第28話:いつもの水やりと、不整合の記録【後編】
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苔の鮮度維持と新種子の分類という、彼らにとっての至上命題がひと段落し、ようやくいつもの穏やかな静けさを取り戻しかけた温室。
湿った土の匂いと、植物たちが放つ瑞々しい呼吸が、満ち足りた空間を優しく包み込んでいる。しかし、作業台から離れてふと室内の配置を見渡したルカの、いつもは凪いでいる瞳が、突如として微かな違和感に細められた。
「……リーゼ」
「はい、ルカ様。何でしょうか」
ルカは少し跳ね気味の亜麻色の髪を揺らし、壁際に置かれたシダの鉢植えを真っ直ぐに指差した。
「そこのシダの鉢の角度が、僕の定めた配置のロジックから二度ほど東にズレているよ。日照効率と風の通り道を計算した上で配置しているのに、これでは合理的じゃない」
ルカは銀縁の丸眼鏡を中指でそっと押し上げ、感情を荒立てることのない、しかし決して譲れない厳格なトーンで指摘した。するとリーゼも、糊の効いた白いエプロンの裾をピシッと整え、怯むことなく透き通った声で正面から言い返す。
「……それは、冬季の排水効率向上を優先したための仕様です。現在の湿度ローテーションにおいて、元の角度では土壌の水分滞留率が規定値をオーバーし、根腐れを引き起こすリスクが三パーセント上昇します。そのため、私が生態ロジックに基づいて合理的に再計算し、配置を変更いたしました」
「三パーセントのリスクなら、水やりの頻度を〇・五日分遅らせることで十分にカバーできるはずだ。光合成の効率を落とす方が非合理的だよ」
「ルカ様。それは全体の作業フローに不規則なノイズを混入させる行為であり、持続可能な管理システムとして推奨できません」
一歩も引かない二人の間で、専門知識と独自のロジックがバチバチと静かに火花を散らす。
「すまんが俺に分かる言葉で、もう少しゆっくり話せ!」
互いの職務へのこだわりをぶつけ合う二人の果てしない口論に、たまらずテオの大きな声が響き渡った。
「……面倒くせぇな。じゃあ間をとって、一度だけ戻せばいいんだろ」
見かねたジンが大きな手で無造作にシダの鉢を動かそうとした瞬間。
「「ジン(様)は触らないで(ください)!!」」
ルカとリーゼの、見事なハモりが温室に響き、ジンはピタリと動きを止めた。
「おいおい、せっかく無事に帰ってきて、一息ついていたんだから、お互いにもう少し労わり合え! というか、たった二度のズレくらい、黙って見過ごすか後でこっそり直せばいいだろうが! だいたいお前ら、その無駄に高度な演算能力と情熱を、少しはうちの売上か、さっきの親父さんの陰謀の推測に回せ!!」
テオの悲痛な叫びは、植物の呼吸と二人の果てしないロジックの応酬に吸い込まれ、平和に溶けていく。
過酷な外の世界から戻った『硝子の庭』には、再び賑やかで、愛おしい平熱の日常が広がっていた。
テオに盛大に怒鳴られたルカは、悪びれる様子もなく
「君の短気も、ひどく非合理的だよ」
と呟きながら、湿った土の匂いが最も色濃く残るテラコッタタイルの床へと歩いていった。 そして、過酷な外界のノイズから完全に逃れるように、ひんやりとした床の上へごろんと大の字になって仰向けに寝転がった。
「……ああ、やっぱりこのタイルに染み付いた地面の匂いが、一番僕の脳の熱を冷まして、元の凪いだ状態へとリセットしてくれる……」
植物の根っこにでもなったかのように、床にへばりついて目を閉じるルカ。
するとそこへ、リーゼが静かな足取りで近づいてきた。
これまでの彼女なら
「不衛生ですので直ちに移動されることを推奨いたします」
と無機質に切り捨てるところだが、今日の彼女は、先ほど芽生えたほんの少しの人間味に加えて、身内に対するささやかな『理にかなったおせっかい』の機能が発動していた。
「ルカ様。タイルの床に直接、脊椎を密着させるのは、冷えによる筋肉の硬直を引き起こし、合理的な安息とは言えません。仕様変更を求めます」
