70層——父の足跡、子の歩み
壁が、脈打っていた。
比喩ではなかった。文字通り、壁面が収縮と弛緩を繰り返している。ドクン。ドクン。触れた指先に伝わってくるのは鉱石の冷たさではなく——体温だった。三十六度台の温もり。
70層。
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│ <ダンジョン深層構造:70F> │
│ │
│ 構造分類:有機体型(循環系統中枢域) │
│ 壁面温度:36.4℃(人体体温に近似) │
│ 脈動周期:1.02秒(安静時心拍に同期) │
│ 特記:壁面構造は生体組織に酷似 │
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ここはもう建造物じゃない。臓器だ。
「凛、聞こえるか」
「——ノイズが——ですが——聞こえ——ます」
途切れ途切れの声。通信劣化が進んでいる。だがまだ繋がっている。
【マコト:壁面温度36.4℃……恒温動物の内部環境と一致してる】
【ドクター:心拍がダンジョンの脈動に完全同期。意図的な共鳴現象だ】
【一般:壁が温かいの???きもい】
【一般:きもくない。すごいんだよこれは】
71層、72層と進む。有機的な通路がうねりながら深部へ続く。壁面を走る光の脈が血管のネットワークのように枝分かれしていた。青、紫、藍——深くなるほど色が深くなる。営業マン時代にクライアントのオフィスの空気が変わる瞬間を嗅ぎ取る感覚があった。今がまさにそれだ。何かに近づいている。
73層に差しかかったとき、三島から預かったペンダントが震えた。胸ポケットの中で激しく振動し、温度が上がっている。鋼一郎から唯一受け取った形見。
鑑定を起動した。
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│ <三島のペンダント:反応分析> │
│ │
│ 内部素材:星霜鉱(ダンジョン深層産出) │
│ 共鳴対象:半径200m以内の同一鉱物 │
│ 検出:共鳴源 前方12°下方 推定187m │
│ 附記:共鳴パターンは10年前の通過痕跡と一致 │
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10年前の通過痕跡。鑑定を壁面に向けると、有機組織の中に記録された古い足跡が浮かび上がった。
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│ <通過痕跡:73F壁面記録> │
│ │
│ 通過者:三島鋼一郎(推定一致率:97.3%) │
│ 通過日時:2016年3月18日 推定14:20 │
│ 状態:重傷(左脚骨折、内臓損傷の兆候あり) │
│ 移動速度:0.3m/s(這って移動) │
│ 壁面接触記録:手書き文字あり(鉱石による刻印) │
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壁面の一画に、震えた筆跡で文字が刻まれていた。鉱石の欠片で彫り付けた跡。一部の文字は赤黒く変色している。血だ。
——誰でもいい。この先に、彼女を助けてやってくれ。俺はもう動けない。75層の、光のある場所に……
「……鋼一郎さん」
掠れた声が出た。三島鋼一郎。10年前にダンジョン最深部で行方不明になった男。三島大輝の父親。三島がずっと会いたがっていた男。
血で書いているんだ。体がもう動かない状態で、最後の力を振り絞って。「彼女を助けてくれ」。藤堂真理のことだろう。自分が助からないとわかっていて——他人のために書いた。
【一般:うわああああ泣ける】
【マコト:重傷で這いながら……凄まじい執念だ】
【ドクター:左脚骨折で這って移動。痛みは想像を絶する】
◇
75層。通路が開け、ドーム状の空間に出た。
星霜鉱が無数に埋め込まれた壁面が柔らかい光を放っている。暗闇に浮かぶ何千もの小さな光。星空のような光景。
その中央に——結晶の柱があった。床から天井へ伸びる透明な構造体。その中に人影がある。痩せ細った体。伸びきった白髪。だが——胸が微かに上下していた。
生きている。
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│ <鑑定結果:結晶保護体内の人物> │
│ │
│ 氏名:三島鋼一郎 │
│ 年齢:推定48歳(保護時38歳) │
│ 状態:意識混濁(深度3) │
│ 保護主体:ダンジョンコア(自律的保護反応) │
│ 経緯:藤堂真理を60Fまで案内後、帰還中に致命傷 │
│ コアが「読み手の協力者」として保護 │
│ 回復見込み:完全回復は困難 │
│ 大崩壊終息後の搬送:可能 │
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10年間。この人は10年間、ここにいた。結晶に包まれて生かされ続けていた。藤堂を60層に送り届けた後、帰ろうとして——力尽きた。そしてダンジョンが彼を拾った。死なせなかった。
「……親父」
結晶の表面に手を置いた。温かかった。壁面と同じ体温。三島のペンダントを押し当てると、高い共鳴音が結晶全体に広がった。
鋼一郎の指が——微かに動いた。
通信に叫んだ。
「三島! 75層で鋼一郎さんを見つけた。生きてる!」
凛が必死に帯域を確保してくれたのだろう。一瞬だけ通信がクリアになった。
「——嘘、でしょう」
三島の声が壊れた。どんな状況でも敬礼で答える鋼の軍人が——泣いていた。
「し、師匠——師匠がっ——」
三島の声を鋼一郎に聞かせた。結晶の中で瞼が動き、薄く目が開いた。口元が微かに動く。
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│ <読唇解析> │
│ 発話内容(推定):「さら……か……」 │
│ 一致率:89.2% │
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三島紗良の名前を呼んでいる。10年間の昏睡の底から。
「三島。鋼一郎さんがお前の名前を呼んでる」
通信の向こうで膝をつく音がした。
「——師匠っ……待って——ください——必ず——」
別の通信が入った。久我山だった。
「……あの馬鹿が。藤堂を送り届けて——自分は動けなくなって——あの大馬鹿が」
ぶっきらぼうな口調の奥に、10年分の感情が詰まっていた。
「コアとの対話を終えたら搬送可能になる」
「……わかった」
久我山が一言だけ言って通信を切った。それ以上喋ったら泣くとわかっていたんだろう。元上司のプライドだ。
【一般:もう無理泣いてる】
【一般:10年間ずっとここにいたの……】
【マコト:ダンジョンが人を「保護」する機能。既存理論を完全に覆す】
【ドクター:結晶による生命維持……人工冬眠に近い。驚異的だ】
結晶にもう一度手を置いた。
「鋼一郎さん。三島——大輝は、あなたの息子は、ずっとあなたを待ってた。探し続けてた」
声が震えた。2000万人以上が見ている。でも——もういい。
「あなたは十年間、誰かのために動いてたんですね。藤堂さんを助けるために潜って、最後の最後まで」
鑑定のレンズが涙で滲んだ。元営業マンが人前で泣くなんて新人研修で怒られる案件だ。
鋼一郎の唇がまた動いた。
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│ <読唇解析> │
│ 発話内容(推定):「いけ……」 │
│ 一致率:94.1% │
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「行け」。
営業マンはクロージングのタイミングを見誤らない。ここが——そのタイミングだ。
「……ああ。行ってくる」
結晶から手を離した。温もりが指先に残った。振り返らなかった。振り返ったら動けなくなる。
75層の星霜鉱の柔らかい光に照らされながら、さらに深い層への通路に足を踏み入れた。壁面の脈動が背中を押すように強まる。
前へ。もっと深く。コアが待っている。
父親を助けるために。藤堂が託したものを届けるために。大崩壊を止めるために。
——そして、あの孤独な知性体に会うために。
ダンジョンの心臓が、俺の心臓と共に鳴っていた。




