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硝子の庭の調香師 〜その大人の痛み、生態ロジックで整えます〜  作者: えもん


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第12話:幻の香水と、商人の巣立ち【中編】

いつもお読みいただきありがとうございます!

(担保か……っ。早々にエグいことを言う)


テオはジャケットのポケットの薬包を指でなぞりながら、静かに頭の中の算盤を弾いた。父親の言う通り、これは大商会と新興商会の『真剣勝負』だ。


引き出せ。


他の職人には絶対に作れないという「唯一無二の価値」を、最大限のハッタリで突きつけるんだ。


テオは涼やかな笑みを浮かべ、口を開いた。


「失敗はございません、と私が保証しますが。万一のことがあれば――この温室を明け渡しましょう」


その瞬間、作業台の下から「ひゅっ」と、ルカが息を呑んで絶望する小さな音が聞こえた気がしたが、テオは無視した。


「貴重な植物ばかりですから、その価値は十分でしょう」


自分で言葉を紡ぎながら、テオは(俺はなんてことを言っているんだ)と自嘲する。

だが、相棒の城を盤上に乗せるほどの担保を用意するのだ。成功報酬は、しっかりと頂く。


「……外注として引き受けること自体に、異存はありません。ですが、この件に関する報酬の条件は、当方から提示させていただきます」


テオは、大商会のトップである両親の鋭い視線を真っ向から受け止め、静かで、しかし揺るぎない覚悟を秘めた声で言い放った。


「報酬は金貨による一括の固定額ではなく、ヴェルター公爵との独占貿易協定によってランバート商会が得る利益の『三割』。それを毎月、今後十年間、こちらの口座に振り込んでいただきましょう」


その言葉に、母親のエレノアがピクリと片眉を吊り上げ、父親のクラウスの深い双眸がさらに重みを増した。

温室の空気が、急激に密度を上げたかのような重圧がテオを包み込む。それは単なる威圧ではない。何千という人々の生活と商会の未来を背負い続けてきたトップにしか醸し出せない気配だった。


作業台の下に隠れているルカが、


「ぅッ……情報量が多すぎる。膨大な社会のノイズと責任の重力波だ……」


と、亜麻色の頭を抱えて呻くのが聞こえた。


「三割だと? 大きく出たな、テオ」


クラウスの低く響く声が、地を這うようにテオに迫る。


「たった一つの香水のレシピに、商会の命運を懸けた利益の三割。なぜそれほどの対価を支払わねばならん」


「たかが香水、ではないのでしょう」


テオは父親の重圧に一歩も引かず、テーラードジャケットの背筋をすっと伸ばし、口角を上げて笑い返した。


「ヴェルター公爵が求めているのは、単なる嗜好品としての良い香りではありません。『不治の伝染病を退けた』という実用品です。ランバート商会は、そのレシピをうちの調香師に解明させた後、独占貿易協定の特権と確かな物流網を生かしてその香水を大量生産し、新たな『忌避薬』として大々的に流通させるおつもりだ。……違いますか?」


両親の目が、僅かに見開かれた。

テオは確信を持って、対等な商人としての言葉を紡ぐ。


「その先の帳簿が弾き出す、広範囲にわたる莫大な利益を考えれば、三割でも決して高すぎる条件ではない。それに、この矛盾だらけの幻の香水を再現できる人間は、世界中を探しても、私の背後で震えているこの不器用な天才以外に存在しないでしょう。私がこの話を断れば、絶好の機会は失われ、ランバート商会の東への航路は閉ざされる。違いますか、会長」


互いの矜持と、背後にいる者たちの生活を天秤にかける、静寂で濃密な時間。

クラウスはしばらくの間、感情を読ませない深い瞳でテオを見つめ返していた。やがて、静かに口を開く。


「……二割だ。それ以上は出さん。新しい航路を開拓するための先行投資と、関わる多くの職人たちの生活を守る物流コストを考えれば、それが限界だ」


「いえ、二割五分。そして、前金として南方ルートの『白銀のティーツリー』をはじめとする、極上ハーブの定期仕入れルートを当方に譲渡すること。それが、双方にとって最も健やかなラストラインです」


テオが間髪入れずに切り返すと、クラウスはフッと、本当に僅かだけだが、その双眸を細めた。そして、低く喉を鳴らす。


「……交渉成立だ。三日後に、試作品を受け取りに来る」


「……毎度、ありがとうございます」


テオが洗練された所作で深々と頭を下げると、両親はそれ以上何も言わず、踵を返して木扉の向こうへと去っていった。圧倒的な気配が消え去り、真鍮の天窓から差し込む陽光が、再び温室のテラコッタタイルを優しく照らし始める。


「……はぁぁぁぁっ……なんかもうグルグル……」


作業台の下から、白衣を僅かに埃まみれにしたルカが、ずるずると這い出してきた。丸眼鏡が大きくズレている。


「テオ、君、ものすごいことを言ったよね?大商会と新興商人の心理戦で、僕の温室をかけるなんて…」


「その新興商人に元から生活環境の命綱を握られているんだから文句を言うな。あのくらい食い下がらないと、対価すらふっかけられないだろ。それより、前金分の極上ルートはしっかり勝ち取ったぞ。働け、天才」


