人員が多すぎる。目々典侍が御着替えの間の間繋ぎ応接係といったところだろうけど、それにしたって妙に気になる。


 そんな心境でじっとお声掛けを待っていると、


「なにか飲まれますか」

「では茶を頂戴できまするか」

「お安い御用にて。おい茶をもて」


 指示した側は居丈高に。だがされた側は返事も無しに四人揃ってぷいっと不貞顔をうかべるばかりで一向に指示に従う素振りを見せない。どっちもどっちか。

 女同士の縄張り争いを予感させられた天彦は瞬間的にぞっとする。公家毒殺のほとんどに女性の手が絡んでいる事実は無視できない。そんな茶は絶対に飲めない。

 どうしたものか。蒸し暑い状況には打って付けの暑気払い強演出に恐恐としていると、


「妾は御客様に茶をもてと申したが。弁えよ」


 結果劣勢側の四名は叱られた上に催促されてようやく姿を消していく。これってどういう……。


「太政官参議の前でお恥ずかしい。新人なものでお目こぼし頂きますれば幸いにおじゃりまする」

「あ、はい。身共にはお構いなく」

「お優しいのね。うふふふ。常々お逢いしたく思うておりました」


 なるほど。天彦は得心がいく。気になっていた勢力図が理解できた。

 こちらの侍女長含めて妙にわきゃきゃうふふ感の強い謎の勢力がどうやら目々典侍推し勢力のよう。そしてもう一方の顎であしらわれ追い払われたやや冷めた感じのする四名は頭痛のタネ。おそらくここへ召喚された元凶だろう。あのすれた感じの新人感ゼロ人材に新人扱いは無理がある。


 すべて天彦の推察の上の推論だがきっとそう。お仕着せらしき和服の色からして違うし天彦を見る目つきが違った。なんというか粘着質な目性には妙な既視感を覚えるのだ。義理まっま菊姫のお顔と共に。

 これは勘にすぎないが天彦の経験則に基づく悪い方の勘は不思議とよく当たったのだ。ほぼ確で。


 そこから導き出される結論は、お人払いなのだろう。何となく察した。何しろ天彦の目の前には火鉢の上でゆらゆら湯気をくゆらせている急須が用意されているから。さっきから厭な熱気を放っていた熱源あれな。むちゃんこ蒸せると思ったし。


 謎勢力の筆頭格、推定侍女長らしき女史が手ずから急須を持ち上げてにこり。


「どうぞ。お呼ばれになって。それともお毒見いたして進ぜましょうか」

「その必要はおじゃりません。ほなお言葉に甘えて呼ばれまするん」


 すると解禁されたのか、残す三名が順々に言葉を発した。


「るんですって。きゃあかわいい。まこと噂とはあてにならんもんですなぁ。まあちいっこい御手手。飴ちゃんお食べ。好きやろ飴ちゃん」


 まさかの腕ごと強奪され。口をあんぐり。

 天彦のマインドゲージがごりごりと音を立てて削られていく。むろん飴は頂くが。歯が溶ける系の食べ物はだいだい好物なので。


「ほんにお可愛らしい殿上さんにあらしゃりますなぁ。妾これが欲しなった。連れて帰ってもよろしいか。吹けば飛ぶようなあばら家ですけど、うちの子にならしゃりさんませ。絡繰りの玩具あげよ」


 これ! 氏ぬ。氏ぬこれ。玩具は貰う。


「妾。これ好き!」


 氏ぬ。まぢで氏ぬ。いっちゃんヤバいんがおった。

 軽率に好きってゆうなし。いくらなんでも誠実がたりんやろ。


 天彦がコレ呼ばわりに感情が追い付かずに放心していると、一周回って振り出しに戻り侍女長らしき女官が言う。


「ほんに。殿上さんのお可愛いらしさに心が洗われるようにおじゃります。誠仁さんもこちらのお可愛らしい殿上さんを見習うて御傍さんを入れ替えはったらどないさんやろ。ええ匂いする紙さんあげよ。気になる女子おなごにわたすとええさん」


