#11 虹が見たいなら雨くらい我慢しなきゃ、ね
永禄十二年(1569)七月二十四日
寅刻平旦、暁七つの鐘がなる頃。
朝が弱い上に昨日の疲れをかなり持ち越してしまっている天彦だが、けれどこの日ばかりはしゃんとしている。
本日は参内である。参議になって以降初めての内裏参上。だが帝への直接の目通りは予定されていないのでまだ気は楽。それでも天彦は身が引き締まる思いからやや緊張の面持ちで正装に袖を通す。以前着付けを手伝ってくれていたのはお母さんぶりたい家令さんやったなぁと郷愁にも似た切ない感情にかられながら。
「天ちゃん、ちょっと大きくなったんじゃん」
「え、まぢ」
「まじまじ。先月オーダーしたフォーマルドレスの丈が少し短いもん」
「せめてスーツにしておくれ。それでもなんかちゃうねんけど。で、どのくらい伸びたんやろか」
「1センチ、……には満たないね。7ミリくらい?」
おお……! ……おお? おい待て。
誤差ちゃうん。冷めはしないがそんな思いが完全な爆発的歓喜にブレーキを掛ける。
イルダのことなのでお世辞の心配はほとんどいらないとしても、なにせイルダだ。アホである。誤解や勘違いや思い込みならむしろある。
だが嬉しいは嬉しい。天彦はこういうときだけ発動するプラス思考で都合よくイルダの言葉を額面通りに受け止めて小さな喜びをかみしめながら、けれど表情はやや緊張の面持ちを崩さない。同じく侍るコンスエラが柄にもなく神妙な面持ちで待機していることとは無関係に。
何かしらの賭けか条件が発動したのだろう。そんなコンスエラからは神妙さと不貞腐れが入り混じった幼稚な気配がわかりやすく伝わってくる。こういうときの対処法は一択。天彦は放置を決め込む。
「おお、やるじゃん。神々しいまであるね」
「まぢ」
「姿見見てみ。コン、角度調整」
「ちっ」
「おい下僕、返事はどうした」
「うぃーっす」
推察の正しさを予感しながら、わかりやすく格下ムーブを強いられてあからさまに不機嫌なコンスエラが整えた姿見の前に立つ。
「おお、まぢか。むちゃんこかっちょええ」
「でしょ。やっぱブラックはシブいよね」
「うん」
「あら素直。でもちょっと拍子抜けしちゃうわね」
「普通に嬉しいん」
「うふふそっか。嬉しそうにしちゃって。でもホントいい感じだよ」
「おおきにさん」
イルダに持ち上げられ満更でもない天彦が上機嫌でいると、
「ずっとそうだと可愛げがあっていいんだけど。天ちゃんは基本俺様気質だから異性としてはぜんぜんダメ」
「おい!」
「そうかな。うちは好きよ、俺様男子」
「イルは見る目が腐ってるから」
「腐ってるか!」
「腐ってる」
「がるる」
「がおぉ」
論点はそこじゃない。なのになぞの議論が始まってしまい色々台無しとなってしまう。能力が高いだけに残念過ぎる二人である。
天彦は痛感する。こういう家来はやはり陪臣あたりの距離感が丁度いい。そして即刻大至急入れ替え戦を行いたい。そんな制度があるのなら。
「チェンジで」
「ちょっ」
「まっ」
はっ。
待っていましたとばかり佐吉と是知が先を競った。イルダを押しのけるようにして位置についたのは佐吉であった。
天彦は是知の口惜しそうな顔に慰めの苦笑を投げかけてやり佐吉に背を向けひもを通させる。
「きつくはございませぬか」
「大丈夫や」
「四位の位袍は黒にございますか」
「見えるわな。でもちゃうねん佐吉、これは深緋や」
「深緋にございまするか。恥ずかしながら某は初耳にございます」
「恥ずかしいことはない。知らぬは知ればええさんなだけやから」
「はい! 日々是精進致しまする」
四位の位色は深緋である。一応貴色なので紫味は帯びているがほとんどテイ。主に多年草の茜を使っていることからもこの時代の染めは原則草木染なため紫はたいへん貴重。というより手間暇がかかりすぎた。