極上ルートにつられてテオから大貴族の羊皮紙を受け取ったルカは、丸眼鏡の位置を指先でそっと直すと、震えが収まると共に、いつもの研究者の瞳へと戻っていた。



「伝染病を退け、私を優しく抱きしめた、甘き記憶の香水……。ひどく厄介な矛盾だ」


ルカはすぐに、分厚い硝子扉の向こう、香りが遮断された調香室に入り、実験を始めた。


だが、数時間後。

ルカが亜麻色の髪を掻き毟りながら頭を抱えている姿がテオの目に入った。


「あああーー!矛盾だ。こんなものは、自然界のロジックに真っ向から反している」


調香室のラッチ式扉を開けて飛び出してきたルカは、ひどく疲れた瞳でテオに訴えた。


「殺菌力と強力な忌避効果を持たせるなら、南方の『白銀のティーツリー』などの精油を使うのが絶対条件だ。だが、あれは脳を刺すような鋭い薬の匂いがする」


「それに、抱きしめられるような甘さを足せばいいんだろう?」


「だから、分かってるだろ? 甘さを足すために花の蜜や樹脂を混ぜ合わせれば、液体の油膜がティーツリーの成分を完全にコーティングして、薬効を殺してしまう」


ルカは亜麻色の髪を掻き毟りながら床に座り込んだ。


「薬効を立たせれば甘さが消え、甘さを立たせれば薬効が死ぬ。または互いが反発して、ひどく濁った悪臭になる。液体同士を混ぜ合わせる以上、これは物理的に不可能だ」


ルカの訴えは最もだ。

テオは自分自身も依頼内容を聞いた瞬間に難しさを直感した。しかし、ルカにならできるはずなのだ。だからこそ、強気の交渉をしたのだから。


「お前にも無理と言うなら、今回は極上のハーブの南方ルートは諦めるしかないな。俺も見栄を切りすぎたと詫びてこの温室を手放すしかない」


床と仲良くなろうとしていたルカが、床からバネ仕掛けのように跳ねた。



「テオくん、さっき外に立派な馬車が停まってたって聞いたけれど、大丈夫だった?」


温室の勝手口が開き、自家焙煎珈琲店『ブルーム』のオーナー・イリスが、心配そうな顔で籐の籠を持って現れた。

ワインレッドのシルク混ブラウスが優雅に衣擦れの音を立てる。彼女の後ろには、野山の風の匂いを纏ったシードハンターのジンが、木製のパイプを手にふらりと付き従っていた。


「ああ、イリス。ただの少し骨の折れる商談さ。それより、その籠は?」


「息抜きになるかと思って。お店で焼いたばかりの『粉雪のクッキー』よ。バターたっぷりの生地の周りに、細かく砕いた粉砂糖をまぶしてあるの」


イリスが籠の布をめくった瞬間。


へたり込んでいたルカの鼻が、ピクピクと動いた。


「……時間差……粉末(パウダー)……!」


ルカはダークブラウンの瞳を限界まで見開き、雷に打たれたように叫んだ。


「イリス、君は天才だ!なぜ僕は、すべてを『液体』のままで混ぜ合わせようとしていたんだ。固体……熱で溶ける微粒子の粉末で香りの成分を包み込めば、揮発するタイミングを意図的にずらすことができるじゃないか!」


ルカはイリスの籠から迷いなくクッキーを一枚手に取ると、そのまま猛ダッシュで調香室へと引き返していった。


それから丸二日。


ルカは一睡もせずに無臭の部屋に籠り続け、ついに指定された三日目の朝、琥珀色の遮光ガラス瓶を手に、ふらふらと温室へ現れた。



再び来店したテオの両親、そして様子を見守るイリスとジンが囲む中、ルカはテオの手首に、その香水を一吹きした。


シュッ。


最初に温室の空気を切り裂くように満たしたのは、脳の芯まで突き抜けるような、鋭く清涼な『白銀のティーツリー』の香りだった。


「……これは、ただの薬臭い虫除けではないか」


クラウスが眉をひそめた、その数秒後。


テオの手首の「体温」によって、香水の中に極小の粒子として漂っていた『白霞のベビーフラワー(おしろい花)』の粉末成分が、静かに溶け出した。

鋭い薬のトップノートはふっと影を潜め、代わりに、まるで清潔な赤ん坊の産着を思わせるような、ふくよかで、信じられないほど深く優しい甘い匂いが、空間全体を柔らかく包み込んだのだ。


「最初は、病魔や害虫を遠ざけるための強力な薬効のトップノート。だが、子供の肌の熱で温められると、時間差で優しい甘さのラストノートへと劇的に変化し、病の恐怖に震える子供を安心させて、穏やかな眠りへと誘う」


ルカは丸眼鏡の奥の瞳に誇りを宿し、静かに解説した。


「液体ではなく、粉末のコーティングによる物理トリック。これはただの良い香りの水じゃない。伝染病の恐怖から我が子を絶対に守り抜こうとした、精巧で執念深い『母親の愛情のレシピ』だ」


その香りの変化の階層構造と、紐解かれた美しいロジックに、厳格な商人である両親すらも言葉を失い、ただ静かに息を呑んだ。


テオには確信があった。


しかし、一商人として最後まで足元を掬われるような隙を見せてはならない。会長夫妻のジャッジを静かに待った。







殺菌の鋭い匂いから、体温に反応して甘い香りへと変化する「時間差のトリック」。

イリスの差し入れから閃いた天才のロジックは、大商人の心を動かせるのか?

次回、親子の真剣勝負が決着する後編へ続きます。



最後までお読みいただきありがとうございます!

もし少しでも「面白い!」「続きが気になる」「お腹が空いた」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマーク】や【☆☆☆☆☆】(星)を押して応援していただけると嬉しいです!

皆様の応援が、ルカとテオの生活費(作者の執筆の励み)に直結します。

明日も更新予定ですので、どうぞよろしくお願いいたします!

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