第一話:蒼銀の涙
信じていた正義が、音を立てて崩れ去る時。
少女の隣に立つ者は、救済者か、それとも――。
湿った土と、濃密な魔力の匂いが立ち込める人跡未踏の原生林。
アステリア王国の辺境、古くから「神隠しの森」と恐れられ、地図からも消されたその場所を、王宮魔術師サラは一人、突き進んでいた。
王宮の「蒼銀の華」と謳われるサラの長い髪は、探索魔術の余波で仄かに発光し、枝葉の隙間から差し込む月光に溶けて銀の糸のように揺れている。
白を基調とし、鮮やかな青のラインが走る高潔なローブは、数日に及ぶ追跡のせいで裾が僅かに汚れていたが、サラの青い瞳に宿る意志は未だ鋭いままであった。
「……見つけた」
短く呟くと、サラの構えた杖の先が魔力の高まりと共に蒼白く発光する。
標的の名は、不明。王宮の禁書庫にのみ記された、世界の理を乱す「歩く禁忌」と呼ばれる魔術師。
『それ』に接触し、速やかに捕縛、または排除せよ。それが、サラに下された非情な至上命令だった。
鬱蒼と茂る巨木を抜けた先、そこだけが不自然に開けた広場となっていた。
切り株をの前に、その男はいた。
漆黒の布地に金の刺繍が施された、重厚な衣。
夜を溶かしたような長い黒髪と、底知れない深淵を思わせる黒い瞳。
男は、魔力を殺して近づいたはずのサラを見ても驚く風もなく、手に持った陶器の杯を、静かに切り株へと置いた。
「こんばんは。随分と久しぶりですね」
その声は、森の静寂に溶け込むほど柔らかな敬語だった。サラは即座に杖を向け、凛とした、けれどどこか震える声で宣告する。
「動かないでください。……アステリア王国、王宮魔術師団第サラ・アルヴェインです。貴方を拘束させていただきます。……抵抗しないで下さい」
それは慈悲すら感じさせる、穏やかな勧告。
だが、男は懐かしい知人に会ったかのように目を細め、それから優しく微笑んだ。
「これはご丁寧に。私の事はファルと呼んで下さい。ですがサラさん、あいにく私は今、お茶を楽しんでいる最中でして。……一杯、いかがですか? 毒は入っていませんよ」
「……名乗ったばかりの私の名を、随分と親しげに呼ぶのですね。それに、このような場所で……お茶だなんて……」
サラの背筋に冷たいものが走る。今しがた自ら名乗ったばかりだ。
相手が名を知っているのは当然なのに、その呼ばれ方には、まるで何百年も前から呼ばれ続けてきたかのような、奇妙な響きがあった。そして何より、男の提案に一切の不真面目さが感じられないことが、サラをいっそう不安にさせた。
「……お断りします。最後通告です。投降をお願いします」
「困りましたね。私は拘束されるのが、あまり好きではないんです」
男――ファルが、ゆっくりと腰を上げる。その瞬間、サラは本能的な圧迫感に押され、制圧用の術式を放った。
蒼銀の閃光がファルを包もうとしたが、ファルが指先で空をなぞった瞬間、光は無数の「青い蝶」へと姿を変え、夜の森をひらひらと舞った。
「魔法が……書き換えられた……?」
あり得ない。
現象そのものが別の何かへ変換されるなど、神話に出てくる程度で、現実に扱える人間などいないはずだ。
困惑を打ち消すように、サラは本気で杖を振るった。
「……投降してください、お願いします……!」
轟音と共に放たれた蒼い破滅の光。
しかし、ファルは避ける素振りさえ見せなかった。
ファルは、まるで飛んできた羽虫を払うかのように、空いた左手でその光の塊を無造作に撫でた。
「おや。いくら寒空とはいえ、少し熱すぎますね」
瞬間、破壊の力は冷たい「雪の結晶」へと変貌した。舞い散る光の雪が、サラの蒼銀の髪に触れては消えていく。
ファルは唖然とするサラを優しく見つめながら、小首をかしげた。
「お気に召しませんでしたか? 個人的には、今の季節にはこちらの方が風情があって好きですよ。サラさん」
ファルは降り積もる雪の中で、一歩ずつ距離を詰めてくる。
自慢の魔力を無にされたサラの肌は白磁のように透き通り、唇は小刻みに震えていた。
「来ないで……。お願い、近寄らないでください……」
サラが巨木の幹に背をついたところで、ファルは足を止めた。
そして、まるで壊れ物を扱うような手つきで、サラの前に手を差し出す。
「いやあ、随分と長く隠遁生活を送っていたもので。今の流行が分からなくて困りました。……おや、そんなに怯えた顔をしないでください。せっかくの綺麗な瞳が曇ってしまいますよ」
ファルは、視線を合わせるように腰を落とすと、穏やかな苦笑を浮かべる。そこには揺るぎない確信と、深い慈しみが同居していた。
「随分と物騒ですね」
ファルの声色が鋭くなったその時、サラの耳元で通信用の魔道具が、弾けるような嫌な熱を発した。
『――対象との接触を確認した。王宮魔術師サラ・アルヴェイン、ご苦労であった』
耳元で響いたのは、彼女が信頼を寄せていた王宮魔導団長の、冷徹な声だった。
「団長……? あ、あの、早く増援を……」
『その必要はない。お前はよくやった、サラ。……故に、教会の最高機密に触れた名誉と共に、その命を捧げよ』
直後、夜空を覆い尽くすように、巨大な魔法陣が展開された。
対象を消滅させる処刑魔術『神罰の劫火』。
「そんな……。嘘ですよね、団長……? 私は何も……っ!」
通信は途絶え、空を焼き尽くす白銀の光が降り注ぐ。
意味も分からないまま死を覚悟したサラの視界を、黒い背中が遮った。
「困った人たちですね。挨拶もなしに、人の庭先で勝手に物騒な火遊びを始めるとは」
見上げれば、ファルが片手で光の柱を受け止めていた。
光の柱は見えない壁に遮られるように止まり、ファルの手のひらの上で、優しい光に変わっていく。
「サラさん、少し失礼しますよ」
ファルは呆然とするサラの腰を片腕で抱き寄せた。
漆黒の衣と、白と青の魔道服が重なり合う。ファルの胸から漂う、どこか懐かしい香りに、サラの思考は混濁した。
「さて。邪魔が入ったお返しです。……皆さん、少しばかり『空の飛び方』を忘れていただきましょうか」
ファルが上げていた手を振り下ろす。
瞬間、上空を覆っていた天駆騎士団の浮遊魔術が機能を停止し、墜落が始まった。
空からは悲鳴が聞こえ、森に墜落する音が響く。
「殺生は私の趣味ではありませんので、地面の固さを学んでもらうとしましょうか。……さあ、彼らが着地の練習をしている間に移動しましょう」
ファルは混乱するサラを軽々と抱き上げると、逃げる間際、サラの耳元で囁いた。
「私は決めているんですよ。例えどれほどの歳月が過ぎようとも、必ず守ると」
その言葉が届いた瞬間、サラの胸の奥で何かが弾けた。
「それは……どういう……」
青い瞳から涙が溢れ出し、ファルの服を濡らした。
ファルは彼女を抱いたまま、夜の闇へと、風のような速さで消えた。
『第一話:蒼銀の涙』を最後までお読みいただき、ありがとうございます。
サラが流した涙は、過去との決別か、あるいは未知の運命への不安か、それとも…。
次回、第二話。追っ手を逃れ、夜の底で二人が言葉を交わす時、物語の謎が少しずつ紐解かれていきます。
次回の更新も、どうぞお楽しみに。




