第240話 魔道士セルフィア・ルーメン
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ドスン。ドスン。ドスン。
大地を震わせる地鳴りは、もはや遠い響きではなかった。その振動は、領都の石造りの防壁を微かに揺らし、兵士たちの足元から恐怖を這い上がらせてくる。
領都の防壁まで、あとわずか。
巨大な岩のゴーレム五体が、その鈍重な体を揺らしながら、一歩一歩、確実な歩みで近づいてくる。彼らの歩調は、この領都の骨組みを根底から揺るがす巨大な破壊の予告音だった。
防壁の頂上、最前線に集められた三十名ほどの兵士たちの間には、もはや私語やざわめきはなかった。あったのは、緊張で喉が張り付くような鉛のように重い静寂だけ。普段は威勢のいい兵士たちの顔も、まるで血を抜かれたように青ざめている。
三メートルを超える巨岩の集団が発する圧倒的な物理的な圧力。そして、それを同時に操る仮面の魔道士の常識では理解不能な超常の力。その二重の恐怖に、誰もが体内の血流までを封じられ、ただ立ち尽くすしかなかった。
そして、ついにその瞬間が訪れる。
先頭を行く一回り大きなゴーレムが、防壁から矢が届くギリギリの距離でピタリと動きを止めた。他の四体も、まるで一本の糸で繋がれているかのごとく完全に静止する。
動きを止めた瞬間、それまで地面を伝っていた衝撃が、断ち切られるように完全に途絶した。その急激な静寂は、かえって耳鳴りのような不協和音となって響き渡る。
ゴーレムの肩に座る仮面の魔道士は微動だにしない。感情を一切映さない、ただ白い平滑な仮面。ただ遠くの領都を見据えるその姿は、まるで一体の冷たい彫像のようだった。その恐るべき静けさこそが、魔道士が持つ力の絶対性を証明していた。
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「 ――ひ、ひるむな! 持ち場を離れるな! 」
震える声を怒りによって押し殺し、最前線で指揮を執る兵士長グスタフが叫んだ。
彼の手が握る剣の柄は、己の汗で湿っている。しかしここで逃げれば、この五体の巨岩は、数時間後には領都の中を闊歩することになるだろう。
グスタフは恐怖を怒りに変え、剣を前に突き出し声を張り上げた。
「 何者だ! 」
彼は震える声を悟られまいと、あえて地声の限界まで声を荒げた。
「 執政官代理として尋問する! ナゼ魔道兵を連れ我らが領都に近づいた! 名を名乗れ! 何が目的だ! 」
その声は、ゴーレムと魔道士の間で虚しく響いた。
仮面の魔道士は反応しない。ただ静かに座している。その完全な無反応さが、兵士たちの恐怖をさらに増幅させた。
「 もしや、聞こえていないのか? 」
いや、あれほどの存在がこの距離で聞こえぬはずがない。そんな疑念と絶望が兵士たちの顔に浮かんだ。
「 カクセイキを持ってこい! 」
グスタフは部下に命じた。
「 は、はい! ただいまお持ちします! 」
デュール神の使徒様から授けられた魔道具。本来なら常に携帯しておくべきだが、神族から貸与された物であるがゆえに、普段は丁重に詰め所にて保管されていた。
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『 もう一度問う! 名を名乗れ! 何が目的で我らの領地に足を踏み入れた?! 』
拡声器を通し、グスタフの声が大音量となって付近に響き渡った。
やがて魔道士は座したまま、ゆっくりと木杖の先をグスタフに向かってわずかに傾けた。
何の変哲もない木杖。
だが、その先端に灯る微かな紫色の光が突然、強烈な脈動を打った。
その瞬間、グスタフは全身の血が凍り付くのを感じた。
『 動、動くな! 』
彼は悲鳴のような声を上げた。
だが彼の剣は、恐怖と魔道士から放たれる見えない絶対的な威圧感によって、もはや持ち上げることもできなかった。
周りの兵士たちも同様だ。彼らは目の前の巨岩ではなく、ゴーレムを操る仮面の人物から放たれる有無を言わせぬ力の奔流に、石化したように立ち尽くしていた。
その張り詰めた沈黙の中、魔道士の仮面の下から、冷たい感情のない――しかし深く響く声が微かに発せられた。