 死んだ。決定的に死んだ。皇太子をガキ扱いとかもう……。


 マインドは抉られだが収穫はあった。従四位太政官天彦をまったくの子ども扱い。つまりこちらの女性陣はもれなく誰もが、高貴なる血族に連なる御面々であることが推察された。御父上か連れ添いは確実に偉い人の。もしくはそれどころかあるいは皇家に繋がる貴種であるとことさえ想定された。

 まあ妥当なところでは内親王殿下方々。もしくはそれに準ずる類縁の方々。当たらずとも遠からず、そんなところ。


 史実では通常はほとんどのお身内が出家なされる。皇太子殿下以外は男女の区別なく。偏に体裁を整えるのと貧乏なのとでほとんどの縁者が出家なさった。

 だがこの世界線での皇室はかなり裕福である。困窮していないだけでそうとうかなり権威は守られているのである。情けなくも憐れな官位の切り売りなどせずに済むくらいには保たれているのである。

 他にも事業展開に忙しいのとその必要性がほとんどないのとで思想的に自らのご意志でなされる方以外には仏門に下るお方はかなり少ないと聞き及んでいた。


 こういう新たな試みは往々にして幕府発信。するとまた誰かさんの功績かと眉を顰めたくなるが、但しこの件に関してだけは惟任の出る幕はない。あれはむしろ押領する側。この場面だけは天彦も薄っぺらい胸を目一杯に張れた。声高に自分の頑張りによるところが大きいのだと得意がって。誰も言ってくれないから。

 いずれにせよ、よって誰何するなどという無粋な真似はけっしてしない。


 そして天彦、偉い大人の言うことは進んで訊くように心がけている。特に影響力のありそうな大人の女性の言には積極的に従うことに決めていた。むろん適否はるが大雑把。厳選せずに概ね従うようにしている。

 まず平和だし。何より行動心理学的にも戦国風潮論的にも家の大方針である行動パッケージ決定への影響力は女性が握るとしたものだから。

 天彦は主語は己だと前置きして断言する。女性が政治に介入しなかったなどという愚かしい通説は100嘘であると。しょーもない野郎の見栄っ張り。


 よって持ちうる最大限の御愛想スキルを総動員して事にあたる所存である。何しろ絶対に120%貴種だから。しくったら氏ぬ。


「妾あれ好きなの。参議、なんとかし」

「あれってもしや金木犀ではおじゃりませんか」

「そうそれ」

「まあお姉さんも! 妾も重用しておらしゃりますの。殿上さん」


 無茶ぶりっ!


 だがお姉さま方で完結した結論は世の真理として天彦の許へと無事送り届けられるのである。お仕舞いです。


「しい」

「しい」

「しい」

「しい」


 うへ。下手な是知の真似をぶっこんで。

 あれは秋の香りでありまして、しかもとっくに完売御礼……、あ、はい。


「金木犀やないとあかんえ」

「あ、はい」


 息も届くかという至近距離まで詰められてさすがの天彦も反論を失う。


 と、


「えらい可愛がってもろて。参議、お待たせさん」

「おお神よ!」

「さすがに気を張ってしまうけど」

「あ。思わず感激に口が滑ったん。何のこれしきのこと。お待ち申し上げさんにおじゃります」

「なんやえらい厚遇やね。へんなの……」


 助かった。天彦はほっと胸を撫でおろし気分を入れ替えるのだった。




 ◇




 推定内親王殿下方々が座を御下がりになられた室内には、目々典侍とその侍女と天彦だけとなった。欲しかったのはこれ。


「なんや疲れたはるけど」

「お気遣いは無用。して近衛さんの件やと思うておりますが」

「さすが話が早い。あれのご相談に足を運んでもろたんよ」

「後宮でも問題があらしゃりますんか」

「他所さんは存じません。他でも騒ぎを起こしたはるんやね」

「身共の周囲では騒々しく」

「なるほど。お茶茶と申しましたか」

「はい」


 よく知っている。感心するはさすがに無礼か。こう見えて朝廷の名外交官であらせられるのだし。

 天彦は認識を改め、目々典侍は自分と同等レベルで世情に明るいと判断して会話を進めることにした。


「さすがはお狐。重要局面、重要人物には悉く絡んでくるとのお言葉は正しかったようにおじゃりますな」

「どなた様の」

「異なことを。主上さんに決まっているではあらしゃりませぬか」

「あ、はい」


 決まってはないやろ。事実初耳やし。


「察しの速さは日ノ本一と噂の参議が珍しく察しの悪い。如何な化身様も主上の件では畏れ多いか」

「はっ。御慧眼にあらしゃります」

「……」


 え。なんでジト目、ジト目なんで!?