故に四位の位色の名称にある緋の彩感はほとんどなく黒味の強い色である。黒とさえ言わなければ黒と思って問題ない。
だが残念。チェンジのチェンジが発動した。佐吉では着付けが甘い。イルダが神妙な顔で体をそっと入れ替えた。程なくして完成に近づいていく。
「おお、無限かっちょええさんや」
「うん。無限カッコいいよね」
主従そろって痛いので適切かどうかはこの際無視して。コンスエラの感情を殺した表情が妙に気になりつつも嬉しさを隠せない。
伝統色のいろはなどよくわかっていない天彦であってもそれでもわかるのだ。無限かっちょええさんだと。古今東西、ブラックを嫌う男子はいない。そういうこと。
「この際だし眉も上げちゃう?」
「コロス?」
「ははは、なんでそう嫌がるかな。毎度反応が面白いからつい言っちゃうけど」
「おい。こっちからすれば疑問に思うその感性にこそ疑問なん」
「なんでさ、可愛いじゃん。イヌっころみたいで」
「柴犬!」
「きゃっ」
イルダの脇腹に物理的ツッコミを感情的に入れて。
「お前、かなり太ったな」
「おいコラ、クソガキ。物事は境界線が命じゃなかったのかよ」
「事実やろ。線の内や」
「ほう、事実だったら何でもアリかよ。その戦争買ってやんよ」
と、
「お前ら揃ってウチを蔑ろにしやがって。二人纏めて相手してやるよ!」
あ。
あ。
あ。
天彦ばかりではなく首謀者のコンスエラもそれを煽ったイルダも同じく、謎の重い沈黙に耽っていく。沈黙の時間は天彦が姿見を覗き込むまで続いていて、いよいよちらっ。
ぬおぉおおおおおおおおおおおおおおおおお――!
絶叫と共に終止符が打たれた。氏ぬ。
天彦が絶望に打ちひしがれていると、
ぎゃはははははは。ぐはははははは、
わはははは。きゃはははは。
追い打ちをかけるようなバカ笑いが室内に鳴り響いた。
応接室兼私室に詰めている家人は危険を察知したのかまんまと撤退。閑散とした部屋には数名ばかりとなっていた。
「あははは、ダメ死ぬ。面白すぎて笑い転げて死んじゃう」
「ならば死ね」
「あ」
本日寅刻平旦、暁七つの鐘が鳴ってしばらくして。
菊亭家には眉無のカオナシが二名発生したとかしないとか。
◇
コンスエラを懲罰的ぼっとん便所掃除係に任命して、不本意ながら久々に射干党とがるるわきゃきゃといちゃついた天彦だったが、いよいよ時間が差し迫る。
目々典侍の取り計らいで後宮から籠が参るのである。急がなければ。口では言うが動作はいたって常態である。
「ふーん。そういうもの?」
「そうゆうもんや」
美的感覚的にムリ。片眉では不釣り合いなので泣く泣く両眉とも上げている柴犬かわいい天彦が、これまで頑として眉を上げなかった理由に一応の納得を見せるイルダだが嘘だ。なにせ毎回これで終えているのに改めてまるで初見のような反応で同じ件を繰り返すから。控えめに見積もって阿呆である。
そんなお痛いイルダ女史は不意に少しだけ真剣味を帯びた目で天彦を直視すると、何かを含むような目をしてそっと顔を寄せて声を潜める仕草をした。雰囲気で察した天彦も耳を寄せる。
但し以前にこれで一度耳をかまれた実績があるので手放しに信用はしていない。普通にしょーもないのである。イルダもコンスエラも。だがその際には報復に鼻を千切れるほど噛んでやったので上下関係は確立されているはずである。
「東西の大名がご列席なさるんだよね。家になんか用事ある?」
「毛利には張り付けてくれているんやな」
「うん指示通りに。毛利家からはご当主さん直々にご参列だね」
「ほんならええさん。しかし輝元さんもアテが外れたな」
「あて?」
「信長さんが目当てやろ。何事にも慎重なお家柄さんやからなぁ」
「将軍家に義理堅いお家さんではなくて?」