「 ん? 声を増幅させる魔道具か? 珍しい物を所有しているな 」
女性の声だ。
声は決して大きくない。だがナゼかその一言は、防壁の上にいる全ての者の脳裏に直接響いたかのように感じられた。そしてその背後には、いつでも領都を瓦礫に変えられる五体の岩の巨兵が、静かに控えている。
グスタフの顔から、完全に血の気が引いていた。
▽
「 いや、まさかイシュリリア国からの正式な国書を携えた魔道士様であったとは・・・ 」
グスタフはかろうじて口を開き、呻くように言った。その声は、恐怖から解放された安堵と自身の軽率な行動への後悔が入り混じっていた。
「 我々はその、魔道兵を連れて、領都に攻め込んできたのかと・・・ 」
彼は言葉を選びながら、冷や汗を流して続けた。
「 お見せいただいた文書と、イシュリリア国王陛下の御璽がなければ、我々は一触即発の事態を招いていたかもしれません・・・ 」
グスタフはそこまで言って言葉を切った。自分たちが領都の危機と断じたものが、南の大国からの正式な文書を携えた使者であり、その証拠を目の前で示され、ようやく事態を理解したからだ。
仮面の魔道士は、ゴーレムの肩の上で静かに頷いた。
「 失礼した。こちらからも十分な配慮が足りなかった 」
魔道士の声は、先ほどと変わらず冷淡に響いたが、そこに微かな疲労の色が滲んでいるようにグスタフには聞こえた。
「 この護衛用のゴーレム五体を連れ、最短ルートを急いでいた。このゴーレムどもは機密保持のため、魔力の波動を完全に抑える特殊な岩石で構成されている 」
魔道士は木杖の先をわずかに動かし、白い仮面を静かに持ち上げた。
仮面はその上部に縫い付けられた帽子と一体化しており、持ち上げると同時に帽子ごと頭から離れていった。
その下から現れたのは、光を避けるように細められた灰色の瞳と、端正な顔立ちだった。長い銀色の髪を三つ編みにし、知性に満ちた瞳を持つ非常に美しい女性の顔だ。
「 その魔道具による大音量の威嚇には正直驚かされた。特に文書を見せている最中にもかかわらず、戦闘準備態勢を取られたことで、こちらもやむなく魔力の脈動を高めてしまった 」
彼女は申し訳なさそうに眉を下げた。
「 威圧的に映る形で接近したこと、そして貴領に多大な恐怖と誤解を与えてしまったこと、この筆頭魔道士セルフィア・ルーメンが心よりお詫び申し上げる 」
セルフィアは、ゴーレムの上から深々と頭を下げた。すると五体の岩の巨人も、まるでセルフィアの頭と繋がっているかのように、一斉に膝をつき岩の体に微かな謝罪の振動を伝えた。
一瞬の静寂の後、防壁の上で固まっていた兵士たちから、安堵と恥辱の入り混じったざわめきが起こった。彼らは、セルフィアが部下に見せた国王直筆の証書を、グスタフが受け取って確認するまで信じられずにいたのだ。
グスタフは慌てて拡声器を部下に渡し、胸に手を当てて深く頭を垂れた。
「 い、いえ、とんでもない! 我々こそ確認の徹底を怠り、領都の安全確保という名目で、貴殿に対し戦闘準備を命じるという言語道断の無礼を働きました! 執政官代理として深くお詫び申し上げます! 」
彼の声はもはや震えもせず、ただ真摯な謝罪の念に満ちていた。
「 ただちに門を開け、貴殿を丁重にお迎えいたします! どうかご容赦ください! 」
グスタフは顔を上げ、セルフィアの瞳を見つめた。彼女の顔には、もう何の敵意も見えなかった。
「 感謝する、グスタフ殿 」
セルフィアは静かに答え、再び仮面を装着した。その仮面は、再び冷徹な彫像の顔となった。
「 ではこのゴーレムどもは門の手前で待機させましょう。このまま領都に入るのは、民衆の不安を煽るだろうから。わたしだけで執政官殿との会談に向かいましょう 」
彼女はそう言うと静かにゴーレムから飛び降り、領都の防壁へと歩みを進めた。その背後には五体の静かな岩巨人が、忠実な護衛として静かに控えていた。
▽
グスタフは慌ただしく伝令を走らせ、執政官パルムの執務室へと先触れを出させた。
グスタフ自身も、兵士長としての制服の乱れを整える間もなく、セルフィアを伴って執務室へと急いだ。彼は内心、安堵と、領都の危機に際しての自分の威勢のなさを恥じる気持ちが渦巻いていた。
▽