 天彦は目々典侍のおまゆう顔にどぎまぎあたふたさせられ誤魔化すように茶をずずず。誤魔化せてはいないだろうが負けるが勝ちの精神で向き合う。


 そして改めて、


「用心はよろしいさん」

「心配には及びませぬ」

「では」

「うむ。あの阿呆が好き勝手に振舞って、いよいよ後宮にまで爪を伸ばして参られたの。おほほほほ、妾こう見えて案外お気ぃは弱ないんよ。受けて立って進ぜようとそういう算段にあらしゃりますの。よろしくって」


 案外ってこういう使い方だっけ。よろしくないし。一ミリも。


 だが納得。目々典侍の怒る理由も必死な意味も理解できた。天彦がお役に立てるかどうかはまた別の問題だとして理解度はかなり深い案件だった。

 今朝の感じなら惟任とは昵懇の仲なのだろう。延いては将軍家は抑えた。仏門はすでに手の内に抑えてある。茶々丸をどう出汁に使うかはわからないが九条脱落のあと、顕如とは通通の中であることは疑いようもないはずである。どちらにも利があるので。

 しかし織田家はどうだろう。きっと相手にされなかったのでは。史実ではかなり深い仲だったが目下そのポジには天彦がついている。

 ならば残すは朝家のみ。そういうこと。つまりこれは近衛家の形を変えた天下統一。天彦はそう予感していた。


 これは天彦の功罪である。本来なら顕在化され歴史の表舞台に立つはずの悪意が霧散してしまっている。果たしてこれがどう作用するのか。猛烈な蟲毒となって襲い来るのか、はたまたそのまま地下に潜伏するのか。天彦にはわからない。


 但しただ一つ明確になったことがある。五摂家筆頭近衛家は敵。少なくとも近衛前久は敵である。そういうこと。

 言うは易し。だが今度の敵はかつてないほど強大である。なにしろ腰が軽いのだ。おまけに愛嬌があって人たらし。あの謙信公も惚れさせたとか。しかも自ら下向してまで刀を振るう豪胆さも持ち合わせている。

 裏を返せば公家の公家たる弱さがない。公家の権高さは脆さにつながる弱点でしかないと天彦は確信していた。しかしそれがないとなればこれはハッキリと強敵だった。何しろ天彦は自分と比較してなんと共通点の多いことかと感心してしまっているのだから。上位互換。そんな厭な単語が脳裏を行ったり来たり。


 近衛が誰を捩じ込んだのかは知らないが、そういうことなら汗は掻ける。何しろお国の一大事である。

 延いては菊亭の大事でもあることはさて措いても、天彦にとって皇太子殿下には史実とは違って是が非でも末永く長生きしてもらわなければ困る理由が多くあった。



 閑話休題、

 天彦は真剣モードで目々典侍はに熱い眼差しを差し向ける。


「お待たせいたしましておじゃります」

「お考え、纏まりさんにあらしゃりますか」

「はっ。そこでつかぬ事をお伺いいたしますが、目々典侍に御味方はあらせられるので」

「つかぬことは伺うものではおじゃりません」


 おい。急に不穏!


