襲撃——砕かれた日常
翌日の午後二時。俺が凛のマンションで署名活動の進捗を確認していたとき、三島からメッセージが入った。
「先輩、すんません。やっぱ今日も訓練します。昨日のは気のせいだったと思うんで。五層の奥のレアポップ帯、今日逃したら一週間出ないんす」
返信する前に——三島はサードダンジョンに入っていた。
それから二時間後、凛のスマホが鳴った。管理局の緊急通報システムからの自動通知。サードダンジョン五層で探索者の救急搬送要請。
搬送者名——三島大輝。
凛の顔から色が消えた。俺は椅子を蹴って立ち上がった。
◇
サードダンジョンの五層は——静かだった。
あまりに静かすぎた。
三島が訓練に使っていた区画は、五層の東側回廊。天井の低い石造りの通路が続く区域で、Cランク帯のモンスターが出現する。単独訓練には最適な場所だ。人通りは少ない。監視カメラもない。
管理局の救護班が駆けつけたとき、三島は通路の壁に叩きつけられた状態で倒れていた。意識はあった。だが——立てなかった。
左腕が不自然な角度に曲がっていた。開放骨折。折れた骨の白い断面が、裂けた皮膚の隙間から覗いている。
全身に打撲痕と裂傷。額が割れて血が顔半分を覆っている。
久我山が出した中古の革鎧——三島の主力装備が、粉々に砕けていた。刃物ではない。鈍器による破壊。装備を壊すことを目的とした、計算された暴力の痕跡。
そして——三島の剣は、刃の根元から折られていた。
モンスターの攻撃ではない。モンスターは装備を「壊す」ことに執着しない。殺すか、食うか。それだけだ。装備だけを選んで破壊する知性は——人間のものだ。
三島は自分を襲った相手について、断片的にしか覚えていなかった。三人組。フード付きの外套。顔は見えなかった。言葉を発さなかった。最初の一撃で左腕を折られ、次の一撃で壁に叩きつけられた。そこから先は——記憶が曖昧だった。
冷たいダンジョンの床に倒れた三島の背中を、救護班が持ち上げた。三島が苦痛に顔を歪める。だが悲鳴は上げなかった。歯を食いしばっている。二十二歳の若者の唇から、血が滴っていた。
担架に乗せられる三島を見ながら、俺は五層の通路を観察した。鑑定眼鏡をかけた。レンズに——何も表示されない。襲撃者の痕跡は完全に消されていた。足跡も、体液も、装備の欠片も——何一つ残っていない。プロの仕事だ。証拠を残さない。ダンジョン内の事故に見せかける手口。管理局に報告しても「モンスターとの戦闘中の負傷」で処理されるだろう。
壁に手をついた。石の壁が——冷たかった。
摂氏十五度。人間の体温よりずっと低い。三島はこの冷たい床の上に——どれだけの時間、倒れていたのか。
◇
病院に着いたのは、通報から四十分後だった。
消毒液の匂いが鼻を突いた。白い蛍光灯が廊下を無機質に照らしている。壁も天井も床も白い。音が反響する。自分の足音が——やけに大きく聞こえた。
ICU前の待合スペース。プラスチックの椅子に座って、俺は——震えていた。
怒りではない。後悔だ。
昨夜、三島に「ダンジョンに入るな」と言った。だが理由を説明しなかった。「説明は後でする」と言った。三島は素直な男だ。だが理由のない指示には——従えなかった。当然だ。二十二歳の探索者にとって、訓練はアイデンティティだ。
俺が——ちゃんと説明していれば。久我山の警告を、そのまま伝えていれば。三島は——
モニターの電子音が、一定のリズムで廊下に響いていた。ピッ、ピッ、ピッ。三島の心拍だ。生きている証だ。だがその音が——俺の胸を抉った。
凛が来た。走ってきたのだろう、いつも整っている髪が乱れていた。息を切らしている。俺の隣に座った。何も言わなかった。ただ——隣にいた。
久我山も来た。店を閉めてきたらしい。革のエプロンのまま、無言で壁に寄りかかった。腕を組んでいる。その目は——怒りで燃えていた。
誰も何も言わなかった。待合スペースの沈黙は重かった。白い壁に囲まれた空間で、三人がそれぞれの感情を抱えている。凛は膝の上で拳を握っていた。久我山は壁にもたれたまま、天井の一点を見つめていた。
営業マン時代、大事な商談を落としたとき——オフィスに戻る電車の中がこんな空気だった。誰も何も言わない。言葉が見つからない。ただ、全員が同じことを考えている。「なぜ防げなかったのか」。
◇
三島が目を覚ましたのは、処置から一時間後だった。
医師が面会を許可した。左腕は複雑骨折で、全治三ヶ月。全身打撲と裂傷多数。後遺症の心配はないが——三ヶ月はダンジョンに入れない。探索者にとって三ヶ月のブランクは——致命的に近い。
病室に入った。蛍光灯の白い光。消毒液の匂い。心電図モニターの規則正しいビープ音。
三島は——ベッドの上で、天井を見ていた。左腕は肩から指先までギプスと包帯に覆われている。点滴のチューブが右腕に刺さっている。額の傷は縫合されて、白いガーゼが貼られていた。顔の左半分には打撲の紫色が広がっている。
俺を見た三島の目に——涙が滲んだ。
「先輩——」
声が掠れている。
「すんません……俺が——言うこと聞かなかったから……」
「違う」
俺の声が——自分でも驚くほど低かった。