執政官パルムの執務室の扉が開くと、部屋の奥の大きな机に座る人物が、いかにも落ち着きのない様子で立ち上がりかけた。
領都を預かる暫定的な執政官、パルムである。
彼は細身で、目の下には深い隈があった。着ている上質なベルベットの服も、どこか着慣れない借り物のようで、この数日の心労がその顔全体に張り付いていた。
パルムは入室したのが魔道士セルフィアと確認するや、その顔は急速に青ざめた。
「 お、おお、これはこれは、イシュリリア国筆頭魔道士セルフィア・ルーメン殿。ようこそライベルク国領地へ 」
パルムは声を震わせながらも、どうにか愛想笑いを浮かべた。彼の視線は、セルフィアの頭に被さっている白い仮面に釘付けになり、一瞬たりとも逸らせなかった。まるでその仮面の下に、今にも爆発しそうな魔力が渦巻いているとでも思っているかのようだ。
セルフィアはグスタフに先導され、机の前の応接セットに着席した。
帽子と仮面を取り脇に置いた。その姿には、先ほどの威圧的な気配はなかった。
「 お初にお目にかかります、執政官パルム殿。この度はわたしの配慮のなさから、貴領に多大な混乱をもたらしたこと、重ねてお詫び申し上げる 」
セルフィアの声は、冷たい響きを持ちながらも丁寧だった。
パルムはゴクリと唾を飲み込んだ。
「 い、いえ! とんでもない! こちらこそ、確認もせずに戦闘態勢を取るという無礼を・・・ 」
彼は慌ててグスタフの方を向き、声を潜めた。
「 グスタフ! グスタフ兵士長! 早く、あの方に賜った紅茶と菓子を! 」
「 は、はい! 」
グスタフが退室すると、パルムはセルフィアに再び向き直った。
「 さてセルフィア殿。イシュリリア国王陛下からの国書を拝見いたしました。この地に貴国の筆頭魔道士様が来られるとは、一体どのような御用件で? 」
パルムは言葉を濁しつつ、本題に入るのを恐れているようだった。彼は窓の外に目をやり、五体の巨大な岩のゴーレムが、門前で静かに控えている様子を幻視しているのかもしれなかった。
セルフィアは静かに息を吐いた。彼女は、会話を長引かせるつもりはないようだった。
「 執政官パルム殿。わたしの目的は一つ。北方に逃走した『真龍』に関する情報です 」
パルムの顔から一気に血の気が失せた。彼の細い体が椅子の上でびくりと震えた。
「 し、しんりゅう? そ、その情報を得て、どうするおつもりですか? 」
「 シラを切らないでいただきたい 」セルフィアの声が一瞬だけ鋭くなった。
「 貴領は、以前にその真龍の襲撃を受け、執政官は領都の民を逃がすために奔走されたと聞いております。なんでも帝国の侵攻と重なっていたとか・・・デュール神の敬虔な信徒たちの協力もあり、見事に帝国を退けたあと貴殿が執政官の座に就かれた。イシュリリアはそう把握しております 」
セルフィアは灰色の瞳を細めた。
「 わたしにとってその真龍は討つべき仇。わたしの弟子を殺した宿敵。傷が完全に癒えるのを待ち、真龍を追ってはるばるここまで来たのです 」
パルムは汗を拭い怯えた目を部屋の隅に向けた。彼はもはや、愛想を繕う余裕すらなかった。
「 お、恐れながらセルフィア殿・・・真龍など、このライベルクの領地にはいません 」
「 そうですか 」
セルフィアは静かに答えると、一瞬、木杖の先端に微かな紫色の光を灯した。その光は、瞬く間に消えたが、パルムの表情を完全に凍り付かせた。
「 何故、嘘を? 」
セルフィアの声は以前よりも低く、感情が排除されていた。
パルムは顔を覆い小さく呻いた。
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パルムは顔を上げセルフィアを見つめた。その瞳には、恐怖と諦念が入り混じっていた。
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――この魔力の底が見えない魔道士が、一直線に執務室に来たのは幸いだ。まず街で情報収集していたのなら、すでに真龍殿とハルノ様の関係を耳にしていたはずだ。
――しかし、どうせ時間の問題だ。ハルノ様の存在は強大すぎる。隠し通すことはできない・・・時間の問題ならば、先手を打つ方がよい!