「義理堅いとは対極にあるな」
「へー。そういう見立てなんだね。でも感心しちゃう。相変わらず物凄い見立てだよね。軸はなんだろ。でもなーる。だったら確かにアテがハズレたね」
毛利輝元の目当ては間違いなく信長であろう。輝元はさて措いても依然として健在であるご隠居様(元就公)には皇統など関心が薄いだろうから。あってもお家の大事には到底及ばないレベルの熱量。絶対に。
むしろ正統性などむちゃくちゃに壊れて欲しい勢筆頭かもしれないから。何しろ出自怪しからぬ国人出身の下剋上大名の筆頭格だから。
そして毛利には警戒すべき単純にして絶対の理由があった。無類の戦上手という戦国を伸し上がる第一条件があったのだ。
史実どおりなら然して不安視はしていない。だが世界線はズレてしまった。何が起こっても可怪しくはない。
その毛利家。七十戦無敗上杉エグいとかのレベルではない。土地柄が違うとはいえ毛利家の戦歴は250戦無敗なのだから。エグいて! 天彦にとってそれはもう無敵である。
「毛利はたしか大江氏やったん」
「それって本姓ってやつだよね、姓が朝臣の」
「そや。臣では最上位の姓になる」
「新以外にもあるんだ」
「皇族は真人姓を授かるんや」
「へー。でもそれ系のネーム、いまだに慣れないよ」
「まあぼちぼちでええ。引き続き御頼みさん」
「うん任せて」
天彦は毛利を油断ならない氏族だと気を引き締める。接触があれば媚びを売ることも含めて脳裏にとめおき、輝元のアテは外れたと予言した自分の推論に自信を覗かせていた。
織田軍出陣。よって魔王は京にはいない。岐阜城を発った魔王信長は八万にも及ぶ大軍勢を引き連れ北伊勢征伐に出陣した。その一報で京の町は持ちきりである。
セーフ。なのか。いずれにせよ朗報には違いない。戦争に対する小難しい感情は一旦脇に置き、宿題提出の期限が自動的に伸びて当座が凌げたことだけに喜びを感じることにして意識を切り替え己の本分に集中する。
「動きがないならええさんや。今はじっとしとこ」
「天ちゃんの見立てでは来年が激動だったよね」
「ちゃう。来年からずっと激動や。平和な日々は今年でお仕舞い」
「そっか。堺の攻略はダイジョブそ?」
「自由が利かん。身共がラウラに対する恩を忘れることは絶対にない。海洋帝国を放置しているんは信頼からや。それだけは申し付けておく」
「普通なら詭弁臭いと眉をしかめるとこだけど、ぜんぶ知ってるだけにね。……天ちゃんを信じるよ」
「そうしい。でも信じるんはラウラにしとき」
「一緒じゃん」
本日は東宮(誠仁親王)の皇太子即位の立太子の儀が執り行われるとのこと。
直前の一報で菊亭もバタバタである。むろん天彦も知っていたが自分には関係がない行事だと意識の外に置いていた。
これは悪意からではなく事実として。一つに人事に相当介入した自覚があるので腰が引けていたのである。
天彦とてメンタルは生粋の日本人。この状況化、即ち高確率で皇太子に煙たがられているかあるいは嫌われている公算が高い中、いずれにせよのこのこ間抜けヅラを曝すほど厚顔ではない。
なにせ天彦は魔王に強請って露骨な皇室介入を行っている。しかも人事という最も嫌われる筋の介入を行っていた。殿下の別当(蔵人所の名目上の責任者)にぱっぱ晴季を任ずるというウルトラCをお強請りした手前、親子の確執は噂の域を出てしまい内外に知れ渡ってしまっている。
これはいわゆる一口で二度不味いというヤツである。朝家を敬わない不敬の輩と誹られていることはもちろんだが、親を軽んじる子は原則的に忌避される傾向に強くあった。
勝頼を軸とする武田家が今一つ浮上しないのも親子二代に亘っての不義理が影響しているからと考えられる。なぜかは難しいが道徳的なおそらく儒教の精神が色濃いからだと思われる。知らんけど。
