世論の風——味方は百万の眼
朝のワイドショー。コメンテーターが険しい顔で、ダンジョン管理局の対応を批判している。画面の隅に表示されているのは、俺の配信のキャプチャ画像だ。鑑定眼鏡をかけた横顔。三島と並んで25層を走っている場面。
「——柊一颯氏の配信によって明らかになったダンジョン管理局の情報秘匿体質は、もはや看過できるレベルではないと思いますね」
コメンテーターの声が、妙に他人事のように響いた。テレビの向こうで自分のことが語られている。だが画面の中の俺は——何も語っていない。ただ走っていた。三島を守りながら、凛のナビゲーションに従って、ダンジョンの崩壊から逃げていた。
営業マン時代、クライアントの前では完璧なプレゼンテーションを演じた。笑顔を作り、声のトーンを調整し、相手の期待通りの言葉を並べた。だが今——俺は何も演じていない。ただ生き延びようとしていた映像が、勝手に「英雄」の物語に編集されている。
チャンネルを変えた。別の番組でも同じ話題だった。
「ダンジョン情報の民主化、というハッシュタグがSNSでトレンド一位を維持しています。管理局に対する批判と、柊氏の活動を支持する声が——」
テレビを消した。
静かになったリビングで、スマホの通知音だけが鳴り続けていた。SNSのダイレクトメッセージ。フォロワーからの応援。知らない名前の人々からの——声援。数が多すぎて、スクロールが追いつかない。
ソファに沈み込んだ。天井を見上げる。鑑定眼鏡はテーブルの上に置いてある。レンズは光っていない。ダンジョンの外では——ただの古びた眼鏡だ。
桐生さんの記事が火をつけた。あの記者は——約束通り、事実だけを書いた。俺の名前、配信の内容、管理局の対応、鷹取の関与の疑惑。感情を排した文章が、かえって読者の怒りを増幅させたらしい。SNSでは桐生さんの記事を引用する投稿が数万件。中堅ギルド三団体が共同で免許停止撤回を求める声明を出したというニュースも流れてきた。
俺は——ただダンジョンに潜って、見たものを配信しただけだ。それがなぜ、こんな大きなうねりになっている。
◇
凛のマンションに着いたのは昼前だった。
インターホンを押すと、ドアは既に解錠されていた。凛が待っていたのだろう。靴を脱いで廊下を進むと——複数のモニターが青白い光を放つ部屋が見えた。
凛は三台のモニターの前に座っていた。一台にはリアルタイムのSNS分析画面。もう一台にはウェブサイトの管理画面。三台目には——数字が、リアルタイムで回転するカウンターが映し出されていた。
「署名サイト、昨夜立ち上げました」
凛が振り返らずに言った。キーボードを叩く指が止まらない。
「署名?」
「ダンジョン管理局に対する免許停止撤回の署名活動です。法的効力はありませんが、世論の可視化として機能します。現時点で——」
カウンターの数字を指した。
四万二千。
「四万——」
「午前三時に開設して、九時間でこの数字です。SNSの拡散速度から推計すると、今日中に十万筆を超える可能性があります」
凛の声はいつも通り淡々としていた。だがモニターに映る彼女の目は——熱を帯びていた。データの分析画面を切り替えながら、署名者の属性分析をリアルタイムで行っている。職業別、年代別、地域別。探索者だけではない。一般市民からの署名が六割を超えていた。
「配信の視聴者だけじゃないんだな」
「桐生さんの記事が一般層に届いたんです。ダンジョン情報の透明性は、探索者だけの問題ではない。ダンジョンの近隣に住む住民、ダンジョン関連企業の従業員、探索者の家族——全員が当事者です」
凛がもう一つのモニターを指した。配信のコメント欄のログだった。俺が配信していなくても、過去のアーカイブ動画にコメントが流れ続けている。
その中に——見慣れたハンドルネームがあった。
【マコト:柊。見ているか。お前がやったことは間違っていない。戦略的に見ても、情報公開は最善手だった。焦るな。時間はお前の味方だ】
【ドクター:体調は大丈夫か? 精神的ストレスは免疫系に直結する。睡眠と栄養を怠るなよ】
【シロ:署名サイトの運営、私が裏方で支えます。技術面は任せてください】
古参の常連たちが——俺のいない配信欄で、俺を支えている。そしてその周りに新しいコメントが続く。知らない名前。初めて見るアイコン。だが全員が——同じ方向を向いている。
【初見です。ニュースで知りました。応援しています】
【署名しました。家族全員で】
【探索者の息子を持つ母親です。息子のために署名しました】
モニターの片隅には、視聴者が自主的に作成したまとめサイトのリンクが表示されていた。時系列で整理された事件の経緯、管理局の矛盾した発表の比較、鷹取誠一郎の経歴と疑惑——全てが、俺が何も頼んでいないのに、視聴者自身の手で整理されている。
凛が静かに言った。
「コミュニティが自律的に動き始めています。柊さんが何も言わなくても、視聴者が自分たちで情報を整理し、署名を拡散し、新規の視聴者に経緯を説明している。これは——もう柊さん個人の配信ではなくなっています」
俺は——少しだけ、息が詰まった。
嬉しいのか。怖いのか。自分でもわからなかった。百万人の眼が俺の味方についている。それは心強い。だが同時に——百万人の期待を背負っている。その重さが、肩にのしかかっている。