「 どうやら隠し通すのも難しそうですね・・・ 」
パルムは腹をくくったように意を決した。
「 しかし、もし貴殿が追っている真龍がここを襲撃した真龍ならば、もはや貴殿が手を下される必要はありません 」
パルムは懇願するように言った。その声には、助けを求めるような響きがあった。
「 それはどういう意味でしょう? 」
セルフィアの反応は一見穏やかだが、氷のように冷たい鋭さが内在していた。
「 御存知かどうかわかりませんが、実はライベルク王国には、デュール様が遣わされた使徒様がおられます。その使徒様によって真龍は調伏され、現在ライベルク王都で我々のために働いており、もはや危険な存在ではございません! 」
「 デュール神の使徒? 何を言っておられる? 」
セルフィアは怪訝な表情を隠そうともしていない。彼女の顔には、この情報に対する純粋な困惑が浮かんでいた。
「 こ、言葉のままです。使徒ハルノ様は、帝国の侵略を食い止め、真龍を調伏し、数えきれない奇跡の御業で王国の民を救っておられます。すでに真龍はハルノ様の配下です。悪いことは言いません、どのような事情があるにせよ、真龍の討伐など諦めるほかありません。それを実行なさろうとした場合、使徒ハルノ様だけでなく、ライベルク王国自体を敵に回すことになりかねません。無論、貴国にも影響が及ぶでしょう。外交問題に発展するのは必定かと存じます 」
「 執政官パルム殿、そのような世迷言で、なにやら脅迫しているおつもりか? 」
セルフィアは静かに言った。
「 いえ! 決して脅しなどではありません! 世迷言と申されましたが、デュール様の使徒様は、本当に我が国を今なお救っておられる現人神であらせられます。少しでも敵対する可能性があるのなら、それを忠告するのは当然でございます! 」
「 ――ふむ、嘘ではなさそうですね。嘘ではないのならば、わたしの捜索が大幅に短縮されることとなる。この情報、大切に使わせていただこう 」
セルフィアは立ち上がると、慌てるパルムに一礼した。彼女は、王都への旅路を頭の中で計算し始めているようだった。
彼女は部屋を出る直前、一瞬だけ立ち止まり、背中を向けたまま仮面の下から微かに囁いた。
「 ――我が弟子を殺した真龍と同個体ならば、たとえデュール神が後ろについていようと関係はない。我が魔法を叩きこみ、息の根を止めるのみ 」
その言葉を残し、セルフィアは静かに執務室を後にした。
パルムはセルフィアが部屋を出てからも、しばらくの間、椅子に座ったまま青ざめた顔で一点を見つめていた。彼の耳には、セルフィアの冷たい囁きが、絶望的な予言のように残響していた。
残されたのは、冷めきった紅茶と誰も手を付けていない菓子の香りだけだった。
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