「三島くんは悪くない。俺が——ちゃんと説明しなかった。理由を言わずに『休め』と言った。そんな指示に従えるわけがない。俺のミスだ」
「でも——」
「三島くん。やったのは誰だ。覚えているか」
三島が——唇を噛んだ。点滴に繋がれた右手が、シーツを握りしめた。
「三人組でした。フードで顔隠してて——声は出さなかった。でも動きが——プロでした。連携が完璧で、俺の動きを完全に読んでた。最初から——装備を壊すことだけ狙ってるみたいで。殺すつもりはなかったと思います。でも……」
三島の目から——涙がこぼれた。二十二歳の若者が、包帯に覆われたベッドの上で泣いていた。
「先輩のせいじゃないっす。俺が——弱いから」
その言葉が——俺の中で何かを壊した。
「黙れ」
三島が目を見開いた。
「お前は弱くない。Cランクの剣士が三人のプロの傭兵に囲まれて——生きている。それだけで十分だ。お前が弱いんじゃない。やつらが——卑怯なんだ」
三島が——唇を震わせて、何か言おうとした。だが言葉にならなかった。ただ涙が、ガーゼの隙間を伝って流れた。
点滴の液が、透明なチューブの中をゆっくりと落ちている。一滴、また一滴。時間がひどく遅く感じられた。心電図モニターのビープ音だけが、変わらないリズムを刻み続けている。
三島の右手が——布団の上で動いた。俺の方に伸ばされた。握手を求めるように。俺はその手を握った。冷たかった。点滴の針が刺さった手首の周りに、紫色の内出血が広がっている。
「先輩。俺——また一緒に潜れますかね」
「当たり前だ。三ヶ月なんてすぐだ。その間に——俺が全部片付ける」
何を片付けるのか。自分でもまだわからなかった。だが——三島の冷たい手を握りながら、俺は確かにそう言った。
◇
病室を出た。
廊下を歩いた。足が勝手に止まった。壁の前で立ち止まった。
拳を握った。振り上げた。壁に叩きつけた。
鈍い音が廊下に響いた。痛みが拳から肘まで走った。壁に小さなひびが入った。
もう一度。
もう一度。
三度目を振り上げたとき——久我山の手が、俺の腕を掴んだ。無言で。ただ強い力で止めた。
「落ち着け」
「落ち着けるか——」
「壁を殴っても三島は治らん」
分かっている。分かっているが——この怒りをどこにぶつければいい。
久我山が俺の腕を離した。そして——ポケットから、三島の装備の破片を取り出した。革鎧の断片。金属の留め具。壊された剣の柄。
「病院に来る前にダンジョンの現場を見てきた。装備の破壊パターンを確認した」
久我山が破片をかざした。蛍光灯の下で、破断面が鈍く光る。
「鈍器——おそらくメイス系の武器で、関節部を集中的に狙っている。革の縫い目、金属の結合部、剣の焼き入れが弱い根元。全て構造上の弱点だ。装備の設計を理解している人間の仕事だ。素人じゃない。プロの傭兵——それも、装備破壊を専門にする連中だ」
「クロノスか」
「クロノスの名前は使わないだろう。だが——金を出しているのは鷹取だろうな。追い詰められた男の、最初の一手だ」
久我山の声に——怒りはなかった。冷静な分析。だがその目の奥に——暗い炎が燃えていた。
「一颯。お前が今やるべきことは、壁を殴ることじゃない」
わかっている。だが——
◇
病院の屋上に出た。
夜風が冷たかった。三月の夜。まだ冬の名残がある。東京の夜景が広がっている。遠くにサードダンジョンの入口付近のライトアップが見える。あの地下で——三島は傷つけられた。
ポケットに手を入れた。指先に——硬い金属の感触。鑑定眼鏡だ。持ち歩く癖がついている。レンズに触れた瞬間——微かな熱を感じた。ダンジョンの外なのに。レンズが——光っていた。淡い、淡い青白い光。30層のノードと同じ色。
ダンジョンが——俺の感情に反応しているのか。
眼鏡をかけた。東京の夜景に——何も表示されなかった。メッセージはない。ただレンズが光っている。まるで——俺を見ているかのように。
サードダンジョンの方角を見つめた。
三島の涙を思い出した。「先輩のせいじゃないっす」。その言葉が——逆に、俺を追い詰めた。三島は俺を庇った。傷ついた側が、傷つけた原因を庇っている。そんな構図が——許せなかった。
拳を見下ろした。壁を殴った痕が赤黒く腫れている。皮が破れて血が滲んでいる。
痛い。だが三島の痛みに比べれば——何でもない。
三ヶ月のブランク。ランクを維持できない。収入が途絶える。仲間のパーティからも外される。二十二歳の若者の人生を——あの三人の傭兵が、わずか数分で破壊した。
鷹取。影山。管理局。俺を潰すために、俺の仲間を狙った。
こちらが世論で追い詰めれば——向こうは暴力で応じる。正規の手段に対して、非正規の手段で報復する。ルールを守る側が、ルールを破る側に後れを取る。
正しさは、必ずしも強さではない。
鑑定眼鏡の光が——少しだけ強くなった気がした。ポケットの中で、レンズが微かに脈動している。ダンジョンの心臓と同じリズムで。
俺の内側で——何かが変わり始めている。怒りではない。怒りの先にあるもの。冷たい決意。あるいは——それに似た何か。
夜風が頬を撫でた。冷たい。だがポケットの中の鑑定眼鏡だけが——温かかった。




