第1話:英雄を、封印する
その元勇者は、誰もいない広場で、見えない魔物に剣を振るっていた。
「来るな……来るなッ、まだ、まだ町には子どもがいるんだ……!」
眼は血走り、空を切る斬撃のたびに石畳が抉れ、噴水が砕けた。見えない敵への一撃が、現実の建物を半壊させていく。十年前なら、それは英雄の戦いだった。
今は、ただの災害だ。
カイは、群衆の最前列に進み出た。
黒い執行服。腰には剣ではなく、幾重にも巻かれた封印鎖。近づく彼の背後で、住民たちが囁き交わす。
「あれが……勇者を狩る、局の……」
「執行官だ。誰か呼んだのか」
「呼ばなくても来る。ああいうのが暴れ出すと、必ず」
カイは足を止め、崩れかけた噴水の縁に立つ男を見上げた。記録は頭に入っている。
「ハロルド・グレン」
静かに、名を呼んだ。
「Aランク認定勇者。十年前、北方戦線で千の魔物を退けた英雄だ」
男の剣が、止まる。
焦点の合わない目が、ゆっくりとカイを捉えた。
「……お前、誰だ。魔物か。魔物なんだろう、そうだ、お前も――」
「魔王はもういない。戦争は終わったんだ、十年前に」
「嘘だ」ハロルドの声が裏返る。「嘘だ、嘘だ、まだ聞こえる、魔物の声が、頭の中で、ずっと、ずっと――」
カイには分かっていた。
彼を蝕んでいるのは、魔物ではない。役目を終えた英雄の力が、行き場を失って、内側から本人を喰い破っている。
英雄性の暴走。執行局が扱う事案の、典型例だ。
「説得を試みる」
腰の無線に短く告げ、カイは両手を上げて、一歩踏み出した。
「ハロルド。あんたは戦争を終わらせた一人だ。子どもを守りたかった。それは、本当だろう」
男の肩が、わずかに震えた。
「だが――今あんたが守りたがってるその子どもを、あんた自身の剣が、殺しかけてる」
ハロルドの剣先が、震えながら、下がっていく。
一瞬。
その一瞬を、暴走が押し流した。
男の全身から、白い光の紋様が噴き出す。制御を失った力が、風船のように膨れ上がっていく。広場全体を呑み込む業火が立ち上がろうとした――その刹那。
カイの封印鎖が、空気を裂いて伸びた。
鎖は生き物のようにハロルドの四肢へ巻きつき、噴き上がった力ごと、彼を地に縫い止める。白い光が、軋みながら、鎖の環の中へ吸い込まれていった。
ハロルドが、子どものように泣き始めた。
「……俺、また、誰か殺したか……?」
「いや」
カイは膝をつき、男の目を、正面から見た。
「誰も死んでない。あんたが、止まったからだ」
規定の手順は、ここから先が本番だった。
暴走を起こした勇者には、力の永久封印が下される。二度と力を使えない、ただの人間に戻す処置。執行局の隠語で言う――「英雄としての死」。
それは救済であり、刑罰でもあった。
カイは封印鎖の最後の環を、ハロルドの心臓の上へ、そっと当てた。冷たい金属が、汗ばんだ胸に触れる。
「ハロルド・グレン」
名を呼ぶ声だけは、努めて、静かに。
「勇者刑執行局の名において、あんたの力を、永久に封印する」
最後の環が、脈打つように光った。
ハロルドの体から、白い紋様が、潮が引くように消えていく。彼を苦しめ続けた力が、根こそぎ、彼の中から抜け落ちていった。
残ったのは、疲れ果てた、ただの中年の男だった。
「……ありがとう」
男は、笑って言った。
それが、いちばん堪えた。
力を奪われた男が、礼を言う。二度と英雄には戻れない体にされて、それでも、笑う。カイは何度この言葉を聞いても、慣れることができなかった。
慣れてはいけない、とも思っていた。
白い光が完全に消えたのを確かめて、カイは立ち上がった。無線に、短く告げる。
「執行完了。対象は生存。搬送を頼む」
群衆が、遠巻きにざわめいていた。英雄が壊れる瞬間も、その英雄が狩られる瞬間も、彼らはただ、遠くから見ている。誰も近づかない。近づけば、次は自分が巻き込まれると知っているから。
英雄は、もう憧れではない。
いつ暴発するか分からない、隣人の姿をした危険物だ。
――それが、この十年で世界が学んだことだった。
カイは、崩れた広場に背を向けた。
*
数日後。執行局の遺品整理室で、カイは一人、ハロルドの荷物を検分していた。
暴走を起こした勇者の私物は、規定により一度すべて調べられる。凶器になる魔道具はないか。次の暴走を誘発する薬物はないか。事務的な作業だ。いつもなら。
だが、その日は違った。
ハロルドの寝室から運ばれてきた古い衣装箱。その底板が、不自然に浮いていた。
カイは指をかけ、底板を外した。
一束の書類が、出てきた。
黄ばんだ紙。几帳面に綴じられた記録。そして――封蝋。見覚えのない紋章が、赤く押されている。三本の剣が、鎖で束ねられた意匠。
表題を読んだカイの指が、止まった。
『勇者再兵器化計画 ――第二期被験者リスト――』
再兵器化。
役目を終えた勇者を、もう一度、兵器として使う。その一語の意味を、カイの頭は正確に理解した。理解したうえで、体が拒んだ。
暴走は、力の行き詰まりだと思っていた。英雄が背負いすぎた力が、自然に破綻するのだと。だから執行局は、破綻した者を封じる。それが仕事だと。
だが、この書類が本物なら。
暴走は――誰かに、作られている。
カイは、震えそうになる指で、リストのページをめくった。第二期被験者。名前が、並んでいる。まだ暴走していない、次に「壊される」予定の英雄たち。
その筆頭に記された名前を、カイは知っていた。
十年前。同じパーティで、同じ魔王に剣を向けた。背中を預け合った、かつての仲間の名だった。
窓の外で、誰かが英雄を讃える古い歌を、口笛で吹いていた。
カイは、書類を閉じた。封蝋の三本の剣が、鈍く光っていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
英雄を「救う」でも「倒す」でもなく、「封印する」仕事。その静けさを書きたくて始めた物語です。
次話、執行局に一人の新人がやってきます。「執行の前に、救う方法を探すべきです」――そう言って、カイに食ってかかる娘が。
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