44 大きな夢(1)
御台所倫子が陸続きとなった江の島詣から戻ってきた頃、倫子の父前内大臣坊門信清の訃報が鎌倉に届いた。
「寂しいことになってしまったな、御台」
実朝は、妻を気遣い、抱きしめた。
「昨年あたりから、体調がすぐれないということは聞いていましたから。私は大丈夫です。優しい母上様と可愛い姫がいるのですから」
倫子は、寂しげな表情を浮かべながらも、穏やかに答えた。
重臣達との協力のもと、実朝の政治改革の方も着実に進んで行った。
その頃から、実朝は、御家人達の陳情を直接聴取し、再び和田合戦のような悲劇がおこらないよう、御家人達の不満解消に努めている。
和田合戦では同族への裏切り者という汚名を着ることを覚悟の上で、将軍方についた三浦義村であったが。
義村は、実朝から、愁訴聴断の担当者の一人に任じられている。
実朝は、船団の扱い、橋の改修工事などの交通政策をはじめとする義村の実務能力を高く評価しており、従兄の和田義盛と同様に、義村が義理堅く情に厚い人物であることをよく分かっていた。
また、政所の別当も従来の五人から九人に増やされ、より多くの意見が反映される仕組みが整えられた。兄頼家が鎌倉殿の地位を継いだ際にも、十三人の重臣達による支援体制がとられたが、父頼朝が亡くなった直後で派閥争いが顕在化してすぐにそれは壊れてしまった。そうした過去の反省も踏まえて、実朝は、義時や広元ら重臣達と協力して、安定したまつりごとを行おうと努力していった。
京の院も、実朝の努力を認め、実朝への信頼回復を官位の上昇という形で示していく。和田合戦後三年ほどの間、実朝の官位は据え置きのままだったのだが、実朝は、その年の六月には権中納言、七月には左中将に任じられている。
実朝の政治改革が軌道に乗り出したころ、鎌倉に東大寺大仏の復興に貢献した、宋の陳和卿という人物が面会を求めてきた。
「なんでも、御所様は、菩薩の化身の尊いお方だから、恩顔を拝みたいと言っているそうですよ」
「なんだそれは。随分と胡散臭い奴だな」
茶化すようにどこか楽し気に言う時房に対して、実朝は眉をひそめた。
「和卿は、恐れ多くも故右幕下(頼朝のこと)が御自ら面会を求められたというのに、多くの命を奪った罪深い方だから会いたくないと言って拒否した無礼者です!そのような者にお会いになってはなりません!」
堅物の泰時は、真っ赤になって実朝が和卿と会うのを反対した。
「和卿は、東大寺といろいろと確執があったらしいですね。まあ、西国に居づらくなって、東国へ移って来る者は少なくないですからね」
時房の言うとおり、官人や僧侶など、西国で活躍することができなかった者にとって、鎌倉を中心とする東国の地は、一種の希望に満ちた新天地のようなところがあった。
文官達の中には、元は京の下級貴族出身でその才を買われて鎌倉に仕えることになった者も多い。
前年に亡くなった栄西を始め、法然の弟子である親鸞もその頃常陸国に移り住んで東国での布教活動を行っている。
西国の旧仏教との確執から逃れて、東国に新しい仏の教えを広めようとやって来た僧侶は少なくなく、熊谷直実、宇都宮頼綱などのようにそれに帰依する坂東の有力者も結構いたのである。
和卿が自らの活躍の場を求めて東国にやって来たというのも、ありえない話ではないのだ。
「噂によると、和卿は、資材の横領が発覚して東大寺と揉め事を起こして、船を造って宋へ帰る計画を立てているとか。きっと、そのための費用を御所様に出していただこうと企んでいるに違いありません!御所様、騙されてはなりません!」
鷹揚に構えている時房に対して、泰時はむきになって声を荒げた。
その時、泰時の言葉を聞いた実朝の瞳が、面白いことを見つけたいたずらっ子のようにきらりと光った。
「厚かましそうな奴ではあるが、中にはいろいろと役立つ話もあるだろう。会うだけなら別によいではないか」
こうして、実朝は和卿と面会することになった。