営業マン時代、大口案件を受注したときの感覚に似ていた。受注した瞬間は嬉しい。だがその直後に——これを失敗したら、どうなる、という恐怖がくる。守るべきものが増えれば増えるほど——失うものも増える。
◇
久我山の装備店に寄ったのは、夕方だった。
店内は薄暗かった。久我山がカウンターの奥で、革のベルトに金具を打ち込んでいた。コン、コン、と規則正しい音が狭い店内に響いている。カウンターの上の裸電球が、久我山の太い腕に深い影を落としていた。
「署名が七万を超えたって凛から連絡があった」
「知ってる」
久我山は顔を上げなかった。金具を打つ手を止めない。
「中堅ギルドも声明を出した。メディアも味方に——」
「一颯」
久我山が——手を止めた。ゆっくりと顔を上げる。その目が——いつもと違った。笑っていない。久我山の目は普段、どこか飄々とした温かさがある。だが今は——冷えていた。獣が警戒するときの目だ。
「敵を追い詰めすぎると——何をするかわからん」
久我山の右手が——首元のペンダントを握りしめた。亡くなった相棒の形見だと聞いたことがある。太い指が銀色の金属を包み込む。指の関節が白くなるほど、強く握っていた。
「鷹取は今、追い詰められている。世論は完全にお前の味方だ。署名は増える。メディアは叩く。管理局内部でも動揺が広がっている。鷹取の側は——選択肢が減っている」
「だからいいんじゃないのか」
「選択肢が減った人間が——何をすると思う」
久我山の声が低くなった。裸電球の光が揺れて、久我山の顔に影が走った。
「追い詰められた動物は——噛むんだよ。自分より弱いやつを」
その言葉が——胃の底に沈んだ。
「俺を直接狙ってくるか」
「お前だけじゃない。お前の周りの——守りが薄いやつを狙う。それが一番効率がいい。お前を潰したいなら、お前を攻撃する必要はない。お前の大事なものを壊せばいい。営業やってたなら——わかるだろ」
わかる。競合がクライアントを奪うとき、正面からぶつかってくる会社は少ない。横から、裏から、こちらの弱いところを突いてくる。取引先を切り崩す。部下を引き抜く。情報を流す。そして——本体が弱ったところを叩く。
「三島くん、凛さん、桐生さん……」
「千歳さんもだ。あの人は管理局の内部にいる。もし情報提供者だとバレたら——消される」
久我山がペンダントから手を離した。テーブルの上に、銀色の金具が音を立てて置かれた。
「気をつけろ、一颯。お前は今——勝っている。だが勝っている側が油断したとき、負け側が牙を剥く。それが——一番怖いんだ」
◇
自宅に戻ったのは、夜の十時を過ぎていた。
凛から最後の報告が届いた。署名が十万筆を突破した。メッセージには数字だけが書かれていた。「100,247」。凛らしい。余計な感情を挟まない。数字が全てを物語っている。
十万人が——俺の味方だと言ってくれている。
スマホを充電器に差して、ソファに座った。疲労が一気に押し寄せてきた。テレビは点けない。静かな部屋に、壁掛け時計の秒針の音だけが響いている。
今日一日で、世界が動いた。だが久我山の言葉が頭から離れない。守るべきものが増えた。百万の眼。十万の署名。凛、三島、桐生さん、千歳さん、久我山——全員が俺のために動いてくれている。そして全員が——標的になりうる。
営業マン時代、チームリーダーとして部下を持ったことがある。部下のミスは自分の責任。部下の成果は部下のもの。それでも——部下が傷つくのは耐えられなかった。今はもっと重い。仲間が傷ついたら——それは俺が戦いを始めたからだ。
スマホが鳴った。
画面を見た。三島大輝。
嫌な予感がした。久我山の警告が耳の奥で反響している。
通話ボタンを押した。
「三島くん?」
「先輩——あ、すんません、こんな時間に」
三島の声が——微かに震えていた。普段の元気な声ではない。声のトーンが半音低い。呼吸が浅い。
「どうした」
「いや、たぶん気のせいなんすけど——今日、サードダンジョンの五層で訓練してたんすよ。いつもの場所で」
「うん」
「帰り際に——なんか、ずっと誰かに見られてる気がしたんす。五層って人少ないじゃないすか。でも気配があって。振り返っても誰もいなくて。装備店で久我山さんに相談しようと思ったんすけど、閉まってて」
三島の声に——恐怖が滲んでいた。この二十二歳の剣士は、ダンジョンのモンスターには臆さない。だが人間の悪意には——まだ慣れていない。
「先輩。気のせいっすかね?」
久我山の声が頭の中で響いた。「お前の周りの——守りが薄いやつを狙う」
三島は——Cランクの若手剣士だ。実力はあるが、単独行動が多い。装備は中古品が中心で、緊急離脱用のアイテムも持っていない。俺の仲間の中で——最も守りが薄い。
心臓が冷たくなった。
「三島くん。明日、一人でダンジョンに入るな」
「え——」
「頼むから、明日は休め。説明は後でする。今日は——家から出るな」
三島が黙った。数秒の沈黙。スマホの向こうで、三島の呼吸が聞こえる。そして——
「わかりました、先輩」
通話を切った。
手が震えていた。
久我山の言う通りだ。勝っている側が油断したとき、負け側が牙を剥く。そして牙は——俺ではなく、俺の仲間に向けられる。
スマホを握りしめた。十万の署名。百万の視聴者。だがその全てが——三島一人を守ることはできない。
壁掛け時計の針が、静かに夜を刻んでいた。