ということで足も遠のく。天彦にとってはこれだけで十分気が滅入るのだが他にも多数問題を抱えているということで敢えて朝廷とは距離を置いていたのである。いわゆる自粛というやつだ。よっててっきり参加できないものと思い込んでいたのだが……。
ところがどっこい。厳しいのか甘いのか、昨夜遅く目々典侍に口を酸っぱく参上せよとのお達しを頂戴したため名目ができてしまい栄えある席につけることとなっていた。
天彦とて普通に嬉しい。むしろ感激。殿下の晴れの席にお呼ばれすることももちろんだが久しぶりに親友に会えるから。
光宣とのわだかまりがまったくゼロと言えば嘘になるだろう。主にあちら側にはあるはずだから。烏丸家の意志を強引に捻じ曲げたのだ。それはあって然るべき。それに関しては天彦も特に思うところは無い。
何しろ敵対しなくていいだけでも天彦にとっては上出来の上等だった。故に普通に嬉しいのだ。むしろ感激なのである。
何しろこの世界線での敵対はごく自然に命の奪い合いを意味していて、メンタル雑魚なめくじ弱弱天彦には到底耐えられないのであった。控えめに言って絶望していた。あるいは普通に氏ぬまであった。
だから目々典侍のそうとう無茶な十七か条の要求にも、すんなりあっさり聞き入れることができたのだ。
「整いましてございます」
「おおきにさんイルダ。お小遣いいるか」
「くれるんだったら……やっぱいいや」
「お、ちょっとお利巧さんになって。弟くんは嬉しいさんやで」
「もうバカにして、天ちゃんってほんと失礼よね」
すると是知が、
「殿、籠が参ってございます」
「さよか。ほな参るで」
天彦のこの一言で一気に室内が引き締まった。
着付けを済ませ正面玄関ではなく通用小口をくぐる。
まだ日も昇らぬ朝早く。家人用人総出の見送りは当たり前だがご近所迷惑。今更感は強いものの菊亭なりの近隣住民への配慮であった。
「さあ参るん」
行ってらっしゃいませ――。
文官諸太夫にしめやかに送り出され、
「殿の御出陣である。者ども声を振り絞れいっ! えい応――!」
えい応! えい応! えいえい応――っ!
近隣に配慮して大正解である。氏郷の音頭によって叫ばれる青侍衆の絶叫は(きわめてうるさい)の基準値である100デシベルは優に超え、闇夜を切り裂くばかりか地面さえ揺らしてみせるのだった。
あ、うん。
馴れはしたがあまり喜ばしくはない体育会系DQN部の見送りに苦笑いをかみ殺して天彦は、けれどそんな武士の頭領なのだと改めて実感するこの瞬間がなんだか妙に面はゆい。
嬉し恥ずかし。痛し痒し。愛し恋し。は違うかも。
いずれにしてもテレテレと天彦は照れ隠しに思いつく限りあらゆる対比の言葉を思い浮かべながら、ほとんどすべての家人用人に見送られる中定宿陣屋を後にするのであった。
◇
内裏諸門のうちでも最も重要な門である承明門が固く閉ざしていた扉を開く。同じく年に数度しか開けられない建礼門も扉を開き、そこから本日の主役である東宮誠仁親王が皇太子を乗せた籠ごとゆるゆるとご来臨あそばされた。
ここから東宮は紫宸殿をお目指しになられ、何らかの儀式とご報告をなされるのだろう。知らんけど。
実際に天彦は流れをまったく知らされないままこの行列に参列させられているので仕方がない。位階ごとに振り分けられているのか以々とも会えていない。
建礼門と承明門との間にある大通りにてまさかの前列立ち見席。S席寄越せとまでは言わないがそれでいいのか太政官とも思わなくもない悪待遇に、若干ではなく不愉快な思いをさせられている中、……おぉ。
そんな感情など一秒で吹き飛ぶ吉兆が訪れた。
「光宣ぅ! こっちや光宣っ! すかしてへんで御手手振ってぇ――! 身共はここやでぇ」
おいハズいからやめろし。ほんでなんで眉ないのん!?