「ではお幾つにございまするか――痛いです。なんで抓らはったんですか。あ。じんわり後からもっと痛いん」

「だまらっしゃい。男ならこらえなさい」

「えぇ」

「何が不満か。妾の心の方が数倍も痛いと知れ」

「いやいや、身共はご年齢を伺っただけに……あ、はい。以降は控えますお許しください」

「次はないぞ」


 こっわ。


 だが天彦にけっして不埒な考えはない。まだ子供は生めるのかの確認をしたまでである。これも大事な確認作業の一環である。なのに、むちゃんこ切れてるやん。

 もし生めるなら目々典侍も近衛の排除対象に成り得るのに。なんで……。


 天彦は更に不穏を確信して、


「目々典侍、ひょっとして誤解があらしゃるのでは」

「待て。妾もよくよく考えた。おい小僧、今の件は必要あったのか」

「随分と荒ぶっておられるご様子」

「あるのかないのか」

「ございましたん」

「どのように」

「どこに耳があるやら。この場で軽々には語れぬ件にて、慎重に慎重を期すため宿題として持ち帰りまする」

「貴様、……貸しておく。妾には菊亭が居れば問題ない。そう固く信じておる」

「つまり孤軍奮闘におじゃりますか」

「情緒に訴えたのや。もっと感情をゆらしてんか」

「口調の乱れは御心の乱れと申します。あいにく苦手分野なもので」

「どこの婆か! 嘘を仰い」


 ち、めんどい。


 二重の意味で面倒になった。目々典侍の孤軍奮闘。つまり裏を返せば近衛の後宮浸透政策はすでに功を奏していて、後塵を拝する天彦にもはや打つ手はないことを示唆しているのでは。この予測が正しいならいくらなんでも寒すぎた。


「ご不快なら謹んでお詫び申し上げます。それで情勢は孤軍奮闘でよろしいさんにあらしゃりますか」

「そうとも申す。存分に借りを返す好機なるぞ、善きに計らえ」

「勘違いなら堪忍なん。目々典侍なんか楽しそうなん、なんでかな」

「あら馬鹿ね、それは愉快だからに決まっているわ」

「あ、はい。デスヨネ」


 仕掛けたら乗ってくれる。こういうところこそ目々典侍の目々典侍たる所以なのだろう。おまけにこの気性。窮地も楽しめてしまうと言うのか何事も現実味に乏しい貴種の性と言うのか。

 いずれにしても“これ絶対しんどいやつ”。天彦のダメなときだけ当たる方の予感はひしひしと訴えていた。


「大方針を今月中に。すべて仕込み終えていてもええ。存分に辣腕を揮うがよろしかろう」

「むり。躊躇はしまくりなんせめて敏腕にしてー」

「甘えるな。それともなにかご不満でもあらしゃりますのか。菊亭大金主たるこの妾に。菊亭大金主たるこの妾に」

「二遍ゆう!」

「三遍欲しいんか。何遍でもゆうたろ。参議の耳が聞き届けるそのときまで」

「滅相もおじゃりませぬ」

「よろしい。ではそのように」

「はっ、承知いたしましておじゃります。御前失礼いたしまするぅ」

「そうしい。ご苦労さんやったな。ほんまにしんどかったら申しなさい」

「しんどいん」

「往ね」


 デスヨネ。目々典侍の御前を辞す。


 ふざけてこそいるが事はかなりの大事である。それこそ天彦も目々典侍も余裕で破滅しかねないほどの極大の。もっと大局ならあるいは国を割ってしまいかねないほどの一大事に発展しかねない特大の地雷である。


 五摂家近衛はそれほど巨大。よくて引き分け、悪くすれば無残な圧敗をくらう超大物である。この世界線の近衛前久は僅か数年でそれほどの大人物へと変貌を遂げていた。やはり歴史に名を刻む人物、侮れない。と同時に。


 何してくれとん。むちゃんこ忙しいこの折に。氏ぬ。


 そんな感情に苛まれる柴犬眉彦は目々典侍の手前実際にはできないので内心で天を仰いで、気付けば背中から滴り落ちていた冷たい汗をだけそっと拭った。

 脳裏に浮かぶあの実に偉そうに威張り散らかしていた近衛牡丹紋を思い浮かべて。




 ◇




 御前を辞した天彦は承香殿しょうきょうでんを後にして、さっそく本分である太政官舎へと向かった。

 むろん先輩諸氏へのご挨拶である。歓迎されているかどうかは乞うご期待のにんまり心地で。心なしか足取りが軽いのは性格がいい証拠である。


 太政官舎は紫宸殿東隣に位置する朝堂院殿にある。これは正史では廃れてしまっている殿でありこの世界線特有の体制である。偏に朝家の繁栄を意味していて天彦にとっては悪い気のしない変革であった。


