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101:これからは大人の贅沢を

「……え、付き合うって」


 衣織は美来に〝付き合って〟と言われる事なんて微塵も想像していなかったのか、固まって動かなくなった。おそらく頭はフル回転で稼働しているのだろうが。


「……セックスしよって誘ってるって事?」

「いや、そうじゃなくて……」


 この子もなかなか汚れているよなと思いながら、美来は呆れ笑いを浮かべる。

 衣織の中では〝年齢が気になるから18歳の子どもとは付き合わない〟という印象ばかりなのだろうと思った。

 ここ二週間ほどで大きく感情が変わった事なんて、衣織は知る由もないのだから。


 美妙子とスナックで二人きりで話をした時の事を思い出す。


 『育った環境とか人生経験とか、みんな違うんだから合わないところがあって当然。歩み寄らないと』

 『教えてあげないと。美来ちゃんは何が好きで、何が嫌いか。どうしてほしくて、どうしてほしくないのか。察して、って言うのは、少しわがままね』


 きっと今まで衣織にほとんど自分の事を何も教えてあげられていなかった。それは本気で向き合っていなかったとも言える。


 ここから先はちゃんと、衣織と向き合ってみたいと思う。


「彼氏彼女になってみませんかって、そう思ってるって事なんだけど」


 美来がそう言うと衣織の目が輝いた。それから衣織は一瞬息を潜めて、勢いよく美来に抱き着いた。


 衣織を支えるためにコーヒーを持っていない方の手で腰に回す。衣織はゆっくりと息を吸い込む。泣いているのかと思うくらい、空気が喉元で小さく震えていた。


「美来さん、罰ゲームかなんかさせられてないよね」

「させられてないよ」

「じゃあなんで……そんな感じ全然なかったし……」


 美来はコーヒーが零れない様に、マグカップをキッチンに置いた。


「本当? 本当に俺と付き合ってくれるの?」


 今の衣織の態度の全てが、どれだけ自分が衣織に対して付き合う可能性がないと突き付けてきたかを示す指針。


「衣織くんがいいならだけど」

「いいに決まってるよ」


 衣織は嬉しそうに言って美来にすり寄ってもう一度強く抱きしめた。


 ただ付き合う選択をするだけで、こんなに嬉しそうにしてくれる。衣織の側にいると、何も持っていない自分でも人としてしっかりとした価値があるのだと根拠のない自信が生まれてくる気がする。


 ただ付き合うだけだ。比較するわけではないが、ハルと一緒にいて自分の価値を感じる事はなかった。ハルなんて〝付き合って〟〝いいよ〟で決まって、その後大して気持ちが動かずに来たのだから当然の事かもしれない。もちろん、ハルと二人で生活した日々は楽しかったが。


 ハルと別れる事が寂しいと思ったことも、どんな夜を過ごしたかも、生涯口に出さない。

 こうやって切り離していくこともきっと、大人というのだろう。


 衣織が好きだと認めてしまえばあっさりと穴が埋まっていく。

 何もかも満たされて、まるで最初からこの形だったのではと思うくらい、完璧な人生になるような。


 夢中で、一点しか見つめられないから幸せと感じるのかもしれないと思った。まるで学生時代の恋愛みたいに、その人しか見られないという、一種の没入状態。


 これから先も側にいられるとか、またあの朝を感じる事が出来るとか、一緒にコーヒーを飲みに行く約束をしたとか。いくつも不規則にある希望が何となく形を作って、〝嬉しい〟という事実が心の中にある。

 つまり、普通の日常に衣織がいるという事が今は堪らなく幸せだという事。


 どうして最初からこの結論を選ばなかったのだろうと思うくらい。


「本当にいいの?」

「こちらこそ、いいの?」


 衣織は美来の質問には答える必要はないと思ったのか、身を屈めてキスをした。


 それから「スナック行こう」と提案をする衣織に、みんなに報告をするつもりなのだろうと思った美来は二つ返事で了承する。


「聞いて。美来さんが俺の彼女になってくれたんだー」


 衣織は嬉しそうに、美妙子に話しかける。「そうなの」と穏やかに笑う美妙子をよそに、斉藤、巽、藤ヶ谷の三人がいつも座っている常連のテーブルから「ええー!?」という声が聞こえてくる。