烏丸光宣の心の内を代弁しておく。きっとこう。
だがあながち満更でもない風で何よりである。少なくとも以前とは180度違う色味の表情だった、欲目ではなく確実に。希望的観測でもけっしてなく口角が心なしか上がっていた。
微々たる変化だが天彦はぐすんすんすん思わず鼻を鳴らしてしまい、坦々とした顔つきの主たる原因である終始不機嫌な双眸に薄っすら雫をためるのだった。
「……」
そうこうしていると目の前をぱっぱ晴季が通過していく。目は合った。どうしようもなく確実に。だがまるでお前ダレといわんばかりの素振りを隠さずガン無視を決め込まれてしまっていた。……それが何か。
ほんとうに久しぶりの邂逅は思いのほか思いのほかだった。眉毛がなくなり柴犬可愛くなってしまっていることの方がしんどいくらいだ。
だがそれでも敢えて言葉にするなら感情をゆさぶられなかったとなるのだろうか。単に天彦の中で親子の断絶を確実視させるだけの一つのエピソードとして通過していく。そんなヤツ。
お披露目行列はそのぱっぱ晴季を先頭に皇太子の家職を仰せつかった面々が皇太子殿下を乗せた籠の後に続いていく。すべてが煌びやかで極めて贅沢、言葉を飾らず言うならまったく以って無駄の権化だ。
だが天彦にはそう感じてしまうだけで、多くの者には必要だった。さぞ立派に映っていることだろう。皆が満足げに感嘆の眼差しで見送っている。
極論権威とは即ち、金ドブ上等の情緒的ベネフィットの上に成り立つ偶像なのだから。
「竜胆中将さーん!」
小難しい話はさて措き、別当には知った顔がずいぶん多い。甘露寺、庭田、山科、中山、烏丸と、天彦は周囲に聞こえるレベルの声で自慢した。
アホである。周囲のドン引きも当前である。己が人事に介入し何が何でもとゴリ押し指定した事実は織田家の文官を通じて方々に漏らされていて、公然の秘密扱いで誰もが知るところなのだから。
天彦のことを快く思わない織田家中の者も少なくないことのエピソードを挟んで、するとそこに、
「ふーん。……あ、そう」
今後を占う不和の始まりが顕在化して姿を見せた。
天彦はさっきまで見せていた陽の雰囲気が嘘のように途端負の感情を身に纏いどす黒く染まっていく。
その黒の位袍と相俟ってまるで闇落ちしたダーク何某風ではないか。今なら黒の宰相も目ではない。よって明らかによろしくない。印象的にも心情的にも。
だが天彦はよろしくない自覚のままよろしくない感情を剥き出しにその集団を凝視した。こちらに気づけといわんばかりに。
あるいは鼻からご承知なのか。いずれにしても天彦の対面には惟任日向守を囲むように将軍家奉公衆が臨席し、その横に茶々丸の義理ぱっぱ五摂家筆頭近衛前久卿がおっちん鎮座しているのだった。
と、そこに。
「よくぞ参った。さすがに妾が直接足を運ぶと訳が違うにおじゃりますなぁ」
「滅相もなく。恐悦至極におじゃります」
目々典侍が姿を見せた。くすっと笑ったのは気のせいではないだろう。
天彦の無い眉がピクリと動く。
目々典侍は天彦の異変にすぐ感付くと、気さくに話しかけた先ほどまでの柔和な表情を一変させて彼女の本質であろうドスの効いた声で言う。
「あれに気付いたんか。かわいらしい眉上げさん」
「眉はいずれ生えておじゃります」
「可愛いからそうしとき」
「お言葉ですけど絶対に厭や」
ええからそうしとき。ほなついてお参りさん。
天彦は颯爽と着物の裾を翻す目々典侍の後を追って承明門に消えるのだった。
向きを変えるほんの一瞬ちらっと横目で、実に偉そうに威張り散らかしている近衛牡丹紋をそっと睨んで。
【文中補足】
1、訂正 姓について
五位以上の人に与えられる姓は、三位以上は氏の下につけ、四位・五位は諱の下につけたらしい。
そして三位以上の並びは原則、位階・名字・(官位)・通称・氏・姓・諱となり、四位以下は原則、位階・名字・官位・氏・諱・姓となる
例)四位の天彦の場合、従四位下菊亭参議藤原天彦朝臣が正しいとのこと。※108話以降はこちらで統一いたします。