 さて朝堂院殿は東西六つ合計12の堂(大部屋)からなっており、東一堂着座の官司を太政大臣・左大臣・右大臣。西一堂着座の官司を親王殿下とした。

 以下は官職の序列通り東二堂を大納言、中納言、参議と言った風に格と位階に沿って割り振られていく。

 上意執行の府太政官とはいえ、やはり上位三職は別格であり天彦の就く参議を始め大納言も中納言も格下感は否めない。それを証拠に最上位三職は決まって一名の任命なのに比べると残念味にあふれている。


 天彦が朝堂院東二堂の扉を開くと、そこには十一名ものご同輩が着座なされ何かしらの執務に腐心なされていたのである。

 大納言二名、中納言二名。参議に至っては天彦含めて八名もいるではないか。

 中にはおっちんしているだけでもご立派なお爺ちゃん公卿と、まったくその真逆のショタ公卿がいて光景としてはちょっとおもろい。平和かな。

 但し卿らが不世出の大天才であり無類の経歴のお歴々である可能性もまだ完全には否めない状況下、何事も断言するには早計である。だが、


 どうっでもええ――!


 いずれにしても天彦のやる気を一瞬の許に削いでしまっていたことだけは確かである。


「売官やめたんと違うのん」


 むろん六位以下の有象無象官位ならいくらでも売ればいいと思う。これも朝廷の立派な歳入源だと思うから。だが重要ポストはどうなのだろう。やめていただきたかったのが率直な天彦の心境であった。即刻廃止を提言したい。

 つまり裏を返せば重要な議題は東一堂、即ちすべてトップスリーで決定されていることを意味していた。ぬぐぐぅぅ。


 天彦は何も答えの出ていない統治制度に物申しているわけではない。単に近衛の思惑が不愉快なだけ。どうせこの仕組みを作ったのはあの寝業師に決まっているのだから。


 すーはーすー。


「お初にお目にかかりまする! 遅ればせながら本日初登朝致しまする菊亭天彦におじゃります。同胞諸氏の御皆々様におかれましては、これを機によしなに御願い申し上げまするぅ」


 何事も第一印象が決め手となる。らしいので天彦は元気いっぱい声を張った。

 若干名のイタイやつが来たぞ顔と大多数のポカン顔を置き去りに、天彦は上がった眉毛をぴくぴくさせて半ば自棄くそ気味できんきんと大声を張るのであった。何事も第一印象が決め手となるらしいので。


 あるいは二度言うよりもっと大事な本心はこちらの方かもしれないとして、これで匙を投げたらそれまでである。

 勝てずとも粘って引き分けには持っていかなければ悪巧み師としての沽券にかかわる。そんな師があればだが。

 勝負の土俵にすら上がらずに勝てなかったから負けたのだ。敗因は出遅れですとかダサすぎである。上がった眉よりダサすぎる。それだけは許さん何があろうと断じての巻。


 そんな振り切れた感情で、


「菊亭におじゃる」


 同僚諸氏一人一人に丁寧に慇懃に頭を下げて回るのであった。なーん。










【文中補足】

 1、文中でもないのですがサブタイのコレとは眉を剃って上げて書く柴犬眉を指す。ご承知かとは思いますが一応念のために。ぬぐぅぅう眉毛め。これさえおおえば身共にぃ。そんな感じ。













お読みいただきましてありがとうございます。

ブクマ・ポイント・いいね。減らないだけでも御の字なのに増えるとか泣く。この作品はきっと皆さまの愛と寛容で成り立っているのだとつくづく実感しております。まぢに。大真面目に。鼻をすすりながら書き進めますので今後ともよろしくお願いいたします。おまっふざけろは感想欄にてバイバイキン。


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