消された少女の選択
最初に消えたのは、少女の首筋に刻まれた黒い紋様だった。
『封印術式の停止を確認。対象識別番号、実験体零七。存在情報隠蔽機構、完全停止』
ノアの声が、静まり返った中枢保管区に響く。
玲司は透花の傍らに膝をついた。
少女の首筋を這っていた黒い線が、灰のように崩れていく。皮膚の下で脈打っていた不気味な光も、やがて消えた。
「……消えた」
澪が呟く。
『はい。透花様に関連する認識干渉は解除されました。ただし、消去済みの記録や記憶が自動的に復元されるわけではありません』
「……そっか」
玲司は透花の顔を見た。
灰銀色の髪。青白い頬。閉じられた瞼。
彼女は、まだ目を覚まさない。
『玲司様。生体維持機能が危険域に接近しています』
「……分かってる。ノア、補助装置は?」
『使用可能な装置を確認しました。中枢保管区の西側に、独立型生体維持ユニットが残存しています』
「そいつを使えば助かるのか?」
朔夜が尋ねる。
『記憶情報の保存負荷を外部装置へ移せれば、身体の崩壊速度を抑制できる可能性があります』
「……可能性、か」
『長期生存の保証はできません』
玲司は唇を噛んだ。
御影は倒した。
透花を消そうとしていた術式も止まった。
それでも、彼女の命を救えたわけではない。
「……やろう」
玲司は立ち上がった。
「できることが残ってるなら、全部やりたい」
「決まりだな」
朔夜が左手でデバイスを構える。
「装置の場所は?」
『この先、隔壁二枚を隔てた保守区画です』
「あーしは透花ちゃんを見てる」
澪が少女を抱き寄せた。
その手には、まだ白い魔術光が灯っている。
「だから、二人ともお願い」
玲司は頷いた。
◇
独立型生体維持ユニットは、古い培養槽に似ていた。
透明な円筒の周囲に、複数の魔術回路が配置されている。
玲司と朔夜が装置を運び込むと、ノアは直ちに解析を開始した。
『問題があります』
「……何?」
『透花様の記憶保存回路と、生体維持回路が複雑に結合しています。単純に切断すれば、人格を構成する情報にも損傷が及ぶ危険があります』
「じゃあ、どうするんだよ」
『記憶情報のうち、身体に負荷を与えている保存領域のみを外部へ移します。現在進行している思考や自己認識は、透花様の身体側に残します』
玲司は装置の表示を見つめた。
画面には、無数の記憶領域が並んでいる。
既に失われた領域。
別世界から転写された領域。
そして、透花自身の意識活動と結びついた領域。
「……間違えたら?」
『透花様の自我を損なう可能性があります』
沈黙が落ちた。
朔夜が眉を寄せる。
「他に方法は?」
『現時点では確認できません』
玲司は拳を握った。
別世界の自分なら、何か知っているだろうか。
もっと優れた魔術師なら。
もっと多くの経験を持つ自分なら。
そんな考えが浮かび、すぐに消えた。
今、必要なのは誰かの人生を借りることではない。
目の前の少女を、これ以上傷つけないことだ。
「……ノア。分離する領域を、一つずつ確認しよう」
『了解しました』
「朔夜、術式の接続を見てほしい。澪は透花の状態を」
「おう」
「任せて」
三人が動き出す。
青い解析陣が広がり、複雑に絡まった魔術回路を映し出した。
玲司は一本ずつ接続を確認した。
切り離していいもの。
残さなければならないもの。
その境界は、驚くほど曖昧だった。
それでも、ノアの解析と朔夜の制御によって、少しずつ回路が分離されていく。
『外部記憶保存領域への移行、開始』
透花の身体が小さく震えた。
「……っ!」
澪が白い光を強める。
「大丈夫。透花ちゃん、大丈夫だから……!」
装置の表示が赤く点滅する。
玲司は息を止めた。
数秒。
十数秒。
やがて。
『移行完了。生体魔術回路への負荷、低下を確認』
赤い警告灯が、一つずつ消えていく。
『生命維持状態、暫定安定』
「……成功、したのか?」
朔夜が尋ねる。
『現段階では成功です。ただし、装置による継続的な補助と、定期的な維持処置が必要です』
玲司は大きく息を吐いた。
完全に治ったわけではない。
明日以降も、危険は残る。
それでも。
透花の胸が、ゆっくりと上下していた。
自分の力で呼吸している。
その事実だけで、玲司はしばらく動けなかった。
◇
透花が目を覚ましたのは、それからしばらく経ってからだった。
「……ここ、どこ?」
か細い声に、玲司は顔を上げた。
「……透花?」
少女はゆっくりと瞬きをする。
そして、玲司の顔を見つめた。
「……れいじ」
「……うん」
「……名前、合ってる?」
玲司は微笑んだ。
「合ってるよ」
透花は、少しだけ安心したように息を吐いた。
「……よかった」
その隣で、澪が目元を拭う。
「もー、心配させすぎだってば」
「……ごめんなさい」
「謝んなくていいの!」
澪は笑いながら、透花の手を包んだ。
「今は、起きてくれただけで十分」
透花は不思議そうに澪を見た。
それから、朔夜へ視線を移す。
「……みんな、私のことを知ってるんだよね」
「……うん」
玲司が答える。
「でも、私は……」
透花は目を伏せた。
「ほとんど、思い出せない」
誰も、すぐには答えられなかった。