そう言うなり、リーゼは自分がいつもベンチで使っている小豆色の『光合成用クッション』を、寝転がっているルカの頭の下へスッと差し入れようとした。
「えっ」
ルカは困惑して頭を上げる。
「いや、リーゼ。僕は地面の匂いをダイレクトに吸い込みたいんだ。間にクッションがあると、大地の気配を感じる効率が下がってしまって、合理性が……」
「却下します。クッションの厚みによる嗅覚への影響は計算内です」
リーゼは譲らず、半ば強制的にルカの頭の下にクッションを滑り込ませた。
「……むう」
「……これで、筋肉の硬直リスクは回避されました」
床の匂いを直接嗅ごうとへばりつきたいルカと、冷やさせまいとクッションを敷き込むリーゼ。
その不毛な攻防を見て、テオは肩をすくめる。
「お前ら……どっちも面倒くさい」
そのツッコミに、傍らのジンがたまらず声を上げて笑い出した。
小豆色のクッションに頭を乗せたまま、ルカも結局は諦めたように短く息を吐き、静かに目を閉じた。
リーゼの少し強引な優しさもまた、この温室を構成する心地よい秩序なのだと、彼の鼻と脳が理解し、深い安息へと沈んでいく。
「よし、晩飯にするぞ。今日は『塩豚とレンズ豆の果実酢煮込み』だ」
テオが手早く上着を脱ぎ、厨房に立って食事の用意を始めた。
「レンズ豆は水戻し要らず、20分も煮れば柔らかくなる。ふふん…そして、仕上げにこの果実酢をひとさじ」
ぐつぐつと沸き立つ鉄鍋に、透明な液体を垂らすと、塩豚の重い脂の匂いが一瞬で軽やかな甘酸っぱい香気へと変化した。
「…なんだ?美味そうな匂いで胃の腑が涎を垂らしそうだ」
食器を並べる手伝いを始めたジンが、鍋を覗き込む。
「これ、テーブルに持って行ってくれるか?」
親に頼まれた子供のように鍋をテーブルにドンと置くジンのお腹からは、ぐぅぅぅっと盛大な音が響いている。
「よし、ルカもテーブルにつけ。凱旋のディナーにしようぜ」
数日ぶりの自分の城である厨房で、簡易ながらも腕を振るったテオは、やけに嬉しそうに煮込みを皿に注ぎ込んだ。
「肉の脂は旨味の宝庫だけど、冷えた体には重すぎる。酸を少し加えることで脂がスープと綺麗に馴染み、胃を痛めずに肉体疲労を急速に回復させてくれ…」
「……っ! テオ、それだよ!!」
誰も話を聞いていない中、ひたすら豆を掬っていたルカだけが、突如として銀縁の丸眼鏡を輝かせて顔を上げた。
「僕が馬車の中で言っていた『脂と酢の乳化』のロジック! 君はそれを、料理という形で完璧に証明してみせたんだ! 」
「……あ? お、おう。そりゃどうも」
一通り腹が満たされたのか、ジンも口を開いた。
「……腹にしっかり溜まるのに、嫌な重さがないな。お前、やっぱり腕がいいぜ。俺のシードハントの旅にもついてこないか?」
「……断る」
面倒くさそうにテオが答えた。
食事が終わり、ランプの柔らかな灯りが静かに揺れる頃。
リーゼのクッションの端っこで丸まっていたモカが、気の抜けたような声で「ぽわ」と短く鳴いた。
モカはリビングに満ちる圧倒的な安息の匂いと、リーゼの心に生まれた不器用な温かさを
「すぅぅぅぅぅ」
と吸い込む。そして、喉の奥でコロンと澄んだ音を鳴らし、一つの結晶を吐き出した。
その結晶は、温室の安穏な日常を示す『深い青緑色』で満たされていた。
しかし、その奥底には過去の因縁と政治の影を示す冷たい澱が沈んでおり、さらにその中心では、リーゼのクッションと同じ『ほんのり優しい淡い桃色』の光が、小さく、そして確かに灯っていた。
「……とても、綺麗な色だ」
ルカは淡い桃色の光を静かに見つめながら、ダークブラウンの瞳を細めて呟いた。
外界の冷たい陰謀と、我が家の心地よい温度。
それらを共に抱えながら、『硝子の庭』の主たちは、再び訪れた穏やかな日常の呼吸の中へと深く沈んでいった。
次回からは第29話がスタートします。
再び訪れた穏やかな日常。
しかし、明かされた恩師の影は次なる展開を呼ぶ……
次の更新もお楽しみに!
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