「おめでとう、衣織くん」

「うん。ありがとう美妙子さん」

「実柚里ちゃんと付き合ってたのは!? え……? ハルくんと付き合ってたのは?」


 美妙子にお礼を言い終えてすぐ大きな声を出す常連達に、衣織は「聞いてくれる?」と上機嫌な様子で寄っていく。


 美妙子はこうなることを最初からわかっていたのだろうか。優しい笑顔で衣織を見て、それから美来に視線を移した。


「やっと衣織くんと愛を(はぐく)む気になったのね。まあ私は、最初からこうなると思っていたけどね」


 美妙子は美来の返事はいらないようで、あっさりとした様子でいる。


 ドアのベルが鳴った。途端に聞こえた衣織の舌打ちに美来は誰が来たのか察した。


「ちょっとハルくん、聞いてないよ!」

「衣織に聞けよ」


 ハルは瞬時に状況を察して、面倒ごとに巻き込まれまいと斉藤と目を合わせる事もせずにカウンターに座った。


「もう美来さんの部屋の中にハルさんの痕跡一つもないから」

「荷物自分の家に運んだんだから当たり前だろ」

「美来さんはこれからハルさんとは一切関係のない人生を()()歩くから。清掃もしたし、除霊したし」

「……お前俺の事なんだと思ってんの?」


 ハルは、そこまでするのかよと言いたげな様子で衣織を見た。


「何回美来さんに触った?」

「数えるのも面倒になるくらい~」


 テキトーな口調で答えるハルを衣織は人を殺せそうな目で見た。


「死ななくていいからせめて美来さんと付き合ってた記憶は消したい」

「無理に決まってんだろ」

「せめて美来さんの裸だけでもいいから消せ」


 無茶いうなと思う美来をよそに、衣織はハルの胸ぐらに手を伸ばそうとするが、それをハルはひらりと交わして立ち上がる。


「店の中でトラブルとか出禁にすんぞ」

「ハルさんが決める事じゃないじゃん」


 スナックの中を逃げ回るハルとそれを追いかける衣織の様子を、常連三人が「やれやれ~! いけいけ~」とはやし立てながら見守っている最中、ドアが開いた。


「やっぱり喧嘩してるー」


 実柚里はそう言いながらスナックの中に入って美来の隣に並んだ。


「私達、まだ付き合ってないよ」


 美来が何を言うより前に実柚里ははっきりとした口調で言った。しかしその視線は真っ直ぐで、優しい笑顔が浮かんでいる。


「でも、手ごたえはあるもん。近いうちに絶対、ハルさんを振り向かせるから」

「うん。頑張ってね」


 実柚里は意気込んで拳を握りしめた。美来がそう言うと実柚里はニコリと笑う。それからむすっとした顔をした。


「……美来さんの事は好きだけど、ハルさんと付き合ってた記憶だけは抹消したい」

「衣織くんと同じこと言ってるんだけど……」

「せめてヤった記憶だけでも」


 似た者同士の衣織と実柚里はやはり、同じ結論に至るらしい。


 実柚里はすぐ隣を通り過ぎた衣織とハルに視線を移して、それから呆れた笑顔を浮かべて美妙子を見た。


「美妙子さん、アレいいの? お店めちゃくちゃにされちゃうよ?」

「いいのよ。夜って寂しいじゃない。騒がしいくらいがいいわよね」

「楽観的」

「静かな夜は好きじゃないのよ。だからこうやってスナックやってるんだし」


 美妙子はそう言うと、三人分のグラスを準備した。


「私たちは飲んじゃいましょ」


 そういって酒を差し出してくれる。


「じゃあ、乾杯」


 三人でグラスを重ねて、騒がしい男たちを横目に女三人で酒を飲む。


 これから先の人生では、社会から少し外れたダメな大人達ばかりが集まるこのスナックで、みんなで関わって作り上げてきた出来事を〝懐かしい〟と言いながら語り合う、大人の贅沢を楽しめるようになるはずだ。

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