玲司は迷った末に、施設で知った事実を伝えた。
透花の身体が人工的に作られたこと。
別世界に存在した少女の記憶が、そこへ転写されたこと。
その記憶を統合する過程で、今の透花自身の意識が生まれたこと。
そして、御影によって記憶の多くが失われたこと。
透花は、黙って聞いていた。
「……じゃあ」
長い沈黙のあと、少女が口を開く。
「私が覚えていた思い出は、全部、別の誰かのものだったんだよね」
玲司は頷いた。
「……うん」
「四人で遊んだ公園も?」
「……うん」
「一緒に帰った道も?」
「……そうだよ」
「玲司が、私を忘れないって言ってくれたことも?」
玲司の胸が痛んだ。
「……それも、別の世界で交わされた約束だった」
「……そっか」
透花は、少しだけ悲しそうに笑った。
「じゃあ、私……ずっと、誰かの思い出を自分のものだと思ってたんだ」
玲司は何も言えなかった。
彼女が信じていた幼少期。
懐かしい場所。
大切な約束。
そのすべてが、この世界の彼女には存在しなかった。
透花は自分の両手を見つめた。
「……変だね」
小さな声だった。
「もうほとんど覚えてないのに、なくなったって聞くと、こんなに悲しい」
玲司は、そっと隣に座った。
「……悲しくていいと思う」
「……え?」
「その思い出を大切にしてたのは、君だから」
透花が顔を上げる。
「別の世界の出来事だったとしても、君が嬉しかったことや、寂しかったことまで嘘になるわけじゃない」
「……玲司」
「それに」
玲司は少し言葉を探した。
「僕たちが一緒に過ごした、この数日間は本当だよ」
透花は目を見開いた。
「教室で会ったことも、君がココアを好きだって話してくれたことも、ここまで探しに来たことも」
玲司は続ける。
「誰かから借りた記憶じゃない。僕たちが、実際に選んだことだから」
透花は俯いた。
長い沈黙が流れた。
やがて、少女の肩が小さく揺れた。
「……じゃあ」
透花が呟く。
「これから作ればいいんだ」
玲司は顔を上げた。
「……何を?」
「私だけの思い出」
透花は涙を拭った。
「誰かが見た景色じゃなくて、私が見た景色」
ゆっくりと顔を上げる。
「誰かが好きだったものじゃなくて、私が好きになったもの」
そして、少し照れたように笑った。
「……誰かの人生じゃなくて、私自身の人生を生きてみたい」
玲司は、その言葉を聞いて微笑んだ。
「……うん」
「でも、できるかな」
透花は補助装置を見た。
「私、これがないと生きられないんだよね」
『現時点では、継続的な維持処置が必要です』
ノアが答える。
『今後の生存期間を正確に予測することはできません』
「……そっか」
透花は少し考えた。
「じゃあ、明日は?」
『適切な維持管理が継続されれば、明日までの生存は十分に見込めます』
「……明後日は?」
玲司は透花の手を握った。
「……そのために、僕たちがいる」
透花は目を丸くした。
そして、泣きながら笑った。
「……そっか」
冷たかった指先に、僅かな温もりが戻っている。
「じゃあ、私……明日の予定、考えてもいいんだね」
「もちろん」
澪が身を乗り出した。
「まずはココアでしょ! 透花ちゃん、好きなんだよね?」
「……うん。たぶん」
「じゃあ、もう一回飲んで確かめよ!」
朔夜が苦笑する。
「その前に、ちゃんと治療を受けろよ。俺たちも医療班に診てもらわなきゃならねえし」
「……そうだね」
透花は三人を見回した。
まだ、知らないことばかりだった。
名前を聞いても、思い出せない出来事がある。
けれど、その顔を見ていると、不思議と怖くなかった。
透花は、そっと右手を差し出した。
「……あのね」
「……うん?」
「もう一度、最初から始めてもいい?」
玲司は、その手を見つめた。
「……もちろん」
透花は背筋を伸ばした。
まだ身体は弱く、声も小さい。
それでも、その瞳は真っ直ぐに玲司を見ていた。
「改めまして。篠宮透花です」
玲司は、差し出された手を取った。
「久遠玲司です」
「……よろしくね、玲司」
「うん。よろしく、透花」
二人は、初めて出会った人間のように笑い合った。
その隣で、澪が嬉しそうに笑う。
「はいはい! あーしは白瀬澪! よろしくね、透花ちゃん!」
「俺は伊佐波朔夜。よろしく」
透花は、三人の名前を一つずつ口にした。
忘れてしまわないように。
今度こそ、自分の記憶として残せるように。
遠くで、施設の非常照明が朝焼けのような色に変わった。
それは本物の朝日ではない。
地下深くに、空はない。
それでも透花は、その光を綺麗だと思った。
誰かから与えられた記憶ではなく。
今、自分の目で見て、自分の心で感じた景色だった。
透花は小さく笑った。
「……ねえ、玲司」
「……何?」
「明日も、会いに来てくれる?」
玲司は迷わず頷いた。
「……うん。約束する」
今度の約束は、別世界の誰かが交わしたものではない。
この世界の久遠玲司と、篠宮透花が交わしたものだった。
少女には、まだ長い未来が約束されていない。
失われた過去も、戻らないかもしれない。
それでも、彼女には明日がある。
そして、その明日をどう生きるかは、もう誰にも決められない。
透花自身が、選ぶのだから。




